ペッジョが表向きに名乗っている職業は写真家である。精力的に活動しているが、その才能は下の下と言ってよく、鳴かず飛ばずの売れない写真家だ。だが、彼が仕事にありつけず困窮することはない。なぜなら、マフィアの『運び屋』としての裏の顔があるからだ。
彼は具現化系念能力者であり、一台のカメラを具現化することができる。具現化系能力によって実体を持った生産物は、オーラで形作られていながら実物と全く遜色ない存在感を持つ。彼のカメラも本物と同じく写真を撮影することが可能だ。
しかし、それだけでは現物の模倣に過ぎない。オーラで作られているので自由に出し入れが可能であったり、壊れても修復が容易であったり、自分自身のオーラで作られたものなので『周』や『隠』がかけやすかったりする利点もあるが、基本的な性能は現物と変わらない。
そこに現物を超えた性能を付加しようと思えば、念能力者としての才能が必要となってくる。剣であれば切れ味をより鋭く、鎧であればより頑丈に、というように具現化するものの特性に応じた特別な能力を付け加えることも可能である。
ペッジョのカメラも特殊能力が備わっている。その能力名は『最高の一枚(ベストショット)』。具現化したカメラで撮影した被写体をフィルムの中に“保存”するという恐るべき能力だった。
放出系能力者が使う瞬間移動や、念によって現実世界に存在しない空間を作り出し、そこに人や物を送り込むなど、時間や空間概念を超越した能力は存在する。しかし、その習得難易度は極めて高く、才能なくして覚えられるものではない。
物質をフィルムの中に取り込んでしまうなど、いかにカメラの特性に沿う能力と主張したところで普通は実現不可能な領域である。それを考えれば、ペッジョは具現化系能力者でありながら後天的に特質系へと変化した特殊体質者であると言えた。
カメラを構えてシャッターを押せば問答無用で敵を無力化できるこの能力があれば、まずどんな強敵が相手だろうと遅れを取ることはないだろう。だが、実際のところペッジョは武闘派などとはお世辞にも呼べない立場にいる。彼の能力には大きな制約があった。
彼が撮影者として“納得”できる写真でなければこの能力は発動しない。つまり、少しでも構図に不備があったり、被写体の写りが悪かったり、角度が気に食わなかったり、自分の思い描く『最高の一枚』にそぐわない写真では駄目なのだ。戦闘中、敵に対して使えるような能力ではない。
そして最も厄介なことが、彼の撮影に対する趣味嗜好であった。
他者が苦しむ姿に美を感じる。子供の頃、道路で轢かれすり潰された犬の死骸に目を惹かれた。やがて、自らの手でそういった状況を作り出すようになっていく。そして、心身が成長していくにつれて動物を対象とするだけでは我慢できなくなっていった。
ペッジョは自分が異常であることに気づいていた。人前では自分の嗜好をおくびにも出さない。マフィアではないカタギの知人や友人は多く、その誰もが彼を『馬鹿で騒がしいお調子者』だが『写真に対しては真摯』だと思っている。
それは別に嫌々演じているわけではない。彼は本気で写真家として成功することを目指している。なぜならそれは“修行”だからだ。彼は自分が異常であり、悪であることを自覚していた。だから、一般的で真っ当な美的感覚を養おうと必死で努力していた。
その姿を知っている者なら、彼がマフィアで悪事の片棒を担いでいるとは思わないだろう。才能は全くないが、自分の好きなことに真っすぐ取り組む夢追い人だと評価されている。それは図らずも彼の素性を隠すのに好都合だったし、修行の甲斐もあって彼の念能力は成長した。
