ようやく緊張の糸が解ける。モックは深く息をつき、武器を置いた。
最後の最後で少女に変化が現れたように見えたが、何かされる前にペッジョの能力が発動し、彼女はフィルムの中へと閉じ込められた。こうなってしまえば何者も抗う手段はない。ペッジョがフィルムから写真を念写し、それを『現像(ポップ・ザ・アート)』で呼び出さない限り、外に出ることはできないのだ。
「やった……最高傑作だぁ……くひっ、くひひひひひ! この一枚は、一生の家宝にするよぉ……」
薬でもキメたかのような据わった目つきで、ペッジョが薄ら笑いを浮かべながらカメラを大事そうに撫でている。
「おい、わかっているだろうが、それは組織に引き渡す予定の品だ。自分のものにしようなどと、余計な気を起こすんじゃないぞ」
「わ、わかってるよぉ。もちろんオリジナルは組織に渡すよ。おれっちは念写した写真を焼き増しすることもできるのさ。そっちは『現像』できないけど」
言葉ではそう言っているが、未練が残っていることは明らかな態度だった。ここまで苦労させられておいて手柄を無しにされたのではたまったものではない。モックは組織に任務完了の一報を入れるため、携帯電話を取り出した。
「……ん?」
不在着信:200件
新着メール:900件
一瞬、何かの故障かと思った。確認してみると、送信先不明の着信とメールが大量に届いている。メールは全て文字化けしており、内容は読み取れなかった。
こんなときに何事だと舌打ちするが、調べるのは後だ。組織の連絡係へと電話をかける。使うのは一般回線で盗聴される恐れもあるが、会話は全て暗号で行われるため問題ない。連絡係も組織との関係を隠した、モックと同じような立ち回りの人間である。
「もしもし、私だが……」
数秒の呼び出し音の後、電話の向こうから聞こえてきたのは、がやがやと小うるさい雑踏の音だ。相手の声は聞こえない。
「もしもし?」
呼びかけても返事はなかった。次第に、聞こえてくる音がただの日常音ではないことに気づく。小さな金属が擦り合わさるような音が無数に重なっている。大量の虫がうぞうぞと這いまわるような音にも聞こえた。
「何が起きている」
よく耳を澄ませば、無数の雑音の中に、かすかな人の声のようなものが聞こえる気がした。幼い少女の声が聞こえる。『あなたはだれ?』と、おびただしい数の声がする。
モックは電話を切った。連絡係が襲撃された可能性を考え、他の連絡先に電話するが、どこにもつながらない。いや、つながりはするが、全て先ほどと同じ雑音しか聞きとれない。
(外部との通信手段を断たれた……?)
同じタイミングで全ての連絡先が襲撃されているとは考えにくい。つまり、モックたちがいるこの場所に通信妨害を仕掛けられた可能性が高い。問題は誰がそれを行っているのかということだ。
先ほど、電話先から聞こえた少女の声は、さっきまでモックらが戦っていたモノと似ているような気がした。
しかし、その考えを否定する。一度発動したペッジョの能力から逃れることは不可能だ。被写体は撮影された時間のまま固定され、保存される。それがルールであるはず。
いずれにしても、危機が迫っていることに変わりはない。何者かが攻撃を仕掛けてきていることは事実である。モックは緩んでいた気を引き締め直した。
だが、その老体にかかる負荷は先ほどまでとは段違いに重く感じる。疲労のせいだ。彼も年を取り、念能力者としての全盛期は過ぎた身である。さらに少女の拷問に必要以上のオーラを使ってしまったため、余剰オーラは心もとない量しか残っていなかった。このまま敵の正体もつかめず、いつ終わるともわからない戦いを続けられる自信はない。
さらにペッジョという荷物を護衛する必要もあった。いつにも増して舌打ちを抑えられない。今もまだのんきにカメラを撫でまわしている愚鈍な相棒に向かって声をかけた。
「ペッジョ、立て。すぐにここを出るぞ」
「なあ、教授ぅ」
「早くしろ。敵襲の恐れがある」
「なんか、おれっちのカメラがおかしいんだけど……」
ペッジョが持つカメラに、赤い結晶のようなものが刺さっていた。
