五つの国家からなるミテネ連邦の西端に、NGL自治区と呼ばれる国がある。人口はおよそ217万人、国として社会基盤となるほどの産業が発展しておらず、人々は村組織を中心とした自給自足の狩猟・農耕生活を営んでいる。これは社会政策や公共事業といった統治体制全般の不備というわけではない。
この国の国民の99%がネオグリーンライフという団体に属しており、『自然のままに』という理念に基づき活動している。機械文明を全て捨て、自然の中で暮らすことを人間の正しい生き方だと信じる団体である。
誰に縛られることもなく、国民が自ら望んだ生活を送ることができる理想郷と言えよう。だが、いかに人が集まり理想を掲げたところで国家を形成するだけの主権というものは、そう簡単に手に入れられるものではない。
それまでは一つの思想団体に過ぎなかったNGLを裏からまとめ上げ、この新興国を独立へと導いた立役者がいた。しかし、その者の功績を知る国民は数少ない。NGLの影の王は、ジャイロという名の男だった。
表向きは隣接するロカリオ共和国の民主化運動が激化した結果独立を果たした形となっているが、侵略的側面がなかったわけではない。『自然のままに』などという綺麗事では済まされない血みどろの過程があった。
人、領土、経済、武力、外交、一から国を立ち上げるにはあまりにも多くの問題が山積している。一人の男が国を相手に戦争を仕掛け、勝利を収めるという絵空事がどれほど馬鹿げているか語るべくもない。
ジャイロにも絶対の自信なんてものはなかった。一手読み間違えば死、という賭けを何百と繰り返し、その全てに勝ち続けた結果として得た奇跡だと思っている。その精神は完全に狂気の領域にあった。
彼が求めたものは金や権力ではない。独裁をしいて甘い汁を吸おうと考えたことは一度もなかった。寛大な指導者としてそれらしく振る舞うことはあるが、それも偽りの姿に過ぎない。彼の本質は一点の悪性であった。
『世界に悪意をばらまく』
父を殺し、自分が人間ではないことに気づいたあの日から、ただそれだけのために生きてきた。誰かにその腹の内を話したことはなかったが、その到底共感されることはないだろうと思っていた滲み出る無性の悪意は、意外なことに人を惹きつける王の資質となった。
薄汚れた飯場から生まれたその悪意は、今やNGLを基点として飲むドラッグ『D2』を世界各地に流通させるほどにまで成長した。機械文明を一切排したこの国の情勢は、麻薬の栽培と密売を手掛ける上で格好の隠れ蓑となっている。
しかし、ジャイロにとって現状は通過点の一つに過ぎない。まだ彼の悪意はこの程度で満たされるものではなかった。次のステージへと進むため、ドラッグに次ぐ新たな事業に着手している。
それが新薬であった。研究者たちはこの薬に人類の進化を実現する期待を込めて『進薬アルカヌム』と呼んでいる。
その研究は今から三年前、国際渡航許可庁が有する隔離種総合管理研究所で始まった。研究チームの主任はタポナルド執務次官。彼が暗黒大陸から持ち込んだ(記録上は誤って持ち込まれたものを接収したことになっている)、『賢者の石』の調査研究を目的として結成された。
スカイアイランド号事件において大々的に存在が知れ渡ることとなったが、この『賢者の石』の研究は何年も前から行われていたものだった。ジャイロはある伝手を経て、シロスズメ島という場所から発見されたこの貴重な石のサンプルを大量に入手し、タポナルドと接触を図る機会を得たのだ。
タポナルドはジャイロが非合法な犯罪組織の長であることを知りながらも協力関係を結んだ。許可庁において彼の立場が危うくなる機運を悟り、研究を継続させるためジャイロに保護を求めたのだ。実際にタポナルドは第六災厄を招き入れた責任を取らされることになったので、その読みは外れていない。
許可庁から逃げ出してでも研究の続行を望んだタポナルドの精神状態は、既にまともではなかった。過去の栄光にすがり、自らの失墜を認められず他者への恨みに染まっていた。研究の成果によって返り咲くことしか頭にない彼を懐柔することはジャイロにとって容易かった。
