SSランクカード『一坪の海岸線』はソウフラビにあることがわかった。しかし、こんなに簡単にたどり着けるような情報が今まで誰にも調べられていなかったなんてことはない。この街は多くのプレイヤーによって既に調べ尽くされていると考えるべきだ。
それでも現にカードはまだ入手されていないのだから、何か見落としがあるのだろう。ゲンスルー組のクリアを阻止するため、時間をかけてでも徹底的に調べ直す価値はある。
「おーい! 情報提供者が見つかったぞー!」
だが、長丁場を覚悟していた私たちは、予想に反してあっさりと手掛かりを発見した。この街は『レイザーと14人の悪魔』という海賊団によって裏から支配されており、それを追い払うことができれば『一坪の海岸線』を手に入れられるようだ。
「おかしいな。前に来たときはいくら調べても何の手がかりも見つけられなかったのに」
「確かに、話がうますぎる」
「情報を得るための何らかの条件を満たしたということじゃない? 『レイザーと14人の悪魔』……敵の数は15人、そしてここに集まったパーティの人数は16人。一定以上の人数がこの街を訪れることが条件だったのでは?」
「なるほど。『同行(アカンパニー)』で15人以上のプレイヤーが一度にこの場所に集まったことが偶然にも功を奏したというわけか。これだけの人数のプレイヤーが行動を共にすることは普通はないからな」
手掛かりの発見という最初の難関は運よく突破することができた。当初の予定通り、このまま共同パーティでカードの入手に取りかかる。海賊の一部が普段からたむろしているらしい酒場へと向かった。
店として機能しているようには見えない古びた酒場を訪れると、中に4人の男の姿があった。ボンボンがついた二股帽子に、つま先が長く丸まった靴を履いた格好は道化のようにも見える。ただし、その雰囲気はお世辞にも楽しげとは言えなかった。
「なんだテメェら。今日はオレたちの貸し切りだ。帰んな」
「相談をしに来たんだ。この街から出て行ってくれないか?」
パーティ代表のカヅスールが交渉を切り出すが、海賊は聞く耳を持たず笑い飛ばす。とはいえ、話し合いで解決できるとは最初から思っていない。荒事になるのは避けられないだろう。
「この街を出て行くか、行かないか、決めるのは船長だ。オレと勝負してお前たちが勝てば、船長に会わせてやる」
4人の海賊のうち、一番の大男が酒を床に振り撒き、そこへ火を放った。描かれた炎の円の中で、どっしりと構え四股を踏む。
「この“土俵”の外にオレを出してみろ。炎の俵を越えて中に入ったら勝負開始、外に出された方の負けだ。一度に何人かかってきてもいいぜ?」
「ドヒョウ? タワラ……? 何のことだ?」
「察しが悪いな。お前ら相手に真っ当な相撲を取ってやるまでもねぇってことだ。要するに、この炎のリングから相手を押し出した方が勝ち。それ以外はルール無用だ」
何人かかってきてもいいと言うだけあり、この勝負に相当な自信があるのだろう。これは正面から力勝負に持ち込むより、操作系や具現化系能力による搦め手の方がやりやすそうだ。
「力勝負なら強化系のオレに任せとけ」
名乗りを上げたのはハンゼ組のゼホ。強化系能力者らしい。まあ、そう都合よく敵と相性の良い能力者がこちらにいるとは限らない。いたとしても、自分の発を隠すために名乗り出ない可能性もある。発の情報は能力者の生命線だ。特に操作系や具現化系の場合は対策もされやすいので迂闊にさらすべきではない。
「はあぁぁぁぁ……! ふうぅぅぅぅ……!」
強化系能力者でも、もちろん敵を倒せるだけの実力があれば何も問題はないのだが……ゼホは練をするだけでいちいち呼吸を整え、凄まじい気合を込めていた。その割に出力、練度、安定性ともに高いとは言い難い。
