カーマインアームズ   作:放出系能力者

30 / 130
29話

 

「お前は何者だ! クイン!」

 

 武器を構えたグラッグがこちらに向かってくる。その攻撃を避けずに受け入れ、彼に殺されてしまえばどれほど楽だろう。だが、私の体は自動的に行動した。

 

 これは夢だ。記憶の中に残された事実を再現しているにすぎない。だから、私はここで彼に殺されることはない。事実は全く逆の結果に至る。

 

 私は全力で拳を振り抜いた。彼の持つ武器を砕き、肋骨をへし折り、臓器を破壊し、血が舞い散る。初めてヒトを殺す感覚が、寒気がするほど生々しく再現される。

 

 その直後、視界が砂嵐に隠された。一瞬の浮遊感。そして、眼の前に武器を構えたグラッグが現れる。

 

「お前は何者だ! クイン!」

 

 同じ質問が繰り返される。私はそれに答えることなく、彼を殺し続けた。そのたびに何かが削れていく。何も考えられなくなっていく。

 

「お前は――! ――!」

 

 同じことの繰り返しだった映像が、少しずつ変化していった。グラッグの体がにじんだようにぼやけていく。流れ出る血の赤が、その崩れた描写を補うようにまとわりついた。赤い鎧が彼を覆っていく。

 

「おまえはわたし」

 

 聞くに堪えないおぞましい声が、返事をしない私に代わって答えを突きつけた。何の中身も伴わない無意味な答え。それは私の耳朶から入り脳を侵食し、私という存在を空っぽにしていく。

 

 私の体も、ぼやけ始めた。輪郭を保てない。外殻が壊れていく。それは精神の崩壊を意味していた。脆弱性をあらわにした私の中へ、ウイルスが入り込もうとしている。

 

 私は叫んだ。夢の中の私が声をあげることはなかったが、輪郭の崩壊は止まった。そして、グラッグに拳を打ちつける。彼を殺し続ける。そうすることしか、自分を保つ方法はない。

 

 私に許された感情は“後悔”だけだった。他の感情では、もはや精神を守ることができない。自分自身に対する強烈な負の感情だけが、辛うじて自我をつなぎとめることができる灯火だった。

 

 だから、後悔し続けるために私は彼を殺している。あの場面を何度も想起している。そうしなければ私は『赤い鎧』に完全に取りこまれてしまうだろう。

 

 赤い鎧の正体とは『意識集合体』である。

 

 私は『精神同調』によって、体内の卵を自分の都合よく使ってきた。数え切れないほどの命を犠牲にした。そこに宿る『個』としての意思など考えたことはない。集合体の意思こそが何よりも優先される。

 

 それが私という生物に備わる根本的な機能だった。例えば、雄のカマキリは交尾の際に雌に食べられてしまうが、カマキリにとってその事態が幸福かそれとも不幸であるかなど関係ないことだ。それが生物としての在り方だからだ。それを“かわいそう”だと感じるのは人間の勝手な想像である。

 

 だが私は想像してしまった。無数に存在する私は、その全てが同等ではなかったのだと気づく。本体という上位者としての私と、卵という搾取されるだけの下位者がいた。卵としての私は生まれることも許されず使い潰され、死の順番をただ待つだけの存在だった。

 

 全ての始まりは調査団との関係にある。そこで私は人間という存在に初めて触れた。彼らを知りたいという思いから、“彼”を私自身の中へと取りこんだ。

 

 結果的に、そのことが私を人間から遠ざけた。まるで人間とは異なる生物であるにも関わらず、人間の感性の一部を取り込んでしまった。だからこそ、理想と現実の乖離はさらに進行する。自分が何者であるかを見失い、余計な感情移入が生じる。

 

 その時点でまだ無自覚だったが、『赤い鎧』が生み出される基盤は整っていたのだろう。初めて『仙人掌甲冑(カーバンクル・タリスマン)』を発動させたのは、グラッグを殺した直後のことであった。私は彼を殺すことで“死”を知った。

 

 どれだけ自分が絶体絶命の状況に追い込まれようとも、そこから死を学ぶことはできない。むしろそれは“生”の領域である。死に肉薄するとき、そこに至る者は自分ではなく、他者でなければならなかった。

 

