それはNervという組織が生まれる前、セカンドインパクトよりもずっと前、一人の男が一人の女と出会いから始まった。
六分儀ゲンドウと碇ユイ。
二人は恋人となり、そして一人は死に、一人は生き残った。

これはだから、そんな二人の物語だ。

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愛してる。

「――――結婚してくれないか、ユイ」

 

 答えは解りきっている。

 桜の花びらの舞う大学のキャンパスの正門へと続く小道で、彼女は少し驚いたような顔をしてから微かに頷いて。

「喜んで」

 

 

 その時の世界を支配していた色は青だ。

 

 青い空の下に、蒼い時代の物語……それがただの夢なのだということを、碇ゲンドウははっきりと理解していた。

 

 

 

 

 

   ◆ ◆ ◆

 

 

 

 

 

 目覚めた時から全身の筋肉が不調を彼に告げていた。

 いかに常夏の夜の芝生とはいえ、そのまま寝転がって夜をすごすには適しないらしい。上体を起こすのにかつてないほどの時間と負担がかかった。連鎖して軋む節々の筋に無理やり力を入れようとしても上手くいかない。拳を作ってみたが、それを形作るために動員できた握力は微々たるもので、それで造られた拳の儚さは今までの人生の意味を問いかけたくなるほどに弱弱しい。

 そして、呟く。

「朝か」

 拳を作り、開け、また作り。

 それから、彼はもう一度言った。

「朝か」

 握った。

 首を左右にゆっくりと傾けると、こきりと鳴った。

 見上げた空はまだ暗い。朝日は東空を白くさせてはいるが、世界の全体にはまだ届くほどではない。それも文字通りに時間の問題ではあるだろう。そちらに目を向けると太陽が姿を現しつつあった。あと十五分もすればその全容が見えるのではないかと彼はなんとなく思った。特に根拠はないのだが十五分だと。計るつもりもなかったのでそちらから目を逸らして、また体を横たえた。

 そのまま、彼は日が沈むのを待つ。

 沈めば夜となる。

 夜がくれば朝日が昇るのを待つ。

 昇れば朝となる。

 それがこの三日間続いた彼の時間のすごし方だった。

 ただ横になったままでの一日は、常人に数倍するバイタリティを潜在させる彼の体にとっては苦痛以外のなにものでもない。だがその苦痛をこそ彼が求めるものであったのなら、肉体は従うほかはあるまい。彼の精神もやはり常人の比にはならぬほどに強烈で、そして硝子などよりも遥かに脆い。

(もういい)

 と思ったのは彼が誰よりも弱い心しか持たないからだった。それは肉体の持つ「生きたい」と願う衝動を捻じ伏せて、ここに彼を貼り付けたままにしている。

 そうだ。

 彼は死にたいと思っていた。

 そして、肉体は今もなお生きたいと、生き続けたいと願っていた。

 そんな矛盾がひどく滑稽な気がしたが、それを笑う気力などどこにもない。

 

 碇ゲンドウは、すでに死に掛けていた。

 

 

 

 

 

   ◆ ◆ ◆

 

 

 

 

 

 碇ユイという女性は、いまだなお彼の理解を超えている存在だ。

 そもそも、人は人など理解できるという考えを彼は持っていない。人の心は欠けている。欠けているがゆえに他人の心を理解できないのか、それとも理解できないがゆえに欠けているのか。その両方なのか。いずれにせよ、人の心は欠けていて、他人の心は理解できない。それが彼の確信で、事実で真実だった。そんなことは解っていたことなのだ。

 しかしその前提があってなお、碇ユイという女性のことを考えると「理解を超えている」という表現にいきつく。とりあえず、彼の知りえる認識の範疇には彼女の思考が存在しないというのは確かだった。

 最初に会った時からそうだった。

 

「はじめまして」

 

 と挨拶した彼女に「はじめまして」と返した彼は、さっさとその場からいなくなりたかった。何も初対面の彼女をその時に恐れていたということでは当然、ない。場所が悪かった。

 京都大学構内にある食堂である。

 当時の彼は六分儀ゲンドウという名前であり、大学では少しは知れた名前であった。もっともそれは悪名と呼ぶべきものだったのだが、彼は甘んじてそれを受け入れていた。拒否できるものでもなかったからだという自嘲、あるいは諦念もあった。後年に腹心となる、当時この大学で助教授だった男に初対面の折りに語ったことだが、「誤解されることには慣れて」いたのだ。ただ、慣れてはいても積極的に誤解されたいとまで思っていたわけでもなく、例えば女性関係などの噂を立てられたりするのは許容できなかった。論理的な理由があるわけではなくて、生理的なものではあるのだが。

 そうだ。

 こんな場所で、学生たちの見る中で碇ユイと相席になるというのはどんな噂になるものか、想像もしたくない。してみたら恐らく容易にディテールまで浮かぶであろうチープな内容であろうが、それだからこそあまり歓迎できる事態ではなかった。

 いや、ただ相席するだけというのならさほどに問題があるわけでもない。

 問題があるとしたら彼女の行動だった。

 時間は十一時半――という頃合の、食堂に人が集まりつつある中で、一人でうどんをすする彼の席にまっすぐ向かって歩いてきたのである。空いてる席がそこだけでしかないというのならまだしも、まだ空席はいたる所に見えていた。それなのに、まるでそこだけを目指しているかのように碇ユイはやってきたのだった。そして席に着いた彼女はトレイを置いてから「六分儀さんですね」と言った。

 確認をするように、というのとも違っていた。碇ユイは彼のことをよく知っていたのだということがその一言でなんとなく解る。ただ会話を初めるにあたっての脈絡のために言ったのだろう。

「ご存知でしょうが、碇ユイです」

「……知っている」

 何か気の利いた言葉を口に出そうとして、できなかった。

 ご存知でしょうが――という言葉が何を意味しているのかを一瞬考え込んでしまったのだ。

 結局、彼女はよく知れた才媛であり、そのことを意識して言ったのだと結論したのだが、それもどうにもしっくりとこないものではあった。

(そんなに自意識過剰なタイプにも見えなかったが)