それまでは興味が湧かず、被写体として見ることができなかった物もフィルムに取り込むことができるようになった。だからこそ『運び屋』として重宝されている。念空間などを作り出せる能力者全般に言えることだが、最も有用とされるのが物資輸送の隠蔽性である。手ぶらの人間が何の証拠も残さず多くの物資を一度に輸送することができる。密輸などによって利益を上げる裏社会の者たちからすれば喉から手が出るほどほしい人材だろう。
この島の輸送路を確保する上でも彼は適任だった。どれだけ倉庫の存在を隠し通そうとも、そこに出入りする物の流れが丸見えでは意味がない。しかし彼ならば写真家の活動として違和感なく島に入ることができる。
写真家としてはともかく、念能力者としては確固たる地位を築いていた。普通の能力者が行う武術としての修行とは異なるが、彼なりの修行によって今も成長を続けている。ではその結果、彼の美的感覚は一般人に近づいたと言えるのだろうか。
答えは否だ。むしろ、悪化していた。普遍的に美しいとされる感覚を理解するにつれて、彼が望む生来の“美”はより克明に浮かび上がった。善と悪、生と死、その対照性の中にこそ彼が求める絶望がある。
彼はその醜い美しさが、修行の果てに陳腐で無価値なものへと変貌してしまうことを恐れた。誰かを傷つけたいと思っているわけではない。自分が撮った作品を自慢したいわけでもない。ただ、人が絶望する姿を撮りたい。そして、自分だけのものとしていつまでもこの手の中にしまっておきたい。その衝動を抑えきれなくなっていた。
ハン・モックはペッジョの本性を知る数少ない友人である。モックは毛嫌いしているだろうが、少なくともペッジョは友人だと思っているし、この頭の固い学者の老人を尊敬していた。それは彼の研究についてであるとか、彼のハンターとしての腕を評価してのことではない。ペッジョは彼を自分と同じ種類の人間だと思っている。
本人に言えば烈火のごとく怒ることは目に見えているが、二人は同類なのだ。金や名声によって動く人間ではない。自分の中にある価値観さえ邪魔されず、満たされればそれでいい。それによって他人がどうなろうと知ったことではないと思っているところも同じである。
マフィアは彼らが求めるものを正確に理解し、それを与えることによって協力を得ている。それは金で雇われる関係よりも遥かに強固な信頼で結びついていた。
ペッジョはマフィアに属しているがゆえに非合法な撮影を行うことができる。そのおぞましい撮影会は、彼の求めに応じてたびたび開かれた。しかしそこで出会うことのできる被写体は、ほとんどがマフィアに始末される予定だった者たちだ。それはそれで面白さがあるのだが、たいていが裏社会に染まりきった男たちである。
今、彼がファインダーを通して見ている少女のような被写体は、そうそうお目にかかれるものではない。その姿は美しかった。
美とは、学ぶことによって培われる感覚だ。偉大な芸術家たちが遺した絵画や彫刻、陶磁器、建築、あるいは文学、音楽、そういった作品は人間の感性に働きかける力を持つ。それが見る者の美的感覚と合致し、取り込まれることで人は美の指標を得る。
少女の容姿は完成された一つの作品のように整然としている。一つの指標となるに値する美しさがあると、ペッジョは感じた。であれば、その花を無残に散らせた姿とはどれほど甘美で心躍るものであろうか。残酷、冒涜、猟奇、非道、何と罵られようが今さら心を入れ替えることなどできはしない。彼にとってはそれこそが芸術であった。
* * *
モックが組織から与えられた命令は少女の捕縛、そして身柄の引き渡しである。通常であれば、これはなかなか手間のかかる任務だ。抹殺命令の方が断然やりやすい。人間一人を生きたまま捕え、誰にも気づかれることなく引き渡し場所まで連れていかなければならない。
だが、今回に限って言えばそれほど心配はいらなかった。ペッジョの能力があればさして労力はかからない。カメラのフィルムに入ったものは、撮影された状態のまま時間の経過に影響されることなく保存される。そして、そのカメラの具現化を解除してしまえば手元には何の証拠も残らない。輸送にリスクは生じないというわけだ。
