カーマインアームズ   作:放出系能力者

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60話

 

 ハンター協会会長、アイザック=ネテロ。外見は飄然とした老人だが、世界最大の念能力者組織を束ねる長であり、その実力を疑う者はいない。20年前から年齢は永遠の100歳くらいを公言しており、実年齢は不詳。その容姿にも変化が見られない。

 

「まったく、年寄りをこき使いよって。こんなときだけ調子よく協会を頼ってくる上の連中も困ったもんじゃの」

 

 ネテロはV5連合から密命の依頼を受けていた。先日起きたスカイアイランド号事件を機に非公式の首脳会談の場にて、許可庁は六つ目となる災厄の人類生存圏侵入を発表した。

 

 その発端はサヘルタ合衆国による条約違反渡航にある。本来ならそのような各国の暴走を止めるために機能するはずの許可庁が手を貸していたという異常事態。隠しきれなくなったその失態を、許可庁自らが認めたことになる。

 

 だが、実際にはもっと早期の段階で許可庁はこの件について各国への根回しに取りかかっていた。サヘルタの暴挙はタポナルド執務次官による独断によって推進されたものとして、組織内で統合された計画ではなかったと主張。責任の多くを某氏になすりつけ、決定的な解体を逃れていた。

 

 サヘルタは許可庁に出し抜かれた形となる。しばらくはV5の足並みが乱れ、安定しない情勢が続くだろう。ネテロにとっては政府上層部のいざこざなど、さほど興味のない話である。問題は、その預かり知らぬところで持ち込まれた爆弾の処理を、ハンター協会が請け負わなければならないという点である。

 

 サヘルタを除くV5各国は、新たな災厄の元凶を排除する方針を固めた。

 

 ネテロは長くのばした髭を撫でながら廊下を歩く。一本歯の高下駄を履いていながら、足音は全く立たない。廊下の先にある扉を押し開けた。

 

「邪魔するぞい」

 

 ネテロが踏み込んだその場所は広い講堂だった。その奥に三人の人影が見える。

 

「あれ、会長じゃないですか。どうされたんですか? 確か今日は外せない用事があるとか言ってませんでした?」

 

 パリストンが満面の笑みでネテロを迎えながら疑問を呈する。そもそもネテロからすれば、なぜお前がここにいると疑問を投げかけたい気分だった。何かの“手違い”で、代表責任者の選任業務に不手際があったようだ。

 

 ネテロはここ数日、V5からの指令と情報共有、今後の作戦立案のための会議などに追われていた。今年のハンター試験とその実行委員会に顔を出す暇がなかったことは事実である。

 

 だが、その裏でネテロは信頼のおける部下に命じて独自の調査を並行して進めていた。そして協会内部における不審な動きを突きとめる。災厄の脅威を決定づけたスカイアイランド号事件の数日前、事件を未然に防ごうと暗躍していた許可庁からハンター協会に秘密裏の接触があったのだ。

 

 人気アイチューバーとして活動し、当時あの船に乗ることが予定されていたプロハンター、ブレード・マックスに白羽の矢が立っていた。表向きは許可庁から内密に依頼された個人契約となっていたが、それが本当であればネテロにもこのことを知る由はなかった。しかし、実際にはその間に『協専』が一枚噛んでいたものと思われる。

 

 協専とはハンター協会が政府や企業から請け負った依頼をプロハンターに斡旋する業務形態とその運営機関を指す。

 

 プロハンターは世界中を飛び回り、まともに連絡の取れない者が多い上、我の強い性格をした人間が大半を占めるため、そういったハンターとの折衝を図り、適切な人材派遣をしてくれる協専は外部の依頼者からすれば高い信頼を得ていた。ハンター個人としても依頼の成否に関係なくリスクや難易度に応じた報酬が協専を通して支払われるため、これを本業とする者も多い。

 