そして目的の研究データを手に入れたところでジャイロの手の者によってタポナルドは始末されている。もともと事務方の人間であり、お飾りの主任でしかなかった彼を生かして引き入れるメリットはなかった。許可庁お抱えの研究所からデータを盗み出したとなればV5が動きかねないほどの一大事だ。足がつくことを恐れて証拠は徹底的にもみ消した。
そのはずだったのだが、痕跡を消し去る前にジャイロの存在を嗅ぎつけた猟犬(ハンター)がいたらしい。ハンター協会にこのことを知られた疑惑が浮上している。何もかも掌の上、というわけにはいかなかった。
ここ数日、まともに睡眠も取れず疲労がたまった目頭をジャイロは揉みほぐす。ギシギシと耳障りな音を立てる椅子に深く腰掛けた。明らかに一国の指導者が使うにはふさわしくない安物の椅子や机であった。その執務室にどたどたと騒がしく部下が入室してくる。
「ジャイロ! やべぇ! D2の第4、第5製造工場が落された! じきにここにも化物どもが押し寄せてくるぞ!」
起きてほしくない事態ほど立て続けに訪れるものだ。NGLは現在、魔獣種と思われる謎の亜人集団によって侵攻を受けていた。その強さは常軌を逸している。武装した一般人では束になっても勝負にならない。念能力者なら一対一で辛うじて対処可能なレベルだった。それほどの強兵が数え切れないほど確認されている。
ハンター協会からの刺客に備えて防備を固めていなければ、ジャイロは既に殺されていてもおかしくなかった。その点は不幸中の幸いと言える。
部下からの報告の通り、魔獣種の群れがここまで近づいている。命が惜しければすぐにでも逃げ出すべきだ。このままではNGLは魔獣たちによって滅ぼされる。
冗談ではない。ジャイロの夢は後戻りできないところまで膨らんでいた。彼が築き上げてきた悪意の発信地を、侵略者どもに開け渡すつもりは毛頭なかった。
ジャイロは部下に指示を出す。彼には切り札があった。まだ試算の段階だが、その戦力を投じれば魔獣種を駆逐することも可能かもしれない。本格的な実用にはまだ課題が多く残されているため出し惜しみしていたが、今こそ実戦をもってその有用性を検証する時だ。
彼は賢者の石に適合した被験体たちを解き放とうとしていた。
* * *
NGLの玄関口は、国境河川をまたぐようにして生える巨大な木だ。その木の内部に出入国管理局があり、入国者はこの検問所で機械類を始めとして金属やガラス、化学繊維などの石油製品に至るまで厳しく検査され、全て外さない限り入国が認められない。
文明の利器をこの国に持ち込んだだけで無期限の拘留措置が取られ、場合によっては極刑もあり得る。そのため一般的にNGLは危険な思想団体と認識されることが多かった。
普段であれば人の寄りつかないこの玄関口に、今は複数の人影があった。怒りをあらわにする者、悲嘆にくれる者、反応は様々だが一貫して良い雰囲気には見えない。
彼らはNGLの異常を調査するために集まったハンターたちだった。ライセンスを持つプロだけでなくアマチュアもいる。
本来、NGL自治区は裏で活動している犯罪組織の都合もあって、そう簡単に部外者の入国は認められない。ただの観光が目的であっても煩雑な手続きが必要で、入国できても監視役がつきまとい、自由に行動はできないが、ハンターだけはその例外だった。
プロハンターのライセンスは絶大な効力を持つ。ハンターの活動は特別な理由なく妨げることができない国際条約があり、いかに閉鎖的なNGL自治区であっても門前払いはできない。
この場に集まったハンターたちには大きく分けて二つのグループがあった。一つは情報を聞きつけて集まってきた者たち、そしてもう一つは調査から帰還しNGL国内から脱出してきた者たちだった。
二つのグループには明確な意識の差がある。キメラアントを直接見たか、見ていないか。その差は寒気と暖気のように上下に分かれてたゆたっている。残念ながら、この二つの空気が混ざり合って一つの見解を導き出すにはまだしばらくの時間を必要としていた。
「おい、邪魔だ! 何の権限があって道を塞いでる! さっさとそこをどけ!」
検問所の前の道を塞ぐように一人の女性が立ちはだかっていた。彼女の名前はポンズという。いち早くこの事件の調査に乗り出した先発隊の一人であり、帰還することができた数少ない生存者の一人だった。
