荒野の空は曇っていた。いつもは灼熱の日差しが照りつける大地には、わずかに湿り気を帯びた涼しい風が吹いている。
曇り空の下、私は『燃』の修行をしていた。
『燃』とは心源流において、念を知らない一般人に念能力が引き起こす超自然的現象を説明するための方便だ。念能力者がもつ異常な殺気や身体力を、特殊な武術の極意として説明する。
『点』で意識を集中して目標を定め、『舌』でその目標を言葉とし、『錬』で意思を高め、『発』で行動に移す。
これは真の四大行『纏・絶・練・発』を公にしないための方便であり、いくら『燃』の練習をしても念能力者の強さが手に入れられるわけではない。
だが、初歩の念習得に向けた鍛錬としては有効な精神統一法でもある。一般人はまず瞑想と『燃』の修行によって念に目覚めていくのだ。
私は既に四大行を使える身だが、この『燃』の修行を毎日欠かさず続けていた。初心に帰るという意味もあるが、私にとってはそれ以上に重要な目的が他にある。
『点』で意識を集中。感覚と認識を捨て、世界を自分の内面に見出す。
『舌』で世界を言葉とする。言葉とはすなわち枠組みであり、その枠に切り取られることで、世界は私の中に姿を現す。
私は何者か。
『錬』で意思を固める。自己の存在を自問することで、自己を分離した上で自己を保つ。
そして『発』。私は“私”の答えを聞く。
無数の私が、私の中に現れる。それらは紛れもなく私であるが、同時に他者でもあった。私たちは一つの群れ。私が生み出し、操る意識の集合体。
これこそが『精神同調』の真価――――
ポツリと体に雨粒が当たる。その感覚によって瞑想から引き戻された。一滴の雨を皮切りに、乾いた地へと天からの恵みが降り注ぐ。
雨季がやってきた。
* * *
初めて体験する雨であった。枯れ果てた大地が潤っていく。土砂降りの雨は切れ間なく続いた。赤い森は雨音の中に包まれていた。
始めは私も喜んだ。その喜びは実に半日ほどで平常に戻る。私の巣は水没してしまった。しかたなく二階を増設して避難する。
いつもは貴重な水も、これだけあるとありがたみが減る。しかも、味が変だ。いや変というか、味がない。いつも濃縮毒入りの苦み走った汁を愛飲していたせいで、物足りなさを感じてしまう。
空は曇って日光浴もできないし、雨もそれほどいいものではないことを知った。
だが、一つだけ大いに感謝していることもある。これだけの水があれば念願の水見式ができる。これまでどんなに頑張って汁を集めても次の日には蒸発しているので、水見式はできなかったのだ。
水見式とは、念能力者の六系統『強化系』『変化系』『具現化系』『特質系』『操作系』『放出系』を見分ける選別法である。用意する物は、水の入ったコップと葉っぱが一枚だけ。最も簡単に自分の系統を確かめられる方法とされる。
さっそくこのときのために作っておいた石盆を持ってくる。水の用意は十分だ。その上に萎びた葉っぱを浮かべて準備完了。後は石盆を両手で包み込むように構えて練をすればいいのだが……アリの体だとしにくいな。脚も三本しかないし。気合でそれっぽくやるしかない。
すぐに反応は現れた。葉っぱが水の上でくるくると回転し始める。葉っぱが動くのは確か……操作系だ。予想通りの展開である。むしろ違っていたら今までやってきた修行のやり方に不安が出て来るのでこれでよかった。
しかし、なんだかすごい勢いで葉っぱが回転している。これは操作系の資質に優れているということだろうか。もちろん資質はないよりもあった方がいいので、これはよかっ……うわっ、回る勢いが強すぎたせいで水がびしゃびしゃ飛んでくる。練を止めたが、まだしばらく回り続けていた。もうわかったから。
水見式を行うこと自体も系統別修行のひとつになるそうなので、雨季の間は続けていこうと思う。これは家の中にいてもびしょ濡れになりそうだ。
* * *
自分が操作系であると判明したことで、一つ先に進める課題がある。それは新たな『発』の考案だ。ここでそれぞれの系統と『六性図』について整理しておこう。