 しかし、その実態はパリストン派の人間によって掌握されている。今やネテロですらその聖域にメスを入れることができないほど急速に成長してしまった。ブレードと協専のつながりに関しても、確たる証拠が見つかったわけではない。調査によって得られた情報を元にした推論でしかなかった。

 

 おそらくネテロが把握していない範囲においても、パリストンによるかなりの情報操作があったものと思われる。その偽の情報に翻弄されてしまったが、この場にネテロが駆け付けたことにより、ギリギリのところで最悪の事態は回避できたと言っていいだろう。あと少しでも部下からの報告が遅れていれば今頃飛行船で海の上を飛んでいた。

 

「なに、ちょっと忘れ物を取りに来ただけじゃ」

 

「それにしては随分と物騒な気を纏っていらっしゃる」

 

 ネテロは殺気など微塵も発してはいない。パリストンもそれを読み取れたわけではなかった。つまり、言外に示された牽制。明確な敵対の意思。

 

 それは今に始まったことではない。パリストンの狙いはネテロ会長の失脚にある。そのために弄した策は数知れず、そしてネテロはそれらを正面から叩きつぶしてきた。

 

 ネテロは別にパリストンを嫌っているわけではない。副会長の地位を与えたのも他ならぬネテロである。性格に多大な問題がある一方で、その手腕を認めていた。近年のハンター協会の業績においても大きな結果を残している。

 

 このどうしようもない問題児を受け入れたのは、他の誰かに目移りさせないためでもある。ネテロが彼の遊び相手として機能している間は被害を周囲に撒き散らすこともないだろうという思惑があった。

 

「しかし、今回ばかりは度が過ぎる。それはお前が玩具にするには手に余る代物じゃろう」

 

 この部屋に入った直後からネテロはターゲットである少女をつぶさに観察していた。目を惹く外見をしているが、強者の気配は感じない。だが、その身のうちに凶悪な怪物を宿していることをネテロは知っていた。

 

 スカイアイランド号事件の捜査資料から少女の持つ能力について解析が行われている。いまだ多くの謎を残す災厄の実態は、その元凶たる少女自身も全てを把握しきれていないようだ。

 

 ゆえに何が起きるかわからない危うさもある。ある意味で明確な悪意に基づく存在であるより厄介だった。本人の自覚なしに災厄を拡散させることも考えられる。

 

 それに加えて、彼女が飛行船から脱出する直前に見せた戦闘形態だけはネテロをしても脅威を感じずにはいられなかった。仲間の死に触発されて起きたあの暴走状態となれば、ネテロでも苦戦する恐れがある。

 

 武人としては興味がそそられるところだが、ここで私情を優先するほどネテロも耄碌はしていない。災厄という未知の脅威、そしてパリストンの介入もあり、悠長に遊んでいられるような状況ではないとわかっている。

 

 たとえ、この少女が普通の子供と同じように純粋な心を持っていたとしても、誰かの悪意に巻き込まれて引き起こされた悲劇の被害者だったのだとしても、ネテロが請け負った指令に変更は生じない。その程度のことで揺らぐような決心しかないのであれば、彼はハンター協会の会長をやっていない。

 

 その程度。人の道を踏み外し、大義のもとに犠牲を是とし、覚悟も伴わぬ小さな命に手をかける。あまりにも重い“その程度”を、彼はいくつ心に刻んできたことだろう。

 

 それは数千年を生きる大樹のような精神力だった。長く生きた巨木は一見して生命力に溢れて見えるが、その幹の外層は生命活動をしておらず、既に死んだ細胞で占められている。

 

 幾月幾年と風雨に晒され、傷つき、腐り、剥がれ落ち。命かよわぬ鎧のうちに、生き続ける芯がある。悪を悪とも思わず、善を善とも思わぬ者には決して至ることのできないこの境地をもって不動。

 

 ネテロは威圧したわけではなかったが、その姿を見た少女はにわかに席を立った。鏡のごとく静かな湖面を思わせるネテロのオーラは、心のうちに隠した無意識を映し出すように漠然とした不安を抱かせた。

 

