メルエムの念弾は意図して放ったというよりは、体内からあぶれたエネルギーが自然に吐露されたものだった。単に不必要な余剰分が漏出しただけであったが、ただそれだけで周辺一帯は元の森とはかけ離れた灼熱の大地と化した。
およそ生物には生存不可能な熱波が吹き荒れる地獄の中、太陽念弾の暴威が冷めやらぬ破壊の中心地では、二体の怪物が無数の拳打を交えていた。
モナドの体術は一個の人間が到達可能な武の極致に限りなく近づいていた。それはアルメイザマシンの意思集合体の中で蓄積されてきた莫大な戦闘データや技術をコピーして自身の肉体にインストールし、分割思考の制御をもってようやく可能となる絶技だった。
「アホか!? なにこの強さ!? なんでもう覚醒してんだよ!?」
だが、それに対するメルエムは人間の個の極致を遥かに超えた圧倒的な暴力によってモナドの技をねじ伏せる。両の拳は直視できないほどに眩く輝き、繰り出す突きは無数の瞬きを残して破壊をもたらす。
それは怒りのエネルギーをただ撃ち出すのではなく身体強化に回した応用技だった。オーラによる強化と併用して、一気に数段階上の身体能力を得たメルエムの動きはまさに閃光だった。
その力は人間の世界に限って言えば、間違いなく全念能力者の頂点と言えた。念には相性があり、オーラの多寡だけで強さを測ることはできないという念能力者の常識にはもはや当てはまる存在ではない。
「ストップ! タイムタイム!」
防戦一方の展開に持ち込まれたモナドがメルエムから距離を取って仕切り直す。劣勢に立たされたモナドだが、覚醒を果たしたメルエムを相手に防戦を続けられること自体が、彼女もまた規格外の強者であることを示していた。
その一方で、メルエムもこの戦況を楽観することはなかった。モナドはまだ全力を出していない。防御を打ち破って幾度も攻撃を叩きこんだが、致命傷となるほどのダメージはモナドに残っていない。傷は瞬時に回復されてしまった。
このままむやみに攻撃し続けても勝機は見えないと判断し、メルエムは一旦手を止めて様子を見ることにした。
「わかった。よくわかったよ……さすが原作最強キャラだ。もうお前の勝ちでいい。俺の負けだ」
しかし、そんな彼に投げかけられた言葉は予想もしないものだった。何か策を弄しようとしているのかと勘繰ったが、オーラから読み取った感情を調べて驚く。モナドは本心から負けを認めていたからだ。戦闘開始からわずか数秒、互いに何の消耗もしていない状態からの敗北宣言だった。
「戦ってみて気づいたよ。俺は最初、強い奴と戦いたいと思っていたが、実はそうじゃなかった。大きな力を手に入れて勘違いしてたんだ。別に俺は戦闘に快感を覚えるような変態じゃない。所詮、ただの一般人だった」
自己を確立し、明確な信念を持つに至ったメルエムの精神と、モナドの精神性はあまりにもかけ離れていた。モナドの感情から推測される思考形態は、メルエムにとって直ちに理解できるものではなかった。
メルエムの腕から赤い結晶が生える。その苦痛と快楽の薬毒は彼の全身に回った。
「すごいね、顔色一つ変えないとは。やっぱカリスマが違うよ。俺とは大違いだ。殴り合いでも勝てそうになかったし、完全敗北だよ」
メルエムは戦闘態勢を解くことなく不動のまま立ち続ける。一気に殺そうと思えばすぐにでもできるだろうに、モナドは少しずつサボテンを成長させてメルエムを嬲った。
「でも結局さ、戦いとか勝ち負けとかどうでもよかったんだね。俺がやりたかったのは、ただの俺TUEEEEなんだよ。お前が何者だろうとそんなこと関係ない。たとえ原作最強キャラだろうと」
サボテンの侵食の最中も、メルエムの目はモナドを見据えて揺れることはなかった。そのまま一言も発することなく結晶に全身を覆い尽くされた。
「俺の力の前では等しくゴミなんだってね」
メルエムは死んだ。
つまらなそうにあくびをするモナド。その頬に、背後から忍び寄るメルエムが拳を突き立てた。
「はば――!?」
何が起きたのかと動揺する思考は脳ごとまとめて吹き飛ばされた。神速必殺の拳打が隙をさらしたモナドの全身を完膚なきまでに破壊する。塵も残さず消滅させた。