「……ハンター協会から通達があったはずです。本部から派遣される予定のキメラアント討伐隊を除いて全てのハンターはNGLへの入国が禁止されています」
大きな犠牲を払って帰還者が持ち帰った情報により、亜人型キメラアントの危険度は個人のハンターが手に負えるレベルではないと判断されている。女王アリの摂食交配によって念能力者が敵勢力に取り込まれる恐れもあるため、協会は立ち入り制限を通達していた。
「くっだらね。未知を前に足踏みして何がハンターだよ。俺は幻獣ハンターだ。未確認の亜人型キメラアント形態……そそるぜ。何としてでもハントしてやる」
だが、全てのハンターが協会の指示に従っているわけではなかった。一癖も二癖もある連中が大半を占めるハンターたちの中には、人間性に難のある者も少なからず存在する。
仕事に対して行き過ぎた情熱を燃やす者、協会上層部に反感を持ち命令を無視する者、純粋な義憤に駆られて独善的な正義を振りかざす者、そして私利私欲のためだけに行動する者。
「亜人型キメラアントの全身標本を取って来る依頼を受けてんだ。今なら戦闘兵クラスでも最低200万、女王個体なら何と25億ジェニーの稼ぎになる! 他の同業者に先を越される前に狩らなきゃならねぇ」
まるで敵の危険性がわかっていない。この調子でのこのこと敵の狩猟エリアに踏み込み、その危険性を理解した時には全てが手遅れだ。生還者たちが必死に持ち帰った情報は、欲に目がくらんだ男には届いていなかった。
「しかもお前……プロじゃねぇだろ? オーラがしょぼ過ぎる」
確かにポンズはプロハンターではなかった。ハンター試験では常連と呼べるほどの回数をこなしているが、あと一歩のところで合格を逃している。現在はプロアマの合同チーム四人で仕事を引き受けていた。
念能力についてはハンター活動の中で修行を積み、少しずつ感覚を身につけていた。瞑想によりようやく精孔が開いた段階であり、四大行の基礎を学んでいる初心者だった。
そのためまだ他者のオーラから実力を正確に読み取ることはできないが、それでもこの男にキメラアントと戦えるだけの力がないことははっきりとわかる。
戦闘兵単体が相手ならまだしも、それらを率いる兵隊長クラスにはとてもではないが太刀打ちできない。さらにその上には師団長という階級のアリもいるという。奴らは主に集団で人間狩りを行うため、その戦力差は絶望的と言える。
「アマチュアの分際で何偉そうにしてんだ? 力もねぇザコがプロハンター様に盾突く気かよ!」
ポンズは苛立ちを隠しきれなかった。自分たちがどんな思いで調査に当たったか。その苦労は何だったのかと歯噛みする。
彼女には四人の仲間がいた。しかし、生きて帰ることができた者はポンズ一人だった。亜人型キメラアントの脅威を知った彼女たちは、その時点ですぐに引き返していればまだ全員が助かっていたかもしれない。敵の戦力を見誤り、深入りしてしまったことは確かだ。
だが、それは少しでも多くの情報を手に入れ、後続のハンターに命綱をつなぎ渡すためだった。危険を承知で調査を続け、一人でも多くのハンターに危険性を伝えようとした。
ポンズにとって、こんな浮ついた信念しかない男がどんな死に方をしようと構わないことだが、ここで男を素通りさせれば自分たちが命がけで為そうとした覚悟を汚されるような気がした。
それではあまりに仲間の死が報われない。普段であればなるべく戦いを避けて行動するタイプの彼女であっても許容することはできなかった。念能力者としての実力は男の方が上である。それでもポンズは道を譲らない。その態度に男の血の気がさらに増す。
そんな一触即発の空気が漂う中、一台の大型トラックが検問所前の広場に入ってきた。この場に集まったハンターたちにとっては、またかと思える光景だった。特にNGLに入国する目的がない者がここを訪れる理由はない。つまり、噂を聞きつけた新たなハンターが来たのだと予想がつく。
「おー、やっと来たか。ったく、手間取らせやがって。仲間が来る前にNGLの下見するつもりだったのによぉ」
どうやら、幻獣ハンターの仲間が乗っているらしい。この男の仲間というだけで善良な性格をしているとは思えない。ただでさえ劣勢に立たされているポンズはさらに敵の増援を許すことになってしまう。
