あっという間に一か月以上の時間が過ぎた。ビスケから色々なことを教わった。四大行とその応用技を中心に、念能力の基本を叩きこまれた。彼女の指導の根底にある理念とは、いかにして敵に勝つかというより、いかにして敵に負けないかと言った方がいいかもしれない。
どんなに強い能力者であろうと弱点はある。念能力は確かに便利で強力だが、それを生かすも殺すも本人の実力次第。最後に物を言うのは、観察眼と基礎能力からなる戦闘技術である。
全ての敵に勝ち続けることは至難だが、負けずに生き残る方法は必ずある。生きるために何をすべきか、瞬時に考え、実践できる能力こそが本当の戦う力だという。
逃げてもいいが、そこに妥協や諦めがあってはならない。“生きる”とは、命が在るか無いかの違いではなく、己がそこに在るか無いかを問うことだ。
「さて、そろそろ始めるかね? “今日の”最終試験」
私の修行は最後の仕上げの段階に入っていた。これをクリアすればひとまず初心者は卒業ということだろう。
その試験内容とは、ビスケとの組手である。合格するためにはビスケに有効打を一発入れなければならない。それだけでも難しいが、さらに頭を悩ます条件が付け加えられていた。
有効打の判定を下すのはビスケではなく、私自身だと彼女は言った。つまり、どんな攻撃でも私が良しと思えばそれで合格ということになる。ビスケは私の判定に一切口を挟むことはしないと断言した。
自分自身、納得できる一発を与えられたと思えるまでこの試験は続く。半端な判定などできるはずがなかった。少しでも妥協が生じれば、これまでの修行が台無しになる。そんな気がした。
最終試験が始まってから既に5日が経過していた。休憩時間を取るか否かも、全て私の裁量に任されている。ぶっ続けで戦い続けてもよかったのだが、そこまでビスケを付き合わせるのも悪いと思い、夜はしっかりと休息を取って翌朝から万全の体調で試験に臨むというルールにした。
暁の光が差し込む岩場の闘技場で、私たちは対峙する。ビスケの体は幼い少女の姿ではない。筋骨隆々とした見上げるような巨体である。これが本来の彼女の姿であり、擬態を解いた本気の戦闘状態だ。
対して、シックスはその右手に虫本体をしがみつかせて構えを取る。物々しい手甲のように右手に張り付く本体は、防具であり武器だった。本体は機動力に乏しいが、防御力に優れている。
この特徴を生かすために編み出したスタイルだった。これならばシックスのパンチに合わせて本体に攻撃させることもできる。ついでに牙には毒もあるので、攻撃手段の幅も広がる。
「……」
「……はじめ」
私の合図によって試験が再開された。待ち構えるビスケに、シックスが先手を打って肉薄する。渾身の力を込めて本体を這わせる右拳を叩きつけた。発達した大顎から外に突き出した一対の牙は、鉤爪のような武器となる。
通常、念能力者が武器を用いる場合は『周』を使って得物をオーラで強化し、威力や耐久性を向上させるが、私の場合は武器そのものがオーラを発し、攻防力を生み出すことができる。そこにシックス自身の強化されたパンチの威力も加算される。
これまでの修行により本体のオーラ顕在量は以前とは比較にならないほど増大している。この武器を使った一撃は今の私に出せる最高火力である。まともに受ければビスケでも防ぎきれないはずだ。
しかし、それも当たればの話。ビスケはその攻撃を難なく回避した。簡単に当たるようなら苦労はない。すぐに左手を打ち出すが、そちらもかわされる。一方的な敵の攻勢を許すほどビスケは甘くない。顔面目がけて拳打が飛んでくる。
その速さに最初は全く対応できなかった。無様に倒れ伏してから攻撃を受けたことに気づく始末。そのうち何とか目で追えるようになったが、認識に肉体がついていけない。頭ではわかっているのに反応が間に合わない。
どうすればいいのかビスケに聞いたところ、頭で考えるよりも速く体を動かせるようになれと言われた。始めは無茶苦茶だと思ったが、修行を続けるうちにビスケの言う通りだとわかってきた。