その直後、奇襲に成功したメルエムの体が瞬時にサボテンに包まれる。そして、消し飛ばされたモナドの肉体は完全に再生したが、彼女に先ほどまでの余裕はなかった。
即席のサボテンオブジェと化したメルエムの遺体は二つある。二人のメルエムがいたという異常事態を目にして、モナドはその能力に見当がついた。
護衛軍を肉体に取り込んだ覚醒メルエムにはシャウアプフとモントゥトゥユピーの能力が備わっており、原作ではその力を本人たち以上に使いこなしていた。モナドはプフの能力『蠅の王(ベルゼブブ)』を思い出す。
プフは自分の肉体を細胞単位にまで分解して作り出した『蠅』を操り、分身を生み出す能力を持っていた。モナドはその能力をメルエムが使ったのだと推測すると同時に驚愕した。
「分身だったのか……あの強さで……!?」
確かにプフは分身を作る能力は持っていたが、その分身体は本体に比べれば格段に弱い。その本体も分身の数を増やせば増やすほど肉体を形成する細胞数が相対的に減るため、どんどん弱くなっていく。
疑問はあったがとにかく今はメルエムの本体が死んだのか確認することが優先と判断し、モナドは『共』を使って周囲を索敵した。
その結果に息を飲む。モナドを取り囲むようにして控える大量の敵。その全てが気配を殺したメルエムだった。モナドは初めて恐怖に近い感情を覚える。
大量のメルエムの正体は、モナドの予想通り『蠅の王』によって作られた分身である。しかし、その能力が単一で用いられたわけではない。そこへさらにユピーの力を複合させていた。
護衛軍の三戦士において唯一魔獣との混成体であるユピーは、その屈強な肉体の強さもさることながら、己の体を自由自在に変形させることができた。触手や翼と言ったもともとの体に備わっていない器官まで作り出すことができる。
そのユピーの能力が、プフの持つ細胞レベルで自己を分割して操作する『蠅の王』と合わさることで飛躍的な進化を遂げた。分身体を構成する細胞に急激な細胞分裂を促して肉体を完成させることで、本体と遜色ない強さにまで昇華させたのである。
もはやそれは分身ではなかった。まさしくもう一人のメルエム。己という存在そのものをいくつにも増やす能力となった。
一人でも想像を絶する強さを持つメルエムが、モナド目がけて殺到する。それだけで前世に渡るまで数度の人生を反芻するほどの威圧が巻き起こっていた。
「ちょ、おま」
一対一でさえ防戦一方だった相手をこれだけの数捌けるわけはない。呆然と立ち尽くすモナドは構えるよりも先に『円』を展開した。
モナドを中心として半径5メートルの円が出来上がる。オーラとの接触感染によって広がるウイルスは円に触れただけでも感染する。メルエムたちは恐れることなくその領域に踏み込んだ。
メルエムは数回の結晶侵食を受けた状況からアルメイザマシンの特性と対策を見抜いていた。『絶』により精孔を閉じることでオーラの流れを絶ち、ウイルスの感染を防いだ。
メルエムの包囲攻撃がモナドに届く。しかし、その威力は明らかに精彩を欠いていた。『絶』によってオーラの強化ができない状態では当然だった。それでも素体の強度と身体能力のみで並みの使い手なら即殺できる威力はあったが、モナドには通じない。
反撃に遭ったメルエムが一瞬にして数体屠られた。絶をしているため結晶化することはないが、致命傷を受ければ死ぬことに変わりはない。という、モナドの思い込みはさらに裏切られる。
倒れ伏したメルエムの肉体が霧状に分散した。本来の『蠅の王』では細胞単位までしか分割できなかった体が、さらに細かく微小な粒子となる。モナドの攻撃はメルエムの体を突き抜けるが、その傷から分解された粒子は再び結集する。
霧の中に溶け込むように現れては消えるメルエムの姿は半気体状の存在となり、モナドの攻撃をほぼ無効化していた。さらにそれだけではない。空気中を漂う粒子はあらゆる場所にメルエムを形成し、攻撃を繰り出すことが可能だった。
突如としてモナドの胸部からメルエムの腕が突き出た。口から体内に侵入し、そこで肉体の一部を再構成したのだ。呼吸すれば無数の粒子が肺に潜り込む。いかに強力な念の使い手でも内部から発生する攻撃には対処できない。絶の状態でも有効な攻撃となる。