「はあっ! いくぜ!」
いくぜじゃないが。気合十分のゼホに対し、海賊の大男は大したオーラを身に纏っていなかった。その必要がないからだ。下半身を基点として無駄のない強化が施されている。その様子は地に根を張る樹のごとし。同等の強化系能力者であっても、これを動かすことは難しいだろう。
ゼホでは勝負にならない。そして喜々として獲物を待ち構えるかのような海賊の表情からは嫌な予感がしてならない。負けて終わるだけならまだいいが、怪我などすればこの後の勝負にも影響が出るかもしれない。私はゼホを止めた。
「なんだお前は!? 邪魔をするな!」
今にも海賊の方へと飛びかかろうとしているゼホは怒りをあらわにしている。私が代わりに勝負を引き受けると申し出ると、ますます怒って手がつけられなくなってしまった。
「まあ、二人とも落ちつけよ。仲間割れするようなことじゃあるまい」
「だが、こいつがオレの邪魔を……」
「子供相手にムキになるなよ。譲ってやればいいじゃないか」
仲裁に入ってくれたのはゴリラっぽい男の人だった。彼もゼホが力不足であることを見抜いているのかもしれない。
「それこそ、こんな子供が力勝負で勝てるとは思えないが」
「いや、仮にも念能力者でありこのゲームのプレイヤーなんだ。勝算があっての行動だろう。何も相手の土俵で真っ向から勝負を挑む必要はない。念の戦いはそういうもんだろ?」
ゴリラっぽい人の問いかけに私はしっかりとうなずき返した。
「……そこまで言うなら好きにしろ」
不満を残しながらもゼホは引き下がってくれた。私は改めて海賊の男と対峙する。
「おいおい、いつまで待たせる気だ? 何人でも一度にかかってきていいって言ってんだろ。さっさとしろよ」
待ちくたびれたように男はあくびをしている。だが、その余裕の態度に反してシックスの見た目に油断している様子はない。むしろゼホを相手にしていたときよりも警戒心が高まっていることが見て取れた。
念能力の戦いは相性が重要だ。ゴリラの人が言ったように、馬鹿正直に正面からの戦いが成立するとは限らないことを敵も承知している。海賊の目にオーラが集まり『凝』でこちらの動きを観察していることがわかった。
オーラに不審な動きがあれば見逃さず真っ先に潰そうとしてくるだろう。私は下手にオーラを取り繕わず、ほどほどの強化をした上で土俵の中の海賊に飛びついた。
ぽふっ
海賊の男と組み合う。いや、でっぷりと肥え太った大男の腹に抱きついたと言った方がいいかもしれない。とてもではないが相撲には見えない光景だった。
「ぷっ、ははははははは! なんだそりゃハグか!? おーよしよし、頭も撫でてやろうじゃねぇか。オレはこう見えても子供好きなんだ。特にガキの苦しむ顔は好き、だ、あ……?」
海賊の体から力が抜けていく。私のほどほどの身体強化でも問題なく土俵から押し出せるくらいにまで敵は弱体化していた。
「ばっ、なんだ!? 体が急に……! くそっ、まさか毒か!?」
その通り。虫本体の麻痺毒である。本体は敵に警戒させないためにリュックごとゴンたちに預けてきたが、勝負の前に本体の牙から出る毒をシックスの指先にふりかけておいた。
海賊に抱きついたとき、爪先でつけたかすり傷から毒を送り込んだのだ。毒自体は念の産物ではなく実物なので凝で見られても不審に映らない。あえて強化率を抑えることで油断を誘い、抱きついた後、腹肉にめり込んだ指先にほんの少しだけオーラを集めて爪傷をつけた。
「てめっ、きたねぇぞ! ちくしょうこのガキャアアア!」
ビスケなら毒を盛られてもピンピンしていたが、この海賊は問題なく無力化できた。土俵から出た方が負け、それ以外はルール無用と言っていたので毒を使ってもいいはずだと思ったのだが、やはりこのやり方ではダメだったのだろうか。