そもそも敵の動きを見てから次の行動を決めるという工程そのものが間違っていた。見た瞬間に、考えるより先に体が動けるようになるしかない。無論、戦闘全体の流れをどう動かすかについては考えなければならないが、局所的な対処は無意識に反応できるレベルでなければ実戦では役に立たないと気づく。
そして、その反応速度の短縮は一朝一夕に身につく技術ではない。教えてもらえばすぐにできるようなものではなく、弛まぬ鍛錬と強敵との実戦を繰り返すことで少しずつ体に覚え込ませていく感覚だ。
気の遠くなるような努力とそれに費やした時間の差が実力に直結する。それを前提に考えれば、ビスケと私がまともに闘い合えるような力関係にないことは明白である。
曲がりなりにもこうして試合が形となっているということは、ビスケが私に合わせてくれているからだろう。目に見えて上達していく自分の力に自惚れがなかったとは言えない。
そんな気の緩みを少しでも見せれば、ビスケはさらなる力を見せつけ私を圧倒した。その底知れぬ実力を肌で感じることができたからこそ、ここまで驕らず奮起することができた。
私はビスケの攻撃を防ぐ。風を切る勢いの凄まじい一撃、破城槌のような正拳突きを左腕で受ける。凝により攻防力が集まった前腕部は、ついに骨折することなくビスケの一撃を受け切った。
そこで試合が終わるはずもない。防御から再び攻勢に転じ、右腕の赤い手甲を振りかぶる。この攻撃もビスケは回避するだろう。そうとわかっていても、攻め続けることは無意味ではない。本体と協力して放つ右手の拳打はその威力の高さから、相手に対処の選択を限定させる。こちらの攻撃を回避せざるを得ない状況を作り出し、次の行動の幅を狭めることができる。
現に、大振りの右手を回避したビスケの隙をついて次の攻撃を当てることができた。が、当然のように防がれる。これでは有効打にならない。避け、当て、防ぎ、惑わす。一瞬のうちに互いの攻防はめまぐるしく入れ替わる。
一か月前の私ならば、この試合に全くついていけなかっただろう。今では『流』によって全身のオーラを淀みなく制御し、意識した箇所へと攻防力を自在に移動できるようになった。
ビスケによれば私はオーラの制御力に難点があるように見えたらしい。それについては自覚があった。細かい調整など全くできず、ただ全体的に強化することしかしていなかったからだ。初心者ならよくあることらしく、実戦レベルの流が使えるようになるには数カ月から年単位の修行を要することも覚悟せよと言われた。
それをたった一カ月でここまで仕上げることができた理由は、誓約にある。アルメイザマシンを二度と使わないと誓ったことだ。誓約は念能力の効果を向上させる儀式でもあり、自分に課す枷は重いほどに強く働く。
この選択により、死ぬ危険は以前よりも高まった。強敵と戦っても最後は何とかなるという保証はなくなった。だが、それでも後悔はない。仮にこの先、力及ばず命を落とすようなことがあったとしても、私という存在のまま死ねるのであれば納得できる。
その覚悟が誓約として大きく働いたのか、前よりもシックスとの一体感が格段に上がっている。集中状態となった時など、どちらが本体であったか曖昧になるほど意識がシンクロすることもある。以前、この状態を『扉を開く』と表現したことがあったが、その感覚から言えば十も二十も一気に開かれたような気がしている。
技術が上達したというよりも、最初から知っていたように感じることがある。この肉体に刻みこまれていた『動かし方』を思い出す。その感覚に身を任せれば、自ずと取るべき行動が見えてくる。
こうしてビスケと戦っている最中、いちいち自分の挙動を確認することはなくなった。ただ彼女の動きを注視し、どこに向かえば隙ができるかと予測することに専念する。そのとき肉体の感覚は意識の外にある。これがビスケの言う“考えるより先に動く”という境地なのかもしれない。