全ての『発(特殊能力)』は六つのカテゴリに分類され、それらは次のような六角形の図で表される。
強
/ \
放 変
| |
操 具
\ /
特
例えば操作系能力者である私は当然、操作系の発を覚えやすい。だが、それ以外の系統の発を作れないわけではない。図から見て、自分の系統と隣り合う系統は相性が良く、能力を引き出しやすいと言われている。
操作系なら放出系と特質系だ。ただし、特質系は特質系体質者しか習得することができないので相性以前の問題として私には覚えられない。つまり、実質的に放出系くらいしか他に使いやすい系統はないということになる。操作系は損な系統だ。
自分が何の系統を得意とするかを考えた上で、自分に合った発を作らなければならない。このとき大切なことはインスピレーションだ。自分の性格、体質、経験、目標、趣味、そういった全ての個性を能力として実現することこそが『発』である。いくら自分の系統だからと言って、何のインスピレーションもわかない能力は覚えられないし、覚えたとしても効果は低くなるだろう。
私は『発』を、「夢を叶えるための能力」だと思っている。念には、何でもかんでも思い通りに願望を叶えてくれるような力はない。だが、「こうでありたい」と願う本心がその根幹をなしていることは確かだ。だから自分が何を求めているのか、まずそれを探すことが自分に合った発を作る上で重要だと思った。
私は修行を続けながら考えた。私は何を求めるのか、どんな自分になりたいのか。その答えは一つに絞られていった。自分の中で、これ以上ないほど明確に求める夢がある。
私は、人間になりたい。
私にとって理想の自分とは、このアリの姿ではなかった。毎日、瞑想にふけるたびに私は自分の中に人間の姿を思い浮かべてしまう。そして瞑想を終えたとき、人間とは程遠い自分の姿に苦悩する。
その違和感は日に日に大きくなっている。この願いは果たして私が望んで導き出した答えなのか、それとも私に宿った記憶が見せる幻なのか。真実はどうであれ、自分の気持ちをごまかしたまま生き続けることはできなかった。
人間になることを目的とした『発』。まず思いついたのは、私が最も得意とする操作系能力だ。自分自身を操作して姿形を人間の姿へと変化させる。
しかし、この案を実現することは限りなく不可能に近いという結論に至る。最大の問題は、操作系能力の原則『既に操作されている対象に操作系能力を重ねがけすることはできない』という点であった。
つまり、私が新たに操作系の発を作っても、それを自分自身に使うためには『精神同調』を解除しなければならない。二つの能力を一度に使用することはできないのだ。『精神同調』を切れば、私の体は再び産卵へ向けて変化していくはずだ。それだけはできなかった。
そもそもの話、いくら操作系の適性に優れていたとしても蟻の体を人間へと作り変えることが可能なのかという問題がある。操作系には人体を操作し、外見を変貌させる効果を持つ能力があるにはある。だが、それにも限度はあるだろう。蟻と人間では体の構造も大きさもあまりにかけ離れている。
今の私の外見は、蟻というより羽のない蜂のような見た目をしている。大きさは20センチほどだろうか。昆虫としてはかなり巨大で、発達した外骨格が鎧のように覆っているが、それでも基本的な構造は虫と同じだ。
もし強引に作った能力で、中途半端に人間の特徴を得たバケモノになってしまったら私はより深く絶望するだろう。亜人型キメラアントみたいな姿にはなりたくない。それならまだ今の姿のままの方が良い。
操作系では望む形の能力は作れない。別の方法を考える必要があった。そして思いついたのが、『私の望む体を一から作り出す能力』だ。言葉にすると大げさで、生物操作よりも遥かに困難な能力に思えるが、実はそんなに高いハードルが要求されるものではない。