 確かに彼はユイのことを知っていたが、それは彼女の大学内の知名度からということではなかった。

 彼女は到底知るまいが、彼が興味を持ったのは彼女の背後にいる組織を調べている過程で碇ユイの名前がでたからであって、大学内の噂だのでは耳にしたことくらいはあるかも知れないが、そんな記憶には残っていなかった。聞き覚えはあるな、という程度には認識していたが、まさに「その程度」だ。この時の彼はそう判断していた。

 違う、と解ったのはこの直後だった。

「はじめまして」 

 と会釈し合った後で、

「何で六分儀さんは、SEELEに関わろうだなんて思ったんです?」

 単刀直入という言葉を体現したかのように、まっすぐに疑問を突きつけられた。

 どういう言い訳をしてここから立ち去ろうかということを考えながらうどんを箸でかき混ぜていた彼であったが、さすがにその言葉には反応した。目を大きく広げた。唾を飲み込んだ。そして、口を開き――ずずっとうどんをすすりこんだ。

 それをどう受け取ったのか、碇ユイは僅かに小首を傾げた。

 怒っているのか、そうでないのか、うどんをすすりながらちらちらと見るが判別はつかない。多分、怒ってはいないのだろうとは思ったが、それには根拠がなかった。あえていうのなら彼の中では「手ごたえがない」と感じたのが全てだ。彼女の話を無視するようにうどんをすするのはわざと怒らせるためにとったリアクションであったのだが、いつもならそういう時に相手から感じる不可視の情動……気配、と呼ぶべきものがなかったのである。それにしても毎度毎度あてになるようなものではないので、彼はそのまま無言でうどんを啜り続けて状況の変化を待った。

 そして、それは一分とかからずに起こった。

 パチン、と割り箸を割る音がした。

 反応のない彼を見限ったのか、碇ユイも食事を始めることにしたらしい。

 ゲンドウが微かに視線を上げると、丼をかき込んでいる彼女の姿があった。

 勿論、そのことで彼がうどんをすすりあげる途中で硬直したわけではなかった。彼が麺を口から四筋ほど唇からはみ出させたままに動きを停止させたのは、初めて彼女のもってきたトレイの上に乗っているもののラインナップを直視したからである。

 丼が乗っていた。

 一つだけではない。

 三つだ。

 そして、それとは別にユイの手には丼があった。

(四つ――か)

 右から天丼、カツ丼、牛丼だ。

 この食堂の丼ものは、あとは親子丼と他人丼の五つであったはずだ。

 だとすれば彼女が持っているのはそのどちらか。

「ん?」

 彼が自分を見ていることに気付き、碇ユイは丼を置いて、

「どうかしましたか?」

 と聞いた。

 ゲンドウはずずっと咥えていたままのうどんをすすりこみ、飲み込んでから。

「いや……」

 何をいったものか解らない。解らないのだが、解らないままに天丼へと目を移した。そして、その時に彼は、どうしてそんなことを言ってしまったのか、本当に自分でも解らないままに「なんで」と口にしていた。

 

「なんで、天丼を後回しにする?」

 

 碇ユイは、世界の秘密を問いかけられた古代の哲人のように、眉間に皺を寄せた。

 それから手元の丼を見て、残っている豚肉を箸でつまみあげる。

「他人丼は――お嫌いですか?」

 先ほどの、ゼーレがどうこうという問いかけよりも、あるいは真摯で真剣であったのかも知れない。そのように思わせる声と口調であった。

「いや……そういう訳ではないんだが」

 むしろ嫌いではない――というべきかどうかを迷って、迷ってからそんなどうでもいいようなことを考えた自分に対して腹が立った。何を馬鹿なことを、と思ったのだ。ここで自分がすべきことは、さっさと彼女の前から出て行くことだ。相手のペースを乱すとかそういうことはもうどうでもいい。それなのに、口は別の生き物になったかのように本当にどうでもいいようなことを吐き出していた。

 

「天丼の衣が、汁を吸ってしまうだろう」

「――――――」

 

 その時の碇ユイの表情は、怒りとも呆けたとも取れるようなものであった。あるいはそのどちらでもあったのか。なかったのか。

 そしてゲンドウはといえばなんて馬鹿なことを言っているんだ、と思いながらも口は止まらない。声は出続ける。本当にもうどうでもいいようなどうしようもないようなことを言葉にしている。

「そもそも、天丼とは丼に天麩羅を載せて食べるということだが、それはつまり天麩羅を旨く味わうためにそうしているということであり、天麩羅とはカリカリサクサクの衣にくるまれているからこその天麩羅なのだ」

 本当に、心底からどうでもいいと思えるようなことである。

「…………あなたは」

 碇ユイの眼差しが変わった。その双眸に宿る光は剣の切っ先にも似た鋭さを持っていた。当然だ、と彼は思った。相手は自分をどの程度知っているのかそれこそ解らないが、初対面の人間に質問を無視されたあげくにこんなことを言われて怒らない方がどうかしている。ゲンドウがそんなことを考えながら爪楊枝に手を伸ばしたのを真正面に見据えながら、彼女はすでにご飯の湯気と汁気で衣がふにゃつきかけている天麩羅の載った天丼を自分の前に運んだ。

 そして軽く深呼吸してから。

 

「お汁を吸った天麩羅を否定するのですか?」

 

 六分儀ゲンドウは息を呑んだ。

 一瞬、この女が何を言っているのか解らなかったのだ。すぐさま脳みそが言葉の意味を理解したが、なおさら解らなくなった。

 この女、何を考えている?