だが、それだけの技術を身につけてなお越えられない壁はある。私はまだビスケに一発も有効打を入れることができていない。ビスケの流は私にはない強さがある。それは数多の戦闘を経て磨かれた偽装力だ。
オーラを意識通りに動かす技術は確かに必要不可欠だが、その流れは敵の目にも明らかであり、どこにオーラが集中しているのかを探られれば次の行動を読まれてしまう。それをさせないために高速でオーラを移動させたとしても、ビスケのような達人が相手となればまるで通用しない。
このオーラの流れは生理的な反応に近く、意識的に抑えようとしても体の動きに合わせて自然と生じてしまう。つまり、思いのままにオーラを移動できるレベルの『流』ではまだ半人前。本当の意味で使いこなすためには、時に自分の意思に反した無作為の流れすら操れるようにならなければいけない。
私の流はまだまだオーラの移動が素直すぎるらしい。この感覚は自覚して習得できるものではない。無意識を操るのだから、むしろ自覚することは妨げとなる。ひたすらに実戦を積み、死地を渡る感覚を染み込ませることでオーラの狂いを我がものとする。まともな神経をしていてはたどり着けない境地だという。
その実戦経験の差が如実に現れていた。何とかビスケと殴り合いが成立するところまではこぎ着けたが、そこから先に進めない。こちらの攻撃はビスケに読まれ、回避されるか的確に防がれる一方で、彼女の不確定なオーラの動きを読み取ることは本当に難しい。
「ほら、ちゃんと集中しな」
ビスケの回し蹴りがシックスの横腹に入った。しかし、これはあえて攻撃を誘うために作った隙であり、こちらの読み通りに彼女は仕掛けてきた。筋肉量的に腕力よりも強い力を発揮できる脚技はその半面、使用に際して身体の支えが揺らぐため次の一手に遅れが出やすい。
だが、ビスケはこちらの思惑を見通していた。反撃の構えをオーラの流れから読み取っていたのだろう。蹴りが入る瞬間、脚に集中するオーラの量が跳ね上がる。予想していた威力を大幅に越えた蹴りが、こちらの凝による防御力を上回った。
このように、どんなフェイントや罠を仕掛けようとビスケは先の先まで看破してくる。そこから怒涛の攻勢に持ち込まれて負けが確定するパターンが多かった。一度肉体を破壊されると、いくら再生可能とは言っても精神状態を乱される。ほんのわずかなオーラ制御の乱れも格上の敵が相手となれば勝敗を分かつ要因になり得る。
だから、ダメージを受けても何とか戦闘状態を維持できるように死に物狂いで特訓した。ビスケから「死刑囚でもここまでむごい仕打ちは受けない」と言われるほどの特訓が功を奏し(その修行を提案したのはビスケだが)、今では痛みと戦闘感覚を切り離せるようになった。蹴りの衝撃で潰れた内臓を修復しながら次の攻撃に備える。
何とか持ち直せたが、ここまでだ。この五日間、こんなやりとりを日が暮れるまで繰り返している。着実に動きはよくなっているし、全く成長が感じられないわけではない。しかし、越えるべき壁は高い。ただの一発当てるだけ、それだけの目標が遠い。
このままでは最終試験が何日続くか見当もつかない。ビスケはこの試験に具体的な期限を設けなかった。止めるかどうかも、私の気持ち次第。ただし、あまりに腑抜けた成果しか見せられないようであればビスケがストップをかけるとも言っていた。明日も試験が続くという保証はない。今すぐにでも中止が言い渡される恐れはあった。
そんな終わり方は絶対に嫌だ。負けたくないという気持ちは当然ある。だが、何よりもこの試験はビスケが私の修行の成果をある程度認めてくれたからこそ実現したと言える。その期待に応えられないまま、むざむざと不合格になるような失態はさらせない。
ビスケがこれまで修行の中で私に与えた課題は理不尽に思えるようなものもあったが、実際にやってみれば理に適っていると実感できた。不可能な課題を押し付けてくるようなことはない。できないと思うのであれば、それは身体的な能力の限界ではなく、能力を使いこなす思慮が足りないだけだ。