「十ヶ条により『ハンターたる者、同胞のハンターを標的にしてはならない』と定められています。彼らは試験に合格し、既にライセンスの交付を受けたハンターです。何の説明もなくこの規約を破ることは、僕としても看過できません」

 

「これどういう状況なんだよ。まだ試験が終わってないとか? まさかネテロのじいさんと戦えとか言うんじゃ……」

 

 パリストンはあくまで白を切り通すつもりらしい。どうせ知っているはずの事実を説明するのは面倒だし、それを聞いた上で時間稼ぎの演説を仕掛けてくるであろうパリストンの相手をするのも面倒だし、それはターゲットの前で今からお前を殺すと宣言するのも同然だから面倒だし、さらに部外者のキルアに聞かせられる情報ではないので面倒だ。つまり、どう転んでも面倒である。

 

 だが、結局はそれも嫌がらせ程度の結果にしかならない。パリストンがここでネテロを直接妨害してくることはないとネテロは思っている。ここにネテロが来た時点でパリストンの企みは失敗に終わっているのだ。後は悪あがきしかできない。

 

 しかし、正確には半分失敗と言うべきかもしれない。パリストンは現在の結果となることも想定している。その上で、考えられるシナリオをいくつか用意していた。

 

 この講堂はハンター試験会場からさらに地下へ降りた最下層に位置している。有事の際の地下シェルターとしても機能する場所であり、この中で何か起きたとしても完全閉鎖すれば地上に被害が及ぶことはない。ご丁寧に人払いまで済んでいた。

 

 ネテロが来なければそれで良し、来た場合は少女との決戦に誘導することが最初から計画されていた。パリストンは少女の味方というわけはない。

 

 見た目こそ善人らしい好青年に感じるが、実際に彼と関わった人々はたいてい両極端の反応を見せる。支持するか、嫌悪するか。いずれにしても、その本質に少しでも触れた者は常軌を逸した悪性を感じ取ることだろう。

 

 パリストンは面白ければ何でもいいと思っている。ネテロを失脚させようとしているのも、会長の座を狙ってのことではない。災厄の少女を手中に収めようとした理由も、武力や権力や財力を満たすためではない。

 

 ただ、彼にとって“面白い”と感じることが常人とはかけ離れた破滅的思考のもとに導き出されている。ゆえに、ここで少女と会長が戦う展開も、彼からすればまた一興であった。

 

 ネテロはその点においてパリストンを信頼していた。自らの異常な欲望を満たすため物事の遥か先を見通す感覚は、協会の最高幹部による執行機関『十二支ん』においても一二を争うほど鋭敏である。

 

 そしてパリストンもネテロを信頼していた。会長ならば、きっと自分の企みを打ち壊してくれると胸が躍るほどに期待していた。

 

 本来ならば噛み合うはずもない致命的なまでの齟齬から生まれた二つの信頼が、図らずも互いの利益を一致させる。この会長と副会長の関係はある意味で良好と言えるのかもしれない。ネテロはどこか釈然としない感情を抱きながらも、パリストンのお膳立てに乗ることにした。

 

 さて、やるか。

 

 ネテロはゆるりと手を動かす。その両手が彼の胸の前で合掌の構えを取ったとき、全ては終わる。

 

 少女と言葉を交わすつもりはなかった。それはネテロにとっても、少女にとっても意味のある行動とはならないだろう。たどり着く結果が変わることはない。

 

 ネテロの心に殺意はなかった。それは一人の人間が持ち得る故意を超えた、自然の意思にも等しき無為の境地。その澄み切ったオーラから次の一手を予測することは不可能である。

 

 どれほど優れた使い手であろうとも、次の瞬間には自身の死をもって結末を知ることとなるだろう。しかし、ただ一つ誤算があった。

 

 ネテロは少女に対して、わずかな憐れみを持たずにはいられなかった。殺意はなくとも、その感情がオーラに小さな波を立てる。少女の研ぎ澄まされた感覚は、ネテロの瞳の奥に憐憫の情を垣間見た。