 ……この時のことを後々になって彼は彼女に聞いたことがあるのだが、「さあ、どうでしたかね」と笑ってはぐらかされ続けた。あるいは彼女自身にも解っていなかったのか、もしかしたら忘れてしまったのかもしれない。いや、彼女はちゃんと覚えていたのは確かだ。

 

『私はね、あの時ほど楽しかったことってそれまでなかったのよ。本当よ。本当なのよ、あなた』

 

「だいたい、サクサクの天麩羅を楽しみたいのならば丼にする必要はないんです。あなたの考えは天丼という食べ物に対する冒涜です」

「違うな。カリカリサクサクを楽しみつつ、少しづつ汁気を吸った衣を味わうのだ。そのためにこそ天丼である意味がある」

「二種類の味わいを楽しみたい――贅沢なんですね、あなたは」

「あいにくと貧乏学生の身なのでね。わずかの工夫で楽しめる味が増えるというのならそうするものだよ」

「工夫するということは学究の徒であるのなら当然のこととは言え、その探究心には敬意を表しますわ」

「納得してくれたならありがたいな」

「……だけど、それを人にまで押し付けようというのは傲慢なんじゃありませんこと?」

「……傲慢であり続けるならばいずれ報いを受けるだろうがね。いつもいつもそうであるつもりはない」

「……人によって態度を変えるんですか。それはダブルスタンダードといいませんこと?」

「……君はTPOという言葉を知っているだろうに」

 

 本当に、どうでもいいような会話だった。

 もっとも、どうでもよすぎたせいか何処で打ち切っていいのかも解らずにどんどんとヒートアップしていくのが――正直に言おう。彼、六分儀ゲンドウは、この時に人目も気にせずにどうでもいいようことを言い合っているという状況に、自己破壊にも似た愉悦を覚えていたのである。

 やがて、丼から立ち上がる湯気もなくなった頃になって、二人は黙り込んだ。

 我に返ったと言ってもよかったし、何もかも言うべき言葉を全て言い尽くしてしまったからというのも間違いではなかった。いずれにせよ、もうこれ以上にどうこう言う気力がなくなっていたというのは確かだ。

 彼は冷え切った丼の伸びきったうどんを箸でつまみ、ずずっと啜った。

 彼女も温くなった丼を端からかき込み出した。

 そうして汁も全て食べつくしてから、まだ天丼とカツ丼を残しているユイの前からようやく立ち上がった。

「ごちそうさま」

 と言ったのは、もうこうなったらどうとでもなれという投げやりな気持ちからだ。

 トレイに丼を載せて立ち去ろうとしている彼の顔を、どうしてか彼女は凝視している。呆けたような顔をして六分儀ゲンドウを見ている。口元にはご飯粒がついていた。呆っとした顔をしてそれでは、あまりにも間抜けである風に見える。とても京都大学の誇る才媛とは思えない。

 そのせいなのか。

「――何か?」

 つい、聞いてしまった。もうさっきまでのようなのは御免だと思いながらも、だ。

 碇ユイはその表情のままに「あなたは」と静かに言った。

 

「あなたは、おかしな人ですね」

 

 お前がいうな、と彼は思った。

 今度こそ口にしなかった。

 

 

 

 

 

   ◆ ◆ ◆

 

 

 

 

 

 思い返すたびに、本当に馬鹿馬鹿しい出会いであったと思う。

 もっとハーレクインロマンスのようなとまでは言わないが、もう少しましな出会いがあったのではないかと考えたりもする。学部が違うとは言っても、同じ大学に通っていたのであるから……そこまで考えてから自嘲した。

(ましな出会い、か)

 廊下でぶつかったりとか。

 図書館で同じ本に手を伸ばしたりとか。

 そんなことを思ったというだけで恥ずかしくなってくるような、そういう風なのしか考え付かない。ほとほと、自分の想像力の貧しさに愛想が尽きてくる。あるいは、そういうような出会いをこそ自分は望んでいたということだろうか。

 そうかもしれない。

 いや、出会いというよりも、その後の自分と彼女の付き合いをこそ、やりなおしたかったのだ。

「ユイ……」

 口の中が乾くと、これほどに声を出すという行為が億劫になるのかと彼は思った。それでも、この名前だけははっきりと口にしたかった。自分のひどい声でも、耳にしたかった。

 幻のように目の前で彼女は笑っている。

 ように、ではなくてまさに幻なのだということも解っていた。

 そろそろ体の限界が来ているのだ。

 

『わたし、初めてなんですよ』

 

 幻のユイがそう言って、彼は歯を食いしばった。

 拳に力が籠もった。

 

 

 

 

 

   ◆ ◆ ◆

 

 

 

 

 

 彼がSEELEに関わることになった経緯は、そんなに難しい話ではない。

 単純というか、シンプルですらある。

 

「上司がその組織に属していた」

 

 というものである。

 上司というのは、彼が大学卒業してすぐに就職した会社での話で、その会社というのがスポーツ用品のメーカーだった。大学卒業後にそこの開発部に入り込んだばかりの頃は、それでも将来に夢を持っていた。いずれ一流のスポーツ選手に使用されるものを作り出そうというものだ。そしてその選手が歴史に残る記録を残せればいいのだという……それは野望ではなくて、やはり夢だった。

 ……だとするのなら、今こうして大学に出戻って院生をしながらろくでもない小遣い稼ぎに精を出しているというのは、夢を裏切ったということになるのだろう。

 まして、こうやって好きでもない娘とデートなどをしているというのは、かつての自分からしてみたら唾棄すべきものであったに違いない。

(なんでこんな状況になっているんだ)

 京都市内のちょっと大きめのホテルの、夜景とフランスで三つ星の店にいたというシェフの作る料理が売りのレストランである。そして今は夜だ。差し向かいには、光沢のある黒いイブニングドレスの碇ユイがいる。手には何やらいう高値のつくような名前の白ワインの注がれたグラスを持っている。自分もオーダーメイドで一着だけ作った紺のスーツ。

(現実離れしている)