「馬鹿かっ! 今すぐそれを捨てろ!」
モックの大声に驚いたペッジョは取り落とすようにカメラを手放した。カメラについた異物は、針がついた球状をしておりサボテンのような形に見える。
「どこから攻撃を受けた」
「い、いや、わからない。勝手にカメラから生えてきたんだ!」
ただの植物がカメラから数秒の内に生えてくるわけがない。十中八九、念能力による攻撃だと思われる。少女の仲間か、あるいは彼女を利用している者が他におり、島に侵入していたのかもしれない。
部屋を見渡すと、少女が先ほどまで使役していた赤い蟲にも変化が起きていた。その蟲は丸ごと結晶サボテンの中に取り込まれてしまっている。まるで琥珀に閉じ込められた蟻だった。
何を条件としてこの能力が働いているのか不明である以上、うかつに行動できなかった。とにかく、この部屋から一度外へ出た方がいいと判断する。
「お、おれっちのカメラ……」
ペッジョがふらふらと落としたカメラに近づこうとしている。いまだに自分たちが置かれた現状を理解していないその様子に、モックの堪忍袋は切れそうになるが、今は怒鳴るより先に避難する方が賢明だ。
「具現化を解除できないのか?」
「できないよぉ。なんでだぁ……?」
「……カメラの回収は後でもできる。今はそれよりも早くここを」
「いやだぁ! おれっちぐっ、かか、かめら、大事な、作品、思い出、いっぱいあっ、あっ」
モックはクロスボウを構えた。その矢を向けた先にあるペッジョの体が、ぼこぼこと形を変え始めている。服の下から赤いサボテンが顔をのぞかせた。
「いっ、いだいよおお!! ごれすごくいだいいい! いたいのに、きぼぢいいんだよおおおおお!!」
ペッジョが振り向いた。その表情は、
「きょうじゅ、とって。おでっぢのかお。かめらで、とって」
悪態の一つも返している暇はなかった。サボテンが急激に成長する。ペッジョの体は押し潰されるように飲み込まれた。それでも成長は止まらず、どんどん大きくなる。
モックは取るものもとりあえず玄関から外へと飛び出した。岩棚の隙間に作った住居がみしみしと軋みを上げる。壁を破壊してサボテンが外へ姿を現すまで、そう時間はかからなかった。
赤い宝石のように輝く多肉植物。あるものは丸々と膨れ上がり、あるものは発芽し、そこからまた新たなサボテンを実らせる。鉢の中に収まる大きさならば趣のある自然の造形美も、見上げるほどの高さにまで増殖したそれはこの世のものとは思えない怪物のようにしか見えなかった。
「これが念能力か……!?」
断じてあり得ない。どの系統に属するとか、どれだけ重い誓約をつけたのだとか、もはやそんな次元の話で扱える能力ではない。人間にできることではなかった。
やがてサボテンは花を咲かせ始めた。つぼみが開き、その中心から何かが発射される。飛来物は近くに生えていた木の幹にめり込んでいた。銃弾ほどの威力がある小さなつぶてであった。花から飛び出てきたことを考えれば種だろうか。着弾した場所から小さなサボテンが生えている。当たれば傷を負う程度の被害では済まされそうにない。
花はモックがいる場所に照準を合わせて咲き誇っている。だが避けること自体は難しくなかった。種は花が向いている方向にしか発射されない。しかし、その間もサボテンの成長は衰える様子を見せず、増殖して数珠つなぎに連結したサボテンも同様に成長するため拡大する一方だ。
一度咲いた花は一方向にしか種を飛ばさないが、機関銃のように絶え間なく弾を吐き出し続ける。底をつく気配はない。このままのペースで成長が続けば花の数もすぐに数十、数百を超え、弾幕のように種の雨を降らせるだろう。身を隠さなければ避けきれなくなる。そしてその種から生まれた小さなサボテンもいつ急成長を始めるかわからない。
モックは歯ぎしりした。これは念能力の産物と言うより、そのような生態を持つ一つの生物であるとしか考えられない。こんな危険生物という言葉では片づけられないほどの植物の存在など聞いたこともなかった。もしそれが事実であれば、この島は外来生物による深刻な環境破壊を起こしていることになる。