個人によって様々な能力を作ることができる『発』であるが、ある程度使い勝手のいい能力の傾向は当然ある。そういった念能力の作り方の一つの定石として『念獣』というものがある。オーラによって作り出した獣を使役する能力だ。
獣や鳥、魚などの生物の形を取るものが多く、中でも人間の姿をしたものは『念人形』とも呼ばれる。さして珍しくもなく、それだけオーソドックスな能力であるということだ。この能力を作る“だけ”なら私にもできそうだった。
だが、私の夢を叶えるためには最低限取り込まなくてはならない条件がある。
一つ、具現化型の念人形でなければならない。
一つ、感覚を共有する特殊能力を備えている。
一つ、常時発動させた状態を維持できること。
一口に念獣と言っても、使用者の系統によってタイプがある。主に『放出系』『操作系』『具現化系』の三つのタイプがあると言える。
放出系の念獣は、パワータイプ。自分の体からオーラを放つことを得意とする放出系能力者は、念獣に多くのオーラを込めることができる。これによって念獣の出力を上げ、発動時間と行動範囲を伸ばし、一度に多数の念獣を作り出すことができる。
操作系の念獣は、精密なコントロールができる。複雑な命令を与えることが可能で、使用者の目が届かない場所にいてもあらかじめ設定されたプログラム通りに動く『自動操作型(オート)』を作りやすい。複数の念獣を作っても操作性が落ちにくいのも強みだ。
具現化系の念獣は、操作・放出のどちらとも相性が悪く、性能自体は低い。その代わりにオーラでできた念獣を物質として再現できる。具現化されたものは本物と見分けがつかず、念能力者でない一般人にも見ることが可能だ。また、特殊能力をつけやすい性質がある。
単純な戦闘力を求めるなら、念獣をあえて具現化させ物質化する必要はない。オーラ体であっても相手に与えるダメージは同じだ。具現化させることで情報を偽装し、敵の目を欺くという『絡め手』として使われることが多いタイプの念獣である。
私が求めるタイプはこの『具現化系念獣』に当てはまる。何よりもまず人体の再現性を重視しているからだ。戦闘能力は二の次でいい。本物と寸分たがわぬ人体を物質化することに意味がある。
問題は、私が操作系能力者であるということだ。念獣の操作性に関する不安はない。放出系とも相性がいいので、パワーも大丈夫だろう。だが、肝心要の具現化系と相性が悪い。
六性図で見たとき、自分の系統の一つ隣へ移るたびに、その系統能力の習得率は20%下がると言われている。操作系能力者である私は『操作系100%』『放出系80%』『具現化系60%』となる。
つまり、私が具現化系能力者であれば100%発揮できたであろうパフォーマンスの半分程度の精度でしか再現できないのだ。この差は無視できるものではない。
何でも思いのままに自分の望む能力を作ることができない理由として『容量(メモリ)』という概念がある。人はそれぞれの才能に応じて念能力を覚えられる限界値が決まっている。強力な効果をもつ能力を覚えようとすれば相応のメモリを使用し、この限界を越えるような能力を作ることはできないのだ。
個人によって才能には方向性がある。それが六系統であり、自分の系統から外れるような能力を作ろうとすれば、より多くのメモリを使用しなければならない。そしてこの能力は一度作ればそれを無かったことにはできない。適当な能力を作ってメモリを無駄にすれば取り返しがつかないことになる。
私の記憶にある能力の一つに『分身(ダブル)』と呼ばれるものがあった。これは自分と全く同じ人間を具現化させる能力だ。これも一種の念獣と言えるだろう。私が作ろうとしている能力と良く似ている。というか、私はこれをヒントにして作った。
この『分身』の能力者は強化系であった。強化系能力者が、念獣の運用上関係する系統別習得率は『具現化系60%』『操作系60%』『放出系80%』である。相性の悪い具現化系と操作系を高い精度で要求される能力であり、それだけ無駄に多くのメモリを使用しているものと思われる。