 そう思ってしまった。

 それは主に目の前で微笑んでいる碇ユイのせいではある。レストランで食事というのは彼とて初めてではない。女性同伴というのもだ。大学に入ったばかりの頃にいた彼の恋人は、ムードを大切にしなさいよこのにぶちん、とよく怒っていたものだが。おかげで女扱いはほどほどに慣れた。いや、慣れたつもりだったのだ。

 碇ユイという女性は、どうにも今まで付き合ったことのある女性たちとは何かが違っていた。容姿が整っているというのはいわずがもなであるが、それだけならば過去の女たちだってそれほど劣るものではなかった。雰囲気が違うというべきなのだろうか。なんというか、話していても同じルールで会話をしている感じがしないのである。独特の呼吸と時間で生きている、人間とは別の生き物と対峙しているような気分になるのだった。

 そんな彼女とこんなところにいるというのが、まったくもって納得がいかない事態なのである。

 ことの経緯はこうだ。

 あの食堂であった四日ほど後、つまり今日になって、また昼の食堂で出くわしたのである。

『あ、六分儀さん』

 と彼女は前のように彼の前にくると、天丼の載ったトレイを置いてから。

『今晩暇ですか?』

 そんなことを聞いてきたのだった。

 そうして、今はここにいるのである。

 ……本当にどう説明していいのか解らないのだが、とにかく気付いてみたら自分は彼女に誘われるままにホテルのレストランで食事することになってしまっていて、聞かれるままにSEELEと自分との関わりを話していたのだった。「何で俺が」とか「もっとましな場所があったのではないか」などという受け応えをした覚えはあるのだが、いつの間にかユイのペースに巻き込まれてしまっているのだった。勿論、こちらから逆にSEELEについて聞き出せるかもしれないという打算のようなものもあったが、同時に一大学助手の知っている範囲のことなどたかが知れているとも思っていた。本当に、どうして自分がここにいるのか解らない。

「それで、六分儀さんはどうしてSEELEに関わることになったんです?」

「だから上司が――まあ、結局、きっかけであったにすぎないかな」

 自分の口がこんなに軽くなっているということが信じられなかった。

 酒のせいか、雰囲気の飲まれてしまっているのか。あるいは彼女がおかしな電波でも発しているのか。

 益体もないことを考えてしまうほど、今の自分はおかしいという自覚が彼にはあった。それでも薬でも盛られたということよりも受け入れられる話である。記憶にある限りでそういうことをされた可能性は皆無なのだ。そのあたりの用心深さは彼がここ数年で身につけてものである。だとしたら何故なのか。考えても答えは出ない。

 話すべきことの全てが終わるのに、一時間近くかかった。

 コース料理の全てを食べ終えてて、デザートの後に改めてワインを頼んでいた。

 全てを聞き終えた彼女は、くいとひと仰ぎでグラスの中に注がれた最後の一杯を飲み干した。そしてテーブルの上に静かに置いて。

 

「つまり――なりゆきのままにこうしている、ということですね」

 

 それは、確かにそうだった。

 話していて、自分でも改めてそのことに気付いていたのだ。

 会社の上司がSEELEに所属しているとは言っても下っ端もいいところであった。その男は開発部ではよき上司であり、会社全体にとっても有能な男であった。多分、家族にとってはよき父であり、夫であったのだろう。ゲンドウにしてみても悪い関係ではなかった。人付き合いの苦手な彼に、対人関係の妙味というのを居酒屋で酔っ払ったままに講釈するような、半ば迷惑でもあるが得難い人であった。それでも、こんなにまで自分の人生を左右してしまうことになってしまう関係になるほどの深い付き合いがあったわけでもなかった。そのはずだった。

「情けない話だがね」

 空になったグラスの縁を人差し指で弾く。

「彼が事故で死んで、遺品を整理していてSEELEのことを知って――そこまでは話したか。それで色々とあってこうしている訳だが、なんで自分がこんなまでしてのめりこんでいるのかがよく解らない」

 もしかしたら、ではなくて選択肢は他にあったはずだ。そして考えたなら、今でもそれは目の前にあるはずだった。

 SEELEなどに関わらずに、ただの平凡で日常に埋没した生活を送ることを選んでも、誰も文句を言うまい。いや、それをこそ皆が望むだろう。危険に関わらせる訳にはいかないと距離をとって別れた彼女、自分が何か得体の知れないことを始めたと知って離れていった友人、家に帰らずにいたらいつの間にか疎遠になった親戚たち……今更前と同じ関係が築け直せるなどとは夢にも思えないが、それでも新しく、もしかしたら以前よりもよりよい関係が築けるのかも知れないのだ。

 何故、自分はそうしないのだろうか。

 そこまでは、さすがに口にしないままだった。こんな内心までほとんど初対面の人間に吐露するなどありえない。ここまで事情を語りながらもそんなことを考える。

「そういうことってありますよね」

 私もそうですから、と碇ユイは初めて自分のことを言った。

「よくわからないままに、私もここにいます。私も、本当は形而上生物学をさんな積極的にやりたいなんて思っていたわけではないんですよ? ただ、私にはその手センスがあるからって、みんなそう言って。そりゃあ、論文とか自分でも会心のできだとは思いましたけどね。だけど。A.T.フィールドにおける緩衝領域の範囲についてはすでに百年前から予言されてた事柄じゃあないですか。私はその解釈をしたにすぎないのに……なんかこー、もどかしくて上手く言えないんですけど……私は……まあ、何事も極めようとしたら難しいんですけどね。なんだか壁に突き当たっているみたいで、だからかなあ。こんなこと考えちゃうのは」

 やめたいなあ、と俯き加減にぽつりと呟いて、潤む目で見上げた。

(そうくるのか)