「ごぼっ、ぶっ……いい加減にしろ」
そこで吐血しながら苦しんでいたモナドの様子が一変した。凄まじい殺気が形を成すようにモナドの体を包み込む。それはジャスミンに与えたものと同じ『仙人掌甲冑(カーバンクル・タリスマン)』の状態だった。しかし、ジャスミンの時と決定的に異なるのはモナドが暴走状態に陥ることなく力を制御できている点だ。
鎧袖一触。幾重にも折り重なる纏の膜が、正拳突きと共に大気を震わす波動となり発散された。空気中を伝わる振動がメルエムの霧を吹き飛ばす。共振現象が粒子の一粒に及ぶまで精密に破壊し、一撃で数十億のメルエムが殺された。
「まさかこの力まで使うことになるとは思わなかったぞ……だが、ここでお前は終わりだ」
共振攻撃の乱打を受ければ粒子状態であっても無事では済まない。メルエムはモナドを阻止すべく、実体の体を構成して殴りかかった。
だが、オーラを纏わぬ絶の状態では『仙人掌甲冑』まで発動させたモナドの攻勢を止めることは到底できない。メルエムは精孔を開き、全力で身体強化する。それを見てモナドはほくそ笑んだ。オーラを使ったところでアルメイザマシンの餌食となるだけだ。
「……なぜ……!?」
メルエムとモナドの拳は火花を散らして交わった。目まぐるしくせめぎ合う拳打の応酬が二人を中心に爆発し、大地に無数の傷跡を刻みつけていく。メルエムは結晶化することなく拳を振るい続けていた。
「なぜっ……なぜっ!?」
正しくは、全く結晶化していないわけではなかった。モナドと拳がぶつかったその表皮だけが赤く金属化しているが、次の瞬間には剥げ落ち、傷は元通りに回復している。
操作系能力である『蠅の王』は肉体を分割して操作する能力と言える。全ての蠅は意識を共有し、本体の命令に従って行動する。だがメルエムはモナドの能力を見て、あえてそのような使い方を避けた。
つまり、全ての蠅を独立した個としたのである。念によって意思を強制的に統合するのではなく、各々が考えて自らの役割を果たすため統率を取る。細胞単位で考える個が結集し、一つの群れとなりメルエムを作り上げていた。
もし念能力によって全ての個の意識が統合されていたとすれば、そのつながりを辿ってウイルスの感染が拡大し、メルエムは最初の一撃で細胞の一片に至るまで根絶されていただろう。
オーラとの接触により増殖するウイルスは、逆に言えば互いのオーラが触れさえしなければ感染はしない。無数の個の集合体となったメルエムは粒子レベルでオーラを独立させることによりウイルスの侵攻を肉体の表層で遮断し、被害を最小限に食い止めていた。
プフとユピーの力がなければここまで辿り着くことは叶わなかった。そして、その先へ進む意思をピトーが残してくれた。
燃え盛る怒りの炎がメルエムの拳に宿る。その破壊のエネルギーは全てを照らす光となり、悪意に満ちた赤い鎧に叩きこまれる。その衝撃は全力を出したモナドを押し戻し、数歩後退させていた。
* * *
西の空に沈みかけた夕陽が世界を赤く染めていく。モナドとメルエムの決戦は開始から五時間が経過していた。
人の世を滅ぼしうる災厄と相対しながら一匹の蟻の王が戦い抜いたその時間は、奇跡を超えた天来の成果だった。しかし、始まりがあるものには終わりもある。決戦は終わりを迎えようとしていた。
地平線の向こうから規則正しい地響きを鳴らしながら、山のように巨大な影が近づいていた。海底戦艦ギアミスレイニが、終末の時を知らせるように姿を現す。
「いや、よくやったよ。お前は十分頑張った。でも、無理なものは無理なんだ」
粒子状になったメルエムの分体は、モナドの攻撃により殺され、アルメイザマシンに取り込まれながらも細胞分裂を繰り返して何とか生き残っていた。
しかしその度を超えた細胞の酷使は、ついに限界に達していた。多くの生物の細胞は一生のうちに分裂可能な回数が決まっている。人間ならば50回が限度であり、その限界を迎えると老化細胞となりそれ以上分裂しなくなる。それは生物の寿命に直結していた。
