カーマインアームズ   作:放出系能力者

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幻覚症状を起こす依存性薬物の描写があります。ご注意ください。


25話

 

 暗黒海域を渡り、限界境海域を抜けて人類の生存圏まで到達する。そのためには具体的に何が必要となるか。

 

 まず、現在地の把握だ。この島がどこにあるかを知らなければならない。調査船が着岸していた場所は、メビウス湖の北端に位置していたことがわかっている。この島がヌタコンブの生息圏内にあることから考えても、着岸港からそう遠く離れていない場所である可能性が高い。

 

 しかし、陸地を完全に見失った現状において正確な位置を突き止める方法はなかった。クラゲの災厄によって、どこまでの距離を飛ばされたのか定かではない。ヌタコンブの生息域についても、調査団は一部しか確認できておらず、現在地の特定はできていないも同然だった。

 

 そして方角。仮にこの島がメビウス湖北部にあるとして、人類生存圏を目指すためには南下しなければならない。その正確な方角がわからないまま海へ出たところで漂流しに行くのと変わらない。

 

 何かあったときに備えて船からコンパスを持ち出していたのだが、この島の湖が発する磁気によって狂っていた。しかし、問題ない。コンパスよりも正確に、いつでも方角を知ることができる能力を身につけた。

 

 私がこの島で取り込んだ青い金属は磁気と深く関係した性質を持っている。レールガンはその力の応用の一つであり、生み出される大量の電流も磁気のコントロールによるものだ。本体はこの金属を外骨格に取り込むことで磁気に対する察知力が高まった。つまり、本体そのものがコンパスの役割を果たし、地球の磁場を感じ取ることで方角を導き出せるのだ。

 

 だが、正しい方角がわかれば正しい道のりをたどれるというわけではない。自分ではまっすぐ進んでいるつもりでも、知らぬ間に波に流されて斜めに進んでいたということもあり得る。極端な話、決死の航海の後、人類圏の横を素通りしてメビウス湖の南岸に到着する可能性だってある。

 

 そしてさらに最悪なことに、これらの想定の前提からして全く目処が立っていない。つまり、航海の手段だ。いかにしてこの海を渡るか、その方法がない。

 

 この島にはイカダすら作ることができる材料がなかった。そもそも個人に制作可能な規模の船での航海は困難を極める。少なくともヌタコンブの生息域を抜けるまでは、些細な天候の変化でも死に直結する。その先の海にしても楽観はとてもできない。

 

 最低でも、本体に水中呼吸能力を取り込む必要がある。この海域にもごく少数だが粘液の海に適応した生物が存在する。それらの呼吸能力を獲得しなければ航海など恐ろしくてできない。

 

 足りないものは数限りなくあった。それでも、一つずつ手に入れていかなければならない。

 

 

 * * *

 

 

 “強さ”には、種類がある。果たして私は“強者”と言えるだろうか。

 

 限定的な条件においては確かに強いかもしれない。だが、その条件から外れた環境では、力を十分に発揮することができない。そして往々にして、自分にとって都合のいい環境が戦場とはならないものだ。

 

 私は海上戦、海中戦に適応した能力がない。膨大な数の本体も、レールガンも、地面の上に立った状態を基本とする強さである。これからの戦いの舞台は海の上だ。そして敵はその環境において生存競争を生き残った“強者”である。

 

 陸上なら、自分よりも強い敵が現れたとしても隠れ、逃げることができた。だが、海上ではそれすらままならない。船の速度で、この海に巣食う捕食者の牙から逃れることはできない。人間の調査船は、高い科学技術と“案内人”の導きによって安全な航海を実現しているのだ。それもまた一つの強さと言えるだろう。

 

 私が船を作ったとしても、それは出航から数日程度の体力温存のためにしか役に立たないと考えている。船は壊れる。その原因が敵の襲撃であるにしろ異常な自然環境の結果であるにしろ、破壊されることが前提であった。

 

 すなわち、渡航のほとんどは泳ぎによって成し遂げるしかない。仮に何らかの手段で長期間の航海を行える船が手に入ったとしても、全く泳げないのでは話にならない。しかもただ泳ぐだけでなく、そこからの戦闘も視野に入れた遊泳技術が必要になる。

 