 その時に六分儀ゲンドウは、やや失望加減にその眼差しを受けた。

 自分の弱音を吐露して、すがりつく。

 ハニー・トラップの基本的なやり方だ。

 そして苦笑した。自分も半ば無意識にそうしようとしていたのではあるまいか。

 いずれこの瞬間の彼は、碇ユイが次にどんなことを言い出すのかが解る気がした。そして、それはあって欲しくないことに正解だった。

 彼女はグラスの横においてあった手を、彼の右手へと伸ばしのだ。

「あの……今晩は、一緒にいていただけます?」

「ここで?」

 声が強張っていたのがどうしてなのか。

 彼女はまた俯いた。

「フロントの人に聞いてきたんですけど、このホテル、空き部屋はいっぱいあるそうです」

 ワインのせいなのか、腕にまで朱が入っている。

「そうか」

 自分は果たしてどんな顔をしているのだろうかと彼は思った。

 いつものように、女を引っ掛けた時のように、笑っているはずなのだ。

「では……そうしようか」

 

 

 

 

 

   ◆ ◆ ◆

 

 

 

 

 

 夜が来ていた。

 目を閉じた瞬間に眠ってしまった――というよりも、意識が落ちたらしい。どうやら自分の体力もそろそろ限界なのかと、むしろ喜ばしく彼は思った。

 拳を作る。そして、開けた。

 思いもかけず、強く力が入った。

(なんでだろうな)

 漠然とそんなことを考える。

 どうでもいいようなことを考える。

「そろそろ、起きて」

 ユイの声が聞こえたような気がした。

 幻聴だろう。

 彼女はもういないのだ。

 もう、彼を起こしてはくれないのだから。

 

 

 

 

 

   ◆ ◆ ◆

 

 

 

 

 

 形而上生物学という学問の源流を辿れば、他の科学の分野と同様に神学に行きつく。

 これは別段に珍しいことではない。自然科学の類はキリスト教神学と共に発展したという歴史があり、形而上生物学もそうであったというだけである。もっとも、他の多くの学問がさらに遡ってギリシャ・エジプトにまでいたるものもあるのだが、形而上生物学はそこまでには至らない。とはいえ、古くからあるには違いない。ほとんど伝説上のことではあるのだが、形而上生物学は十六世紀にイタリアで発見された、トマス・アクィナスが神学大全に書き記さなかった未発表の草稿に端を発しているのだという。本当に伝説じみているのだが、少なくとも形而上生物学のテキストの一番最初にはそう書いてある。当然、そうではないという主張もあるにはあるが、そっちの方はといえばさらに古い時代のソロモン王だのヘルメス・トリスメギストスなどの名前を挙げていたりで、より胡散臭いことこの上ない。

 だいたい、現在の形而上生物学は論理ではなくて実践・観察こそが主流であり、歴史的にどうこうというのはあまり重視されていないとのいうのが現状である。

 そして、碇ユイは現代形而上生物学における第一線の研究者であった。

「こんなでもな」

 などと、恋人扱いされているゲンドウなどはそういうのだが、ユイはそういう憎まれ口を叩く彼を静かに微笑んでみているだけである。

 これではどっちが年上か解らんな、と思いながらも彼はユイのものにした論文を見ていた。

 本来は人体工学が専攻の彼ではあるが、SEELEと関わりだしてから形而上生物学についても一通りのことは学んでいる。時間はいくらでもとは言わないが、ある程度はあった。人付き合いなどを考えなければそこそこ時間は搾り出せるものなのだ。今ではだいたいの論文を読みこなせて、最新の研究成果も理解できるようになっていた。

 それでいてもなお、ユイの論考は難解であり、それ以上に斬新で刺激的だった。

「つまり――要約すると、A.T.フィールドの波長に対して打ち消すそれを浴びせることによって、理論の上では人体を液体にまで還元することが可能だと言うことだな」

「乱暴だけど、その理解で間違ってはないわ」

 ユイは微笑んだままで続き、ともう一つの論文を手渡した。さっきのが五十枚ほどのレポート容姿の束であったが、今度はこの半分ほどだ。

「未完成か?」

 ぱらぱらとめくって最終ページにまで目を通した彼に言われ、ユイは頷く。

「結局、A.T.フィールドの理解のためには超ひも理論まで手を伸ばさないといけないんだけど」

「ふむ……この逆A.T.フィールド……アンチA.T.フィールドというべきか――の問題を超ひも理論における固有振動で解決するというのは、君らしい考えだが。これは反発が大きそうだな」

「今のところ、これを支持していただけるのは京都大学の人たちだけね。ただの身内びいきかも知れないけど」

「冬月助教授だろう?」

「ええ、冬月助教授」

 会ってきたみたいね、と彼女は笑みを深くした。

「あの人、あなたのことを怒っていたみたいよ」

「……仕方ないな、それは」

 怒らせるようなことをしたし、とまでは口にしなかった。喧嘩をして警察の留置所にいれられて、その保証人にあったこともない人間を名指しで呼び出すなどというのは非常識もいいところだ。よくぞきてくれたものだと思う。自分なら「そんなやつなど知らない」とほっておいたところだ。

(思いつきで名前をいっただけだしな)

 その辺りの事情はユイに言ってない。警察から呼ばれたとかの話は冬月助教授から聞いていると思うのだが、どういう風に捉えているのかは彼にも解らなかった。

(しかし、あの人、か)

 その言葉を下の上で転がしてから。

(この女が何を考えているのかは、未だに解らん……)

 つきあっている、ということになっている。いつの間にかそうなっていた。

 あのホテルの一夜の後、しばらく顔をあわせなかったのには理由はない。ただ、予定していたスケジュールにユイの名前がなかったというだけのことである。それらの全てを消化するのにかかった時間が二ヶ月で、その間に三回だけ携帯電話にメールが入っていた。内容はそろいもそろって「今日会えませんか」だった。全部断った。会う理由もないと思ったからだ。