 理想(にんげん)と現実(わたし)の乖離。私は生きるために理想を殺した。その切り離された理想こそが『仙人掌甲冑』である。

 

 嫌なことを自分ではない誰かに押し付けようとした。これまで幾度となく当然のようにやってきたことだ。上位者である本体は下位者である卵にその役目を背負わせた。逃げ場もなく理想に囚われた“私”はどんな気分だっただろう。きっと、今の私のように苦しんだに違いない。

 

 それは『死後強まる念』として実体化した。念の禁忌に属する能力である。強烈な無念を残して死んだ念能力者は、死後もその能力の効果を現世に残し続けることがあるという。人を学び、死を学んだ私の分身は『死後強まる念』に目覚めていた。『精神同調』は卵の死後も効果をさらに強めて発揮され、爆発的なエネルギーをクインにもたらしたのだ。

 

 だが、その時点ではまだクインを暴走させる程度の影響しかなかった。私は決定的なミスを犯し、『仙人掌甲冑』を大きく成長させてしまう。それは本体を複数体、生み出してしまったことにあった。

 

 最上位者であるはずの本体が複数いる。以前なら、本体と卵という意識が宿る主体に明確な区別があった。卵の方が本体を支配するという事態は起こりえない。だが、数千体もの本体が生まれてしまった今では、そこに全く差がなくなる。

 

 もはや、本体が以前の卵のように使い潰される状況に陥っていた。では、誰が上位者として群れに命令を出しているのか。本体のうちのどれか一つということはない。本体のスペックは全てが同等同質であり、そこに上下関係は生じない。

 

 つまり、どこにも上位者がいない。それは本体同士が『精神同調』によって繋いだネットワーク上にのみ存在する形なき『渦』だった。どこにもいないにも関わらず、絶対的な支配権を握る自分がいる。ゆえに、その意思に逆らう手段はない。その『渦』が死を命じれば、殉ずる他に道はない。

 

 薬物依存による幻覚症状が、その渦に『像』を与えた。私たちは都合のいい悪を作り上げ、その巨大な穴の中に苦しみを投棄し続けた。そうすることが最も楽だったから。

 

 最終的に収拾がつかなくなった私たちは渦から逃げようとした。これまでと同じように嫌なことを切り離す。意識集合体を解散してネットワークそのものをなかったことにしようとした。

 

 だが、もともと形のないものを消し去ることはできない。巨大に成長した無の渦は私たちの中に常に存在し続けていた。数千匹分が消費する『死後強まる念』を養分として、さらに強大となった『深渦』が牙をむき、ついに全ての私たちを乗っ取った。

 

 私も鎧に取り込まれた一匹にすぎない。肉体の制御は効かず、こうして自責の念に囚われながら夢を見ることしかできない身だ。この意識も、あとどれだけの時間もつかわからない。そうなったとき、私はどうなってしまうのだろうか。

 

 存在が同化しかけていく中で一つわかることは、この『深渦』が海の向こうを目指しているということだ。メビウス湖を渡り、人間の大陸へ向かおうとしている。愚直に理想を追い求め、人間に至ろうとしている。

 

 海底を歩き、真っすぐに南へ進む気だ。そして大陸に到達したとき、『深渦』は人間へ近づくために人間を取り込もうとするだろう。これはそうすることでしか他者を知るすべを持たない。その行為の果てに理想が実現されることは決してないというのに。どこまで深く、遠く、理想は乖離し、死後の念は強まっていく。

 

 災厄だ。人類はこの脅威を排除できるのか。思い悩めども、私にはどうすることもできない。

 

 映像が切り替わった。私の前に、新たなタスクが提示される。

 

 一瞬、認識が滞った。それが何なのかわからず凝視する。用意された“肉の塊”と、その意図を理解するにつれ、感覚が凍っていく。

 

 そこに私の罪の始まりがあった。記憶の奥底に閉じ込めてきた映像。かたつむりの殻のように中に入るにつれて狭くなっていく記憶の檻から、押し込めていたものがどろどろと流れだしてくる。

 

 肉塊を手に取る。

 

 壮絶な拒絶があった。これ以上は無理だ。こんなものは見たくない。今すぐに逃げ出したい。

 

 これは私じゃない。

 