彼にとって、この島は自分の命と同じかそれ以上の価値がある。このまま自分だけ島の外へ逃れることなどできない。かと言って、巨大サボテンを前に彼個人の力でできることはないに等しかった。自慢のクロスボウが毛ほどの役にも立たないだろうことは試すまでもなく明白だった。
もはや島の外へ救助を要請しに行くしかない。国よりもハンター協会に連絡した方がいい。すぐにでも危険生物ハンターなどの専門家を招集してくれるだろう。だが、それをすれば組織を完全に敵に回すことになる。この島には誰も上陸させてはならない契約だ。
これほど大規模な災害の処理となるとハンターだけでできることではない。集まる人間の数は計り知れなかった。そして、災害の収束後は原因究明のために島は隅から隅まで調べ尽くされることになる。隠し倉庫の存在は必ず暴きだされるだろう。
倉庫番としての責務を放棄してでも島を救うか、それとも自分の命と安全を取るか。その決断に迷いはなかった。
ここは、もう二度と出会うことはできないと諦めかけていた生涯の目標を、再び彼と引き合わせた特別な場所だ。彼にはこの島を守る義務がある。それはマフィアとの薄汚れた契約によるものではない。確固たる彼の意思として、十数年に渡りこの地を守り抜いてきた。
たとえ組織から殺されることになろうとも、鳥たちの命を最優先に行動すると決める。どのみち、この植物がこのまま巨大化を続ければ、ここはただの辺鄙な島ではいられなくなる。何もしなくても多くの者の目にさらされることになるだろう。もはや自分の居城を名乗り、誰も寄せ付けずに突っぱねることはできなくなる。
そうと決まればすぐにでも島を出なければならない。携帯電話は使い物にならない。通信できないどころか、常時気味の悪いノイズを垂れ流し続け、ホーム画面すら意味不明の文字列で埋め尽くされている。近場の港町まで直接ボートで向かう必要があった。
町に到着して、救助を要請し、そして人員が派遣されるまでどれだけ早くとも半日近くはかかるだろう。その間に島がまるごと赤いサボテンで埋め尽くされる可能性は十分にあった。一刻の猶予も残されていない。種の弾丸に注意し、すぐさまこの場所から離脱を図る。
しかし、そのとき彼は目が合った。
いつからそこにいたのかわからない。雪原の数十メートル先に、ぽつんと立っている。
それは揺れ動き、ねじ曲がる、歪な不定形の鎧を身に纏っている。小さな背丈の、辛うじて人とわかる形をしたもの。
金属の光沢を持った赤い鎧は、しかし風に吹かれる炎のように揺らめいた。剥がれては集う結晶の中に、銀色の輝きが混ざり合う。
モックは、この少女に対して何度“あり得ない”という評価を下したことだろう。彼女が全ての元凶であることを悟った。最初からこの植物をどこかに隠し持っていたのだろう。それを操作し、爆発的に成長させたのだと考える。
彼女にとってもこの力は好んで使いたいものではなかったのかもしれない。もし簡単に使えるならもっと早く手札を切っていたはずだ。正真正銘、最後の手段。どれだけの被害が周囲に及ぶか、その影響はまさに身をもって体験しているところだ。モックたちは、その切り札を使わざるを得ない状況にまで少女を追い込んでしまった。
だが、もしその予測が正しければ、まだ打つ手が残されている。この少女が植物を操っているというのなら、彼女を倒すことで植物の成長を止められるかもしれない。止まらないかもしれないが、可能性はある。試してみる価値はあるだろう。モックはクロスボウを少女に向けた。
その瞬間、モックと少女の距離は1メートルにまで縮んだ。
何が起きたのか、わからなかった。よそ見などするわけがない。むしろ、全神経を集中させて敵の姿を捉えていた。にもかかわらず、かすかな影の動きが辛うじて見えたに過ぎなかった。
そこには接近を許したという事実があるのみだ。彼女の到着に遅れて、一陣の風が吹き抜けた。雪の上に足跡はない。一足、一挙動で数十メートルの距離を詰めたのか。