それを踏まえた上で、モックは少女に善人面で接した。それほど演技に自信があるわけではなかったが、少なからず信頼を得ることができたのではないかと思う。もう少し時間をかければ彼女の秘密を聞き出せたかもしれない。少女は、何か言い淀むようなしぐさを見せていた。
だが、モックの目的は少女の事情を聞き出すことではない。できれば聞き出したかったという程度だった。そんなことに時間をかけるほど彼は気が長い性格ではなかったし、尋問なら捕まえた後で組織の人間がいくらでもやってくれるだろう。
第一の目的は、彼女の信用を得ることにある。自分を信頼できる大人だと思わせ、安心させたところで裏切るためだ。その方がより簡単に彼女を絶望させることができるだろう。そうすれば、ペッジョの撮影もスムーズに終えることができる。
相手が見た目通りのただの子供だったならそれで良かった。だが、計画は大きく狂う。少女は予想外の反応力と認識力によって、モックの裏切りを瞬時に理解し、対応してしまった。彼女の目に宿る光は、寄る辺を失った幼い子供のものではない。いかにして生存をつかむかという確固たる意思である。
この表情ではペッジョは満足できないだろう。この少女を屈服させるには骨を折りそうだと、モックは経験から予測することができた。余計な手間が増えたことに舌打ちする。
「その場から一歩も動くな」
少女の体は固まっている。忙しなく左右する視線の動きから、どうやって現状を乗り切るか必死に考えを巡らせているのだとわかる。しかし、良案が浮かばないことは明らかだ。その証拠に少女は何の行動も取れずにいる。
「右手を見せろ」
少女は右手を隠すように後ろへ回していた。先ほどモックが矢を射かけた箇所だ。そのとき、手を大きく負傷していることは確認していた。
少女は少しばかり躊躇していたが、モックがクロスボウの先で早くしろと促すとしぶしぶ手を前に出す。そこに傷はなかった。最初から何の攻撃も受けていないかのように、無傷である。
だが、確かに攻撃は当たったはずだ。何かの小細工で回避したようには見えなかった。首の致命傷も同様に“治っている”。
そのとき、少女の足元へと何かが近づいているのが見えた。あの奇妙な姿をした蟲だ。赤い宝石のような装甲を纏った蟲は、少女が手を挙げたタイミングで近づいてきている。手の方に注意を向かせた隙に呼び戻す腹づもりか。しかし、それに気づかないモックではない。
クロスボウを再度発射し、赤い蟲を弾き飛ばした。その攻撃を見越していたかのように、少女が駆け出す。一直線にこちらへ向かってくる。逃走が目的ではない。その目はモックを見据えていた。
クロスボウを撃った今、モックには隙がある。次の矢を発射するまでの間に距離を詰める気だ。もし、それよりも発射準備が早く終わったとしても撃てる矢はせいぜい一発。一撃くらいなら受け止められると思っているのだろう。たとえ常人なら致命傷となるほどの負傷も、彼女であればどうにかできるかもしれない。
「動くなと言ったはずだが?」
モックはクロスボウの弦を引かず、近くにあった火かき棒を手に取る。ストーブの整備に使うただの金属棒も、人を殺すには十分な武器となる。距離を詰めようとする少女に対し、むしろモックの方から一歩踏み込んだ。
『周』で強化された火かき棒が横薙ぎに少女の腕を打った。腕の骨を潰し、肋骨を数本まとめてへし折る手ごたえを感じる。成人男性が鉄パイプをフルスイングしてもここまでの威力は出ないだろう。それをモックは手首のスナップだけで実現した。
少女はバランスを崩し、踏みとどまるが、倒れなかった。痛みに泣きわめき、もがき苦しんでもおかしくないほどの重傷を抱えたまま前に進もうとしている。
