カーマインアームズ   作:放出系能力者

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57話

 

 マンションの503号室を訪ねると、ミハエルは603号室にいると言われた。603号室へ行き、そこでミハエルからクレジットカードらしきものを渡されて次の指示を受けた。

 

 駅前のディックサクラという店で買い物をして、会計の時にこのカードを見せれば試験会場まで行けるらしい。さっそくその店へと向かった。

 

 駅前という立地を押さえる店だけあって、なかなか小洒落た雰囲気を感じる。服や装飾品の小物類、バッグ、靴などファッション関係の品ぞろえが多い。こういった店は普段からなじみのない私だが、さすがに上下ジャージ姿の人間が足を踏み入れていい場所とは思えない。

 

 近くにあった服の値札を見ると、Tシャツ1枚に1万5千ジェニーの値がついていた。こういうものを見ると、人間の価値観は本当に理解しがたいところがあることを実感する。まあ、買い物しろとしか言われていないので、適当に何か選んで会計に進めばそれでいい。

 

「いらっしゃいませ、何かお探しでしょうか?」

 

 髪留めならまだ実用的かと思って商品棚を眺めていると、女性店員がやってきて話しかけられた。別に買い物を楽しみに来たわけではないので、ノーサンキューのジェスチャーを返す。

 

「お客様の黒髪でしたら、こちらの――」

 

 しかし、まるで気にも留めず商品の紹介を始める店員。髪留め一つによくそこまで話すことがあるなど思うほどのファッション講義を展開しながら、実際に鏡の前で私の髪に商品を当てがって次々にお勧めを紹介していく。

 

「あら? この汚れは……」

 

 そこでシックスの髪に触れた店員の手にべったりと黒い汚れがついていることに気づく。それは銀髪を目立たないようにするための黒い染髪料だった。色素が髪に染み込まないため、表面に染料が付着しているだけの状態になっているのだ。すっかり忘れていた。

 

「……少々、お待ちください」

 

 店員はそう言い残して店の奥へと戻っていく。店内を走ることなく、音も風すらも立てていないのに、その速度はかなりのものだった。どうやったらそんな移動法ができるのかと疑問に思ったくらいだ。

 

 考えてみれば、こんな高級ファッションショップに髪の毛ギトギト状態で入店するのは常識的にまずかったかもしれない。実際、染髪料のせいでいくつかの髪留めは汚れてしまった。これは怒られるのではないか、いやでも勝手に商品を勧めてきたのは店員の方だし、と悶々としていると先ほどの店員が帰ってくる。

 

「失礼いたします」

 

 戻るや否や、その手に抱えていた荷物からスプレーを取り出すとシックスの髪に噴きつけ始めた。浮き上がった汚れがタオルで拭きとられていく。そのスピードたるや、抗議の声を挟む暇さえなかった。

 

 何種類ものスプレーを使い分け、汚れを落とすだけでなく絡まった毛束の一本一本までくしけずられ、ドライヤーまで使ってヘアセットされてしまった。この間、わずか1分ほどの出来事である。

 

「なんて美しい髪色……あれほどの劣悪なお手入れ状況にありながらみずみずしさを失わず、毛先に至るまで輝きを保っていますわ。水滴に反射する光がごとき自然美、人工物では決して再現できないこの色と手触り……ふふ、ふふふふ……」 

 

 背筋にぞっとする寒気が走る。この女、明らかに異常。まさか念能力者か。見た限りオーラの流れは一般人のものと思われるが、偽装している可能性もある。私はすぐに店員から距離を取った。

 

「あっ!? お待ちください、それだけの素材を持ちながらあまりにもご無体なお召し物! ジャージだなんてそんな! まるでダイヤモンドを産業用廃棄油で蒲焼きにするかのような蛮行……! どうか、どうかわたくしめにコーディネートをお任せください!」

 

 これ以上、付き合う必要はない。そこらへんにある商品を適当につかんでレジに行こう。そう思った私だったが、そこでナビゲーターの青年から最後に言われた言葉を思い出した。

 