 映像が乱れる。輪郭が歪む。私という存在が壊れていく。

 

 後悔しろ。懺悔しろ。目をそらすな。罪から逃げるな。

 

 繰り返すことしか許されない。後悔するためには再現しなければならない。それを“食べる”ことでしか、私は私を認められない。

 

 肉の中から取り出されたモノは、直視しているにも関わらずモザイクがかけられたように認識できなかった。血生臭さと温もりだけが手の上に残っている。

 

 ――過ちを認められないのなら

 

 口へと運ぶ。映像は何度も途切れ、スノーノイズの中に消えていく。

 

 ――私でいる資格はない

 

 

 * * *

 

 

 目が覚めると、夜の森にいた。

 

 すぐ近くにチェルとトクノスケが寝ている。ここは野営地だ。調査隊に同行し、リターンを探して森を探索していたときの記憶、つまりこれは夢だった。

 

 クインは即席の寝床から起き上がる。夜の野営地に明かりはない。火を焚けば危険生物にこちらの位置を教えるようなものだ。

 

 

「どうかしましたか? 見張り交代の時間はまだ先なので、もう少し寝ていても大丈夫ですよ」

 

 

 暗闇の中から声がした。一人の男が木に背中を預けて座っている。暗くて顔は見えなかったが、声で誰なのかすぐにわかった。

 

 なぜかクインが彼の方へと近づくことはなかった。不自然な距離を保ったまま、その場に立ちすくんでいる。

 

「人間って、なに?」

 

 唐突に、クインが尋ねた。私がクインにそう喋らせたわけではない。これは夢であり、私が今見ている自分を操作することはできない。過去の記憶から再構成された映像である。

 

 だが、私にはこんな場面を経験した覚えがなかった。こんな質問を誰かに投げかけた記憶はない。

 

「え? 人間ですか? うーん……そうですねぇ……」

 

 答えに窮しているのか沈黙が続く。クインは黙って待ち続けた。風のない静かな森で、ただ静かに待ち続ける。

 

 

 * * *

 

 

 人間が何なのか私にはわかりませんが、この世で最も『人間らしいこと』は知ってます。

 

 それは、『比べること』です。

 

 ……期待していた答えと違いましたか? もっと夢のあることを言えれば良かったんですが、こんなことしか言えずにすみません。

 

 人は、自分と他人を比べます。そうすることでしか幸せを感じられない生き物なんです。

 

 間違ってる? そうですね。私もそう思います。その人の幸せや不幸せって、その人にしかわからないものです。私がどんなに途上国でおなかを空かせている子供たちを憐れんだところで彼らの不幸はわからないし、その子たちも自分の隣でおなかを空かせている誰かの不幸はわからないでしょう。

 

 そもそも比べられるものじゃないのに、私たちはそうすることで初めて価値を見出します。だから他人から見れば取るに足らないことにこだわったりする。全くわけのわからないことに時間や金をつぎ込んだり、命を投げ打ったりする。

 

 でも、その間違いが人間らしさじゃないですか。仮に、全てが正しい人間がいたとしたら。その人は誰と比較することなく、自分ひとりで価値を完結させることができるでしょう。希望も絶望もなく、自分以外を理解する必要はありません。そんな人間はいませんよ。

 

 人の欲望には果てがない。そこに幸せを感じる基準がなければ、際限なく求めてしまう。きっと心が満たされることはなく、ただ自分を貶めるだけの後悔を残します。自分の中の“正しさ”だけを追い求めたところで、私たちは正しく生きることなどできません。自分で在り続けることなどできません。

 

 人生は間違いだらけです。なのに私たちは、それに気づかず平気で生きることができます。根拠もなく誰かを信じ、自分と比べることができるから、人は妬み、蔑み、敬い、愛する。自分とは違う誰かと出会い、良くも悪くも変わることができるのです。そうやって少しずつ、“人間”が出来上がる。

 

 これからあなたは多くの人と出会うことでしょう。比べるためにはその人を理解しなければなりません。それは不可能に思えるほど難しいことだけど、理解しようと努めなければならない。上辺だけを理解した気になったところで得られるものはあまりない。それが凡人だろうと才人だろうと、善人だろうと悪人だろうと、あなたにはない何かを持っています。