 

 少女はネテロの強さを理解できたわけではなく、これから何が起きるのか予測できたわけでもない。ただ死の間際に実感する、恐怖、拒絶、渇望に支配されている。

 

 ネテロは自らを戒めた。少女にとって無慈悲の速攻こそが最大の慈悲であったはずだ。胸中に残るわずかな憐れみも取り去り、無心となったネテロはその手を打ち合わせる。

 

 

 『百式――

 

 

 

 プルルルルルルル

 

 

 だが、静まり返った講堂に響く電話の着信音によって攻撃は中断された。無視して攻撃することもできたが、ネテロはしばし考える。

 

 この場所は地下深くに位置しており、電波が届く環境ではない。中継機もなく、通信は有線の特殊暗号回線でしかできないようになっている。

 

 着信音は、少女が座っていた机の上から聞こえている。そこには彼女のものと思われるスマートフォンが置いてあった。

 

 何らかの念能力を用いた可能性もある。少女が何かしたようには見えなかったので、外部から念能力者がコンタクトを取ってきたのかもしれない。だとすれば、少女の協力者が他にもいるのか。

 

 パリストンの様子を確認してみたが、いつも彼が貼り付けている笑顔が消えていた。どうやら彼にとってもこれは不測の事態であるらしい。そばにいるキルアが余計な行動を起こさないように気を配っているのがわかる。

 

 ネテロは構えを解いた。ここはひとつ、様子を見ることにする。その電話の内容によっては新たな情報が得られるかもしれない。少女はネテロに許しを乞うような視線を送りながら、のろのろとスマートフォンを手に取った。

 

「もし、もし」

 

 かすれた声で通話に応じるその微音を、ネテロは聴覚を強化して盗み聞く。普段から地獄耳と揶揄される彼にしてみれば、この距離から電話口の向こうにいる人間の声を聞き取ることなど造作もない。

 

 スマートフォンからはチューニングの合わないラジオのような雑音が流れていた。しばらくするとそのノイズの中に人の声らしき音が混ざり始める。

 

『――――お――きこ――――わ――――――』

 

「もしもし」

 

『――だい――――どうで――王――! ――聞こえま――か?』

 

「きこえた」

 

『なんとか急――通信プログ――間に――たよう――が、長くは持ちません。こちらもそちらの事情を把握できているわけではないのですが、命の危険が迫っているのですね?』

 

「ころされそう」

 

 やはり仲間なのだろうか。念能力を使って少女の危機を察知したということか。

 

『まず、モナドを呼び出すことだけは絶対にやめてください』

 

「でも」

 

『わかっています。それだけの強敵というわけですか……私の方でもこういったケースに備えていました。モナドのように強大な力ではありませんが、より安全な方法でアルメイザマシンを使えるように。まだ試作段階で実用に耐えるかわかりませんが……』

 

 モナド、アルメイザマシン。ネテロはそれらの単語を頭に入れながら会話の内容に耳を傾ける。

 

『対念能力者用サーマルガン『侵食蔕弾(シストショック)』。アルメイザマシンに兵器としての形を与えることで安定的な運用ができるようにしました。あなたの承認によってすぐにダウンロードできます。この銃弾を当てればどんな敵でも絶対に倒せます!』

 

 少女がスマートフォンを操作すると、その手の中に赤い結晶の塊が出現する。それは辛うじて銃と呼べる形を取っていた。その禍々しい災厄の産物を目にしたネテロは思う。

 

 

 撃たせるわきゃねーだろ。

 

 

 『百式観音』

 

 彼は合掌する。その始まりから終わりに至るまでの過程を認識できた者は、ネテロを除いてこの場にいなかった。

 

 ネテロの背後にオーラで形作られた巨大な千手観音像が出現し、敵を攻撃する。分類的には念獣に近い形態だが、一般的なそれとはもはや隔絶した能力と言えた。

 