そこにモックの追撃が入った。火かき棒の一振りで、少女の細い首が花の茎のように折れ曲がる。頸椎離断。誰が見ても死ぬとわかる致命傷に加え、さらに胸部へ向けて金属棒を突き入れた。豆腐に箸を入れるように何の抵抗もなく、胸の中心、心臓を正確に貫いている。火かき棒を無造作に抜き取ると、血が噴き出し辺りを赤く染めた。
「教授ナイスゥゥゥ……じゃなくて! あっさり殺しすぎぃ!? まだ写真が撮れてな……あれ?」
初めこそ派手に噴き出していた出血も、既に止まっていた。胸の傷口はふさがり、折れた首も変形した腕も元通りになっている。やはり、傷が回復している。
「これがこの子の能力っすか? とんでもない回復力……ってことは強化系?」
「強化系の回復は自己治癒力を強化するのがせいぜいだ。これは時間を巻き戻すように再生している。別次元だな。特質系かもしれん」
あまりにも非常識で驚異的な能力だ。まるでファンタジーに登場する吸血鬼のような再生力。もしここに念法使いとしての実力が備わっていたと想像すればぞっとする。モックもペッジョも、白兵戦に長けた能力者ではない。為すすべもなく殺されていたかもしれない。
しかし現実において、少女は危機を回避できなかった。それができるなら、ここまで追い詰められる前にモックたちの方がやられていただろう。モック程度の能力者でもやすやすとあしらえる相手。つまり、素人だった。
彼女の纏うオーラは一般人同様に垂れ流されていた。これは演技ではなかったらしい。彼女の精孔は閉じていた。正確には開きかけた状態だったのかもしれない。モックが放った念弾を目視したように見えたが、それは気配を感じ取ったに過ぎなかった。
そしてモックのオーラが込められた攻撃を受けた今、彼女の精孔は完全に開いていた。非念能力者は、念能力者からオーラをぶつけられることで精孔が強制的に開かれる。これにより念に目覚めることができるがあまり良い方法ではない。なぜなら、生命の維持に必要なエネルギーであるオーラを一度に放出してしまうためである。
『纏』ができなければオーラの消耗は止められない。少女の体からは大量のオーラが漏れ出ていた。それを見て彼女自身、動揺している。自分の身に何が起きているのか理解できていない様子だった。
精孔が開かれていないのに『発』を習得していることは不自然だが、全くあり得ないことではない。才能ある者は念の存在を知らないにも関わらず、無意識のうちに『発』を開花させる場合もある。
彼女は念法使いではないが、自分が持つ能力をある程度把握し、使いこなしていた。どれほどのことができるのか確認しておかなければならない。
「これからいくつかの質問をする。正直に答えろ」
自分が使える特別な力について、少女に説明を求めた。最初は何も言わず口をつぐんでいたが、モックが火かき棒を振り上げると慌てて話し始める。
「きず、なおせる」
「それはもう見た。その他にもう一つ、能力を使えるようだな」
蟲を操っていた能力である。モックが手加減なしでオーラを込めた矢が二発も直撃しておきながら、破壊できなかった赤い蟲。当然、その行方については警戒を怠っていなかった。今もこちらの動向を探りながら物陰をこそこそと移動している。その虫はオーラをまとっており、少女の方へとパスでつながっていた。これは典型的な操作系能力の兆候である。
手ごたえからして念獣がもてる頑丈さではない。実体をもった本物の虫と思われる。その動きはかなり遅く、近づいてきたとしても対処は容易だろう。しかし、念のため動きは封じておくことにする。
「ペッジョ、そこの棚に特殊繊維でできた網が入っている。それをあの蟲にかぶせてこい。くれぐれも直接触るなよ」
「えー! ちょっとおれっち今いそがし」
「やれ」
「はい!」