『ここの503号室のインターホンを押して『ミハイルさんのお宅ですか?』と尋ねてください。あとは指示に従ってもらえれば会場までたどり着けます』

 

 後は指示に従ってもらえれば会場までたどり着けます。

 

 ナビゲーターの指示に従い、ミハエルという男と会って、この店まで行き着いた。そして、そこで出会った異常な女性店員。おそらくこの店員もナビゲーターやミハエルと同じくハンター協会の手の者に違いない。

 

 つまり、私はまだ試される途中の段階にある。ここで店員の言うとおりに行動しなければ試験会場まで案内してもらえないかもしれない。まさかこんな罠まで仕掛けてくるとは。会場入りするまでは気を抜くなということだろう。

 

 いや、本試験となればこれ以上の難題を突きつけられる可能性も十分に考えられる。念を使えるのだからそれほど苦もなく合格できるだろうという安易な認識は危険だ。私は泣き崩れている店員に声をかけた。

 

「すきにして」

 

 その途端、ウィーンガシャンと謎の擬音を立てながら再起動した店員は無言で私の手を取ると、そのまま試着スペースへと直行する。カーテンが閉めきられた直後、店員は肉食獣のようなうめき声を上げながらシックスの服を脱がしにかかった。

 

「ヒャア! 我慢できねぇ! 着せ替えだぁ!」

 

 猛スピードで丸裸にされていくシックス。これで本当によかったのかという疑問を完全に拭い去ることはできなかった。

 

 

 * * *

 

 

「……果たしてこれが最善の選択と言えるのでしょうか。いや、おとぎ話の中から飛び出してきたかのようなお嬢様の幻想的魅力を最大まで引き出すためには、これがベスト。少々攻めすぎた気がしないでもありませんが、こうして見ると全く無用の心配でしたね。この手のファッション特有の違和感、驚くほど『イタさ』がない……一枚の絵画のように完成されています。さすがお嬢様」

 

 何十着にも及ぶ服を着せかえられた。もともと着ていたジャージはいつの間にかどこかに持っていかれた。ジャージの下はパンツ等の下着を着ていなかったのだが(必要性を感じなかった)、なぜかそのことに怒り狂った店員がどこからか女性用下着まで調達してきて履かされている。

 

 最初は私の感性からしてもまともと呼べる部類の服だったのだが、どんどんわけのわからないゴテゴテした衣装になっていき、最終的に店員いわく『ロリータ・ファッション』に行きついた。要はアニメキャラのコスプレみたいな格好だ。

 

「ロリータとは少女という存在への飽くなき憧憬が生み出したストリートファッションです。それは無垢であり、穢れを知らぬ幼子のようでありながら、異性を惑わす魅力を同時に内包した存在です。犬のようにあどけない純朴さ、猫のようにいたずらな自由奔放さ、鳥のように伸びやかな優雅さ、それらおよそ性と結びつくとは思えない特徴が無自覚のうちに周囲の倒錯した欲求を掻き立てる。この妖精的魅力(ニンフェット)を体現できる少女は非常に希有です。お嬢様だからこそ到達したこの極致、ただのコスプレと混同してはなりません」

 

 店員が語る壮大な講釈を聞き流しながら、試着スペースの鏡で全身を確認する。まず、頭につけたこれ。

 

「リボンカチューシャです、お嬢様」

 

 それだ。カチューシャには蝶々結びにされた大きな青いリボンの装飾がついている。何の意味があるのだろうか。髪留めならもっと実用性の高いヘアバンドを使うべきではないか。首に巻かれた白いリボンも、うっとうしい以外の感想はない。

 

 白のブラウスはやたらフリルの装飾が多い。そしてなぜか半袖ブラウスであるにも関わらず手首にはレースをあしらったカフスが取り付けられている。だが、まあここまでは許容できる。問題はスカートだ。

 

「ジャンパースカートです、お嬢様」

 

 白のスカートで、やはりこれもフリルが多い。青いリボンが編み込まれており、スカートの裾で結ばれている。丈の長さは膝下くらい。そしてそのスカートの下から押し上げるようにこの、

 