クリアするために必要な条件はそろっているはずだ。それに気づけなければ合格はない。このまま正面からぶつかっても勝てないというのなら、別の方法を考える必要がある。実力で勝る相手に付け焼刃の策を弄したところで通用するとは思えないが、その無理を通すことこそビスケが今の私に求めているものかもしれない。
そして、その機会は訪れた。避けられないタイミングでビスケがシックスに向けて手を差し出してくる。その手は握られた拳の形ではなく、開かれていた。不用意に突き出していたシックスの腕が掴まれる。
それは投げ技を仕掛けられる前触れだった。ただのパンチも絶大な威力を持つことに変わりはないが、ビスケが戦闘中に時折見せる心源流の技もまた厄介極まりない。これもその技の一つである。
決まれば為すすべもなく体が宙を舞う。そして逃げ場のない空中に追い詰められてから高威力の攻撃を叩きこまれる。これも数え切れないほど体験した負けパターンだ。だからこそ、私はこの時を待っていた。
何度もこの技を受けるシミュレーションを行った。この五日間、ビスケが寝ている夜中に秘密の特訓を重ねてきたのだ。
余計な警戒をさせないためにあえて攻撃を誘うようなことはせず、ビスケが自発的にこの技を使ってくるのを待っていた。掴まれた直後、手首を起点としてスクリューに巻き込まれるような回転が襲いかかる。
心源流は念能力と武道の合一を目指し、近代念教育の礎を築いた最大流派である。その技は純粋な武術としても洗練されており、そこに念能力を合わせることで爆発的な相乗効果をもたらす。
腕を螺旋状に伝わり、肩から全身へと波及していく回転力。掴まれたが最後、投げられるまで抜け出すことはできない。どうすればこの技に対抗できるかをずっと考えていた。
私は腕の力を抜く。掴まれた腕のオーラを消し、『絶』の状態にした。念による防御を失った腕は竜巻のごとき回転力に堪え切れず、ぶちぶちとねじ切れていく。わざと腕を切り捨てることで回転が伝わりきる前に掴みから脱する。それが私の導き出した答えだった。
しかし、ビスケは少しの動揺も見せない。絶により落ちた腕の強度に合わせて瞬時に力を調整し、適切な捻りを加えてくる。腕は完全に切り離される前に力を伝える橋の役割を果たし、結局シックスの体は空中に浮かんだ。その緻密に計算された技の巧みさは見事と言うほかない。
ここまでは予想通りだ。
これだけの策でビスケを何とかできるとは最初から思っていない。投げられることは想定していた。だが、威力を殺すことには成功する。本来なら天地逆転の体勢で高速回転させられ、上下左右の区別もつかないままやられてしまうところだが、今回はその回転力を抑えることができた。
それでも独楽のように回されている状況に変わりはない。ここでしっかりと状況を認識できなければどのみちビスケの攻撃に対応なんてできない。集中し、体内でオーラを練り上げ、機を見計らう。
今の私は空中に投げられ、無防備な状態である。ここで仮に反撃が成功したとしても、地に足がついていない上に高速で回転しているこの状態ではまともな攻撃にならない。
だからビスケは打ち込んでくるはずだ。投げ技から抜け出すことに失敗した私に追い打ちをかけにくる。私にできることと言えば、目を回さないように気張りながらいかに防御のタイミングと場所を合わせるかを見極めることだけだ。そう相手に思い込ませる。
現状ではまだ私にビスケを正攻法で倒すだけの力はない。その不足を補うために使える手は何でも検討する必要があった。その中で生まれた一つの案が、私の発『落陽の蜜(ストロベリージャム)』である。
発を戦闘で利用する。念能力者なら当たり前の戦い方である。しかし、基礎もまともに出来ていない現状では正直、手に余る。特に私のタイプは発動すれば何かしらの戦力が得られる類ではなく、しっかりとした地力が整った上で使いこなせるかが問われる能力である。