 この能力の発動起点はネテロが両手を合わせ、合掌の構えを取って感謝の祈りを捧げることにある。そこから型を選択し、観音像が指定された攻撃を終えるまでの速度は音を置き去りにする。一連の動作は音速を超えていた。

 

 到底、人間に反応できる領域ではない。しかし、そのような攻撃を人間が繰り出している。武の一つの到達点と言うべき奥義が不可避の速攻を実現した。

 

 もし、奇跡的に防御が間に合ったとしても無駄なことである。ネテロは強化系能力者であり、百式観音による攻撃は強力無比。並みの能力者ではその一撃に堪えることもままならない。

 

 観音像の手刀を受けた少女は一瞬にして原形をとどめぬほどの肉塊へと変貌した。むせかえるほどの血の臭いが衝撃波と共に広がる。

 

「チョコ、ロ……」

 

 キルアは挽肉となった少女の方へと手を伸ばした。何が起きたのか理解はできていない。ネテロの攻撃の直前、パリストンに体を引かれて退避している。気がつけば、ただ少女の死という結果が残るのみであった。

 

(さて、これで片付けばいいが……)

 

 一方でこの凄惨な現場を作り出したネテロはと言うと、気を抜くことなく少女の遺体に目を向けていた。念能力者との戦いは時に死が終わりとならない。死後強まる念というものも存在する。

 

 まして相手は暗黒大陸からやって来た災厄の関係者だ。いつでも次の攻撃を放てるように身構える。

 

 ネテロは肉塊となった少女の傍らにあるぬいぐるみを見た。攻撃を受けて破れた布袋から“中身”が見えている。スカイアイランド号事件においても確認された存在だった。その詳細は不明だが、百式観音の一撃をもってしても破壊できなかったという事実だけで大きな警戒に値する。

 

 追撃を打ち込もうとしたそのとき、少女が持っていたスマートフォンから――ぐしゃぐしゃに折れ曲がり破壊されたはずの機体から、雑音混じりの小さな声がネテロの耳に届いた。

 

 

 

『敵オーラ体による接触を確認。これより感染機能を限定解除します』

 

 

 

 異変はネテロの背後で起きた。彼の念能力、百式観音が赤い結晶に取り込まれていく。不動の精神力を持つ彼であっても、我が目を疑うような光景だった。

 

 これが災厄か。脅威をその身に受けた彼は敵の正体を見誤っていたことを悟った。これは、念能力者にとって天敵であったのだと知る。

 

 そして、ネテロ自身も結晶の中に閉じ込められた観音像と同じ運命をたどる。オーラが金属へと置き変わっていく。その変調を止めるすべはなく、全身を滅ぼすような激痛と共に意識を失った。

 

 

 * * *

 

 

 意識を取り戻したネテロを待っていたものは、地獄だった。

 

 彼がこれまでに歩んできた長い人生を遡る。決して平坦な道のりではなかった。思い出したくもない記憶など数え切れないほどあった。それでも生きた時間の中で、辛い過去は緩やかに沈み込むものだ。決して取り除くことはできないが、深い水底に沈みこんだ泥の上に澄み切った水は流れ続ける。

 

 それを強引に掘り起こされ、掻き回されるかのようだった。苦難の記憶は鮮明に蘇り、まるで過去のその時を繰り返しているかのように体験する。この災厄は、その者が最も忌み嫌う追憶を呼び覚ます力がある。

 

 ネテロはその忌まわしき記憶の数々を、鼻をほじりながら見物していた。

 

 植物の域にまで達していると評される彼の精神は過去に体験したトラウマをものともしなかった。それらを乗り越えた上に今の自分があることを確信している。何よりも、報われない結果に終わった過去はあれど、その後悔を引きずったことは一度としてなかった。

 

 だからこの精神攻撃も不快に感じる程度のダメージしかない。体を蝕む激痛にも慣れつつあった。『最強』と呼ばれた念能力者の精神力は、この絶体絶命の窮地にあって微塵も揺らぐことがなかった。