 聞くべきことは全て聞いた――というのが彼の中での結論だ。

 そういうことにしていた。

 当然のことではあるが、彼女の方はそうではなかった。全ての予定を終えて大学内の食堂で、いつもより奮発してカツ丼を注文していたゲンドウの背中を叩いた時の彼女は、何処か不機嫌そうに、それでも笑っていた。

「なんの用だ」

 と反射的に問うた彼に、

「私、初めてでした」

 見事にカウンターを決められた。

 食堂で少数だが二人の会話に耳を傾けていた人間たちが、一斉にぴくりと動いた。そしてそれに反応してさらに別の人間も二人を見る。最悪の連鎖だ、と彼は思ったのだが、もう遅かった。

「今晩も、おつきあいできますか?」

「拒否権はないのか」

 その言葉は確認でも質問でもない。現状における我が身を省みて、彼はそう嘆いたのである。

 

 そして――半年たって、今はこうなっている。

 

 平屋とは言え、一軒家である。

 築三十年、木造建て十五坪というのは、彼が会社員時代の給料となけなしの退職金などで格安で購入したものだ。給料のほとんどを貯金していたとはいえ、それだけで彼の資産はほとんどなくなった。いわば彼の城であった。もっとも、退職からさらに数年が経過して資産は消費した分も取り返している。住処もここだけではなく、複数のマンションを借りていたりしてもいる。この家に住んでいる時間は一年の内で二ヶ月ほどもない。それでもここは最初に購入した家ということでされなりに思い入れはあった訳だが。

 碇ユイというインベーダーは、まず最初にこの家に拠点を据えた。

 そして半年という時間でこの家の本棚に自分の蔵書を詰め込み、さらに新しい本棚と机とパソコンとを購入した。その際に床の補強まで行うという徹底振りだ。ちなみにその金もゲンドウの懐ろから出させた。征服された者として仕方ない、という諦念があったわけではない。どうにもよくわからないままに金を出させられていたのである。この頃の彼は、この女からは本当に人をおかしくさせる電波が出ているのではないかと思っていた。

 そうではない、と気付いたのはずっと後のことだ。

 閑話休題。

 改めて手渡された論文を読み終わった彼は、「読んだ」と素っ気無く返す。

 そして。

「たいしたものだな」

 とだけ言った。素直な感想だった。

「嬉しいわ」

 碇ユイという女性は、たまに率直な言葉を返してくる。

 だけど、と論文を受け取ってから、彼女の表情が歪んだ。

「これだと、どうにも面白くない結末が待ってそうなのよね……」

「結末?」

「裏死海文書」

「――――実在するのか?」

「しているの」

 彼女は椅子を廻してパソコンへと向き直った。

「どうにもね……私は、形而上生物学ってそんなにやりたいからやっているわけでもないんだけど……今は、ちょっと違うの。やりたくないっていうのはそんなに変わらないんだけど、今は意地、かな」

 なんの話だろう、とゲンドウは訝ったのだが、何も言葉にはせずに彼女の言葉の続きを待った。

 時計の秒針が二周りするほどの沈黙の後に、碇ユイはようやく口を開く。

「裏死海文書は、創世をデミウルゴス――偽りの造物主を第一先住民族であることを示唆しているという、半ばオカルト文献の類だけど、内容は否定しきれないものだわ。現実にタルテソス王国関連の資料から素直に読み取れば、地球人類以外の知的生命体の痕跡は間違いなくあるもの。彼らが神の如く生物を作り出していたとしても驚くには当たらないことだし。ただ、彼らは一つのおぞましい結末を用意していたのよ」

「おぞましい?」

 彼女がそんな言葉を口にするというのがまったく予想もできなかったゲンドウは、そう問うてから改めてユイの顔を見る。

 碇ユイは感情のない顔をしていた。

「人を偽の神とすることよ。その材料に魂を使ってね。全ての人間の魂を集めての欠けたところを補っての補完。そこにあるのは人格も記憶も失う代わりに得られる永遠の安らぎ――そうでなければ、人の未来はないというのが彼らの結論よ」

 

 

 

 

 

   ◆ ◆ ◆

 

 

 

 

 

(ユイよ。俺はお前のいない未来などには、もう意味が見出せないんだ)

 生きている意味はないのに。

 彼女はもういないのに。

 

 そんなこととは無関係に、日は昇り、夜は明ける。

 

 世界は無慈悲だと思った。

 せめて自分の代わりに涙を流してくれていたのならば。

 

「あなた、あなた、もう起きて。朝よ」

 

 声が聞こえる。

 彼女の声だ。

 もう二度と聞こえるはずのない声だ。

 

 

 

 

 

   ◆ ◆ ◆

 

 

 

 

 

 セカンドインパクトは、地獄だった。

 それ以外の何の言葉も見出せなかった。

 

 

 

 

 

   ◆ ◆ ◆

 

 

 

 

「おとうさん」

 

「あなた」

 

「おとうさん」

 

「あなた」

 

 声が聞こえる。

 聞こえないはずの声が聞こえる。

 

「あなた、あなた、もう起きて、朝よ」

 

 

 

 

 

   ◆ ◆ ◆

 

 

 

 

 

 彼が結局、自分が碇ユイのことを愛していると自覚したのは、本当に愛していると気付いたのは、あの瞬間だった。

 

 碇ユイは、E計画のために素体とのシンクロ試験に自らを被験者とすることを決めた。また無茶を言い出して、と思った彼は冬月がとめるのを待った。他人が何を考えているのかは完全に理解できない。それでも冬月コウゾウという男が碇ユイに対して好意を持っているということは疑いようがなかった。そのことは解る。そして多分、ユイの方も憎からず想っているのではないかとも。