 

 それを自分と比べてください。

 

 

 ……もうすぐ夜が明けそうですね。柄になく話し込んでしまいました。

 

 出発しましょうか、クイン。

 

 

 * * *

 

 

 目が覚める。真っ先に感じたのは痛みだった。

 

 蒸し焼きにされそうなほどの熱気と蒸気が吹き荒れている。赤熱する地面の熱さに堪えられず、アルメイザマシンで足場を固めた。その痛みは、この場所が夢ではないことを証明していた。私は自分の意思で自分の体を動かすことができる。

 

 ここはどこなのか。周囲は濃霧に覆われている。その霧の向こう側を、巨大な影が横切った。巨人が歩く。地響きが鳴る。

 

 ここはあの島があった場所だ。再生イカとの戦いの最後に巨像が放ったレールガンの一撃は海を蒸発、爆発させて海底の地形をも根こそぎ変えてしまった。もうここに以前の島はない。私が立っている場所は隆起した地底の一端に過ぎなかった。

 

 再生イカの気配はない。細胞の一片も残さず蒸発させられたのだろう。そしてそれだけの破壊の爆心地にいながら、赤い巨像は何事もなかったかのように存在している。爆発を堪え切ったのか、それとも消滅したが無から再生したのか。

 

 私が無事でいられたのは、ついさっきまで巨像の一部として取りこまれていたからだ。それがなぜか、今はこうして分離している。幸運にも見逃された、そんなことがあるわけない。

 

 直前に見た夢を思い出す。そこに何よりも重要な記憶がある。消えつつある記憶の糸を必死に手繰り寄せる。

 

『カトライ……!』

 

 そうだ。私は彼と会った。あの光景は過去の記録ではない。確かに私は彼と話をした。

 

 彼はあの場所にいた。私の中で、彼は自らの精神を引き継ぎ新たな生を受けた。そして再び、私を助けたのだ。

 

 私を逃がすために、私が背負わなければならないものを引き受けた。彼ならばそれが可能である。『蛇蝎磨羯香(アレルジックインセンス)』はあらゆる悪意を引き寄せる。赤い鎧が私に強いた自己嫌悪をも肩代わりして。

 

 そうして私だけが救われた。多くの私と、彼はまだ、あの苦しみの中にいる。巨像は私に見向きもせず、海の中へと歩き進んだ。

 

 

 湧き起こる思いがあった。抑えることのできない感情。

 

 それは感謝だ。私は彼に、心から感謝した。

 

 ようやく私は“答え”に至った。自分が何者であるか、今ならば迷いなく答えることができる。

 

 

 私の傍らに落ちている物を拾い上げる。焼け焦げてボロボロになっているが、見覚えがあった。持ち物袋である。さすが暗黒大陸産の素材でできているだけの丈夫さがある。そして、私はいつだってこの袋を手放せなかった。その中にしまい込んだ薬花は、呪いのように私につきまとう。私の元へと帰ってくる。

 

 袋の中身は無事だ。私は小さな石を取り出し、食べた。魂魄石を舐めるのではなく、残さず食べた。その“鉱石”の力を余すことなく自身に取り込む。

 

 激痛が走った。内臓が焼けるような熱さに襲われる。その石が浸かった泉の水を飲むだけでオーラがみなぎるほどの力の塊を、薄めるどころか丸ごと摂取したのだ。それは劇物に等しかった。私の耐毒性など無視して体が内側から破壊されていく。

 

 予想していたことだ。危険だとわかっていたからこれまで試そうと思ったことはなかった。だが、その行為がもたらす力について考察していなかったわけではない。

 

 この石は生命力を促進し、命を与える。過剰に送りこまれる生命エネルギーは生物に力を与えるが、同時に死へも近づけることになる。

 

 私の体内では急速に生命活動が進んでいた。呼吸や血流の加速、新陳代謝の活性、そして卵の増産。おびただしい量の卵が生み出されては死に、新たな卵が生み出される。

 

 ルアン・アルメイザは泉の水を飲むことで自身の限界を越えた生命力を与えられた。しかしその力は肉体が滅びようとも失われることはなく、彼の魂は残留思念として泉に囚われていた。

 