クロスボウを持つ手は震えていた。この距離なら矢を外すことはないだろう。撃てば当たる。だが、引き金にかけた指は動かない。臓腑の底から冷え切る感覚に襲われているというのに、体中の水分が丸ごと搾り出されたかのような汗をかいていた。
少女は先ほどと変わらず、その場にたたずんでいるだけだ。互いが手を伸ばせば触れ合うほどの距離にいるが、何もしてこない。敵意すら感じることもできない。
だが、モックは彼女の体から発せられるオーラの量と、その練度に圧倒されていた。ついさっき精孔が開き、オーラが尽きかけていた者とは思えない。別人である。
モックは念能力者としてそれほど高い戦闘能力をもっているわけではない。だが、それは念の修行と鳥の研究を両立させているためであり、ハンターとしての資質は上位にあると言っていい。でなければ一ツ星(シングル)の称号は与えられていない。
格上の敵との戦闘は何度も経験している。実力の差は知恵と技術で補い、勝利を収めた戦いも多い。老熟し、力は衰えたが技術は研磨されている。単純な能力差が勝敗を決するわけではないということを知っていた。特に念能力者同士の戦いはそうだ。
だが、その経験則をこの少女に当てはめることはできなかった。それほどの差がある。マフィアが差し向けた殺し屋に抹殺されかけた時でさえ、ここまでの動揺はなかった。
まだ『練』は使っていない。オーラは恐ろしく自然に少女の体を薄く取り巻いている。しかし、そのオーラの練り込み方が尋常ではなかった。まるで一本の糸から織り上げた衣服のごとく、緻密に編みあげられた『纏』が全身を包み込んでいる。
それだけでも人間技ではない。武術の達人が一生を投じてもたどり着けるか否かという極致の精密さ。だが、そのオーラの薄布は一枚にとどまらず、幾重にも折り重なるように多層構造をなしていた。まるで『纏』が重複しているようにも見える。
人間とは思えなかった。これが人間であるはずがない。
彼女には敵意がない。そんなものは必要ないのだ。例えば人間が虫けらを踏みつぶす時に、殺意を抱く必要があるだろうか。何の気なしに足を踏み出したとき、無意識に足を置いたその場所に虫がいたとしたら。
例えばその虫が決死の覚悟で戦いを挑んだとして、あるいは降伏し助命を求めたとして、その行為にどれほどの意味があるというのだろうか。
「くそったれがああああアアアアアアア――!!」
モックの腹が弾けた。わかるのは、何らかの攻撃を受けたということだけだった。クロスボウの矢があらぬ方向へと発射される。滾る血を吐き、髭を濡らす。
身体が崩れ落ちるよりも前に、出血は止まり傷口は塞がった。細切れになって吹き飛んだ臓器の代わりに、その穴は赤い結晶で埋められている。忌まわしき多肉植物が、彼を蝕んだ。
壮絶な痛みに襲われる。彼は若い頃、ジャングルで鳥の生態調査していた際に毒蛇に噛まれたことがあった。そのとき覚えた種類の痛みだった。血中を速やかに伝わり、体内から細胞を破壊していく壊死性毒。無数の針を一本一本丁寧に植えつけられていくように被害が広がっていく。
以前は死に至る前に血清の投与が間に合ったことで一命を取り留めた。だが、今回はどう足掻いたところで無駄だとわかる。毒のレベルが違う。蛇の毒とは似て非なるものだ。腹部を中心に、全身がミキサーにかけられ挽肉にされていくような感覚だった。
もう間もなく死ぬと確信できる。なのに、その予想が実現することはなかった。
モックの体に、かつてないほどの生命力がみなぎっていた。これまでの戦闘で体内に残された潜在オーラ量はそれほど残っていないはずだった。にもかかわらず、まるで滾々と湧き出る泉のようにオーラが生産されている。
そして同時に、感覚は鋭敏化し異常な興奮状態に陥っていく。植物やキノコに見られる幻覚毒に似た神経作用だ。躁と鬱とが恐ろしい速度で切り替わり、神経が擦り切れていく。
肉体の損傷は回復し、オーラは無尽蔵に溢れ出た。しかし、毒の効果がなくなるわけではない。再生と破壊、躁と鬱とが終わることなく繰り返される。人間の許容量を遥かに超えた苦しみが、強制的に流し込まれる。死ぬことも、意識を失うことすら許されない。