「パニエです、お嬢様」

 

 それがスカートの形をドーム型に広げている。邪魔としか言いようがない。さらにその下に白いタイツを履き、ズボンのような、

 

「ドロワーズです、お嬢様」

 

 それらのせいで下半身がもっさりしている。あとは青い靴、

 

「おでこ靴です、お嬢様」

 

 硬く光沢のある革製の青い靴は、厚底で歩きにくい。さっきまで使っていたスニーカーじゃダメなのだろうか。ダメだろうな。提案したが最後、長々と説得される展開が目に見えている。

 

 これでも最低限、自分の意見は通したのだ。あやうく本体が入っているぬいぐるみまで没収されるところだった。もっとかわいらしいものを用意すると言って取り上げようとする店員に対し、必死にぬいぐるみを抱きかかえて抵抗した。なぜかそのシックスの姿を見て興奮した(?)店員は、ペンギンのぬいぐるみに合わせて白と青を基調とするコーディネートに変更したようだ。

 

 リュックサックについてもダメ出しを受け、代品を用意されたがぬいぐるみを入れるには大きさが足りなかった。どれもデザイン重視で容量が少ないものばかりだ。手に持って行動することになると片手が塞がれるが、これ以上反抗するのは危険と考えリュック無しということで妥協することにする。

 

 それ以外のこちらの要求については全て却下されている。しかし、この店員が試験者としてこちらを試そうとしているのだと考えれば、この動きにくい服装についても一応の納得はできた。

 

 おそらく、行動を制限するような服装をあえて取らせることによって相対的に試験の難易度を調整しているのだろう。この程度のハンデは乗り越えてみせよということか。それならば文句はない、と言いたいところだが、このタイツだけはどうにかならないだろうか。

 

 白いタイツを履かせられているが、このぴっちりと下半身にまとわりついてくる締めつけだけは何とも言えない不快感がある。他はまだ我慢できるが、このタイツは……嫌だ。今すぐ脱ぎ捨てたい衝動を押さえて、股ぐらに手を突っ込み下着などの位置を調整する。

 

「ああっ!? なんてはしたないことを、お嬢様! その少年のように傍若無人な振る舞いに、わたくし胸のときめきを抑えきれません! どのように責任を取るおつもりですか! これはお仕置きですねこれは……」

 

 そう言うと店員は膝立ちになってシックスの体にしがみつき、胸に顔をうずめてきた。

 

「フスーッ! フスーッ! まったくお嬢様は! フシュルルルル! こんなにかぐわしいエレガントスメルを! スーハースーハー! しゅきっ! おじょうしゃましゅきぃぃぃぃぃ!!」

 

 何なのだこれは。どうすればいいのだ。

 

「お客様!? どうかされましたか!? 失礼します!」

 

 私が途方にくれていると、騒ぎが外まで聞こえたのか別の店員が試着スペースのカーテンを開けた。そして中の光景を見て絶句する。一瞬のフリーズの後、すぐに私にしがみついている店員を引き剥がしにかかった。

 

「やめなさい! 何をしているんですか、あなたは!?」

 

「ぬああああ!! おじょうさまああああ!!」

 

 羽交い締めにされて店の奥に連行されていく。呆然とした状態で試着スペースから出た私は、スマートフォンをこちらに向けてくる客たちに迎えられた。やめろ、撮るな。

 

「このたびは当店の店員が大変ご迷惑をおかけいたしました! 申し訳ありません! そちらのお洋服につきましては全品、無料でご提供させていただきます!」

 

 ぺこぺこと平謝りする店員に、ミハエルから受け取ったカードを渡した。その瞬間、店員の顔色が見てわかるくらい青ざめる。

 

「これは……! ハイ、アノ、ドウゾコチラヘ……」

 

 気の毒になるくらいの平身低頭で案内された私は『STAFF ONLY』とドアに書かれた一室へと通された。部屋の中には誰もいない。店員はこちらでお待ちくださいとだけ告げて出て行ってしまった。

 