おらー! 逃げんなー! と無駄に気合をいれながらペッジョが蟲に向かっていく。あれでも一応、四大行を修めた念能力者だ。身体能力は一般人を凌駕している。さすがに遅れを取ることはないだろう。
「答えてもらおうか。あの蟲は何だ?」
「……」
少女は黙秘した。モックが火かき棒を構えても、今度は何も喋る様子がない。
「そうか、ならば仕方ない」
モックは少女の眼孔に棒を突き刺した。うめき声を意に介せず、そのまま奥へと刺し入れる。たまらず身体をのけぞらせた少女に対し、折檻するように何度も棒で打ち据えた。一撃の重さは尋常でなく、骨を折り、肉片を飛び散らせるほどの連打が続く。
棒を振るいながらモックは少女の能力を考察する。彼女の系統はおそらく特質系だが、操作系能力も習得しているようだ。この二つの系統は相性が良いとはいえ、基本的に念能力者が覚えられる発は一人一能力であることが多い。精孔も開いていない段階で二つの発に目覚めた例など聞いたことがない。
しかし、操作系能力を使えるということについて納得のいく点もあった。シロツバメが不自然に懐いていたことだ。動物に好かれやすいオーラを持つ人間というものは存在するが、さすがに野生動物が自分からすり寄ってくるレベルになれば異常である。それも警戒心が著しく高いあの鳥が人間の体にとまるなど考えられない。
操作系能力は、何らかの媒介を通じて対象を操る。それについても見当はついていた。少女の体から漂ってくる匂いだ。
最初に出会ったときから、爽やかな花に似た匂いを感じ取っていた。香水でもつけているのかと思ったが、着る物にも困っているような状況で香水だけ身につけていたとは考えにくい。
不思議と気をそそられるような、何とも言えない香りだった。彼女の雰囲気をミステリアスにしている一因と言える。自然と目が惹きつけられ、そちらを注視してしまう。これが操作系能力の媒介物として鳥や虫に影響を及ぼしているのだろう。
それでも戦闘に入る前はそれほど気になる匂いではなかったのだが、モックが攻撃を仕掛けたあたりから、急激にこの匂いが強まった。今ではむせかえるほど鼻につく。良香も度が過ぎれば悪臭と同じである。その強烈な臭いにモックは顔をしかめていた。
これは少女の体から出るオーラを匂い成分に変化させているものと思われる。もしこれが変化系能力の応用だとすれば、操作系と併用するだけでも高い難易度を要求される能力になるだろう。どのようにしてこのような能力を習得するに至ったのか定かではないが、回復力も含めて異常な体質と言える。
モック自身、操作系能力者であり、動物を操作対象として操る能力者を何人か見てきた。特別な香を用いて凶暴な動物を従える能力者の話など、彼女と似た例も聞いたことがある。だが、彼らに対しては嫌悪しか抱かない。
特に野生動物をその生態を一向に顧みず、自分の都合だけで従わせる者には反吐が出る。ありのまま、自然のまま、その生物の生き方と環境を尊重するべきだと思っている。その意味で言えば、この少女はモックが最も嫌うタイプの人間であった。
自然と、少女に振るう暴力は増していく。亀のようにうずくまった少女を情け容赦なく、一方的に殴打し続ける。
「ちょっと教授うう! おれっちのいないところで一人だけお楽しみはやめてくれよおおお!?」
ペッジョの声を聞いてはっと我に返った。内臓破裂して絶命してもおかしくないほどの威力の攻撃を少女は受け止め続けていた。それでもまだしぶとく生きている。
モックは自分の精神に乱れがあることに気づく。オーラの制御も、注意力も散漫になっている。いつもの彼ならいくら嫌いな人間だろうと、怒りに任せて我を忘れ、暴力に駆られるような未熟さは表に出さない。
血の臭いの代わりに充満する少女の芳香がひどく気に障った。まるで彼の精神の奥底から、普段は収めている悪心を引きずり出されるように感じた。凶暴性だけではなく、様々な欲望が静かに湧き起こってくる。