 海を渡る上で必須となる修練だ。私は、この役目をクインに任せた。現状で、どうあがいても本体の遊泳能力は皆無である。水中での呼吸が必要なく、精密な動きが可能なクインにしかできないことだった。

 

 単なる水泳なら造作もなくできる。問題は、この粘液の海だ。水中でもがけばもがくほど海水は粘性を増し、がんじがらめにされていく。浮いているだけでも体の周囲の海水は少しずつ繭状の固体と化し、少しでも泳ぎを試みようものならたちまち身動きを封じられる。

 

 この粘液は、刺激を与えることで液体から繊維質に反応変化する。強靭な繊維の束が無数に集合して形成された繭は容易に切断できるものではない。海上で、まして敵との交戦中などに抜け出せるような枷ではなかった。

 

 しかし、この海域においても行動できる生物はいる。あのクラゲは瞬間移動能力で海水を退けていたかもしれないので参考にならないが、そのときに戦ったウニは、確かにこの海に適応していた。その棘は粘液に捕らわれることなく凄まじい速度で直進していた。

 

 また、調査船に搭載されていた推進機関も粘液をものともせず航海を可能としていた。全ての刺激が反応に関係しているわけではない。それなら絶えず流動し、かき混ぜられているこの海そのものが繭状に変化しているはずだ。

 

 そこにこの海を泳ぎ渡る鍵がある。私は試行錯誤を繰り返し、多くのクインを犠牲として、その秘密の正体を突き止めた。

 

 泳ぐことは可能だった。波の動きに逆らわず、しかし水を掻き推進力を得る。その矛盾を両立する泳ぎ方がある。水流の目に見えない間隙に全身を投じ、一瞬の沈静もないその波間を縫うように泳ぐ。水に手を差し込む絶妙な角度と力によって糸よりも細い道を切り開き、たおやかな足のしなりが水中の滑走を可能とする。

 

 その泳法は魚というよりミミズの動きを模していた。大きな石を持ち上げると、その下に潜んでいたミミズが素早く地中へ逃げようとする動きを観察できる。手も足もないミミズが、なぜ機敏に地中の穴へ潜ることができるのか。それはミミズの体表を覆う剛毛のはたらきである。

 

 それは蠕動運動と呼ばれる。筋肉が伝播性の収縮波を生み出し、一定の方向へと物体を運ぶ動きを指す。ミミズの場合は無数に生えた剛毛を波状に規則正しく動かすことで素早く移動することができる。

 

 この原理を応用し、クインの体表を細いイボ状のオーラで包み込んだ。その長さは1センチほどで、まさにミミズの剛毛のごとくクインの全身から生えた状態である。オーラそのものに物質的な干渉力があるわけではないが、そこにはエネルギーの流れが発生する。むしろ、それが好都合だった。粘液に余計な刺激を与えることなく、エネルギーの波を微細な蠕動運動に変換して水中に伝えることができた。

 

 だが、その泳法には凄まじい集中力を要した。オーラの形状をイボ状に変化させることは変化系に属する技術である。特質系であるクインとは相性が悪い。数個ほどイボを作るだけなら簡単にできるが、それを全身隈なく覆うほどの数、しかも少しの乱れもなく規則正しく波状に動かし続けることなど本来なら不可能だった。

 

 それを実現できたのは『思考演算(マルチタスク)』によるところが大きい。本体の数が増えたことで、その性能も飛躍的に発達した。タスクの処理に当たる意識体が増えれば処理速度も上がる。より複雑な情報の処理が可能となった。

 

 その力をフルに活用してなお、イボの操作は難しかった。まだ短時間しか継続して発動することができない。さらに、イボ泳法中は『練』などの基本的な念能力すらまともに使用できない状態となる。

 

 加えて、この泳ぎ方はイボの操作だけしていれば後は何もしなくていいというものではない。波の動きをしっかりと見極め、常に変化し続ける波の道をたどらなければならない。それは毛細血管のようにおびただしく分岐する迷路の中から正しい道順を探し当てるに等しい難事だった。行き止まりを引き当てればそこで終わる。どんなに精密にオーラの体毛を動かせたところで波にもまれれば粘液の餌食となる。

 