ストレートに強化系に属する能力を作っていればもっと強くなれたはずの、言うなれば『能力作成の失敗例』と呼べる事例である。私はそれを知っていながら、全く同じ過ちを犯そうとしていることになる。
それでも、譲ることはできなかった。もうこれ以外に方法が思いつかないのだ。たとえメモリを全て使い果たしたとしても、この能力を作らなければならない。
能力の名前は『偶像崇拝(リソウノワタシ)』。私が望む姿を具現化し、その念獣と感覚を共有する。人体の具現化と感覚共有、具現化系能力者であればそう難しい内容の能力ではない。五感の完全共有はハードルが高いだろうが、実現不可能というレベルではないはずだ。
自分の系統から外れているからと言って、絶対に覚えられないわけではない。本人が強く望んで作った能力であれば、威力や精度が落ちはするが覚えられることもある。私はその可能性に賭けようと思った。
* * *
一日の修行のうち、瞑想にかける時間が増えた。理由は主に二つ。体内のオーラ総量を増やすためと、具現化能力の発現のためだ。
具現化系の発は、能力を作ったからと言っていきなり使えるようになるものではない。六系統のうち、発現までに最も時間がかかると言われている。目的物を物質化できるようにならなければ話にならない。
そのためにはイメージトレーニングあるのみだ。具現化させたい物を実際に触ったりして感じ取ることも重要らしいが、あいにく私が求めるものはここにはない。イメージだけで何とかするしかなかった。
人間の体を想像し、創造する。夢と現の境を失わせるほどに強くそれを望み、それが在ることを一分の揺るぎなく信じる。無から有を作り出すという虚構を現実のものとする。その道のりはあまりに受け入れがたかった。
どれだけ固く信じ抜こうとしても、わずかな歪みが生じてしまう。歪みは緩みへと転じ、心を翻弄した。
人間になりたいという気持ちに嘘偽りはない。この気持ちで誰にも負けるつもりはなかった。それでも疑いは尽きることなく湧き出てくる。
具現化された念獣は、外見だけでなく内部構造まで再現される。切られれば血が出るし、内臓だってある。見かけ倒しのハリボテではない。一個の生命としての形がある。
それだけに、その再現を自分の中でどう説明付ければいいのかわからなかった。私は人間の内臓の構造を知らない。簡単な知識なら持ち合わせているが、医療レベルの専門的知識ではない。それを勉強しなくてもいいのか。書物を読み、機能の一つ一つまで調べ上げ、実物を、生きた人間の“中身”を見なくてもいいのか。
仮に実物が目の前にあったとしても、人間の全てを理解できる自信はなかった。具現化系能力者はいかにして生物の具現化を成し遂げているのだろうか。それさえも才能だと言うのなら、私にはなすすべもない。
迷い、焦り、そして自分の至らなさを認めきれない気持ちが瞑想を妨げた。
時間の全てを具現化のための瞑想に費やすわけにはいかない。他にもやらなければならないことがたくさんある。むしろ、そういった修行は私にとって救いだった。もし具現化の修行だけに没頭していたとすれば、とうに気がふれていたことだろう。
練の維持、纏と練と絶の切り替え、素早く凝を行う練習、また凝を使っての攻防力移動、バッタジャンプ5000回……瞑想の時間を増やしたからと言って、以前から続けている修行を少なくしたりはしない。睡眠時間を削って修行に励んだ。
中でも積極的に取り入れたのが『燃』による自問自答の瞑想だ。これは『精神同調』の修行である。この能力は修行によって新たな段階へと成長しつつあった。
この能力は対象を操作するだけの効果ではないと気づく。私が操っている数百の卵は、それぞれが意思をもっていることに気づいた。ただ、その意思はこれまで私と全く同一の思考をしていたために、私自身と区別して意識することができなかったのだ。