メルエムの細胞は無理な分裂をし続け、著しい劣化が起きていた。この一戦で寿命を使い果たしたのだ。とうにメルエムの体は限界を超えており、生きていることが不思議な状態だった。
それに対して、モナドの損耗は皆無である。悪意の鎧を身に纏ったモナドにメルエムは有効なダメージを与えることができなかった。
「俺は不死ではない。お前は俺に死すら生ぬるいと言ったが、その通り。俺は数え切れないほどの死の中にいた。死ぬたびに俺のオーラは“死後強まる念”として、再び生まれた俺となる。それが俺の念能力『終わり無き転生(ノーザデッド・ノーライフ)』だ」
クインから脈々と受け継がれた少女の念人形は制約として発動を維持できなくなった時に術者は死亡するという誓約が課せられていた。それを考えれば、完全に破壊されてしまった状態から復活することは無理に思える。
これはモナドの能力の一部が合わさることで生じた矛盾だった。死が終わりとなるどころか、さらに自らを強くして無限に転生する。アルメイザマシンの中に広がる無間地獄の底でモナドが作り上げた能力だった。
無から生じ、無限増大するモナドの魂は不死者を超えた不滅の存在となる。その死後強まる念のオーラをアルメイザマシンの力で金属化させ、海底戦艦は作られた。増殖する自己を部品(ギア)とし、寄せ集めた(ミスレイニ)彼女の本体である。戦艦一隻を虫の本体として形作ったのだ。
やろうと思えば戦艦以上のものを作り上げることもできる。多くの人間が世界だと信じ込んでいるちっぽけな島々を創造することだってできる。材料には事欠かない。無限に生じる自己。全にして一、一にして全。それが『一なるものども(モナド)』だった。
その破滅の言葉を聞いたメルエムは逆に納得していた。彼はこの戦いの行方を既に想定している。
死路(シロ)。
かつて彼が様々な盤戯に興じ、数々の名手と対局した時のことを思い出す。中には、詰んでいることを悟りながら投了をせず、未練がましく打ち続ける愚か者もいた。まさに今、自分が置かれている状況だった。
それでも、諦めるつもりはなかった。王の矜持が逃走を認めなかった。逃げて態勢を立て直して再戦する。そんな策が通用する敵でもない。誇りを折り撤退した自分が、今の自分よりも善戦する姿を彼は想像もできなかった。
メルエムは、今の自分がここに立つ意味を考えていた。彼がここに存在する理由。それは最愛の者の願いだった。
メルエムにもう一度、幸福な時間を与えてほしいとコムギは願った。その結果、彼は二度目の生を得た。そして彼は、今にも力尽きそうになりながら戦い続けている。この生は彼にとって幸福な時間と言えるだろうか。
では、メルエムにとって最大の幸福とは何か。
それはこの世界が、この時間が、コムギにとって幸せなものであることだ。そのために彼は戦っている。ならば、彼女の願いは確かに叶っていると言えた。
投了などできるはずもない。路を絶たれたのであれば、切り開いて進めばいい。メルエムは刻一刻と迫る死を感じ取りながら、ひたすらに拳を振るい続けた。モナドからすれば、それは死に損ないの悪あがきにしか思えなかったが、メルエムにとっては意味があった。
念能力者にとって戦闘とは自身の能力を高める最高の修行である。念とは生命エネルギーを操る術。命をかけた死闘こそ、己の生に限りなく近づきその力を実感する機会となる。メルエムはモナドとの死闘から自身に眠る力を学び、成長しようとしていた。
成長するために最も必要なことは、己を知ることにある。彼は『過去視』の能力により、自己のルーツを探っていた。彼はコムギの願いを叶えた存在が何者であるか、それは自分とどう関係していたのかを知ろうとした。その行為は意図せずしてモナドの正体を知ることにつながっていた。
研ぎ澄まされた過去視の力はメルエムの起源をさらに遡り、その半身となったアイの存在にまで行き着くことができた。ゼロの子である銀髪の少女が歩んだ人生を垣間視た。その少女の物語がどのようにしてモナドという存在を生み出すに至ったのか。
それは二つの願いが入り混じり生まれたバグのような存在だった。銀髪の少女が願った『神の世界へ転生したい』という願いと、コムギが願った『メルエムの時間を巻き戻してほしい』という願い。それらは確かに実現したが、世界に取り返しのつかない影響をもたらした。