 だから、ユイが志願して、冬月も反対しなかった時、彼は柄にもなく狼狽した。あまりに柄でもないので表に出さないように必死で押さえた。

「反対しても駄目なんだろうな」

 とは言った。

「ええ」

 碇ユイは笑っている。

 相変わらずの底の見えない笑顔で彼を見ている。

「未来に残したいものがあるの」

「人造の神……エヴァンゲリオン……確かに、あれが完成したのならばその名のとおりに人類にとっての福音となるだろうが」

 君が自ら実験台になる必要はあるのか、と言おうとしてユイの指が彼の唇に載せられた。

「アレは、まさにヒトの作った、神様になるモノよ。今後どれだけの科学が発達してもあれ以上の存在などはヒトには作れないでしょうね。そんなモノなのよ。きっと永遠に――は無理でも、五十億年でも残り続けるわ。そしてそれは、それを作った私たちの栄誉……記憶をも残し続けるのよ」

「ユイ」

 何か、違和感を感じた。その違和感が何かも解らずに名前を呼ぶ。呼ばれた彼女は、さすがに眉を微かに歪めた。

「大丈夫よ。大丈夫だから、心配しないで、あなた。私はきっとこの時のために、この時を永遠にするために今まで研究してきたんだわ」

 それは果たしてどういう意味なのか、気になった。

 だが。

「…………」

 結局、同意する他はなかった。

 

 

 あれからもう何年たったのだろうかと、それを前にした時思ったものだ。

 あれとはユイと初めて会った日のことであり、それとは南極で拾った神様のカケラを素にして作った、ニセモノの神のことだ。

 アダムより生まれしモノ――エヴァ。

 よくできた話だと思う。小説的であるというよりも神話的だ。こうやって新たにこれが作られることまでも裏死海文書は予言していたらしい。それを聞いても馬鹿馬鹿しいと否定する気は起きなかった。すでに予言の一つは成就されている。セカンドインパクトいう形で終わりの始まりを彼は知ったのだ。あの時も、それを知るユイの指示によって、あるいは懇願によって難を避けたのである。

『とにかく、自分のことだけを考えて』

 あれほどに真剣な顔を見たのはいつ以来だろうかと思う。

 反射的に京都大学の食堂を思い出したが、具体的には像を結ばなかった。

 そうしてセカンドインパクトから生き延びた彼は、いつの間にかSEELEの中核にいることになってしまっていた。それは自分の手腕というよりもユイのおかげだということは解っていた。彼女の研究の成果は彼の予想も超えてSEELEに評価されていたのである。そしてそのパートナーとして選ばれていたのだ。いわば彼は彼女のオマケであった。それを疎ましく思うようなことはなかったが、陰で皮肉を言うものたちは幾人もいた。不思議とそれには腹が立たなかったのは、このことを当たり前のことだと受け取っていたからかもしれない。

 何処でどういう経緯から自分が国連の組織であるゲヒルンなどというものの所長になったのかは本当によく解らない。ユイのパートナーであるということで割り当てられた椅子なのだという理解をしているが、そうでもないのかもしれない。何れ自分には荷が重いということだけは確かだった。だからやってきた冬月を腹心として抱え込んだのだが――ユイは「あなたがそう決めたのなら」と表情を変えずにそう言った。自分は彼女にどういう反応をして欲しかったのだろうか、と自答したが、それこそ解らないことだ。

 とにかくそんなことで得た地位ではあるが、一つの目標であり全ての根幹であるE計画の端緒につけたとあっては、感慨もそれなりであった。 

 見上げていた彼の足元にシンジがいた。

 信じがたいことに、彼と彼女の間に生まれた息子だ。

 よもやこの世に自分の遺伝子を残せる日がくるなどとは思えなかった。自分の分身を残す行為をこそ人類は望んでいるというが、むしろ自分の分身なのだと思うと何処かおぞましくさえ思えて、触れるのもなるべくは避けている始末だ。それでも、シンジは自分を父と慕ってくれる。親としての自覚などもてない彼ではあるが、どうにも申し訳なさがたつのだった。だからなのか、この日の彼はシンジの頭に手を載せた。

「おとうさん」

 笑っている。

『あなた』

 ユイも笑っていた。

 気がつくと、自分たちを囲んでいる全ての人たちが笑っていた。

 赤木博士も。

 冬月副所長も。

 笑っている。

「願わくば、この子たちの未来のために」

 自然と呟いていた声を、あるいは彼女だけは聞いていたのだろうか。

 

 どうしてか、プラグの中の彼女は泣いているような気がした。

 

 

 そして、あの瞬間、彼女は消えた。

 

 

 絶叫と嗚咽をもらし、彼はこの時に、本当に彼女を愛しているのだと、やっと理解した。

 

 

 

 

 

   ◆ ◆ ◆

 

 

 

 

 

『彼女は、人類の生きた証を残したいといっていたよ』

 冬月はそう語った。

 全てが終わった後に、虚脱したゲンドウに言ったのだ。

『ああ、生きた証というのはだな、裏死海文書によると、人類は補完計画を行わなかった場合、およそ三世紀以内に遺伝子の劣化からの人口の減少が起きて、千年とたたずに絶滅するという結末が書かれているのだよ』

 だまれ、と思った。

 口にしなかったのは、気力が足りなかったというだけだ。

『……まさか、彼女が君に何らも告げていなかったというのは意外ではあったが……解るな。君ならば、反対しただろう。ああ、意外だとも。まさか、本当に君は、本当に彼女が好きだったのだな』

 よしてくれ。

 彼は立ち上がった。

『碇。彼女は、君を好きだったよ。そして、その愛をこそ残したいのだといっていたんだ』

 もう聞きたくはなかった。

 彼は、逃げ出した。

 

 そして、ここにいる。

 

 四日目の朝日を受けて、目が覚めた。

 まだ生きているのか、ということに自嘲した。

 なんたる無様か。

 もうすでに幻覚を見ることすらなくなっていたが、それを残念だと思うこともない。そもそも、あれは死に際に見る走馬灯の類だ。そしてそれのメカニズムも知っている。体が危機的な状況に陥った時、脳が過去の経験から現状を脱出させるための情報を得るために記憶を掘り出しているというだけである。自分の脳は心に反して生き続けようとしているのだ。それはもは滑稽というのさえとおりこしている。