『燃』による自問自答は、その同一化された意思の塊に区別を与えた。始めは一つとしてしか感じ取ることができなかった自己が、複数存在することを認識する。卵の一つ一つに私の意識が宿っていることに気づいた。
『精神同調』という名前は意図せず、この能力の核心をついていた。操った対象の精神を、まさに私と同調させて一つのものに作り替えているのだ。
私の体内に詰め込まれた卵たちは、私と同体であると同時に別個の生命であった。私が念に目覚め、毎日オーラを磨く修行を重ねるうちに、その気に中てられた卵たちも念に目覚めていた。
言うなれば、私は腹の中に千にも及ぼうかという数の念能力者を抱え込んでいるのと同じ状態であった。これが爆発的に潜在オーラ量が増大した原因である。
しかし、まだ私は未熟だ。この能力を使いこなしているとは到底言えない。卵たちが持つオーラを自分のものとして使用できないことが全てを物語っていた。私たちは自分のことを“一つの私”と考えるがゆえに、別の生命として卵を扱うことができず、そのオーラも使用できなかった。
これを引き出すためには、意識の集合体からその卵を切り離して操作しなければならない。“自分である”と同時に“自分ではない”という矛盾した意識を作り出さなければならなかった。
この問題をクリアするために、瞑想によって自己を意識と無意識の狭間に追い込む練習をしている。無意識帯では自己を複数いるものとして認識できている。それが意識として浮上する過程で矛盾を修正しようとする作用が働いているようだ。なんとかこの中間の位置を探り当てることができるようになった。
当面の目標は、卵からオーラを引き出すことだ。これができれば莫大な潜在オーラ量を獲得でき、『偶像崇拝(リソウノワタシ)』によって消費されるであろうオーラを賄うことができるかもしれない。
私は『偶像崇拝』によって作り上げた念獣を、簡単に消したり出したりすることを許容できない。決められた時間の中でしか人間になれないなんて嫌だ。ずっとその姿でいたい。できれば常時発動し続けても維持できるようにしたいと思っている。
ただでさえ具現化系に適性がない私が作った念獣では、うまく発動したとしても多量のオーラを消耗してしまう可能性は高かった。そうでなくても念獣の維持にはオーラの消耗はついて回る問題だ。卵からのオーラ引き出しは是が否でも習得したい技術であった。
『燃』による精神統一には数分を要した。いまだオーラの引き出しには成功していない。自分の能力の真価に気づけたが生かしきれない現状に、さらに焦りは募っていった。
* * *
制約と誓約。それは『発』を作る上で大切な条件付けだ。
能力が発動する条件をつけたり、効果範囲を制限したり、自分の能力をより限定的にしか使用できなくすることで威力や精度を高めることができる。これを制約という。
一方、能力を使うにあたって「これをしてはならない」や「これをしなければならない」と言った誓いを自分に立てることを誓約という。
これらは厳しい条件を付ければ付けるほど効果も増す。しかし、それだけ能力を縛ることになるので、応用が効かなくなり使いづらくなってしまうリスクもある。
制約の場合は能力の発動条件となるので、破っても能力が不発に終わったり効果が減衰するだけだが、誓約は違う。これは守ることを自分に誓い、その覚悟を力に変える作用だ。破っても能力は使えるが、その後に罰を受けることになる。
私は『偶像崇拝』を作る上でいくつかの制約も作った。少しでも精度を上げ、メモリの節約をするためだ。
まず、複数体の念獣は作れないと決めた。念獣の使い方として、一度に多数を呼び出すという手がある。数は力だ。単純に味方の数が多くなるというだけで戦術の幅もぐっと広がる。そのメリットを放棄した。