アイの力はどんな望みも叶えることができるが、結果さえ引き起こすことができれば周囲への影響を考慮しない性質がある。『億万長者になりたい』と願った者に、現金輸送中の飛行船を墜落させて金をばらまき渡すように。
『異世界転生』と『時間旅行』という規格外の願いを実現する過程で、この世界に人智を超えた負荷が生じた。それらの莫大な願いを叶える処理が重なり、整合性を保てなくなったこの世界が矛盾を残したまま、いくつかの並行世界と重なって生まれた『願いの副産物』がモナドである。それは理不尽な願いの代償とも言えた。
そのためモナドは本来あり得ないはずの場所にあり得ないはずの肉体と魂を持って存在することにされてしまった。メルエムの過去視をもってしても、モナドの過去を視ることはできない。そこには、ずたずたに引き裂かれた時間の流れと因果の線が混在していた。
アイの力でモナドの存在をなかったことにできるかと言えば、それは“できる”。モナドは自分が不滅者であり絶対の存在であると狂信しているが、アイの現実改変の力の前には無力である。あるいは存在ごと消し去らずとも災厄の力だけ封じることも可能である。
だが、それをすれば世界に生じた矛盾はさらに拡大し、さらなる混濁を招く結果となる。その末に何が起きるのかは不明だが、起きた現象に対してそれをまたアイの力でなかったことにできるかと言えば、それも“できる”。
しかし、どれほど矛盾を修正しようと矛盾を生み出す原因の解消には至らない。傷口が広がるように、世界への負荷は増えていくだろう。
アイの能力は『ヒトの願いを叶える』力である。人間が考えうる程度の願いは叶えられても、人智を超えた領域の願いは叶えられない。それは人の認識すら及ばず、言語や論理として表現することすら不可能な領域である。
つまり端的に言えば、わからない。モナドをアイの力で抹消すれば、どのような影響が出るか予想もできない。極論を言えば世界そのものが崩壊してしまう可能性もあり得る。その予想すらメルエムという一つの生物が想像できる塵芥にも満たない範囲の事象でしかなく、崩壊という言葉では到底表しきれない何かが起きてしまうかもしれない。
メルエムだからこそその真実に気づくことができたが、他の誰かが何も知らずにアイの力でモナドの運命に干渉しようとすることはあり得る話である。モナドは本人も知らない爆弾を設置された状態にある。
まるで悪辣な神によって仕掛けられた罠のようだった。どのような結果に至ろうとも、破滅と混沌をもたらす『世界の破壊者』の体現体。
メルエムは、現実改変の力ではモナドを倒せないという結論に至る。少なくともそれによって運命の大河が正常な形に戻ることはなく、より危険なことになるということだけは因果律の予見から判断することができた。この世界のルールを壊さない範囲で、モナドを倒す方法を見つけ出さなければならない。
死路としか言いようがない。以前の自分であれば、詰みだと即答したことだろう。しかし、このときメルエムの脳裏をよぎった光景は自らの敗北する姿ではなく、九かける九、八十一に区切られた盤面だった。
メルエムが一度目の生を終える間際、コムギと打った軍儀の対局において、彼は幾度もの死路に立たされながらその盤面を覆した。それまでの定石を打ち破る新手を生み出し、相手はそれをさらに超える逆新手を生み出し、そして逆新手返しが生まれた。奇跡に奇跡を重ねるような一手を二人で生み出し続けた。
その思考の源泉が再びメルエムの精神に宿った。『過去視』の能力はより深く時の流れを遡っていく。アイとは何か、その根源を知るに至る。そして、メルエムが出した答えとは。運命の大河に浮かび流れを変えてしまった、途方もなく巨大な敵に対して取った行動とは。
己を限りなく小さくすることだった。『蠅の王』の精度を高め、操作できる分体の大きさをさらに小さく、小さくすることだった。
ガス生命体アイは、いかにして願いを叶える力を行使できるのか。『ガス』という表現は人間に見える状態を言い表しているだけに過ぎない。彼らの正体は『量子生命体』だった。
