新たに現れた二人組のプレイヤーは一触即発の状態だった。一人は体格の良いチンピラのような外見の男、もう一人は黒ずくめで傘を持った小柄な男だ。
ヒソカと何らかのトラブルがあったらしい。睨み合う三人はすぐにでも戦闘を始めそうな気配を漂わせている。逃げるならこの機に乗じるのが最善だが、無事に逃げ切れるかわからない。
移動系スペルは『磁力(マグネティックフォース)』を一枚だけ持っていた。これは指定したプレイヤーの場所まで一気に移動できる魔法である。相手も同じ系統のカードを持っていた場合は追跡される恐れがある。
だが、走って逃げるよりは呪文カードを使った方がまだ可能性があるような気もする。一か八か試してみるか。戦端が開かれるのを待っていると、黒ずくめの男と目が合った。底冷えするような殺気がこちらに向けられる。
「そっちは任せるね。ワタシは先に部外者を掃除しとく」
「人のごちそうを横取りするのは止めてほしいな♦」
「遊びたいなら、ちゃんと自分の仕事を片付けてからやれ」
来る。予備動作は、ほとんど察知できなかった。殺意は向けられているが、それはこの人物にとって何か特別なことではない。日常レベルで他者に対して抱いている感情なのだと気づく。ゆえにオーラの流れから初動を読み切ることは困難だった。
まるで虫を踏み潰すように平然と迫り来る。防御が間に合ったのは敵の驕りと幸運が重なった結果に過ぎなかった。槍のように突き出された傘の先端を手甲で受け止める。
それが気に食わなかったのか男は一つ舌打ちすると、目にもとまらぬ速さで突きの連撃を繰り出してくる。本来は武器として使用する道具ではない傘の一撃が致死の威力を宿していた。
やはり初撃を防げたのは、ただの幸運でしかなかった。大口径の銃弾に打ち抜かれたかのように無数の傷跡が深々と刻み込まれる。しかし即死を確信したのか、ようやく敵に隙が生じた。
「なに?」
傘を掴み取る。その直後、衝撃を受けたのは私の方だった。鋭く尖った傘の先端部が勢いよく飛び出し、シックスの胸部に突き刺さる。先ほどは刺突を銃撃に例えたが、これは文字通り傘に仕込まれた銃による攻撃だった。
だが、それでも傘を掴んだ手は離さない。男は銃撃を放つと同時に素早く距離を取っていた。武器として使っていた傘は躊躇なく手放している。その手には、傘に代わって一本の刀剣が握られていた。
あまりの素早さに、その刀はどこからともなく取り出したかのように見えたが、よく見れば傘の内部に収まっていたものだとわかった。刀の柄が傘の持ち手の形である。刀や銃を内蔵した仕込傘だ。日用品を装った暗器の一種である。
男の攻撃によって受けた傷は既にほぼ回復している。胸に受けたピック状の銃弾も体外へ押し出されて地面に落ち、傷が塞がりかけている。その様子を見た男は大した反応もせず、眉を一つ動かしただけだった。
この男の一連の行動からは殺しに関して全くと言っていいほど抵抗が感じ取れない。どれもが命を奪うことのみを追求した一撃だった。間違いなく殺人に手を染めている人間だ。それも日常的に。
別にそれを非難するつもりはない。人それぞれに事情がある。私が今、攻撃を向けられていることにも何らかの意味があるのだろう。純粋にその理由が気になった。なぜ、私はここで殺されなければならないのか。
「なぜ? おかしなこと聞くね。理由がないと殺してはいけないか?」
その答えは驚くほどに中身がなかった。男の口調からは何かを言い繕ったり、ごまかそうとする気配は全く感じられない。おそらく、本心から出た言葉だ。
殺しに理由はあるのかもしれないが、それはこの男にとって口に出して言うほどのことではないのだ。いちいち理由を考えながら殺す方が“おかしなこと”なのだ。
そんな呆れた言い分がまかり通る。それだけの強さがある。誰もその過ちを正すことはできない。どれだけ間違った存在だろうと力によって肯定される。何という理不尽。
「気は済んだか? じゃあ、死ね」