 私の卵もまた、死してその意思を失うことはなかった。『死後強まる念』として、刻一刻と増大していく。

 

 私と卵に上下関係はなかった。そこに宿る意思はただ一念のみ。自己嫌悪などありはしない。もう“自分”と“自分”を比べることはない。

 

 私は“自分”と“彼”を比べる。ワームに襲われ、彼が隊を逃がすために殿を務めたとき、私は並々ならぬ興味をもったはずだ。彼を取り込んででも知りたいと思うほどの“何か”を感じ取ったはずだ。

 

 

 私の罪の始まりにして、全ての答えがそこにある。

 

 誰かを救おうと戦う彼の姿は、私の胸を打った。私もそうでありたいと思わせた。

 

 私のために彼を救い、私のために私を救う。

 

 ヒトであるためにヒトを救う。それが私の、『人間の証明』だ。

 

 

 『偶像崇拝(リソウノワタシ)』を発動させる。生み出されたクインに、ありったけの『死後強まる念』を注ぎこむ。意思の炎を灯すかのようにクインの体は揺らめく鎧で包まれた。暴走することはなく制御できる。

 

 脚力の爆発。クインの体が空を駆けた。向かう先に迷いはない。腕部につぼみ状機関を生成し、回転させる。発生した磁力によってクインの体は引っ張られた。赤い巨像へと、自分自身を吸い寄せる。

 

 間近で見た巨像の体は、アルメイザマシンでできた鎧ではなかった。その組成のほとんどが本体である。蟻の本体がうぞうぞと無数に集まり、固められて巨像の姿を形作っている。像そのものが一つの群れだった。

 

 その中に飛び込めば、ただでは済まない。その先にあるものは闘争ではないはずだ。重要なのは倒すことではなく、理解することである。それにどれだけの時間を要するかもわからない。想像を絶する辛苦が待ち受けているはずだ。

 

 だが、恐れはなかった。心を満たしていく感情がある。肯定でも否定でもない、確固たる決意。その高まりと共に、力が無限にみなぎっていく。

 

 私はもうすぐ死ぬだろう。魂魄石によって加速された生命は間もなく燃え尽きる。だが、たとえ肉体が滅びようとも、この決意だけは決して消えない。そして、その意思以外に必要なものなど何もなかった。

 

 

 自分の選択が正しいとは思わない。

 

 それでも私は間違いだと認めた上で、この道を選ぶ。

 

 ただ、大切な人を救うためだけに。

 

 

 巨像がこちらに振り向いた。無貌の頭部に穴が空く。それは私を迎え入れるための口だった。仲間たちが私の帰還を待ち望み、キチキチと顎を鳴らして歓迎する。

 

 その渦の奥底へと、どこまでも深く落ちて行った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 * * *

 

 

 船は進む。

 

 

 * * *

 

 

 一筋の光もない海底を。

 

 

 * * *

 

 

 希望の地を目指して。

 

 

 * * *

 

 

 楽園へ。

 

 

 * * *

 

 

 おびただしい数の死骸の中で。

 

 

 * * *

 

 

 卵は孵った。

 

 

 * * *

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 窓の外では、今日も雪が降っていた。三角屋根から滑り落ちた雪が、どさりと音を立てる。毎日毎日飽きもせず、よく降るものだ。おかげで雪かきを怠れば一晩で窓も入り口も埋まってしまう。

 

 私は銀髪の少女の肩によじ登る。少女はぎこちなく歩き始めた。

 

 ここはとある無人島。その中にある山小屋である。わけあって私はこの島に住んでいるのだが、それでもやはり無人島と言えるだろう。なぜなら私は人間ではない。

 

 私は蟻だ。一般的に見かける蟻とは少し見た目や大きさが変わっているが、昆虫の一種として知られるあの蟻である。そして、私は蟻でありながら自分の存在を客観的に分析する蟻を超越した思考力が備わっていた。これは私の種としての能力に起因する。

 

 私たちの種の女王蟻は他の生物を食べることで、自分にはない生物的特徴を次世代に発現させるという世にも珍しい『摂食交配』なる繁殖体系を持つ。おそらく、私を産んだ女王蟻は人間を食べ、人間の思考力を持つ私を生み出したのだろう。

 