そして二つめ。デザインは変えられない。具現化することの利点の一つは、それが念でできたものなのか、それとも実際に存在する現物なのかわからないということにある。例えば念人形なら多様な外見を使い分けることで相手を欺くことができる。この制約で、そういう情報戦はできなくなる。もっとも、そんな高度な使い方はそもそも私にはできないだろうが。
三つめ、一度作り出したら消すことができない。これは非常に重い制約だ。意識がなくなるかオーラが枯渇して維持できなくなるか、そういう場合を除いて自発的に能力を解除することができなくなってしまう。
戦闘中はただでさえオーラの消費量が跳ね上がるというのに、自由に能力を解除できないとなると致命的な状況に陥りかねない。だが、あえて維持し続けることを制約に入れることで、消費オーラを少なくできるのではないかという狙いがある。
この三つの制約があれば十分だろうと思った。特に三つめの条件は、あまりにもリスクが高い。課されるペナルティの重さを考えれば、もはや誓約の域にあると言ってもいい。作った当初は自分でもやり過ぎたと思った。
だが、一度考えてしまうと、どうしても取りやめることができなかった。自分の意見を容易に翻すことで、この能力に対する決意そのものが揺らいでしまうように感じたのだ。自分の中にある“熱”を、少しでも冷ますようなことはしたくなかった。
しかし、修行を続けて行くうちに、どんどん気持ちが変わっていった。制約の重さに悩んだのではない。むしろ、逆。
この程度のリスクでは駄目だ。私の夢は、そんなに安くない。
いつまで経っても具現化できない焦燥と苛立ちが、私の中の熱を異常に高めていた。私は新たな誓約を打ち立てた。
制約ではなく、誓約。生半可な覚悟ではリスク足り得ない。だから私は能力に目覚めない。それは自分自身が否定する間もなく、確固たる信念となって私を縛り付ける。
『一つ、痛覚を遮断してはならない』
『一つ、いかなる状況においても能力の発動を維持し続けなければならない』
『以上の誓約を守れなかったとき、使用者は死亡する』
* * *
雨は大地を伝い、枯れ果てた草木に命を与えた。瞬きのような時間の中で青々と芽吹いた草花は、次の瞬間には干からびている。乾燥と熱と風が死を与えた。
一年か、十年か。私は時を数えるのを止めていた。渇望は癒えぬまま、幾度もの乾季と雨季が去来していた。
一日の大半を瞑想に費やす。まるで終わりのない夢を見ているかのようだった。
どうして能力を覚えられないのか。なぜ私は人間になれないのか。
そんな思いは、もう残っていなかった。
『点・舌・錬・発』
始めは導入に数分を要した瞑想も、今では刹那のうちに意識が濁る。私は数百万、数千万の自問自答を繰り返す。
始めは二つの目的があった瞑想も、今では一つの道となった。分ける必要はなかったのだ。私自身が全ての答えを知っている。
求めてはいけないことに気づく。何かを欲し、それが叶わぬがゆえに苦悩する。その先に道はない。私が蟻であることを拒否した先に答えはない。
既に、そうであることを認めればよかった。
ポツリと体に雨粒が当たる。その感覚によって瞑想から引き戻された。一滴の雨を皮切りに、乾いた地へと天からの恵みが降り注ぐ。
まるで新たな命が芽吹くように、私は両の眼を開いた。
肌を打つ雨の冷たさを感じる。自らが吐く息の温かさを感じる。
白い肌の上を、銀色の髪の上を、雨が伝い落ちていく。
私が手に入れた全身は、私の外の世界を感じていた。
―――――
『偶像崇拝(リソウノワタシ)』
具現化系能力。使用者が真に望む姿を模した人間を、念人形として完全再現する。この念人形は、使用者と全ての感覚を共有できる特殊能力をもつ。
【制約】
・この念人形は複数体作ることができない。
・この念人形のデザインは変えられない。
・一度能力が発動すれば、自発的に解除することができない。
【誓約】
・共有する感覚のうち、痛覚を遮断してはならない。
・この念人形は、いかなる状況においても発動を維持し続けなければならない。
・以上の誓約を守れなかったとき、使用者は死亡する。