「うるせぇぞ、ボポボ。てめぇが約束した勝負にケチつけてんじゃねぇよ。勝負はお前らの勝ちだ。ついて来な、ボスのところへ案内する」
麻痺毒で動けなくなった大男を放置し、他の海賊が案内を始める。約束通り船長のところまで連れて行ってくれるようだ。
その場所は岬の灯台だった。海賊のアジトとして増改築されており物々しい要塞と化している。案内されるまま建物の中を進んでいくと、広い体育館のような場所に出た。海賊と思われる人たちが様々なスポーツに興じている。本当に海賊なのか疑問がわくが、ゲームだし深く突っ込んでも仕方ない。
「誰だ、そいつら」
その中で一人だけ雰囲気が違う男が声をかけてきた。彼が海賊団の船長のようだ。この街から出て行ってほしい旨を伝えると、ならば勝負しようと提案される。
「勝負形式はスポーツだ! 互いのチームから1人選出し、オレたちが決めた種目とルールの下で戦ってもらう。これらの試合を続け、先に8勝できたチームの勝利となる。オレたちが負ければ、この島から出て行こう」
なぜスポーツで戦うのかと疑問はわくが、ゲームだし気にするだけ無駄か。15人の海賊たちはそれぞれ得意なスポーツがあるらしく、こちらはその勝負に付き合わなければならない。ルールも向こうが一方的に決めるのでこちらが不利なことは確かだろう。せめて審判は公平にされることを期待するしかない。
だが、問答無用の殺し合いではない。8勝できなかった場合はこのアジトから追い出されるだけでパーティを組み直せば再挑戦できる。私たちは勝負を受けることにした。
「最初の勝負形式はボクシングだ。代表を1人決めてくれ」
私は真っ先に手を上げた。敵の戦力を測るに適した第一試合。ここでしくじるようなことがあれば味方の士気を下げることにもつながりかねない重要な一戦と言える。だが、私はそれでも志願した。
私はゴンやキルアとチームを組みながら、これまで攻略に貢献できなかった負い目がある。ビスケにも私のわがままで指導の時間を多く取らせてしまった。その挽回のためにも力になれることがあれば率先して取り組みたいという気持ちがある。
「またアンタ? ちょっと出しゃばりすぎじゃないの?」
「『毒使い』のナインか……毒攻撃が決まれば強力だが、先ほど見た練を見る限り、接近戦には向いていないな。そもそも毒は反則にならないか?」
「功を焦る必要はない。チームで勝てばいいんだ」
しかし、味方からあまり良い顔はされなかった。一人で先走っているように思われたようだ。単純に戦力として不足を疑われている部分もある。ここで無理に力を誇示すれば敵にいらぬ警戒をされるし、味方との関係も悪くなる。
残念だが、ここは引き下がった方がいいだろう。少ししょんぼりしていると、そこでゴンが皆に声をかけた。
「ここはナインに任せてもらえないかな」
「……身内贔屓の発言なら容認できないな。これから8勝もしないといけないんだ。一試合だって無駄にはできない」
「まだあと8勝もあるからだよ。勝負の結果によってはここにいるほぼ全員に戦う機会がある。ナインがここで戦っちゃいけない理由にはならないよ。それにナインなら絶対に勝つからね」
「大層な自信だな。やはり身内贔屓にしか聞こえない」
「ならそれでもいいよ。少なくとも、ナインの実力はオレたちの方がよくわかってる。ナインは必ず勝つ。オレたちが持ってるカードを賭けてもいい」
「ちょっ、おいゴン!」
「それは『奇運アレキサンドライト』でもか?」
「いいよ。ナインが勝てなかったから好きなカードを持っていっていい」
「このバカ……!」
『奇運アレキサンドライト』はゲンスルー組もまだ持っていないレアカードだ。Aランクながら特殊な取得条件から所有者は少ない。この攻略組パーティの中でも持っているのは私たちの組だけだ。簡単に渡せるようなカードではない。どうしてゴンはそこまでして私を推薦したのか。