 私は蟻の王だった。女王ではなく、王である。女王蟻は群れが一定の規模に達すると王蟻を産む。王蟻は巣の外へ出ていき、新たな群れを作る役割がある。けれども、人間の意識を持つ私にとってそんな蟻の営みは自分のことのように思えない。

 

 たかだか数十センチの蟻に人間の意識が宿るというのは悲劇だと思うだろうか。最初は驚いたものの、すぐに今の感覚に慣れてしまった。それとも現実を受け入れきれていないだけだろうか。

 

 自分は蟻であるという明確なアイデンティティがある一方で、人間としての意識も混在している。まるで蟻に憑依した幽霊にでもなったかのような気分だ。私の頭の中には思考力と共に、人間としての知識も受け継がれている。

 

 ただし、それは単なる情報としての記録でしかなく、実際に自分が体験した記憶ではない。私の意識は元となった“どこかの誰か”の人格を基礎として形成されているが、その人物がどのような人生を送ってきたのかわからない。言わば、『人格の似た別人』のような存在なのかもしれない。

 

 それでも特に問題はなかった。考えるに事足りるだけの知識は備わっている。もしかしたら色々と引き継がれていない知識もあるのかもしれないが、その自覚さえ持ち合わせていないのだから違和感はなかった。

 

 あるのは空虚さだけだ。ただ知識を与えられ、考えることを許された一匹の蟻は、これから何をすればいい?

 

 ただの蟻なら悩む必要もない。生物として本能の赴くままに、遺伝子に刻まれたプログラムを実行するだけだ。そこに意味を考える必要はない。

 

 何をすればいいのか、何をしたいのかわからなかった。“考える”という余計なことができてしまったがために、私は生きる意味を探さなければならなくなった。それはどこにあるというのか。目の前に落ちているはずもない。

 

 そして私は白い少女と出会った。戸惑うことしかできなかった私の前に、彼女は現れた。いや、最初からそこにいたのだ。私が生まれ、自意識を働かせたときには既に私の傍らにいた。

 

 雪から切り出されたかのように、彼女は白かった。白い肌は溶けるように雪に馴染み、銀色の髪は雪上を照り返す日差しのように輝いていた。触れれば崩れてしまう雪像のように儚げな、人間の少女だった。

 

 雪の中に半身が埋もれた少女は眠るように横たわっていた。死んでいるのかもしれないと思った矢先、彼女の目が静かに開く。その黒い瞳が私を見た。

 

 私はその目を通して、自分自身の姿を見た。

 

 赤い装甲のような外骨格に覆われた、どこか機械じみた雰囲気のある虫がそこにいる。少女が見たものを、まるで自分自身が見ているかのように認識することができた。視覚だけではなく、五感の全てが一体化している。

 

 その不思議な感覚は、私のちっぽけな価値観を吹き飛ばすほどの衝撃だった。人間の体を手に入れたかのように、少女を自由に動かすことができた。私は夢中で雪の上を駆け回り、その刺すような冷たさにうち震えた。その感動をこの先、忘れることはないだろう。

 

 まるでその体こそが本当の自分であるかのように感じられる。人間の意識を持ち、人間の体を動かせる。そんな当たり前のことが嬉しかった。

 

 それが私の始まり。蟻と少女、二つの私の始まりだ。

 

 

 

 

 

 ―――――

 

 『千の亡霊(カーマインアームズ)』

 

 王アリは女王アリと魂を異にする存在として生まれ、『精神同調』『偶像崇拝』『犠牲の揺り籠』といった念能力を受け継いでいない。クインのように見える少女は寄生型と呼ばれる念獣の一種である。寄生型は誰かの残留思念が別の誰かに憑くことで、宿主のオーラを借りて具現化されるものが多い。原則として宿主本人が作り出した能力ではないため、自分の意思で動かすことができないが、『千の亡霊』は宿主と感覚を共有することでその意思を汲み取って自発的に行動する。厳密に言えば宿主が直接操作しているわけではない。

 

 【制約】

 ・この念人形のデザインは変えられない(負傷・欠損は自動回復)。

 ・共有する感覚のうち、痛覚は遮断できない。

 ・いかなる状況においても具現化は維持される(具現化に必要なオーラを供給できなくなったとき、宿主は死亡する)。

 

 


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。