 特に風も強くない、凪いだ海においてこの難易度である。嵐に直面すれば、なすすべはないだろう。自然の脅威こそ最大の敵であった。

 

 毎日、休息の時間もなく、クインは海に挑み続ける。

 

 

 * * *

 

 

 この島に流れ着いて100日余りが経過した。

 

 クインは持ち物袋の中身をぶちまける。

 

 この袋は本体の一つが保管していた。身動きの邪魔にならない程度の小物しか入れられないため、本当に大切な物しか入れていない。以前は木の実などの食料も入っていたが、食べたり海水で傷んだりしてほとんどは処分されている。

 

 袋の中から転がり出てきた物を見る。ビスケットの小さな缶詰、石ころ、レーズンみたいなゴミが数点。カラカラと音を立てて足元に転がってきた缶詰を拾い上げ、壁に叩きつけようと振りかぶる。

 

 だが、その手が振り下ろされることはなかった。この缶詰は、以前チェルにもらったものだ。後で食べようと思い、袋にしまっていた。漂流当初の食料に窮していた時期もなぜか手をつけることなく、結局そのまま袋に入れたままになっていた。おそらく、これから先も食べることはないだろう。

 

 缶詰を袋にもどす。地面に落ちた小石、『魂魄石』も袋に入れなおした。残ったのは乾燥した植物の実のようなものだけだ。それは枯れ木人間と戦ったときに手に入れた、幻覚作用のある花から採取したものである。

 

 その効果は、クインを介して意識を共有していた本体にも極度の幻覚症状をきたすほど強烈であった。では、なぜそんなものを今まで大事に取っておいたのか。一つは、これはリターンである可能性があったからだ。何かの役に立つときがあるかもしれないと。

 

 正直に言えば、それは建前でしかない。私は一度だけ、その毒を体験している。なぜ枯れ木人間たちがこれを栽培していたのか、その理由も予想がつく。この植物の毒は依存性があった。

 

 終わりの見えない島での生活。どれだけ修行を積もうとも、どれだけ力を手に入れようとも、この海を渡る日はやってくるのかと疑問に思う。その不安は日に日に重くのしかかり、クインの泳ぎに不調が生じるようになっていた。

 

 以前の私ならここで焦ったりしなかったはずだ。自分にできることをひたすらに突き詰め、期を待つ。『人間の世界に行きたい』『人間を知りたい』という目標だけを考え、自分を疑うことはなかった。少なくとも自分を見失うほどの焦りは生まれなかったはずだ。

 

 調査団と出会い、複雑に変化した私の心境は、以前のような単純さを失っていた。それは私が求めていた人間らしい感情なのかもしれないが、弱さでもあった。

 

 あと少しで手が届きかけた夢を前にして、もう二度とその場所に至ることはできないのではないかという焦燥。自分の居場所はここではないという拒絶感。

 

 何かの希望が欲しかった。それがたとえ一時的な快楽に過ぎなかったとしても、何の問題の解決にならなかったとしても、もはや手を伸ばさずにはいられなかった。

 

 

 * * *

 

 

 乾燥したスポンジ状の植物の実は、不思議なことに搾ると一滴の果汁を落した。カラカラに干からびているのに、搾れば必ず一滴だけ雫が落ちる。クインが飲めば死に至るその毒も、本体ならば扱えた。酩酊状態を引き出し、意識を共有する全ての個体に伝染していく。

 

 強烈なサイケデリック効果を引き起こし、クインの視界では極彩色のグラデーションと万華鏡のように広がる幾何学模様が踊り狂う。それらは実際に触れることができた。現実には存在しないのだろうが、確かに触れた感覚がある。

 

 クインの体も、立っている砂浜も、海も、何もかもがぐにゃぐにゃと渦を巻くようにねじれていく。その中で、宙を飛び交い蛇行する模様だけが不変の特性を持っている。それは“波”だ。歪んだ視覚に惑わされる必要はなく、波の動きを感じ取れば全ては事足りる。

 

 この毒は、万物が持つ波長に対する感受性を強める効果がある。枯れ木人間が声を共鳴させて任意の箇所を破壊していた力も、この効果に由来するものだろう。残念ながら、クインの声で同じ技を再現することはできなかった。あれは奴ら固有の声だからできる芸当だ。しかし、クインには奴らが持たないオーラを扱う技術がある。