赤い植物は、彼の体から生じるオーラを養分として成長した。ペッジョと同じようにサボテンの怪物へと変貌していく。彼が最も嫌悪する環境の破壊者へとなり下がる。
全力で抵抗した。もはや人の形を為さない身体に何度も止まれと命令する。だが、その身体はすでに彼のものではない。サボテンは苗床から養分を搾り取り、花を咲かせて種子を撒く。種が一粒発射されるごとに、魂の一部をむしり取られるような喪失感が走った。そしてその魂は補充され、際限なく搾取され続ける。削り取られ、継ぎ足される。
彼の元の肉体はサボテンの根元に取り込まれている。外の様子がどうなっているのか窺い知ることはできない。そのはずなのに、彼の耳は声を捉えた。大勢の野卑た男の声、けたたましく鳴り響く木々の伐採音、排気ガスを撒き散らしながら土を踏み固める重機の音、ここがどれだけ尊く美しい場所なのか理解しようともしない、薄汚い密猟者どもの笑い声。
それは数十年前に見た光景だった。開発と称して根こそぎ森を破壊していく密猟者たちの蛮行を、彼は見ていることしかできなかった。草陰に身を潜め、膝を丸めてうずくまり、微動だにすることもできず、壊れていく森を見ていた。
幻覚と幻聴に囚われる。しかし、もはや彼に正常な判断力は残されていない。彼の歪んだ人間性を形成する契機となった、忘れがたき過去の妄念に侵食される。
そして、目の前に小さな白い塊が落ちてきた。震える手で拾い上げる。命の潰えた小さな亡骸。人生を捧げて愛した鳥。
『お前のせいだ』
『お前が殺した』
鳥たちの言葉が聞こえた。彼は必死に否定する。そんなつもりはなかった。まさか自分の研究が、密猟者たちを呼び寄せるとは思わなかった。そんな言い訳が通用するはずもない。鳥たちの声は、彼自身が作り出した罪の意識に他ならないのだから。
慟哭し、掻き毟り、五体投地して許しを請えども、鳥たちの糾弾は永遠に終わることがなかった。
* * *
モックの隠れ家は暗く透き通った赤色に飲み込まれていた。植物のようにも、無機質な結晶のようにも見える物質で覆い尽くされている。
その内部には空洞があった。一人の男がうずくまっている。その異常な空間において、男は生きていた。手足を拘束され、身動きもできずに横たわっている。ペッジョの写真から現れた男だった。
少女は男を見下ろしていた。手刀を走らせれば、男の拘束が一太刀で解かれる。しかし、自由になったところでその男が何か行動を取ることはなかった。虚ろな目をしたまま、轡を解かれた口は、蚊の鳴くような声で独り言をつぶやいている。
少女がもう一度、手刀を放った。男の首が胴から切り離される。
彼女はその男を救いたかったのではないのか。そのためにこれほどの力を発揮したのではないのか。結局、全員殺してしまった。物言わぬ躯と化した男の姿は見るに堪えず、私は目をそらす。その拒絶に応じるようにモニターの映像は途絶えた。
私は少女が取った行動の一部始終を、このモニターを通して見ていた。ペッジョやモックが、わけのわからない存在に作り変えられてしまったところも見ている。どうやら、このモニターは少女の視界をそのまま映し出しているらしい。
私は見知らぬ場所にいた。コンサートホールのように大きな部屋だ。床も壁も鉄板で作られている。窓は無く、ろくな照明も見当たらず、ところどころ壁に設置された赤いランプがぼんやりと周辺を照らしている。机の上には何台もの古めかしい箱型のパソコンが置かれていた。私が先ほどまで見ていたモニターも、その一つだ。
私の体は少女になっていた。本体の姿はどこにもなく、つながりを感じることはできない。写真から出てきた男を救うと決意した直後、この体に異常が現れた。それがどういうことなのか理解できないまま、気づけばこの場所にいたのだ。ペッジョが私に向けてカメラのフラッシュを放ち、視界が晴れたときは既にこの部屋に立っていた。
おそらく、あのカメラは撮影した人間を吸い込む機能があるのではないかと思う。写真の男も同様にして囚えられていたのだろう。めちゃくちゃな話だが、私が持つ一般常識がそれほど役に立たないことはわかっているため、あり得ないとは言い切れない。