気体状の外殻を作り出して実体らしきものを形作ることはできるが、彼らは単体では存在することも不確定で非常に希薄な生物である。そのため人間に寄生して自己の存在を安定化させる。
人間の欲望が、物質としての形を持たないアイに自己の観測と存在証明を与える。そのエサを得るために人の欲望を叶えるのだ。量子状態を含んだ情報そのものでありながら生命を持つ彼らは、次元の壁を越え並行世界から望む結果を引き入れる。
『もし、こうであったら』というIFの世界から、人間の願いを最短で叶える形で結果だけを取り出すことができる。中でもアイが自己を確立するために最も必要な人間の感情が『愛』だった。
それは魂という存在を言い表す一つの状態なのかもしれない。メルエムの魂に深く刻み込まれた愛の感情は、物質としての存在ではなくなっていく彼の精神をこの世につなぎとめた。
あと一手、モナドとの死闘がもう一手で終決する。最後の力を振り絞ったメルエムは死を悟った。それと同時に、到達する。ついに、量子の領域。
メルエムの最期の攻撃、輝けるその拳は世界の壁を越えた。拳だけではあったが、確かに彼の肉体は光子となる。彼に発現した能力はアイの持つ『現実改変』ではない。それは『因果律操作』だった。
現実を書き換えるのではなく、いまだ起こり得ぬ未来を実現する。時の深淵を見通すほどに過去視を極めたメルエムの目は未来を観測するまでに成長していた。その能力が世界に過剰な負荷を与えることはない。この世界の理の中で実現可能となる現実を引き寄せる力だからだ。
数多ある並行世界へと到達したメルエムの手は、未来視により観測した結果を自らの最も望む形で確定させた。
掴み取り、引き寄せる。
その手の中には、一つの赤いサボテンがあった。メルエムの体が結晶化していく。勝利とは程遠く見えるその光景が意味することはすなわち、敗北だった。
『因果律操作』とは、起こり得る可能性を即座に実現する力である。天文学的な確率でしか起き得ぬ事象さえ、必ず引き起こすことができる。だが、全く存在しない可能性を実現することはできない。
0を1にすることはできない。
それはメルエムが、万に一つ、億に一つ、兆に一つもモナドに勝つ可能性が存在しないという決定的な証明となった。
拳の量子化に成功したメルエムであっても、ごく近似的な並行世界までしか手を伸ばすことができなかった。詰まる所『因果律操作』とは『現実改変』の下位互換である。念能力によって災厄たるアイの力をある程度分析することはできても、完全に再現することは不可能だった。
もっとも、メルエムが『現実改変』に至るほどの能力を覚醒させることができたとしても、それはそれでモナドに手が出せなくなる。運命の大河を吹き飛ばす爆弾を背負わされたモナドという存在を、アイの力でこれ以上書き換えることはできない。
起こるべくして起きた不動の結末、それが彼の最期となった。
「ひゃっほおおおおお!! どうだい、ゴミエムくぅぅぅぅん!! 生物統一の夢も果たせずこんなところでサボテンになっちゃって……悔しいねぇ! 悔しいねぇ!」
モナドは品性下劣な勝鬨を上げ、敗者の死屍に鞭打つような言葉を投げかけたが、実際のところ彼女はそれほど敵を侮蔑する感情を持っていなかった。
死者を煽るように罵る行為は、もしかしてまだ近くにメルエムが生きて潜んでいるのではないかという疑心暗鬼の表れである。一応は『共』の心眼で粒子の一粒まで見逃さず索敵を終えてはいるが、それでも一抹の不安を拭いきれずにいた。
モナドにとってもメルエムは桁違いの異常性を感じた強者だった。念能力者の天敵と言うべきアルメイザマシンを相手にここまで戦える相手がいるとは夢にも思っていなかった。
しばらく罵詈雑言を垂れ流したモナドだったが、空しくなって止めた。仮にメルエムが生き残っていたとしても、それがどうしたという話だ。モナドの脅威となる敵ではない。
「はぁ……ちかれた……もう帰って寝よ」
モナドは、とぼとぼとした足取りで戦艦の方へと帰っていく。
その背後で。サボテンの結晶に覆い尽くされたメルエムの遺骸の中で、新たな“時”が動き始めようとしていた。