「でもまー、何をムキになってるのか知らねぇがよ。退くに退けなくなっちまったお前の気持ちもわかるぜ? その様子を見るに、お前一度調査に行ってんだろ? だったら俺たちの案内をしてくれないか? もちろん、報酬は弾むぜ」
仲間の到着を機に態度を軟化させた男だったが、その視線に邪な感情が含まれていることをポンズは見逃さなかった。じっとりと舐めまわすように彼女の全身に視線を這わせている。この男のハンターチームに同行しようものならどんな目に遭うか容易に想像できた。
「こんだけ俺たちに迷惑かけたんだ。まさか嫌とは言わねぇよな。な?」
最低だ。もはや我慢の限界だった。最初はどんな下衆でも同じハンターとして身を案じる気持ちは多少なりあったが、ポンズはいまやこの男を完全に敵とみなしていた。
勝つことはできないだろうが、ここには他のハンターの目がある。ポンズと幻獣ハンターのどちらに理があるのかは明白であり、最悪でも殺されるようなことになる前に仲裁してもらえるはずだ。加勢してもらえるかもしれないという期待もある。
返答の代わりに攻撃を仕掛けようと毒ナイフを抜きかけたポンズだったが、トラックのコンテナから現れた男の仲間の姿を見て思い留まる。その登場は現れたと言うより、放り出されたと言った方が適切だった。
「ベレット!? マリノエ、タンブラー! ど、どうしたんだお前ら……」
まるでボロ雑巾のような有様で三人の男が地面を転がっている。仲間割れでもなければ誰かに攻撃されたものとしか考えられない。その犯人は堂々と姿を見せた。放り出された男たちに続いて、コンテナの中から歩み出る。
「あー、肩凝った。オレはやっぱり陸より海だな。車の移動は落ちつかねぇ」
「ゴミを相手に余計な体力を使うからですよ」
「……」
降り立ったハンターは異様な三人組だった。
一人はサングラスをかけた大男だ。身の丈以上もある巨大な武器らしきものを担いでいるが、布にくるまれており中身はわからない。もう一人は野外活動には不向きに思える黒いスーツを着こなした細身の男である。しかし、黒い眼鏡の奥から覗く視線には只者ではない鋭さがあった。
そして最後の一人。もっとも異様と言うべきはその少女だろう。端整な顔立ちに美しい銀色の髪、召し物はかわいらしいメイド服だ。狂気的な愛好家が魂を込めて制作した人形のようだった。独りでに歩いていることが異常に思えるほど作りものじみた気配がある。
少女を間に挟むようにして、二人の男が連れ立って歩いて来る。一目見ただけで、その一団の実力はありありと察せられた。
格が違う。ここに集まっているハンターたち程度とは比べ物にならない。そのオーラは圧巻の威厳があった。これほどの使い手であれば実力を悟らせないように隠すこともできただろう。あえて知らしめるための示威だった。
「なんでこんなにハンターがたむろってんだ? 討伐隊以外は立ち寄るなと協会から連絡があったはずだが」
「私たちと同乗したゴミどもと同じ目的でしょう。あるいは……」
スーツの男が周囲を見回す。ポンズと一瞬だけ目が合った。
「まあ何にしても、今の協会のトップはパリストンです。ネテロさんのようにハンターをまとめ上げることはできなかったということですね」
「結局、それでしわ寄せが来るのは現場の人間だっての。おら! 散れ散れ! 後のことはオレたちが引き受ける!」
それ以上語らずとも、彼らが協会本部から送り出されたキメラアント討伐隊であることはわかった。そのオーラを見れば納得できるが、それは二人の男に関してのみだ。
少女からは全く意気を感じなかった。念の初心者であるポンズにもその原因はわかる。少女が『絶』をしているからだ。圧倒的な強者のオーラを放つ他の二人とは対照的に、消え入りそうなほど存在感が希薄だった。
それがむしろ恐ろしくもある。絶によって断たれた気配はその容姿と相まって霞の向こう側に見え隠れする幻覚のような儚さがあった。姿を晒していながらここまで見る者の知覚を狂わせるということは、それだけで相当な技量を持つことがうかがえるが、はっきりと力を示す威圧よりも未知の恐怖を感じさせた。
討伐隊がポンズと幻獣ハンターのそばへ近づいてくる。彼女たちが検問所への道を塞いでいるので、それは必然と言えた。