だとすれば、ここはカメラの中の世界なのか。あのモニターに映し出されていた光景は何だったのか。ただの私の妄想で、現実はペッジョもモックも健在なのだろうか。
モニターの映像が衝撃的だったため、つい見入ってしまったが、そろそろここから出ることを考えた方がいい。出られるかどうか不明だが、その努力はすべきだろう。いつまでもこんなところにいたくはない。
赤黒いランプで照らされた部屋は不気味なもので溢れかえっていた。床や壁に、楕円型のカプセルのようなものが貼り付いている。触ると簡単に壊れ、中から半固体状の何かがどろどろと流れ出た。何かの卵のように見えるが、生きている気配を感じるものは一つもない。
部屋の奥を目指して歩いていく。足元はわずかに揺れていた。ゆらり、ゆらりと一定の感覚で左右に揺れる。床ごと動いているようだ。もしかすると、ここは水上を漂う船の中なのかもしれない。
しばらく歩くと扉が見えた。ここを通れば出口、と楽に事が運べばいいが、それほど簡単に脱出できるとは思えない。とりあえず、扉を開ける。
「やあ、こんにちは」
何かが、いた。
少しだけ開いたドアの隙間からこちらを覗き込んでいる。最初からそこに立っていて、扉が開くのを待ち構えていたとしか思えない。
それは私と全く同じ容姿をした少女だった。まるで鏡に映った自分に話しかけられたかのように非現実的な感覚に、冷たい何かが背筋を通り抜けた。
思わず後ずさり、来た道を引き返したくなる。だが、後ろを振り返るとそこは見たこともない小部屋になっていた。さっきまでの広い部屋ではなくなっている。袋小路に追い込まれたかのように、いつの間にか逃げ場のない狭い部屋に閉じ込められていた。
「良かったらここ、開けてもらえないかな」
少女がドアの隙間を指さす。ドアはチェーンロックでつながれていた。チェーンを外さない限り、これ以上ドアは開かない。どうやら少女は強引に中へ入ってくるつもりはないようだ。少しだけ冷静さを取り戻す。
「……そう、ならそのままでいい。ちょっと話がしたかっただけだから。ところで、俺が送ったメッセージは役に立っただろう?」
メッセージ。特に脈絡もない単語を聞いて考え込む。
「『救え』って血文字で書いて伝えてあげたじゃないか。そのアドバイスに従って、お前は見事にこの身体の力を引き出し、卑劣なハンターたちをやっつけた」
あのモニターで見たものは全て現実に起こったことだと少女は言う。なら、今私がいるこの場所は何なのか。ここはどこで、目の前の少女は何者なのか。
「ここはお前の夢の中で、俺はその夢の一部に過ぎない。心配しなくても、目が覚めればいつも通りの日常が待っているさ」
嘘だ。夢の中の妄想が、現実に少女の身体を動かして血文字のメッセージを残すなんてことできるわけがない。
「いちいち細かいことを気にする奴だな。夢なんだからそのくらいの矛盾が生じてもおかしくないだろ」
少女は私を煙に巻こうとしている。これ以上、追及しても答えてくれそうにない。
「そんなことより大事なのはお前に与えられた力のことさ。もう使い方はわかったな? 誰かを救う、そう思うだけでいい。自分ひとりでは使えない力だ。そして、救う対象はお前が救いたいと思える者でなければならない」
使い方よりも先に、その力の正体を教えてほしい。
「正体? そんなこと気にする必要はない。誰かを救う、その意思に理由が必要か? あえて言葉にするなら、この世で最も気高く、尊い自己犠牲の精神さ。お前は蟻としてではなく、人間として生きたいと思っている。だったら、これ以上人間らしい精神があるだろうか」
白々しいことばかりにしか聞こえない。そもそもさっきモニターで見たことが全て事実だとすれば、この少女がやったことはただの虐殺だ。誰も救えていない。
「救ったさ。毒に苦しみ殺してくれと懇願した男に、死という慈悲を与えてやった。自由を与え、その上で選択を委ねたんだ。死にたければ勝手に死ねばいいところ、わざわざこちらが手を汚してまで苦しみから解放してやった」