少女が持つ能力は他に類を見ないほど貴重なものだ。優れた容姿、人を魅了する香り、傷を瞬く間に治す再生力、小動物を使い魔のように操る能力、これで人間の生き血を啜るようならまさに吸血鬼だ。そのような触れこみで闇のオークションにでもかければ巨万の富が動くだろう。
別に金が欲しいわけではないが、これを組織に引き渡せば大きな功績となる。毎度毎度、煩わしい注文ばかりつけてくる組織の連中を黙らせることができるだろう。誰に口を出されることもない安息の日々が待っている。
少女をここで殺すのは惜しいと思い始めていた。
* * *
万策尽きた。もう何も、打てる手立てはない。
ボロ雑巾のように痛めつけられた少女の体は回復こそするが、それには私の生命力が必要となる。底の抜けたバケツのように少女は生命力を消費した。
虫の本体は網に捕まってしまった。食い千切ろうにも、肝心の脚がからまっている箇所に牙が届かない。もがけばもがくほど絡まり、身動きが取れなくなる。しかし、間もなく足掻く気力すらなくなった。
生命力が減り過ぎている。もう自分の中ではとっくに底をついた感覚があるのに、限界を超えて少女の方へと吸い取られていく。意識を保つだけで精いっぱいだった。気を抜けばすぐにでも気絶しているだろう。
消耗が大きくなるにつれて少女の回復力も落ちている。男たちはそれに合わせて拷問の手を緩め始めたが、喜ぶことはできなかった。死ぬまでの時間が引き延ばされただけに過ぎない。
彼らは私に質問した。どこから、どうやって、何の目的でこの島に来たのか、能力のことについて、赤い虫はどこで手に入れたのか。答えられない質問がほとんどだ。わからないと正直に答えても攻撃される。何かまだ武器を隠し持っているのではないかと疑われたのか服を脱げとも言われた。這いつくばって許しを乞えと、みっともなく命乞いをしろとも言われた。それらの要求におとなしく従えども、待遇は何も変わらない。
やがて、質問はされなくなった。その代わりに一つだけ要求される。
『絶望した顔を見せろ』
このまま嬲り殺しにされるのだと思った。痛めつけ、苦しめた上で殺すことが目的なのだと思ったが、だんだんと不可解な点が見えてくる。彼らは別に拷問を楽しんでいるわけではなかった。むしろ、早く終わらせたいと思っている節すら垣間見えた。『絶望しろ』という要求は、単なる趣味嗜好の問題ではなくそれ以上の意味があるような気がした。
「いいかげんにしろ!」
モックが怒鳴り声をあげる。だが、その声は私に向けられたものではなかった。手にしていた金属の棒で、カメラを構え撮影していた男を殴りつける。
「あだああっ!? ちょっ、教授、なんで……」
「なぜ能力を発動させない!? いつまでこんなくだらん茶番に付き合わせる気だ!」
もともとそれほど仲が良さそうな雰囲気ではなかったが、ついに仲間割れを始めた。反撃を仕掛けるならこれ以上の好機はないだろう。しかし、もはや私の体は指一本、動かせる力も残っていなかった。
「おれっちだって『最高の一枚(ベストショット)』が撮りたいさ! でも、写真家としてのこだわりってもんがある! この子は間違いなく最高の被写体だ。ファインダー越しに眺めただけで、インスピレーションが湧き出てくる……! このものすげー情熱を作品として残すためには、一切の妥協も許されないんだ! わかってくれよ教授ぅ……」
「付き合いきれん……後は自分で勝手にやれ」
そう言うと、モックはその場を離れた。私にとって彼は超人だった。大人と子供という身体能力の差を超えた、人としてありえないほどの凄まじい力を持っている。この少女の体も常識はずれだが、彼の力もまた常軌を逸していた。