男が距離を詰めてくる。さっきまではまだ実力のほどを見せていなかったのか、その速度はさらに増し、目で追うのがやっとの有様だった。仕込傘のような姑息な手段を使わずとも、純粋に剣の腕だけで達人の域に達している。おそらく、まだこれでも全力を出してはいないだろう。
残像が生じるほどの剣速を前に回避も防御も間に合わない。オーラを防御に回すため移動させようとした直前に、既にその箇所が斬られている始末だ。当然、敵の攻撃に全神経を集中せるべき事態だが、私の意識は大きく乱れ、雑念が次々に生じていく。
これまでの私は人間らしく生きようとしていた。だが、それは果たして“私”らしく生きることとイコールで結ばれるものなのか。その最初の前提から、何もかも間違っていたのではないか。
周りの人間と同じようになろうとしても、いつもそれを阻む大きな敵が現れる。鳥の島も、アイチューバーも、ハンター試験もうまくいかなかった。その危機を乗り越えることができたのは力があったからだ。
だが、私はその力を封印することで自分らしさを保とうとした。誓約による災厄の封印。しかし、災厄の力を捨てたところで人間に近づけたわけではなかった。そこに何か輝かしい幻想を見ていただけで、私の本質は力に固執し続けることでしかなかった。
その結果が今の私だ。人間ではない存在が人間として生きる。その矛盾を私は本当に理解していたのだろうか。いや、理解しようとすらしていなかった。盲目的に、自分の中の正しさを信じていただけだ。
本当に必要なものは、間違いを間違いのまま認めさせる強さだったのではないか。どこまで行っても正しさにたどり着けないのなら、無駄な努力をする必要はない。これまでだっていつも私を助けてくれたのは、力による肯定だけだった。
無駄、無意味、無価値。考えれば考えるほどに、これまでに築き上げてきた人格が否定されていく。いっそこんなもの、なくなってしまえばもっと自由になれるのではないか。
必死に考える。その思考を阻むように、敵の攻撃がシックスの体を切り刻む。
痛かった。初めてシックスと意識がつながった時のことを思い出す。最初はラジコンを操作するようにぎこちない動きしか取らせることができなかった。人間肉体が感じる痛覚は鋭敏で、裸足で歩いた雪の上の冷たさと小石を踏みしめる痛さに涙した。
まるであの頃に戻ったように体が動かない。痛くて何も考えられなくなる。理性的な思考が形を保てなくなり、単純な感情だけが残されていく。積み上がっていく。
痛い。嫌だ。止めて。どうして。まただ。いつもそうだ。
もう、たくさんだ。
「いま」
扉を開く。隔壁の向こうに閉じ込められていた髄液が流れ込む。脳が拡張されるような感覚。鈍っていた体が解きほぐされるように動く。
「かんがえてるんだ」
虫の手甲と刀がぶつかり、甲高い金属音がする。初めて敵の攻撃を受け止めていた。
「だいじなこと、かんがえてるんだ」
敵は止められた刀を力ずくで押し込もうとしてくる。それに対抗して、こちらも力で押し返す。がりがりと鉄の擦れる音が響く。
「かんがえさせろ」
爆発する感情がエネルギーと化したように力がみなぎった。鍔迫り合いを制して、交差した刀ごと敵を殴り飛ばした。
* * *
何手、何合、打ち合ったのかわからない。今この瞬間にも、数え切れないほどの攻防を互いに繰り出している。
「――――!」
敵の男に当初の余裕はなく、意味不明の異国語をたびたび叫んでいる。意味はわからないが、それが怒号であることは察せられた。
その攻撃と身のこなしの素早さは驚嘆するものがある。速さだけではなく、威力も十分な攻撃を圧倒的な手数をもって放ってくる。だが無数の斬撃を受け、その動きを観察した私は少しずつ隙を突けるようになっていた。
実際に何度か攻撃を当てている。一撃の威力の重さはこちらに分があり、確実にダメージは蓄積している。本体の麻痺毒も食らわせた。解毒剤を持っていたらしくあまり効果はなかったが、多少は動きも鈍っている。