「なんかごめん、途中から熱くなっちゃって……でも、ナインが負けるとは思えなかったから」
ルールは敵側に決定権がある。勝負の内容次第では絶対に勝てるとは言い切れない。
「№75のカードを賭けるか。どうやら全くの無謀というわけではないらしい。それだけの覚悟を見せられてはこちらも譲らざるをえないな。約束は守れよ」
「待て、なにちゃっかりお前だけもらう約束してるんだ。これはパーティ全体の問題だ」
「別に誰が先陣切ろうと構わないだろ。欲かいて、くだらないことを言い争ってる場合か」
早くも私が負ける前提で誰がカードをもらうか議論する者まで出る始末だ。早くゴンの口から撤回するように言ってもらわなければ、今さら私が辞退したところで収まりがつかない空気になってしまっている。
「無理だ。コイツが一度決めたことを曲げるわけがねぇ……」
「ははは、そういうわけだから頑張ってナイン!」
キルアに思いっきりローキックを食らわされながらゴンは笑い飛ばしていた。
「別にいいじゃない。仮に負けたとしても、カードの一枚くらいまた集めれば済むことだわさ」
「ビスケは知らないからそんなこと言えるんだろうけど、あれをもう一度手に入れようと思ったらオレたち全員カード全部捨てないといけなくなるんだぜ」
「ナイン、何としてでも勝ちなさい。負けたら承知しないわ」
責任重大だ。こんなことなら意気込んで名乗りなんて上げるんじゃなかった。ちょっと胃が痛くなってくる。
「ま、冗談はさておき、この程度の相手に不覚を取るような育て方をした覚えはないわ。よほど悪辣なルールにされない限り負けはないでしょ。敵のボスはそのあたりフェアな審判をしてくれるとおもう」
「ゲームのシステム的にか?」
「ただの勘よ。伊達に男を見る目を磨いてないわ」
「常に飢えてそうだもんな」
ビスケの強烈なローキックによりキルアの体が沈む。
「とにかく、これは勝って当然の試合よ。深く考えずに行ってきなさいな」
「ナインなら大丈夫! 絶対勝てるよ!」
ビスケとゴンは応援してくれた。キルアも倒れ伏しながら、ぷるぷると震える手でサムズアップを見せてくれる。ここは責任を感じるより、仲間からの信頼に応えるべく試合に臨むべきだろう。もとより負ける気はなかったが、さらに奮起する。
他のパーティメンバーについても、私が初戦の代表として出ることに概ね異論はなかった。負けてもたかが1敗、仮にこの後全ての試合で負けて8敗したところで何度でも再挑戦できるのだから言うほど勝ちにこだわる理由はない。様子見にはちょうどいいと思われているようだ。
「代表者はリングの上にあがってくれ」
渡されたグローブを装着してリングへと向かう。本体はまたゴンに預かってもらう。修行により放出系の技能も向上し、本体とシックスの距離が離れたときのオーラ制御力や燃費は多少改善されている。このくらいの距離ならそれほど大きな障害にはならない。
だが、そこでビスケに呼びとめられた。試合が始まる前に一つ言っておくことがあるという。
「さっきも言ったけど、勝つだけならなんてことはない。相手の能力が何なのか、何を企んでいるのか見切った上で対処してみなさい。先にこちらから攻撃してはダメよ」
リングをよく観察すると、床全体にうっすらとオーラを帯びた模様が描かれているのがわかる。これは『神字』と言って念能力を強化・補助する効果があるそうだ。つまり、何らかの大掛かりな仕掛けが用意されていると見て間違いない。だが、ビスケはそれを承知であえて先手を敵に譲れという。
「なんでわざわざハードル上げてんだよ」