しかし、椅子に深く腰掛け、体を休める男の姿は年相応の老人に見えた。額には玉の汗をかき、肩を上下させ息をしている。何もかも常人とはかけ離れた体力の持ち主というわけではないようだ。
それでも、こちらを警戒する視線と矢をつがえたクロスボウだけは片時も放す気配がない。何もしても無駄なのだと、嫌というほど認識させられる。
「なあ、お嬢ちゃん。おれっちは君の写真が撮りたいだけなんだ。ほんとはさ、こんなことしたくないんだよ? こんなハードな撮影はおれっちも初めてさ。いいか、人間には堪えられない苦痛ってもんがある。精神的な凌辱って実は大したことがないんだ。レイプされたり、家族で殺し合わせたりさぁ……そういうのって意外と堪えるんだなこれが。長期的に見ればダメージでかいんだろうけど、心を閉ざすっていうのかな。精神をシャットダウンしてショックを打ち消しちゃうんだよね。やっぱり一番は“痛み”だ。自分の肉体に刻みつけられる痛み。これを堪えられる奴はそうそういない」
男は早口で語り始めた。内容は一割も理解できない。意識は既に朦朧としていた。床の上に横たわっているはずだが、感覚だけが離脱して泥の中に沈み込んでいくように錯覚する。男は少女の腹に金属棒を突き立て、シチュー鍋をかき混ぜるようにぐりぐりと動かす。鍋はこぽこぽと煮立ち、具が溢れだす。どれだけ意識が混濁しようと、痛みだけは鮮烈に脳を焼き、生命力をもぎ取っていく。
「今、どんな気分だ? 辛いだろ? 痛いよなぁ……その感情を表現してくれ! 難しいことは考えなくていい! 純粋な苦痛を! 死の間際に見せる命の輝きを! 思ったままの感情を表情にしてくれ! 頼む! このまま君を死なせるわけにはいかないんだ! 頼む頼む頼むううぅぅ……」
泣きそうな声を出しながら男は懇願してくる。絶望なら既にしていた。これ以上、何を求められたところで出せるものはない。私に何をさせたいのか、男の意図が理解できない。
「わからない? そうかぁ……なら、こうしよう!」
男はぶつぶつと独り言をつぶやきながら頭を掻き毟っている。やがて、どこからともなく一枚の写真を取り出した。
「『現像(ポップ・ザ・アート)』」
写真の中からずるりと何かが飛び出した。明らかに写真の枠には収まらない大きさの物体が出現する。それは人間だった。拘束具に手足を縛られ、猿轡をはめられた男だ。
「こいつはなかなか素晴らしい被写体だった……拷問の最中にうっかり精孔が開いちゃってね。まあ、よくあることなんだけど、念の才能があったのか死ぬ前に『纏』を覚えた。念能力者は身体が頑丈だから拷問のし甲斐があるんだ。そこで! おれっちはナイスアイデアを閃いた。特別製の毒を取り寄せたのさ。ギンピーギンピーっていう植物のパウダーでね、何の毒か知らないけどすごく痛いらしい。これを数回に渡って全身の皮膚に揉みこんで、一晩寝かせれば完成さ!」
ペッジョは写真から出てきた男の髪を掴むと、こちらに見せつけるように引き上げる。男は瞬きもせず目を見開いていた。だが、その視線は焦点が定まっていない。血走った目をぎょろぎょろと動かすのみだ。汗が噴き出した顔面は紅潮し、血管が浮き出ていた。轡の奥から石臼を回すような掠れた声を発している。
「見てよこの顔! 傑作ぅ! これだよこれぇ! こういうのを頼むよぉ! あ、しらける演技だけはやめてくれよ! これを参考にしつつ、君なりの絶望を見せてくれ!」
狂っているとしか思えない。この男も、研究者の老人も、人知を超えた現象が飛び交うこの空間そのものも、何もかも理解できなかった。それともこれが当たり前の“人間の姿”だとでも言うのか。
仮にここでペッジョという男が納得する表情を作ったとしても、その先にある未来が明るいものとは到底思えない。きっと、私も写真から出てきた男のような末路をたどることになるのだろう。