それでもまだ戦闘不能には程遠い。斬撃だけでなく、刀を振るう本人の姿までもが残像を伴うようになっていた。『二重凝』をもってしてようやく動きを把握できる速さ。
避けきれない軌道で刀が迫る。斬り裂かれたシックスの体から血飛沫があがった。その血が敵へと降り注ぐ。
念能力者同士の戦いにおいて、特に実力のある使い手同士の戦いではあまり流血というものは起きない。血を失うことは身体能力の低下に直結するため、部位切断されるような大怪我を受けても、傷口の筋肉を操作して血管を塞ぐのだ。この程度の止血は基礎的な技術である。
それは逆に言えば、血管を開いて出血を多くすることも可能ということだ。心臓にオーラを送り込み、破裂させんばかりの鼓動を生み出す。常人の心臓でも血液を送り出すポンプの力は強靭で、血飛沫は数メートル上空にまで噴き上がることもある。そこに念による強化が加われば、凄まじい勢いで血が噴き出す。
そのシックスの血液は『落陽の蜜』の性質を持っていた。シックスの肉体は虫本体で作られたオーラを材料としている。同じ術者のオーラからなる存在であれば、その性質自体を変換することも可能ではないかと思った。
噴きつけた血液が強力な粘り気をもって敵を拘束しにかかるが、敵の体に触れた瞬間、蒸気を上げながら体表を流れ落ちて行く。どうやらこの男は変化系能力者であるらしく、自分のオーラに高熱を生じさせることができるようだ。そのせいで地面に散らばった『落陽の蜜』も蒸発させられ、足元を滑らせることもない。
だが、全くの無駄ということはなかった。敵は血の対処に気を取られる分、攻撃がおろそかになる。私の『落陽の蜜』も簡単に揮発するような性質はないので、蒸発させるにはそれなりの熱量が必要だ。当然、相応のオーラを消費する。
また、高熱のオーラは術者自身にも影響を与えるので、自分を守るため発動と同時に『堅』に割くオーラも高まる。その状態で迂闊にシックスへ近づけば、攻撃を受けた際の『凝』が間に合わない。
結果、敵は一撃離脱を繰り返す戦法を取るようになった。血液に絡めとられないよう、その刀は高熱を帯びている。敵は何度か痛い目を見ているので、もう調子に乗って深追いしてくるようなことはないだろう。
今の私では敵の速度に対処が間に合わない。もっと認識速度に肉体反応が追い付くまで強くならなければ。
また一つ、扉を開く。また一つ、意識が離れる。現実感の喪失だ。紛れもなく私は生きており、目を見開いているにも関わらず、まるで夢を見ているかのような感覚が増していく。
モニター越しに観る映像だ。無数のカメラのうちの一つ、虫の複眼、それを形成する個眼になったかのようだった。こうした自分が何人も存在する感覚は今までも感じてきたが、今回は少し違う。
敵を倒すには、まだ足りない。扉を開く。どこからともなく溢れだすオーラと全能感。何でもできるような気がしてくる。確実に強くなった感覚がある。実にすがすがしく、ようやく本来の自分を取り戻したような気さえする。
その一方で、真逆の感情を抱く従来の自分がいた。本当にこれが正しいのか。何か取り返しのつかない間違いを犯しているのではないか。ブレーキをかけようとする別の意識がある。
二つの意識が分割思考によって同時に存在していた。これまでは互いの意識が別のことを考えながらも自己の同一性を保っていられた。そこに解離が生まれ始めている。扉を開くごとに、その隔たりは大きくなる。
しかし、私に選択肢はなかった。生きて戦いを終わらせるためには強くなるしかない。
そのために開く。
開く、開く、開く、開く。
この敵を倒せる強さを手に入れるまで。
敵が来る。鋭く差し出された刀に鉄扇の防御が追いついた。展開した鉄の扇と灼熱の高温を宿す刀。その勝負は一瞬の拮抗も見せずに決着する。斬り裂かれた鋼鉄の扇が中ほどから分断される。その結果に驚いたのは男の方だった。
私は敵の剣筋を見切り、差し込まれる斬撃の線に合わせて瞬時に扇の強化を解除していた。分断された扇がばらばらに弾け飛ぶ。強化を解いたのは剣筋の線に対してのみであり、散弾銃のように飛びだした扇の骨は『周』による強化が生きていた。