 

 瞑想する。

 

 幻覚剤が見せる幻想的な光景は、ときに神秘性をもって崇められる。古来よりシャーマンたちは薬物を使って宗教的恍惚状態に入り、神や霊といった超自然的存在との交信を行った。現代においてはその幻覚が文化や芸術として評価された。

 

 人間に共通する感覚でありながら普段は認識できない領域ゆえに、人を惹きつける力がある。そこには日常から逸した全く異なる世界があった。まるで夢のような幻が、圧倒的な現実となって襲いかかってくる。正常な形を為さなくなった世界は、自らの内から生じた感覚に支配され、意識と無意識が蛇の交合のごとく混濁する。

 

 かつてないほどに、瞑想は深く進展した。そして、そこに肉体的な修行の成果が合わさる。この底なし沼のような海を泳ぐことは、念能力の基礎『四大行』を高めずして為し得ない。瞑想と修行、精神と肉体、双方の合一。

 

 極度の集中状態に達したクインの認識は、自分自身の体を巡るオーラの波を捉えていた。その流れには一定の経路があった。血管のように体の隅々まで行き渡る道がある。肉体から外界へと生命エネルギーを解き放つ精孔、その道だった。

 

 そして理解する。四大行とは、この“道”の制御に他ならない。私は心源流における四大行の最も基本的な教えを思い出していた。

 

 『纏を知り、絶を覚え、練を経て、発に至る』

 

 全ての始まりは『纏』だ。精孔の開通とはすなわち、自己と外界とをつなぐエネルギーの道の認識にある。しかし、道ができることで精神とその外の世界は境界が曖昧となってしまう。傷ついた皮膚から出血するように漏れ出すオーラを、肉体の周囲に留まらせ、形を固定する技術。それが『纏』である。

 

 肉体の中で完結していた精神の活動が、たった数センチのことであるが、皮膚の外の世界へと影響を及ぼす。それは既存の物理法則を越えた世界への侵食だ。精神の作用が肉体を越えて、自己の存在と影響を変化させる。それが念の本質である。

 

 基本は『纏』であり、その感覚さえ理解すれば『絶』も『練』も難しいことではない。『絶』は精孔を閉じることでオーラの流れを絶つ技だ。自己と世界とを隔離し、精神の影響力を限りなく小さくしている。『練』は逆に精孔を開き、オーラを強く解き放つ。自己の存在を拡大し、世界への影響力を増大させた状態である。

 

 これらはオーラの形態を表す区別でしかなく、実質的に同じものである。それは四大行の終点、念の集大成と呼ばれる『発』においても言えることだ。使い手によって千差万別の効果を得る『発』は、一見して他の技に比べれば異質なものに思えるが、しっかりと関係している。

 

 その答えは、力の向きである。『纏』『絶』『練』は、自分の外に対して働く力だ。しかし、『発』は自己の内面へと向かっている。それは自己の精神と肉体からなる小宇宙に対する影響力だった。

 

 自分の中に世界がある。内的世界に及ぼす影響力が『発』である。その力の流れは、意識してできるものではない。その限りなく小さな世界を見出すことは難しく、捉えどころがない。無に等しい力の流れである。

 

 だから、そこに道を与える。能力として名を作り、効果を表すことによって、初めて力の流れは意味を持つ。そしてその力は自分の内側へと向かっているにも関わらず、結果的に外の世界へも影響を与える。コップに水を注ぎ続ければ、やがて水があふれてテーブルの上を濡らしていくように。

 

 言わばそれは自己の奥深くに内在する精孔の作用である。『発』によって能力を作るということは、この内なる精孔を開く工程である。自分を理解せず不適切な能力を得ようとすれば、この道をうまく開けず力を十分に引き出せなくなる。

 

 逆に言えば、そのオーラの流れを把握し、体内の精孔を正確にコントロールすることができれば『発』の精度も上がる。『纏』『絶』『練』の修練は、おのずと『発』の効果を高める結果をもたらす。

 

 極限の瞑想状態が、私の『精神同調』をより高度な次元へと押し上げた。一つの本体の中にいる千の“私”がネットワークを作り上げる。そして、その本体が数千体集まり、ネットワークは複雑に巨大化していく。

 