 しばらくすると、何かの機械の稼働音と共にふわりと足元が浮き上がるような感覚があった。エレベーターに乗っているような感じだ。この部屋全体が急速に下降している。どうやら地下に向かっているらしい。まさか試験会場は地下にあるというのか。だとすれば。

 

 やはり、私はこの変な格好のまま試験を受けなければならないのか……。

 

 

 * * *

 

 

 ディックサクラの地下深く、ハンター協会が保有する広大な試験施設の一つがあった。ここが288期ハンター試験の会場である。地下100階にも及ぶこの奈落の底へと、エレベーターが贄を運ぶ。その入り口付近に受験生の一人が居座っていた。

 

 太い眉毛、角ばった鼻が特徴的な肥満体の中年男。名を、トンパと言う。

 

 去年、一次試験まで到達した受験生の数は延べ405名であった。恐ろしい競争倍率を突破した受験生たちは、そのいずれも何らかの分野で突出した実力を持つ達人ばかり。ハンター試験の会場とは、並みの人間では決して到達することのできない場所である。

 

 それが今年はどうだ、トンパが確認した限りでも既に1200人余りの一次試験到達者がこの場に集まっている。例年に比べれば明らかに多い。それだけ優秀な新人が多い年とも言えた。彼にとっては実に喜ばしいことである。

 

 通称『新人潰し』のトンパ。年に1度しか行われないハンター試験を、36回にも渡り受験し続けてきた男であった。そのうち本試験への出場数は31回に上る。名実ともにハンター試験の常連と言えたが、それだけ不合格の回数を重ねてきたということでもある。

 

 実力不足も一つの理由だが、もし彼が本気でハンターを目指していたならば、努力の末に合格を勝ち取るチャンスはあった。つまり、そうならなかった理由がある。

 

 その一つはハンター試験が大きな命の危険を伴うからである。この試験によって生じるあらゆるリスクは受験生の自己責任として片づけられる。命を落としたとしても自己責任だ。そしてその危険は一次試験、二次試験と段階が進むごとに大きくなっていく。合格を掴み取るためには相応の覚悟をしなければならない。トンパにそこまでの志はなかった。

 

 そしてもう一つ、彼はその危険極まりないハンター試験において合格よりも優先する楽しみがあった。身の安全を堅守するすべを磨き、強者に媚びへつらって勝ちを譲り、それでもなお彼がこの試験にこだわる理由とは、一重に“新人を潰す”ことにあった。

 

 

 チン――

 

 

 また一つ、来訪者を知らせる音が鳴る。トンパは舌舐めずりしながらエレベーターの方へと目を向けた。過去30余年に渡る本試験到達者の情報は全て頭に叩き込んでいる。その受験生が新人か否か、見分けることは造作もない。

 

 しかし、次の獲物はどんな人間かと期待を膨らませながら待っていたトンパは、エレベーターから降り立った少女の姿を見て言葉を失った。

 

 この場に集うは血生臭い狩人を目指す歴戦の勇士たち。その中に突如として現れた一人の少女はあまりに異質だった。まるで銀の月光に照らされた一輪の花を思わせるたたずまい。彼はそこに青い薔薇を幻視した。

 

 自然界には存在しないとされる青い薔薇。それは『不可能』の代名詞とされてきた。今では品種改良や遺伝子操作によって人工的に作り出せるようになったが、それは薄い紫でしかない。人々が渇望し続けてきた『真の青』とは、決して自然のうちに現れ得ないからこそ孤高の幻想として心を打つのだ。

 

 その不可能が存在しているという矛盾にめまいを覚える。少女は協会員のビーンズから受験者番号が記されたナンバープレートを受け取っていた。すなわち、彼女もまた受験生の一人ということになる。

 

 子供の受験生がいないわけではない。現に、去年の試験では11歳の少年が新人にして合格を果たしプロハンターとなった。だが、それも才気があったからこその成果である。特にハンター試験で求められる才気とは、身体能力や武術の類である。

 

 虫も殺したことがなさそうな少女が来ていい場所ではない。他の受験生もおおむね同じ見解だろう。にわかにざわつき始める会場の中、真っ先に動いたのはトンパだった。ふらふらと重心の定まらない足取りで少女のもとへと近づいていく。