不意をつかれた敵の体に骨の散弾が突き刺さる。手元に残った扇の残骸もついでに投擲したが、それは刀で弾き落とされた。
「――――」
それまで苛立たしげに悪態を吐いていた敵の様子が変化する。表情が抜け落ち、平静を取り戻したかに見える。だが、オーラの気配は真逆の怒気を放っていた。感情が振り切れたがゆえの無表情だ。
何か大技を使ってきそうな気がする。未知の念能力を恐れ、警戒心を最大まで引き上げるが、それと同時に湧き起こる期待感。どんな攻撃を見せてくれるのか、お菓子を前にした子供のようにわくわくしている。
緊張と慢心、警戒と驕り。まるで噛み合わない二つの感情が精神に異常をもたらしていく。とにかく、この戦いを終わらせる。それだけが解離していく二つの自己の妥協点だった。
そこで戦況に大きな変化が現れる。
敵の攻撃に備え守りを固めていた私は、高速でこちらに接近してくる何者かの気配を感じ取った。またしても、移動系スペルによるプレイヤーの到着である。しかも、今度は数が多い。
7人もいる。かつてないほどに冴えわたった私の感覚は、そのほぼ全員がヒソカや刀使いの男と遜色ないレベルの強者であることを感じ取った。
たった1人でさえ倒しきれずにいるというのに、それが追加で7人。ヒソカとチンピラを加えれば10人だ。浮ついていた感情も一気に冷え切った。
「えーっと、何のパーティーかな、これは?」
「おい、フェイタンがブチギレ寸前じゃねぇか。やったのはヒソカ……じゃねぇな。あのガキか?」
「手出し無用ね。あいつは今すぐ殺すよ」
「今のお前のダメージで仕留めきれるのか? 全員でやっちまった方が早い」
「手を出すな! ワタシが殺す!」
追加で到着した7人は剣士の男の仲間のようだ。最悪、敵の増援を加えての戦闘も覚悟したが、剣士の男は一対一の勝負にこだわっているのか、加勢に来た仲間に殺気を撒き散らしている。
「ヒソカと連絡がつかないから様子を見に行かせたってのに、あんたも一緒になって遊んでどうすんのよ」
「除念師との交渉くらいお前たちだけでできるはずね。ワタシはこいつを始末してから合流するね」
「団長の依頼よりも私闘を優先すると? クモにとって意味のある闘いならまだしも、ただの喧嘩で?」
「すぐに終わらせる!」
「そう言って送り出してからどんだけ時間がかかってると思ってんの? 交渉次第じゃ、これから即依頼達成に向けて動く必要がある。クモが足並み乱している場合じゃないってことくらいわかれ」
「…………」
「まあ、あんたが言う通り、あたしらだけで除念師との交渉は問題なくできるでしょうから、本当にそれでいいと思うなら好きにすれば?」
詳しい事情は不明だが、この集団は何らかの目的があって行動しているようだ。フェイタンと呼ばれた剣士の男はしばらく怒りをあらわにしていたが、仲間の説得に応じたのか矛を収めた。しかし、私の方を睨みつける視線だけは依然として憎悪に満ちている。
「……後で殺す」
謎の集団はこれ以上事を荒立てる気はないようだった。その方針にフェイタンも従っている。私は湧き起こる物足りなさを抑え込んだ。ここで自分から首を突っ込もうとすれば総員をもって反撃されることだろう。見逃されただけだということを忘れてはならない。
「で、ヒソカは?」
ヒソカはフェイタンと共にやってきたチンピラ風の男と闘っていたのだが、その戦闘は最初の数分で終わっている。和解が成立したのか、途中で戦闘を切り上げていた。
どんなやり取りがあったのか知らないが、さっきまで二人そろって地面に腰をおろし、私とフェイタンの闘いを観戦していた。
「うん、ちょっと不完全燃焼だけど、面白いものが見れたから満足かな♦ これ以上デートを続けるのは無理そうだしね♠」