 

 しかし、さすがに余裕綽々というほど楽観もできない。ネテロには現状を打破する手段がない。自身がこの災厄に生かされているだけの存在となったこともわかっていた。

 

 過去に存在が確認された五つの災厄も、人類はその脅威を克服できたとは到底言えない。運良く被害が広がる前に隔離できただけである。あるいは、顕在化していないだけで既に侵略の手は地の奥深くまで根付いているのかもしれない。

 

 あの少女は何者だったのだろうかとネテロは考えを巡らせる。許可庁は全ての情報をネテロに開示していなかった。討伐するだけなら不要の情報を外部に漏らすべきではないとして、予想される少女の戦闘力など一部の断片的な情報しか共有できていない。

 

 そもそも今回起きた戦闘からしてV5が予期していたものとは異なる。シックスと名乗る少女についても十分な解析が為されたとは言えず、本来はもっと綿密な打ち合わせの上に討伐作戦が実行されるはずだった。全てが後手に回ったと言える。

 

 ネテロもあの場にパリストンがいなければすぐさま戦闘に持ち込むことはなかったかもしれない。パリストンを通して政府側の作戦は筒抜けとなり、懐柔された少女がどのような猛威を振るうかわかったものではなかった。

 

 と、他人に原因の始末を押し付けている時点でこちらの負けかとネテロは自嘲する。あの生意気な若造に一杯食わされたことは不服に思うが、ネテロは死の直前にパリストンの表情を見て、その心境を察することができた。

 

 ハンター協会の行く末は気になるところだが、後のことは若い者たちに任せるとする。まあ、何とかなるだろと心配を放り投げた。簡単に潰れるほど弱い組織を作ったつもりはない。

 

 やがて、ネテロの前に現れていた幻覚は消えてなくなる。トラウマを想起させる方法ではネテロに絶望を与えられないと気づいたのか、今度は別の手段に訴えてきた。

 

 ネテロの体から感覚が一つずつ消えていく。何も聞こえず、何も見えなくなる。五感の全てを奪われた。自身の肉体が存在しているのかどうかもわからない。目の前に広がる光景は闇ではなかった。光や闇といった現象すら知覚できない状態に陥る。

 

 何もない。今はまだ主観的な時間の概念を感じるが、そのうちそれもなくなるものと思われた。この無限に等しい無の中で、たった一つの自我など砂漠の砂の一粒にも値しない。どれほど強い精神力があろうと、やがては自己を見失い、無に取り込まれて消え去ることだろう。

 

 そのときネテロはただ一つ、今の自分にできることが残されていたと気づく。それは祈ることだった。

 

 祈りとは、心の所作。

 

 たとえ肉体がなくなろうとも、この心が一つあれば事足りる。心がある限り、祈ることができる。そして祈りが続く限り、この無の中においても個を失わず、心があることを意味している。

 

 ネテロはかつての修行の日々を思い出していた。気を整え、拝み、祈り、構えて、突く。一日一万回、感謝の正拳突き。客塵煩悩の一切を断ち、ただそれのみに十年の歳月をかけ没頭したあの日々を。

 

 肉体の頸木から解かれ、己の心のみしか感じ取れないこの場所は、祈りを捧げる上で限りなく適した環境と言えるのではないか。

 

 こうしている間にも、ネテロの自我は無に溶け込んでいく。自分が何者であったのか、これまでに築き上げてきたネテロという人間が消えていく。だが、それがむしろ祈りを純粋にした。人であるがゆえに生じる雑念を滅却し、単なる思索を超えた無為の所作へと近づいていく。

 

 彼が求めた武の極みとは、敗色濃い難敵にこそ全霊をもって臨むこと。ネテロは消えゆく一方で、長らく忘れていたその感覚を思い出させてくれた敵に感謝していた。万感の思いが祈りという一点に収束し、彼を再び形作る。

 