 

 それは自らの意思による行動というよりも花に誘引される虫のような心境であった。そしてその虫とは美しい蝶では決してない。彼は自分がどれだけ薄汚い人間かを自覚している。その汚らわしさを隠すように、彼は人当たりの良い笑顔を貼りつける。

 

「やあ! オレはトンパ。君、もしかして新人かい?」

 

 きょろきょろと不安そうに周囲を見回していた少女は、トンパの呼びかけにうなずいた。それ以上の会話は続かない。恥ずかしがり屋なのか、話すことが苦手な様子だった。時折、スカートを掴みながらもじもじと足を擦り合わせる仕草が一層に庇護欲を掻き立てる。

 

 とりあえずトンパは互いに自己紹介する流れに持ち込んで何とか少女の名前だけでも聞き出そうとした。

 

「シ……チョコロボフ」

 

 少女の名前はチョコロボフ。見た目に似つかわしくない響きである。おそらく偽名であると思われた。ハンター試験は別に本名で登録しなくてもいい。ただ、その場合は偽名が正式なハンター名として記録され、その後の変更は一切できない。偽名を使うにしても、本当にその名で良かったのだろうかと疑問がわくが、この場では言わないでおいた。

 

「よろしく! オレはこう見えてもハンター試験のベテランでね。わからないことがあったら何でも聞いてくれよ」

 

 そう言ってトンパは片手を差し出した。握手を求めてはみたものの、初対面の中年男性に対してこのような見目麗しい少女が軽々しく応じてくると期待はしていなかった。が、その予想に反して素直にトンパの手を握ってくる。

 

 ペンよりも重いものは持ったことがないと言わんばかりの柔らかく小さな手だった。まるで幻と握手を交わすかのように現実味のないその感覚をトンパは冷静に噛みしめていた。変わらぬ笑顔を張りつけたまま、心中では少女の人となりについて分析を進めていく。

 

 本試験までの道のりを突破したことについては、ナビゲーターの伝手さえ確保できれば不可能とまでは言えない。一筋縄ではいかないことは確かだが、抜け道はいくつかある。

 

 性格については警戒心が多少あるものの、やや世間ずれしていない感覚が見受けられる。おそらく彼女が知る社会とはクリーンな表の世界だけであり、腐りきった人間が入り混じる裏を知る前の無垢な状態。まさに格好の獲物と言える。

 

 あまり感情を顔に出さないが、幼少期の心的要因によるものか。少なくともまともな人生を送っていればこんな場所に来ていないはずだ。家族との不和、社会からの孤立が幼い少女の心に深い傷を負わせたか。

 

 新品同然の服装だが唯一、腕に抱いている大きなペンギンのぬいぐるみだけは汚れがあった。ペンギンはどこか歪な表情をしており、今一つかわいくない。だが、それが逆に少女の強い思い入れを感じさせる。

 

 見た目やかわいさの問題ではない。何があっても手放したくないという強い気持ちがなければここまで持って来ることはなかったはずだ。誰かからプレゼントされた思い出の品、そのぬいぐるみだけが心を許して接することのできるお友達。誰にも見せたことのない彼女の笑顔を、このペンギンだけが知っている。そうに違いない。

 

 『新人潰し』のトンパは悩む。これほどの逸材をどう料理すべきか。どのように弱点をつけば、彼女は最も美しい絶望を見せてくれるのか。

 

 初受験で一発合格を果たす新人は、三年に一人程度しか現れないと言われている。不合格になっても来年また受ければいいと楽観的に考えられる者はそう多くない。軽い気持ちで試験を受けに来て“運悪く”本試験まで進んでしまった新人の中には、再起不能の精神状態へ追いこまれてしまう者も少なくなかった。

 

 トンパはそういった脱落していく人間を数多く見てきた。そして気づく。前途有望な若者が夢を絶たれ、死にゆく様を間近で見物できるこの試験は、なにものにも代えがたい最高のショーであると。彼はそのために自ら手を下し、新人を罠に陥れるようになっていく。目の前の少女も例外ではない。