ヒソカは謎の集団と連れ立って、この場を引き上げるつもりのようだ。もともとこの集団と何かの約束が入っており、ここで私と闘っているような時間はなかったのだろう。ちゃんとエスコートしてあげられなくてごめんと謝られる。
「大事な先約があってね♠ 名残惜しいけど、キミはこれからもっとおいしくなりそうな気がする♣ また今度、時間がある時にゆっくりデートしよう❤」
悪夢のような使い手の一団は移動系スペルを使って一斉に空へと飛び立った。静まり返った草原の上に、力なく膝をつく。日が暮れるまで一歩もその場から動けなかった。
* * *
ヒソカとの決闘から数日が経過した。私はどことも知れぬ森の中をさまよっていた。このゲームでは街などの安全地帯を除けば頻繁にモンスターが出没するが、この付近一帯の敵対モブは既に狩り尽くしている。
ゴンたちから一度だけ交信(コンタクト)で連絡があった。応答したくなかったが、何かあったと思われて移動系スペルで会いに来られる方がもっと嫌だったので、話だけした。しばらくは一人にしてほしいということを伝えた。
何の話をしたのか、よく思い出せない。ただ、涙だけが長いこと止まらなかった。
辺りは重機でへし折られたような倒木が折り重なっている。淡い日が差し込む森の空き地で、私は手の中にある一つの時計を弄っていた。針は一本しかなく、文字盤は12時の位置に『0』と記されている。正確にはメーターと言うべきか。
これは『心度計』というアイテムである。№020の指定ポケットカードであり、ランクはB-30。指定ポケットカードはほぼ全てがBランク以上のカードである。つまり、入手難易度としては最低レベルの上、30枚のカード化限度枚数はかなり多めの数量であるため希少価値も低い。
このアイテムは、使用者の精神状態を計ることができる。時計回りに針が動けばポジティブな精神、反時計回りに針が動けばネガティブな精神の状態であることを表している。
そしてこのアイテムの最大の利点は、自分の精神状態を計るだけでなく操作することまでできるのだ。たとえマイナスの感情値を示していたとしても、その針を『0』の位置に合わせれば平常な精神に戻る。
ここ数日、私はこの手の精神に効果を与える類のアイテムがないか探し求めていた。グリードアイランドには超常的な効果を発揮するアイテムが数多く存在する。瀕死の重傷や不治の病を治療できるカードや、特に副作用などもなく年齢を若返らせるアイテムまで存在する。それを考えれば、私の望む品もあるのではないかと思った。
結局自力では見つけられず、ツェズゲラに交信(コンタクト)を使って情報を得た。特に見返りも求められず『心度計』の効果や入手方法まで教えてもらえた。
計器のつまみを回し、カタカタと左右に揺れ動く針を『0』の位置に合わせる。しかし、合わせた直後に針は振れる。そしてそれをまた調整するという堂々巡りだった。
どれだけの時間、この時計と向き合っていただろうか。針の位置を調節することだけに一日を費やしていた。単純作業の繰り返しによる思考の鈍化。確かにこの時計は使用者に平静を与えてくれるのかもしれないが、それは根本的な解決にはならなかった。
私の解離した意識はあの一戦が終わった後も元に戻ることはなかった。これまでは戦闘中などの集中状態の時に限定して発動していた分割思考が、常に作動し続けている。
本当に、今ここにいる存在は自分自身なのか。その疑問が尽きることはなかった。疑うことを止めてしまえば、このちっぽけな自覚すら消えてなくなってしまうような気がした。
そして時間の経過と共に、これまでに感じたことのない欲求が積み上がっていった。戦闘時に覚えたあの全能感、高揚感がいまだに治まることなく自分の中で行き場を失っている。力をぶつける対象がなくなり、発散できなくなった感情が強烈なフラストレーションを引き起こす。
破壊衝動だ。自分の思い通りにいかない現状が、猛獣のような凶暴性として現れ始めた。あまりにも幼稚な動物的本能と言わざるを得ない。抑え込もうとすればするほど反発は激しくなる。