 もはや、その細部は私にさえ把握できていない。無限に意識が拡大していく。まるで宇宙のような広がり。その無限の意識が一点に収束する。クインという実行機を動かすために、最適な命令を導き出す。

 

 数千の本体とその卵の中に存在する膨大な数の“私”が、クインの動きをひたすらに観察する。姿勢の制動、骨格の可動、筋肉の微動に至るまで、一つ一つの意識が担当する箇所をつぶさに捉える。これにより、ありとあらゆる最小の変化を見逃さず記録できる。

 

 武術における技の習得をする上で必要不可欠なことは反復練習である。同じ動きを何度も繰り返すことで、戦闘における最適な技の制御を身につけていく。自分の動きの間違いに気づき、少しずつ修正を重ね、ようやく一つの技が形となる。しかし、そこに完成はない。武の極致は限りなく遠く、修行に終わりがあるとすればそれは妥協のみだ。

 

 その修行の過程で最も重要なことは“自分の間違いに気づくこと”である。人は自分の正しさを無自覚に信じたがる。間違った動きを間違ったまま反復練習したところで身につくのは間違った技術だけだ。だからこそ武術において師の存在は偉大であり、適切な指導は人を大いに成長させる。

 

 それを独学でやってのけるとなれば、道なき道を切り拓くに等しい努力と時間が必要となる。今の私に泳ぎ方を教えてくれる師はいない。しかし、私には自分を観察する無数の“目”があった。普通の人間が何十回も練習して初めて気づく“自分の間違い”を、私は一度の練習で自覚することができる。

 

 そうして抽出され、集積された膨大な量のエラー情報はクインへと還元される。フィードバックされた全ての情報がクインの中で修正され、プログラムが絶え間なく書き換えられていく。

 

 クインは何も考える必要がなかった。否、思考の余地を排することで全身全霊の運動を実現した。情報の収集と問題の解決は、全て本体のネットワークに任せている。彼女はその末に完成したプログラムを実行することにのみ注力すればいい。

 

 それは極限の集中状態だった。主観的時間は圧縮され、一瞬が引き延ばされ、いつまでも続くような感覚。スポーツで言えば『ゾーン』や『フロー』と呼ばれる状態であり、武道においては『無我』『無心』の境地に通じる。

 

 ただ為すべきことを為す。一切の雑念を排した無我の境地とは、己を空虚な人形に見立てることであった。皮肉なことにそれは念人形としてのクインの本質に回帰するものであり、そのとき念能力は最高のパフォーマンスを発揮した。

 

 クインにとって、もはや海という環境は脅威ではない。全身が浸る水の抱擁は、胎児を包み込む羊水にも似た安堵を与えてくれる。まるで体が答えを知っているかのように、自然体で泳ぐことができる。

 

 イボ状に変化させた体表のオーラは、完全に波を捉えている。流体を伝わる波の形を読み取り、組み込むように体の動きを合わせて泳ぐ。千分の一ミリの誤差もない理想の運動を可能としていた。

 

 クインは海を進む。その行き先には、一つの生命体の反応があった。それは体長20メートルはあろうかという巨大なイカだった。

 

 このイカは最近、島の近海でよく見かけるようになった。オーラを吸収する植物は管理栽培され、磁力巻貝の侵攻も最近は少し落ちついてきている。その影響なのか、今まで目にしなかった生物が姿を見せるようになってきた。少しずつ、この島を取り巻く生態系に変化が生じ始めている。

 

 今のところ、それは私にとって望ましい変化と言えた。このイカは捕獲が容易であり、食料として、摂食交配の研究材料として大いに利用価値があった。さらにその骨(烏賊骨)は頑丈で水に浮き、粘液が付きにくい撥水性があるため、船の材料としても活用が期待されている。

 

 近づいてきたクインに対し、巨大イカはその長い触腕を伸ばし攻撃してきた。このイカの体は独自の粘膜で覆われており、それが海の粘液を中和するはたらきを持っている。よって、この粘性の海中においても動きが鈍ることはない。

 

 迫る触手を避けることはできるが、すぐに次の攻撃が繰り出されるだろう。というよりも、避ける必要がない。クインはその場で水を切るように手刀を放った。その手はイボ状のオーラが寸分の狂いもなく蠕動し、微細なオーラの振動を生み出していた。