 

 一歩でもこの会場に足を踏み入れてしまった人間は試験を辞退しない限り、何が起きようとも己の力のみで対処しなければならない。受験生同士の潰し合いは当たり前に発生し、そこに試験官が口を挟むこともない。全てを含めてハンター試験。ちゃんと試験要項に書いてある。トンパの悪行を止めようとする者はいなかった。

 

「ま、そう肩肘張らず楽にしな。とりあえず、お近づきのしるしに……」

 

 それは深く考えた上での行動ではなかった。彼は事前に仕込んでいたジュース缶を取り出そうとする。新人への洗礼として彼が常用する“潰し”の一つだった。

 

 何も知らない新人受験生に笑顔で近づき、超強力下剤入りジュースを差し入れ。一口飲めばもうパンツを履いて試験を受けることすらできない土石流が三日三晩続くシロモノである。

 

 だが、トンパは思いとどまった。さすがにそれはない。この少女に対して、そんな悪魔の所業が許されるわけ……。

 

 ――誰に許しを乞おうと言うのだ――

 

 『美少女』と『土石流』、あってはならない組み合わせである。しかし、彼はその神をも恐れぬ冒涜的光景を想像してしまった。

 

 突如として襲いかかる強烈な腹痛、少女は生まれて初めて経験する苦痛に動揺しながらも、その原因が目の前の男によってもたらされたことを察することだろう。

 

 下劣な罠に嵌められたことに対する怒りと羞恥心に表情を歪めながら、少女はトンパを睨みつけるはずだ。しかし、体は言うことを聞かない。どれほどの忍耐があろうとも、体内で起こる生理的反応を抑え込むことはできない。薬の効き目が現れたが最後、もはやその場から一歩たりとも動く余裕さえ奪われる。

 

 それは少女にとって死よりも重い恥辱かもしれない。絶対に屈することはできないという理性と、抗うことのできない肉体の本能、その狭間で悶える少女の前でトンパはある薬を提示するつもりだ。

 

 それは解毒剤である。彼は自分が逆に毒を盛られた場合に備えていた。この薬があれば少女は苦痛から解放される。助かるかもしれない希望が敵の手中にあるという事実は、少女にさらなる葛藤を与えることだろう。

 

「お、お近づきのしるしだ、飲みなよ! はぁ……はぁ……! お互いの健闘を祈ってカンパイだ……! ヒハッ!」

 

 無意識のうちに震える手でジュースが渡された。少女はじっとジュースの缶を眺めた後、疑いもなくプルタブを引き開ける。トンパは自分用に準備しておいた下剤の入っていないジュースを飲みながら、少女の様子を観察していた。

 

 解毒剤をちらつかせれば、少女に何でも言うことを聞かせることができる。例えば、大切なぬいぐるみのお友達を取り上げることも可能。それを少女の眼前で床に落とし、泥にまみれた靴で踏みにじることも可能。

 

 そしてトンパは最終的に、少女へ解毒剤を渡すつもりはなかった。彼が本当に見たいものはその先にある。最後の希望を絶たれ、肉体が限界に達した少女の行く末。すなわち、決壊。

 

 そのとき、彼女はいったいどんな表情を見せてくれるのか。どんな声で泣き叫んでくれるのか。

 

 ――つぶせ!――

 

 トンパは自身の内なる声に逆らえなかった。少女の方から漂ってくる華のような芳香が欲望を加速させる。

 

 彼の視線は一点に注がれていた。少女のくちびるが缶の飲み口に触れる。みずみずしい桜色のくちびるに、トンパの悪意が凝縮された汚染液が侵入しようとしている。異常な興奮状態に陥ったトンパは、その光景を一心に凝視している。逆に言えば、それ以外の全ては何も見えていなかった。

 

 

「あ、トンパのおっちゃんだ。やっぱ今年も来てたか」

 

 

 弾かれたようにトンパが視線を向けた先には、ヨッスと手を挙げながらこちらに近づいてくる銀髪の少年がいた。

 

 


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