そんなものはただの独善だ。殺しの言い訳がしたいだけにしか思えない。
「じゃあ聞くが、お前があの男にするべきだったと思う救いとは何だ? あのままそこに放置すれば良かったとでも? 死を願うほどの苦しみに耐え続けて生きろと? それとも病院まで連れていくか? 苦しい闘病生活を二人三脚、手を取り合って支えていくとでも言う気か?」
極論が過ぎる。だが、実際問題としてどこまで相手に肩入れするかという線引きは作らなければならない。もし、私があの場にいたとしたら、男を放置しただろう。悪いが、何が何でも助けたいと思うほど情を寄せる相手ではないし、今の私に面倒をみる余裕はない。命は助かったのだから、できることはそこまでだ。どんなに譲歩したところで、町まで連れていって救急車を呼んでやるくらいのことしかできない。
それは私が考える救いであって、彼が本当に救われるかとは別の問題だ。もし彼が心の底から死を望んでいたのだとしたら、それを無視することが救いと呼べるのか。殺しに手を染めたくないという自分の都合ではないのか。
「難しく考えるな。誰にだってできることとできないことがある。重要なのは、自分にできることを最大限にやり遂げることだ。お前にはその力がある。普通の人間には決してできない、お前だけの特別な力だ。救済の名のもとに、お前は無敵のヒーローに変身できる」
なぜそこまで救うことにこだわる。救うためにしかこの力は使えない。どういう経緯でこの力は生まれ、そして私はそれを使うことができるのか。
「なぜだとか、どうしてだとか、それを知って何になるんだ。そんなものはチート能力をくれる神様と一緒さ。二話目を読み進めるころには頭の片隅にも残ってない。大切なことは、力を得たという事実だけだ。モックを倒したとき、お前はどんな気分だった? あのイカれたジジイのどてっ腹を貫いて、見るも無残な姿に変えてやったとき、最高にスカッとしたはずだ。奴らは悪だった。そして、弱きを助け強きをくじくお前は善だ。悪には罪を、罪には罰を。勧善懲悪の体現者が正義の鉄槌を振り下ろす。それが力を得た意味だ」
何かを答えているようで、その実何も答えていない。少女の言葉を聞いているだけで、心がざわざわと落ちつかなくなる。
「まあ、今回は確かに後味の悪いシナリオだった……だが、次はうまくいく。ああ、うまくいくとも」
私と会話をする気などない。全て彼女の中で完結している。それを一方的に話してくるだけだ。なるほど、彼女が私の作り出した妄想に過ぎないのだとしたら、具体的なことは最初から何も知らず、単に話せないだけなのかもしれない。
ただ力を肯定し殺人を合理化しようとする、私の深層心理が生み出した、幼稚な正義感の擬人化。
だが、それでも最後に一つだけ聞きたかった。ここが私の夢の中で、少女がその一部に過ぎないというのなら。
その夢を見ている私は誰だ。
「お前は『王』。その役割を与えられ、この地獄から唯一生まれることを許された」
どうせまともな答えなんて返ってこないと諦めていた私の耳に飛び込んできた言葉。その真意を問いただそうとしたとき、扉の向こう側がにわかに騒がしくなる。
「喋りすぎたか。女王様がお怒りだ」
廊下の向こうから複数の人影が現れた。どれも皆、同じ顔、同じ体。私と同じ姿をした少女たちがぞろぞろと押し寄せてくる。
扉を閉めた。この部屋に明かりはない。扉の外から入っていたわずかな光も断たれ、何も見えない暗闇だけが残る。
「逃げても無駄だ。たとえ俺を否定しようと結果は変わらない。お前は力を得た。一度手に入れてしまえば、いつかそれに頼らざるを得なくなる。必ず、この場所に戻ってくる」
大勢の足音が近づいてくる。鍵を閉めた扉の前で、息を殺して嵐が過ぎ去るのを待つ。
「じゃ、またね」
その声を最後に、何も聞こえなくなった。立ち消えるように音が止む。何も見えず、何も聞こえず、ただ暗く狭い小部屋の中で一人になった。
* * *
鳥のさえずりが聞こえる。目を開けると、スズメが目の前をちょこちょこ歩いて通る姿が見えた。