 

 腕の一振りから生じた振動が海を一直線に分断する。力を込めたわけではない。波と波の継ぎ目に沿うように、少しだけ隙間を広げるような感覚だった。その射線上にいたイカの触手は、根こそぎ切り離される。

 

 だが、このイカの強さは驚異的な肉体の再生速度にある。5秒もあれば触手は元通りに復元されるだろう。しかし、5秒あれば全てを終わらせるに余りある時間であった。

 

 イカの胴体を目指して接近する。切り離された触手が狂ったように暴れ動き、クインの進路を阻むが、彼女が腕を振り払えば風船のように弾け飛び、こま切れの肉片となって海中を舞った。

 

 このようにただ敵を倒すだけなら簡単なことだが、食料として持ち帰る以上は原形をとどめていた方がいい。しかし、多少痛めつけた程度では敵の回復力によって仕留めきれない。なにしろ頭部を完全に破壊してもすぐに再生するような生物である。少しばかり、精密な力のコントロールがいる。

 

 クインは『凝』を使って敵を“視た”。その眼は物質中を通過する可視不能の光波まで捉えた。その体に流れる力の動きを、皮膚の内部、器官の構造に至るまで透視(スキャン)する。どこを潰せば敵は再生しないのか、その全身を巡る命脈を特定する。

 

 クインの手が敵に触れた。それは殴打ではなく、ただ触れたに過ぎなかった。オーラもわずかしか込められていない。攻防力に換算すれば10と言ったところか。だが、そのほんの小さなエネルギーが波を伝える呼び水となる。それはオーラによる共振現象だった。

 

 物質にはそれに応じた固有振動数があり、特定の周波数を持つ振動を受けると無限に振幅を増大させていき、やがて壊れてしまう。枯れ木人間たちは声によって空気の振動を操り、この共振を武器として発展させていた。

 

 クインの場合は、それをオーラの振動によって実現する。呼吸、脈拍、血圧、体温。生物は生きる上で必ず固有の“波”を持つ。その生命エネルギーの流れを正確に読み取り、敵のバイタルサインと同調(シンクロ)させたオーラの振動を送り込めば、敵自身のオーラが勝手に暴走して自滅する。

 

 これにより、最小の労力にて敵の急所のみを局所破壊し、死亡させることができるようになった。無論、破壊する部位を変えれば生かしたまま無力化することもできる。クインの接触を受けた巨大イカは動きを止め、ビクビクと痙攣しながら浮上していく。あとは島まで引っ張っていけばいい。

 

 島の方向を確認するため、クインは海上に顔を出した。空は茜色に染まり、夕日が海の向こうへ沈もうとしていた。

 

 おかしい。

 

 確か、巨大イカの反応を見つけて海に入ったのが正午ごろだったはずだ。それからイカを倒すまで数分とかかっていない。なぜ、もう夕方になっているのか。

 

 雲が鳥のような速度で流れていく。日が沈み、月が中天の空に輝いていた。

 

 感覚が加速している。いや、認識が追い付いていない。どちらだ。

 

 気がつけば、クインは島の砂浜に立っていた。仕留めたはずの巨大イカはどこにもいない。

 

 記憶が混濁する。ついさっき、イカと戦ったことさえ本当にあったことなのか判然としない。

 

 私は今日一日、何をしていたのか。

 

 猛烈な吐き気がこみ上げてくる。激しい頭痛に襲われる。息が苦しい。クインなら自己修復できるはずのそれらの症状は、全く緩和できなかった。

 

 呼吸ができない。このままでは窒息する。喉に何かが詰まっている。口の中に指を突っ込むと、ずるずると這いまわる蛇のような何かがいた。いや、触手だ。あのイカの触手がクインを襲っている。すぐに口内から引きずり出した。

 

 

「あごぉっ……ぶ……」

 

 

 おびただしい量の出血。喉の奥から取り出した異物を見る。そこにはピンク色の小さな肉片があるだけだった。

 

 地面にうずくまる。ヒューヒューと壊れた笛のような呼吸音だけが耳につく。誰もいない。私以外の誰も。みんなどこへ行ったのか。

 

 もう、駄目だ、このままでは、早く、次の薬を……。

 

 


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