 消失と再生は、祈りの数だけ繰り返された。常人では一度として堪えられない死と復活の連鎖の中で、ネテロは静かに祈り続けた。

 

 

 * * *

 

 

 キルアは必死に状況を理解しようと頭を働かせていた。結晶に包みこまれてしまったネテロが生きているのか定かではないが、これを無事とは呼べないだろう。

 

 そして、ネテロに瞬殺されたはずの少女は映像を巻き戻すように肉体が再生し、元の姿に戻っていた。気絶したまま起き上がる様子はない。

 

 ネテロの登場から何一つ説明もなく繰り広げられたこの戦闘に対して、当然ながらキルアは困惑していた。パリストンはそんなキルアに事情を手早く話していく。

 

「暗黒大陸……? 災厄……?」

 

 だが、その説明はさらにキルアを混乱させた。この少女は世界の外に広がる世界からやって来た人類の脅威であり、ネテロはその討伐の命を受けていたが敗北した。

 

 あまりにも飛躍した話の内容に、すんなりと受け入れることはできなかった。しかし、パリストンが嘘を言っているようには見えないし、こんな荒唐無稽な嘘をつく理由も見当たらない。

 

「僕はこうなることを恐れて和解の道を模索していました。君もこの試験中に彼女と接して思ったはずです。彼女はごく普通の、ありふれた人間と変わらない感性を持っています。互いに歩み寄ることができた、それなのに……」

 

 パリストンは表情を歪め、悔しげに机を叩きつける。

 

「……過ぎてしまったことをとやかく言っても仕方がありませんね。キルア君、ハンター協会副会長として、いえ会長代理として、今からあなたに指令(ミッション)を与えます」

 

 災厄の少女を守れ。今まで黙って話を聞いていたキルアもさすがに声を上げずにはいられなかった。

 

「なんでオレがそんなことを……!」

 

「彼女にとって今一番必要なものは心のケアです。それが可能な人物として、君が適任であると判断しました」

 

 パリストンはハンター試験の様子を観察していた。戦い合う二人の様子は仲むつまじいとは呼べなかったが、好敵手として互いを認め合う念能力者らしい一面を見ることができた。

 

「命がけで彼女を守れとは言いません。この指令にも強制力はありません。ただ、少しの間だけでもいいんです。彼女の“友達”になってあげてくれませんか」

 

 キルアは友達という言葉に反応する。少し前まで彼にも友達と呼べる者はいなかった。暗殺者として育てられるために、ずっと家に閉じ込められてきた。その生活に嫌気が差して家を出たのが一年前のことになる。

 

 思えば、初めて友達ができたのは今から一年前のハンター試験だった。ゴン、クラピカ、レオリオ、彼らとの出会いがなければ今の自分はなかったと思える。

 

 以前のキルアは友達がいないことをなんとも思ってなかった。しかし今の友人たちと出会ってから過ごしたこの一年は、何にも代えがたい思い出としてキルアの胸に刻まれている。それがどれほど大きな存在なのか理解できた。

 

「……待てって、こっちにだって色々事情があるんだよ。今はグリードアイランドの攻略中で投げ出すわけにもいかないし……」

 

「グリードアイランドですか? ……いいですね、それ」

 

 パリストンは少し考え込むそぶりを見せてから、勝手に何か納得したようにポンと手を打った。

 

「あのゲームの世界なら、僕が匿うよりも安全かもしれません。今のプレイヤーは飽和状態で新たに参加できる念能力者はいても数人でしょう。内部から外に出てくる人間も限られていますし、情報が漏れる可能性は少ないと言えます。仮に発覚したとしても大規模な討伐作戦の決行は無理ですし、逃走も容易です」

 

「は!? いや、でも、肝心のゲームをどうやってプレイするんだよ。バッテラのプレイヤー選考会はもう終わってるぞ」

 

「それなら僕が持ってますよ。あのジンさんが作ったゲームですからね。とか言いながら、ほとんど遊ばずに積みゲーにしてましたが」

 