少女の体に異常はない。裸で雪の上に寝ていたためかなり寒いが、凍え死ぬほどではなかった。凍傷のようなダメージは自動的に回復しているのだと思う。
この場所は間違いなく現実だ。すぐ近くには虫本体もいた。私の意識が戻ると同時に本体も目を覚ましている。私は無事に帰ってくることができたらしい。
さっきまで私が見ていた場所は果たして何だったのか。カメラの中の世界か、それともただの夢だったのか。いずれにしても明らかなことがある。
巨大な赤いオブジェが二つあった。球状のサボテンのような塊がいくつもつながって樹齢千年は越えていそうな大樹のごとく地面から生えている。だが質感は植物というより鉱物の結晶のように硬く輝いていた。
記憶が正しければ、これはモックとペッジョだ。やはり私が夢を見ている間に起きたことは現実だった。少女は私の制御を離れ、恐るべき力で敵を完封した。
急激な成長を見せた赤い植物は、今のところ停止している。弾丸のように種を発射していた花も沈黙している。これがまだ生きているのか、死んでいるのかわからないが、元の人間の姿には戻せるとは思えない。
この力に助けられたことは確かだ。そうでなければ殺されていた。だが、手放しに喜べない恐ろしさがある。これまで大した疑問も持たずに少女の体を操ってきたが、今回の一件で、私は本当に何もわかっていなかったのだと実感する。
不安はあった。だが、それでもこの少女と離れ離れになることはできない。距離が開くほどに生命力を消費するという問題もあるが、もっと精神的な理由で私はこの少女に依存している。人間としての生を求めて、そして生きるための力を求めて。
モックたちが何の目的で私を狙っていたのかわからないが、これから先、奴らのような不思議な力の持ち主と敵対しないとは言い切れない。生きるためには強さが必要だ。
だが、これからはこの少女と自分が使える力についてもっとよく考える必要があるだろう。特に、あの『救済の力』はもう使いたくない。使えば使うほどに後戻りができなくなる。そんな気がする。
この力については調べてみようと思う。そのためには島から出なければならない。ここに留まったままでは得られる情報はない。安易に人に尋ねられる案件ではないが、町に行けば情報を集める手段も見つかるだろう。
世間的に見れば、この島で三人の行方不明者が発生していることになる。立派な事件だ。そして私はその事件の当事者であり、不可抗力であったとはいえ実行犯でもある。逃げた方が得策だろう。警察機関に保護してもらった方が安全だなんて楽観は、とてもではないができない。
逃げると決まれば早い方がいい。まずは服を着なければならない。拷問の際に脱いだ服は、モックの隠れ家にある。しかし、その場所はサボテンで埋め尽くされてしまっている。確かこの中には空洞があって、写真から出てきた男の死体もそこにあるはずだが、どこにも入り口らしき穴は見当たらなかった。諦めて、これまで生活していた山小屋に替えの服を取りに行く。
服を着た後は、船着き場へ向かった。これまで一週間あまりこの島で暮らし、色々な場所を歩きまわって来たが、他の人間と出会ったのは今日が初めてだ。もしかするとモックたちは今しがた船でこの島にやって来たのではないかという予感があった。ならば、この島に一か所しかない船着き場に船が泊っているはずだ。
どうか予想通りあってくれと願いながら海辺に到着すると、そこには確かに船があった。これで島から出られる。喜び勇んで乗り込んだ。
見たところ、エンジンの動力でスクリューを回して進むようだ。もちろん運転の仕方なんてわからないので、試行錯誤しながら何とかするしかない。天候が荒れない限り、素人でも運転は可能だろう。自動車でいきなり道路を走れと言われるよりマシな気がする。
島の中央にある山の山頂から見たとき、晴れた日は水平線の先に少しだけ陸地らしき影が見えた。ひとまず、その方向を目指して進もう。燃料が入った缶もあるし、多少操縦に手間取っても大丈夫だと思う。たぶん……。
とりあえず、エンジンをかけるにはどうしたらいいか、そこが問題だ。