ポンズの目は他の誰よりも謎の少女へと釘付けになっていた。少女はどこを見るでもなく、それこそ人形のようにガラス玉のような瞳をさまよわせている。だが、それに反してポンズは少女の方から無数の視線を感じていた。
その正体を察知することができたのは、彼女が『虫使い』であったからだ。ポンズは帽子の中に蜂の群れを飼っている。この蜂を使って敵を攻撃したり、手紙を運ばせたりすることもできる。
日頃から虫の扱いに慣れ親しんでいる彼女は、少女から侵食するように漂ってくる視線にそれと同種の気配を感じていた。少女の腕には大きな赤い甲虫らしきものがしがみついている。
少女はポンズと同じ虫使いなのか。肯定も否定もできなかった。ポンズが飼っている蜂は世界各地に近似種が分布している珍しくもない昆虫だが、この少女のパートナーは自分の蜂と同列に語ることができる存在ではないことはわかる。
まるでセンサーのように張り巡らされた視線の網だ。実体がないにも関わらず、蜘蛛の糸に絡めとられたかのように身動きが取れない。虫使いとして身に付いた条件反射的に動かない方がいいと判断していた。虫の目は動く物体を敏感に察知する。
「な、なんだぁ!? 討伐隊だぁ!? ふざけんじゃねぇよ! お前らが俺の仲間をやったのか!?」
しかし、無謀にも幻獣ハンターの男はそこで討伐隊に食ってかかる。ある意味この状況で萎縮しなかったその度胸だけは、一級品と評価するべきなのかもしれない。
「何が討伐隊だぁ! そっちの二人はともかく、真ん中のガキは何!? ほんとにハンターか!? ライセンス見せろライセンス!」
それでもさすがに威圧を放つ男二人に正面から喧嘩を売ることはできなかったのか、怒りの矛先は謎の少女に向けられた。男がぶしつけに少女の方へと手を伸ばす。
その男の行動に、ポンズは言い知れぬ不安を覚えた。理由はわからないが止めた方がいい。だが、ポンズが動くよりも先に少女の目が動いた。それまで虚空に向けて視点をさまよわせていた眼球がぎょろりと男を見据える。
「じゃま」
その瞬間、弾かれたようにポンズの体が動いた。攻撃されたと確信してからの回避。あまりにも遅すぎる。その攻撃は見えなかった。音もない。これまでに体感したこともない“死の臭い”だけが強烈に嗅覚を刺激していた。
だが、ポンズはすぐに自分の体に異常が見られないことを知る。そして敵の攻撃の正体を知る。
何のことはない、ただの殺気だった。絶を解いた少女が道を塞ぐ男とポンズに向けて殺気を放った。それだけで死を錯覚させ、無意識に回避行動を取らせるほどの脅威を与えたのだ。
幻獣ハンターの男もほぼ同様の行動を取っていた。それまでの威勢は消え失せ、絞り出したかのような大量の汗をかいている。開いた道を討伐隊は通って行った。ポンズはそれを無言で見送る。
本当なら、NGLから帰還したポンズがこの検問所前に留まり続ける理由はなかった。この周囲にはまともな店や宿泊施設などは一切ない。さっさと最寄りの街にでも避難していればよかった。
強いて言えば、未練が彼女をこの場に留めた。ポンズのハンターチームのうち二人の死は彼女自身の目で確認しているが、一人だけ生きたまま敵に連れて行かれた者がいた。
それは彼女のチームのリーダー、幻獣ハンターのポックルだ。チームで唯一のプロだった。まだルーキーの域を出ないが、ポンズとは違い念を相応に習熟している。ハンターとしては原義に近いスキルを持ち、豊富なサバイバルの知識と技術がある。彼ならばキメラアントの魔の手から逃げおおせることができるかもしれない。
だが、それが希望的観測であることはポンズも理解していた。だから未練だ。検問所の前で討伐隊の到着を待ち、ポックルを助けてほしいと直談判するつもりだった。
無論、それが叶わぬ願いであることはわかっている。助けてやると安請け合いされたところで信じられるわけもない。それでも彼女にできることは誰かに頼むことだけだった。
「お願い、ポックルを……」
助けを求める相手は既にいない。何を言っても無駄だとわかってしまった。あんなおぞましい殺気を放つような少女に、それを平然と引きつれているような男たちに自分の言葉が届くとは思えなかった。