 パリストンはキルアと一緒に少女をグリードアイランドへと逃がす作戦を立てた。

 

「君たちがゲームの中にいる間に、こちらでチョコロボフさんを受け入れる体制を整えておきます。さすがに事が事だけにしばらく時間がかかってしまうと思いますが……何とかしてみせましょう。その間、君は彼女のそばにいてくれるだけでいいのです。お願いできますか?」

 

 煮え切らない態度を見せるキルアに、外堀から埋めていくように話をまとめていくパリストン。キルアはがしがしと頭を掻き、やけくそ気味に承諾した。

 

「あーもー! わかったよ! 引き受けてやるよ! でも、ちょっとでも危なくなりそうだったらすぐに逃げるからな!」

 

「はい、それで構いません。よろしくお願いしますね」

 

 キルアは少女の搬送に取りかかる。肉体は怪我ひとつなく元に戻っているが、着ていた服はボロボロに破れたままである。キルアはなるべく見ないように少女を背負った。

 

 少女はぬいぐるみを握りしめたままだった。よほど大事なものなのか、意識がないというのに手放す様子がない。中に何が入っているのか少し不気味だが、そのまま運ぶことにした。

 

 気を失った少女の姿は人類を滅ぼしうるだけの力を持った存在にはとても見えないが、その力の一端はキルアも目撃している。安請け合いしてしまったが、果たしてこのまま関わっていいものかという迷いもあった。

 

 だが、その背中に受ける重みはキルアにとって不思議と居心地の良いものだった。前にもこんなことがあった気がする。遊び疲れて眠った妹を背負って家に帰る、そんなありもしない思い出が脳裏をよぎるかのようだった。

 

 この少女をどこか他人事とは思えないほど気になっていることは事実だった。リスク管理に厳しい性格をしたキルアにとって、その自分らしくない行動に釈然としない気持ちを感じたが、結局、そのまま運ぶことにする。

 

「地上に出れば僕が手配しておいた部下が待機しています。彼らの指示に従って動いてください」

 

 パリストンはキルアに地図を渡した。そのルート通りに進めば協会員の目に触れることなく地上に出られる。そんな説明を受けたキルアはパリストンに問う。

 

「あんた、こうなることがわかってたんじゃないの?」

 

 最初から違和感はあった。ネテロは少女を殺そうとし、パリストンは少女を守ろうとしている。ハンター協会の会長と副会長が、なぜ異なる立場からこの少女に接触しようとしていたのか。

 

 逃走経路の確保にしても手際が良すぎる。まるで少女とネテロが戦うことがわかっていたかのように用意周到だと感じた。

 

 キルアはパリストンをまだ信用していなかった。どこか、この男には裏がある。屈託のない笑顔の影に、彼にとっては慣れ親しんだ闇の気配を感じさせる。そんな気がしてならなかった。

 

「想定は、していましたよ。当然でしょう。あらゆる可能性を考慮しておく必要がありました。それがネテロ会長の死であろうとも」

 

 パリストンは赤い結晶で作られた巨大なオブジェへと目を向ける。そこには閉じ込められたネテロの姿があった。

 

「でも、それ以上に期待していたんですよ。会長がここに来た時点で、今回は僕の負けだと思いました。会長なら何とかしてしまう。何の疑いもなくそう思える人でした。だから今でも信じられないんです。あのネテロさんが、こんなにあっさりいなくなってしまうなんて」

 

 パリストンがネテロとどのような仲にあったのか、キルアにはうかがい知れない。だが、ただ反目しあうだけの関係ではなかったのだろう。複雑に入り乱れる感情の中で、パリストンがネテロの死に対し、悲しんでいることだけは嘘ではないとキルアは感じ取った。

 

「……行ってください。もうすぐ会長の足に追いついた増援がここまで乗り込んでくるはずです。さあ、早く」

 

 完全に信じ切ることはできないが、今はゆっくりと見定めている時間もない。キルアは少女を背負い、地下講堂の階段を駆け上った。

 

 


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