怒りに囚われ我を忘れる自分と、それを客観的に観察して抑圧する自分がいる。それは正常な葛藤ではなかった。異なる感情がぶつかり合って一つの結論が出るのではなく、分割思考によって生まれた二つの自分がシックスという一つの肉体に真逆の命令を与えている。
それはさながら一進一退の闘争だった。今はまだ理性が行動を制しているが、その我慢がどれだけ続くだろうか。この破壊衝動の根本原因を取り除くことまでは不可能でも、一時的にでも発散しなければどうなってしまうかわからない。
物を壊したり、モンスターを攻撃したり、最初はそれで気が紛れたこともあったが、もはやこの破壊衝動は歯止めが効かなくなりつつある。もっとその先にある、恐ろしいことを求め始めている。
力を得た目的は敵の撃破にあり、その結果生まれた衝動もまた同じ理由に帰結する。ただの物や魂のない存在を相手に力を振るっても、この飢えが満たされることはない。
ヒソカを呼んで相手をしてもらうことも考えた。今の私は一種のシンパシーめいたものをヒソカに感じる。その感覚から言えば、今すぐにヒソカが私と闘おうとすることはないだろう。
奴はもっと私が壊れるのを待っている。そうなった後で闘った方が面白いと考えている。その私的な感情を抜きにしても、別件で取り込み中のヒソカが私のために時間を取ってくれる可能性は低い。
こちらから出向くことも考えかけたが、それだけは全力で阻止した。あの凄まじい使い手の一団と行動を共にしているヒソカに対して強襲を仕掛けるなど自殺行為だ。今度こそ全員を敵に回すことになる。仮に全員を倒せるだけの力がシックスに秘められていたとしても、確実に精神がもたない。
だから、私は待っていた。この力を振るう相手は、その原因を作った人物であることが望ましい。暴れ出しそうになる衝動を必死に抑え込み、一人で待ち続けていた。
『後で殺す』
あの男は確かにそう言った。時間が経てば薄らぐような殺意ではなかった。あの剣士は必ず、私を殺すために戻ってくる。
あの場では仲間たちから注意を受けて身を引いていたが、それは組織としての足並みを乱すべきではないという規律に基づいた行動であり、戦闘そのものが禁止されているようには見えなかった。
彼らの目的が一段落して仲間の了承が得られれば、あの男が再び私の前に現れる可能性は高い。まさか怖気づいて逃げ出したり、仲間に助太刀を求めるような性格ではないだろう。タイマンで勝負を仕掛けてくるに違いない。
問題は、その時間だ。いつ来るのか。さすがにその予想はつかない。待つしかなかった。
気が遠くなるほど遅々として時間は進まない。ひたすらに手元の時計を弄りながら吐き気の募る待ち時間を過ごす。本当にあの男が来るのか確証もない。それでも愚直に待ち続けた。
そして感じ取る。ほんのわずか、ぴりりと空気に走った変化を直感する。にわかに高鳴り始めた鼓動に気づき、確信した。
移動系スペルによって接近する人の気配だ。人影は一つ。上空から降り立った黒ずくめの男の姿を確認する。
フェイタンだ。待ち望んだ敵の到来に、歓喜のオーラがよだれのように滴り落ちた。時計の針は狂ったコンパスのごとく回転している。握りつぶして部品をばらまく。こんな不良品はもう必要ない。
「ふーん」
戦意を抑えきれずにいる私とは対照的に、フェイタンは品定めするかのような視線を向けていた。そのオーラは至って冷静。以前闘ったときのように激情をあらわにしていない。
何か、根拠のない不安がこみ上げて来る。まさか時間を置くことで敵の怒りが薄らいだのか。いや、それならわざわざ私のもとに来る必要はない。ここに来たということが明確な戦意の表れ、対戦を望んでいるということに他ならない。
「何となく、お前の性格はわかたよ。もしワタシがお前やヒソカと同じような戦闘狂だとおもてるなら大きな間違いね」
そう言うと、フェイタンはブックと唱えてバインダーを取り出した。いったい何をしようと言うのか。呪文カードには、相手に直接ダメージとなる攻撃を加えるような効果はない。何か武器となるアイテムでも取り出すつもりか。