それならここで死んだ方がマシではないのか。彼らはどうしても私を生かしたまま絶望させたいらしい。ならば、その期待をへし折って無表情のまま死んでやる。それが私にできる最後の抵抗ではないか。
「何をしている」
私が決心を固めていると、それまで静観していたモックが口を挟んできた。彼は私を睨みつけている。私の内心を悟られたのだろうか。どこまでも勘の鋭い男だ。
「その手は何だ? 今、何をした」
だが、どうも様子がおかしい。その指摘の意味がわからない。私の手がどうかしたというのか。
「ペッジョ、そいつの右手を見ろ。不審な動きがあった」
「え? 右手?」
右手も何も、体は少しの身じろぎもできないほど疲弊している。何かわずかな行動を取る余裕すら残されていなかった。
「あー、何か血で文字を書いてるみたいっす。えっと……『救え』?」
「仲間に助けを求めた、わけではないと思うが」
ぼやけていく意識を必死につなぎとめる。何か今、重要なことが起きている気がした。
奴らの話からすると、私は右手で床に血文字を書いた。私が意識して書いたものではない。そして、それは『救え』という文字だった。
「神にでも救いを求めたか? 諦めろ、これが現実だ」
私の意思で取った行動ではなかった。体が勝手に動いたとしか思えない。この体が、何かのメッセージを発したのではないか。
この少女について、私はわかっていないことの方が多い。自分の体のように扱ってきたが、意思を持たぬ人形だと断言することはできなかった。
『救え』とは何を意味するのか。彼女自身が私に対して訴えているのか。こんな状況に陥った責任は私にある。責めたくなる気持ちもわかるが、もはやどうすることもできない。
だが、そこで諦めることはできなかった。ほんの小さな変化だが、何かが確実に動いているような感覚がある。死を待つのみだった心が、揺れ動く。
おそらく『救え』とは私に対して向けられたメッセージだ。しかし、その対象は誰だ。思考を止めてはならない。この場にいる者を列挙する。
私、少女、モック、ペッジョ、写真の男……。
ぴくりと指が動いた。今度は私も認識することができた。正解を指し示すように、指がかすかに反応する。
救う対象は『写真の男』だ。もちろん、その理由はわからない。自分が今にも死にそうなこの状況で、なぜ見ず知らずの他人を助けなければならないのか。
だが、今はその根拠を追究している時間はない。どうせ死ぬことしかできない状況だったのだ。ならば、この変化に身を任せてみよう。
男を救うと決める。その思いに応えるように、手が動いた。腹の底から少しずつ、生命力が滲み出てくる。私が送り込んだ力ではない。少女自身の体から、生命力が生まれている。これまでになかった反応だった。
「……まだ動けるのか……なんてしぶとさだ。化物か……」
手を床につき、体を起こす。だが、まだ立ち上がれない。力が足りない。もっと生命力が要る。
誰かを救うことが少女の望みだと言うのなら、それを否定するつもりはない。彼女は私の半身である。今の私にできることはただ、その願いに沿うことだけだ。それでいいのなら、いくらでも思ってやる。
「すくえ……!」
その瞬間、腹の中に何かが生じた。
下腹部に異物が入った。自分ではない誰かがそこに生まれた。
何も考えられなくなる。自我がバラバラに切り刻まれ、どろどろに溶かされて誰かと一つになっていく。
「あが……がっ……!」
これが痛みだと言うのなら、私がこれまでに感じてきた苦痛は何ほどのこともない。体から黒い蒸気が噴き出した。目の前が真っ黒に塗りつぶされていく。
「あああああああ……!!」
悪に、呑まれる。
「『最高の一枚(ベストショット)』!!」
光が瞬いた。フラッシュに照らされた私の体はハサミで切り取られるように背景と分断され、吸い込まれるようにカメラのレンズへと消えていった。