「何事も修行の内よ。念能力者との実戦経験を積むいい機会なんだから、ちょっとでも実になる戦いにしないともったいないわ」
もちろん勝てなければ話にならないが、その上で戦い方も学べということか。ビスケの言うことにうなずき、ロープの間をくぐってリングに入った。対戦相手はウォーミングアップも十分といった様子でいつでも戦える準備を整えている。私もファイティングポーズを取った。
「ボクシングのルールは知ってるか?」
なんとなくわかるが詳しいルールまでは知らないと答えると、それで結構と言われた。
「相手を殴り倒してKOすれば勝ちだ。ただし、特別ルールとして念の使用が認められる。オーラで具現化したものなら道具もアリだ」
「はぁ!? 具現化したものなら武器も使えるってことか!? そんなのボクシングじゃねーぞ!」
「安心しな。オレはこの拳しか使わない」
具現化系の武器も使用可というルールはむしろ挑戦者である私たちへの配慮か。対戦相手はルールを説明した上で、こちらに他の誰かと交代するかどうか確認を行う。無論、交代する気はない。続行を宣言する。
「1ラウンド3分、判定なし! どちらかがKO負けとなるまで何ラウンドでも続ける! ファイト!」
ゴングが鳴らされ、試合が始まった。私たちは互いに距離を取ったまま様子を見る。睨み合いが続くだけで一発の打ち合いもないこの状態は、いささかボクシングらしくない。
「フフ……まずは様子見か。確かに、相手の能力もわからないまま無策に突っ込むのは怖いよな。だが、オレはそうでもない」
そう言うと、相手選手はグローブの上に一つの光球を浮かべた。あれはオーラを肉体から切り離して作り出したエネルギー体、念弾だ。
「見ての通り、オレは放出系だ。武器は使わないと言ったが、これは飛翔するパンチのようなもの。ボクシングにおいて圧倒的に有利となる要素はリーチの長さだ! 無限の射程を得たオレに対し、あんたはこのリングという限定された逃げ場しかない」
相手選手は素早いジャブの連打を繰り出した。念弾となった飛ぶ殴打が一斉にこちらへ向かってくる。
「飛翔するパンチだと!? 何が拳しか使わない、だ! こんなのボクシングじゃねぇ!」
「いや、念弾の数は多いが威力はそれほどでもない。くそっ、放出系能力者のオレが出ていれば楽に勝てたのに……!」
リングの外から浴びせられる野次を聞き流し、私はひたすら見に徹していた。敵が自信満々に繰り出してきた念弾の連射を前にして、私は今一つ納得がいかなかった。
あまりにも攻撃がお粗末すぎる。この程度の念弾ではただの『堅』でも防げるだろう。何発食らったところでダウンの一つも取れないはず。
こちらを侮り、この程度の威力でも十分だと思われたのか。あるいはこちらを油断させ、不用意に近づいてきたところにカウンターを決めるための誘いか。弱すぎることが逆に怪しく思えてくる。弾自体に仕掛けがないとも言いきれないので、ひとまず念弾は回避しておく。
「ちっ、意外に良い動きするじゃねぇか……!」
避けながら私は敵を観察した。何かまだ、奥の手を隠している気がする。ビスケの言いつけ通り、それがわかるまではこちらから手を出すつもりはない。私は“私だけの”『凝』を使い、敵の真意を探る。
それはシックスの『凝』と本体の『凝』の合わせ技だった。ゴンにお願いしてリュックの口を開き、本体が外の光景を覗けるようにしてもらっている。私は二つの凝で敵の姿を捉えていた。
これまで私は本体をリュックサックやぬいぐるみの中に閉じ込め、戦闘はシックスに任せていた。だが、ビスケの修行によって本体を戦闘に活かす方法を模索し始めている。本体の『凝』もその一つだった。
これは単にシックスと本体の二つの視界が確保できるという利点に留まらない。本体の目は人間と異なり、複眼という虫特有の構造を持っている。