「殺そうとおもてたけど、気が変わたよ。帰るとするね」
フェイタンがバインダーから出したカードは『同行(アカンパニー)』だ。移動系スペル。そのカードが意味するところは、戦闘ではなく逃走である。
この期に及んで逃げるだと。ふざけるな。闘え、腰抜け。私が向けた罵倒を、フェイタンは悠々と受け流している。
「そんなに闘いたいか? なら、選ばせてやる」
言葉の意味が理解できない。何を選ぶというのか。とにかく、ここで逃がすわけにはいかない。何としてでもカードの発動を止めるべく、フェイタンのもとへと駆け出す。
しかし、跳び出そうとしたシックスの体に躊躇が生まれた。分割思考がある可能性を提示する。
呪文カードはそのカードの名称と指定する対象を口頭で明示することにより発動する。敵が平凡な使い手なら速攻でカードを奪うなり喉を潰すなりして阻止が間に合うかもしれないが、フェイタンほどの実力者を相手に通用するとは思えない。
それだけならまだいい。最大の問題はフェイタンが使おうとしているカードだ。『同行(アカンパニー)』は呪文を使用したプレイヤーを含め、その半径20メートル以内にいるプレイヤー全てを指定した街か、指定したプレイヤーのいる場所に飛ばす。
敵味方の区別なく、20メートル圏内にいるプレイヤーは全て効果の対象となる。フェイタンに近づいた状態でカードが発動したが最後、敵の本拠地に引きずり込まれるということだ。
そこに至り、『選ばせてやる』という言葉の真意にようやく気づいた。つまり、闘いたければ誘いに乗れということだ。ここに残るか、移動した先で闘うか。その分水嶺が20メートルのラインだ。
越えるか、越えないか、私に選ばせようとしている。それはつまり、敵が私の精神に生じている矛盾に気づいているということだ。
私が戦闘以外に何も顧みない狂人であったなら、とっくにフェイタンの後を追って勝負を仕掛けていただろう。かつては貴重だった移動系スペルも、ハメ組と呼ばれる呪文カードを独占していた攻略組が脱落したことにより今では入手が容易になっている。こちらから敵を追跡する手段はいくつもあった。
それをしなかったということは、フェイタンの属する組織に対して私が警戒しているということの証左だ。敵も当然、それに気づいている。もし私が単純に怯えているだけだったなら、フェイタンは私を殺すつもりだったはずだ。
しかし、私は理性を食い破ろうとするほどの獣性に囚われながら、必死に敵が来るまで待ち続けた。能動的にではなく、あくまで受動的に始まる闘いにこだわった。それが降りかかる火の粉であったなら、理由を考えずに振り払うことができるから。
逃げもせず、闘いもせず、ただ待つことしかできなかった私の矛盾を敵は見抜き、考えを変えたのだ。どうすれば最も私を苦しめることができるか、最悪の手に思い至っている。
「選べ」
踏み込めば、奈落の底まで落ちるしかない死地。許容できるはずがない。それでも前に踏み出そうとする意志が働く。断崖絶壁に身を投じようとする自分がいる。
どうにか保たれていた均衡が崩壊していく。もともとは一つの機構を形成していた歯車が、互いを削り合う。口からは壊れた機械のような吃音が漏れた。その様子を見たフェイタンは心底楽しそうに笑う。
「『同行(アカンパニー)』使用、シャルナークへ」
最後に伸ばした手がラインを越えることはなく、空の彼方へ消えていく影を見送った。足元に散らばった心度計の破片は、この上なく正確に、与えられた役割を果たしていた。
この話で登場したフェイタンの能力は独自設定になりましたが、『太陽に灼かれて(ライジングサン)』の簡易版みたいな感じです。痛みを溜めこんで一度に発散するのではなく小出しにしているので、継続的に効果が発揮されますが威力が微妙になってます。
ぶっちゃけフェイタンもシックスとの再戦は骨が折れると考えていたので、精神攻撃でいたぶる作戦を落とし所としました。