ビスケからも今は発に頼った戦い方を考えるより、基礎力を上げることに専念するよう言われている。実際、実戦を想定して何度かビスケ相手に『落陽の蜜』を使ったことはあるのだが、良い成果はあげられなかった。ぬるぬる滑るオーラは敵の攻撃をいなすのに使えそうだが、私自身も扱いを誤って事故を頻発してしまう。普通に戦った方がまだ強い。
それをビスケは知っているからこそ、この土壇場で私が使ってくるとは思わないだろう。無論、下手な使い方をすればこちらの狙いは見破られ、反撃のチャンスはつかめない。ビスケ相手にも通用する能力の使い方を考えなければならない。
この時のために、夜間の秘密特訓を積んでいた。変化系能力『落陽の蜜』はオーラにローション状のぬるぬるした性質を持たせることができる。ビスケの能力と少し似ているが、疲労回復などの特別な効果はない。
どうすれば戦闘に生かせるか、私はとにかくオーラの操作性を高める訓練をした。オーラに粘性と滑りを与えるこの能力について調べていくうちに、粘性の高低がオーラ全体の性質に大きな影響をもたらしていることを突き止める。
粘性を低く設定すると、ローション状のぬめり気が強い性質になる。これは今まで私が使っていた状態だ。そして逆に粘性を高く設定すると、液体から固体状の餅のような状態に近づく。
これが私の編み出した新必殺技だ。ビスケが突き放った拳に合わせ、殴られると予想される箇所のオーラを急速変化させる。粘性を最大値にまで高めたオーラがビスケのパンチを受け止める。
『落陽の蜜』の応用技『ジャムブロック』。
「――むっ!?」
固形化したオーラの塊に、ビスケの拳がめり込んだ。糊の塊がクッションの役割を果たして衝撃を吸収し、大砲のごときパンチの威力を瞬時に抑える。そして粘り気を高めたこのオーラは、相手の攻撃を受け止めると同時に吸着し、拘束する。繭のようにきめ細やかな線維質の糊塊は並大抵の力では壊せない。
本来ならパンチを受けたシックスの体は岩壁に激突するまで吹き飛ばされていたことだろう。しかし、粘性クッションがシックスとビスケの体をつなぎとめる。ビスケもこの展開は予想していなかったに違いない。動きに一瞬の硬直が生まれた。
この好機を逃せば次はない。同じ手は通用しないだろう。何としてでもここで勝負を決める。捨て身のオーラを右腕に集め、動きを止めたビスケ目がけて振り抜いた。こちらも投げられた勢いが急停止した反動でパンチの狙いが大きくぶれるが、それでもこの距離で攻撃を外すことはない。
今の私がビスケ相手にこれ以上の策を成功させることはできない。間違いなく最高の一撃だと自負できる。その精魂の限りを尽くした攻撃に、ビスケは反応した。
ビスケは私のオーラに捕まった腕を伸ばし、距離を離してくる。屈強な肉体を得たビスケの腕のリーチはシックスよりも大幅に長い。さらにそこから上体を後ろへそらすことにより、私の攻撃はビスケの体をかすめて空を切った。
これをかわすのか。なんという反応速度、不測の事態をものともしない鋼の精神。本能が知らせる危機感に逆らわず、私は『ジャムブロック』を解除してビスケから距離を取った。ここで諦め悪く粘ったところで良いことはない。
これ以上、勝負を続ける必要もなくなった。
「……たった一か月でここまで育つか……人間技とは思えないけど、そういえばあんた人間じゃないし、そういうものなのかもね」
ビスケは構えを崩していないが、その指先にわずかな震えが走るのが見えた。先ほどの私の攻撃はビスケにかすり傷を負わせるだけに終わる。右手に装着した本体の牙が、ビスケの肌にうっすらと一筋の傷をつけていた。
そのわずかな傷から麻痺毒を送り込んでいた。死にはしないが、一滴でも体内に入れば一週間は身動きが取れなくなる即効性の神経毒だ。ビスケはまだ倒れていないが、普通は立つこともままならないはずだ。
「まいった。あたしの負けだ」
そう言いながらも、彼女の目は全く負けを認めていなかった。事実、このまま戦えば私の方に分があることは明らかなはずなのに、どうしてか勝てるイメージが湧いてこない。そう思わせるだけの不屈の闘志に気圧されるばかりだった。