人間の目は、瞳孔から入ってきた光が水晶体のレンズを通して網膜で像を結ぶカメラのような構造になっている。空間的な像の認識能力は高いが、視界は目を向けている方向に限定される。視野角だけで言えばそれなりの広さがあるが、実際は視点を中心に認識の偏りが生じ、見えていても像の一つ一つにまで均等に意識は向けられていない。
その一方で、複眼は望遠鏡のような構造の小さな眼が数多く集まって一つの器官を形成しており、視野は非常に広い。個眼では像を認識できないが、それが無数に集まることで視覚情報を重ね合わせて像を認識する。個眼が集めた情報の差異から全体像を抽出しているため、わずかな像の変化を素早く察知できる。動く物に焦点を合わせながら眼で追い続ける必要はない。
トンボは40メートル離れた先の小さな虫の動きも見ることができるという。もちろん、メリットもあればデメリットもある。立体感や遠近感などを把握し、物体そのものを正確に識別する能力は人間の眼の方が優れている。
だが、私の場合は人間の眼と虫の眼、二つの視界を同時に認識することができる。長所を合わせ、短所を補えば二重の凝はさらなる相乗効果を生む。最初は膨大な視覚情報の処理に振り回されていたが、誓約により強化された分割思考を駆使して何とか使いこなせるようになってきた。
数千、数万にも分けられた視界が敵の姿だけでなく、目の届く空間全ての情報を集積する。『隠』で隠されたオーラだろうとこの状態であれば不意打ちは不可能だ。幾万もの眼は敵の攻撃の瞬間をつぶさに捉える。
それはこちらの至近距離に突如として出現した。シックスの後頭部を狙うように拳が迫る。敵は依然として離れた場所から念弾攻撃に徹しており、不測の接近を許したわけではない。敵の拳のみがいきなりシックスの背後に現れたのだ。
よく見れば、相手選手の右手が無くなっている。肉体の一部を離れた場所へと飛ばす瞬間移動系の能力か。物理法則を大きく無視して空間に直接干渉する能力は、単にオーラを念弾として飛ばす基本的な放出系能力より難易度が高い。リング全域に描かれた神字は、この能力を補助するためのものか。
威力よりも数を優先した念弾掃射は、本命の攻撃を成功させるための目くらましだ。念弾を回避していたシックスへと、体勢的に避けられないタイミングで拳が瞬間移動してきた。念弾の雨あられの中に隠すように拳を紛れこませ、さらに視界の外にある後頭部を狙われれば普通は回避できない。気づく間もなく打ちのめされる。
が、私の場合は全て見えていた。“避けられない体勢”も、あえてそのように見せかけていただけであり実際は余力を残している。瞬間移動には驚いたが、攻撃が当たるまでの猶予は十分にあった。
脚にオーラを集めて踏み込む。回避と同時に、一気に敵の懐へと肉薄した。相手はこちらの接近に対して反応が遅れ、視線は前を向いたままだった。二重凝による無数の分割視界の中から、敵の注意が薄いルートを選別して通っている。
こちらに気づかれる前にボディブローを叩きこみ、敵はくの字に体を曲げながら吹っ飛んだ。ロープにぶつかってリング上に倒れ込み、起き上がる様子は見られない。
「ダウン! ワン、ツー……」
審判のカウントが入る間も、気を抜かず構え続ける。
「え? 勝った、のか?」
「敵の方が優勢だったように見えたが……」
味方からは勝利を喜ぶ声よりも何が起きたのかわからないという困惑が上がっていた。この様子だと敵の瞬間移動能力にも気づいていない人が多そうだ。これから先の試合が少し心配になる。
「ナイン! テン! お見事、まずはそちらの一勝だ」
試合終了のゴングが鳴る。どうやら幸先の良いスタートが切れたようだ。応援してくれたゴンたちにグローブをした拳を高く掲げて応えた。