 いっそ憎くなった。

(このまま、喉をかききって死ぬか)

 その方が確実だ。

 ここは箱根からそんなに離れていない森の中だ。セカンドインパクトから十年もたっていない今では植物相もそんなに濃くはないし。自分はゲヒルンの重要人物であるからには、捜査隊が派遣されているかも知れない。いくら彼らがこの手の専門家ではないにしても、そういつまでも自分が発見されないままであるということはありえない。

 胸ポケットを漁り、ボールペンを探す。

 ナイフでもあればいいのだが、そんなものを持ち歩いていた覚えはない。

 切れ味はないにも等しいが――先が尖っていたら充分だ。

 そう思った。

「ユイ……お前は五十億年でも生き続けろ」

 お前は俺がいなくなっても生きていけるのだろうが、俺はお前がいなくては生きていけないのだ。

 言葉にしてみると、ひどく情けなかったが。

 探し出したペンを逆手に握り締め。

 

「愛してるわ」

 

 声がした。

 ユイの声だ。

 聞こえるはずのない声だ。

 聞いた手覚えのない声だった。

 脳が掘り出した声ではないはずだ。

 彼女からは一度もそういった類の言葉を聞いたことがない――

 

「―――!」

 

 とんでもないことに気付いた。

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 愛しているとも好きだとも、一度として口にしたことがなかったのだ。それははじまりのせいなのか、自分の性根悪さのせいなのか。言い訳はいくらでもできる。いくらでも積み重ねられる。しかし、とにかく今重要なのはそのことではない。

(もしも)

 そのことでそら恐ろしいことを想像してしまったのである。

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 彼女は、もう確かめる術もない。

 ただたださまよい続けるだけだ。

 五十億年も、さまよい続けるだけだ。

 

 彼は、全身の筋肉の悲鳴を聞きながら立ち上がった。

 

 そんなことはさせない。

 彼女を孤独のままに放置するだなんてできようはずがない。

 この時、碇ゲンドウは生き返った。いや、生き返ったというべきなのかは解らない。彼はただ一つのためだけに生きるものとなったのだから、それはもはや人間ではありえなかった。

 ただ一つの想いを果たすためだけに生きる存在は、人間とはいわないのだ。

 激痛にさいなまれながらも彼は歩き続ける。

 今は痛みなど気にならない。

 果たすべきことは一つだ。

 彼女が孤独の中で、どうでもいいような疑問に悩まされないようにすること。どうでもいいような、些細な、それでも五十億年も続くような瑕を残さないようにすること。

 彼は歩き続ける。

 もはや立ち止まることはあるまい。

 彼は命を使う途を知った。

 ただ、愛しているとだけ告げるために、彼は歩き続ける。

 

 そのためにはきっと、どんなことでもするだろう。

 

 

 

 

 

   エピローグ

 

 

 

 

 

 碇ユイは目を覚まして起き上がろうとする。

 できなかった理由はいつものことだ。彼女の体を抱え込み、放そうとしない彼女の夫の腕である。その腕を苦笑しながら抜け出すのは、彼女にとっても一苦労だった。もう慣れたことではあるとは言え。

「結局」

 裸のままに、夫と布団を残してベッドから降り立つ。

「あなたは好きだとも一言もいってくれませんでしたね」

 そういう人なのだとは、知っていた。

 だけど、今日くらいは一度くらいは聞いておきたかったかなとも思う。あるいは今日で現世での別れと知ればいってくれたかもしれないが、そのことを彼女は告げるつもりはない。もしも彼が彼女の真意を知れば反対したに違いない。それだけは確信できる。この人は認めたがらないかもしれないが、私と離れては生きていけない人だ。そう思ってしまうような人だ。本当はそうではないのに。だからつまり、そんなことを思い込んでしまうくらいに私を好きな人なんだと。彼女は知っている。

 そのことは疑ったこともない。

 初めて体を重ねた時から、彼女は知っていた。初めての時から、ずっと彼は自分を抱きしめて眠り込み、なかなか放そうとしてくれないのだから。

(本当に、可愛い人)

 愛とか恋とかいう以前に、寂しがりやなのだろう。それでも、そうやって自分を抱きしめてくれる腕の存在は彼女にとって何よりも暖かかった。大切なものだった。

 

 だけど自分は、その腕の中から離れようとしている――

 

 仕方がない、などと彼女は言い訳しない。だけど、これしかないのだと彼女は思っている。初めて裏死海文書を読んだときから、そこに書かれていることが真実であると実証してから、彼女はこれしかないのだと考えていた。

 彼女が、自分と彼との愛を保ち続けるには、もうこうするしかないのだと。

 

 愛はいつまで続くのだろうと彼女は考えた。

 それは命の続く限りだろうか。

 それとも、彼女たちの愛を記憶したものが残り続けている限りだろうか。

 あるいはもしかしたら、その記録が残り続けている限りは、彼女たちの愛は残り続けるのだろうか。

 そうなのかも知れないし、そうではないのかも知れない。

 いずれにせよ、彼女は愛の永遠を信じていない。

 世界ですらもいずれエントロビーの果てに消滅するのだ。愛というものが残り続けるだなんてことは決してありえない。だから、彼女は愛とは記憶なのだと定義した。それは決して間違いとは言い切れまい。人の命というのは、いわば人の情報である。ならば人の愛も情報であると考えても、それ自体はおかしくもなんともない。

 だが、エヴァの存在を知った時、彼女の中で恐るべき妄想が起きた。

 

「五十億年も――あるいは太陽と月と地球がなくなっても、エヴァは存在し続けられるのなら」

 

 もしかしたら自分たちの愛もその間、ずっと保ち続けられるのではないか。

 どうしようもなく転倒して倒錯していたそれを、彼女はついに決行することにした。

 勿論、裏死海文書の予言の隙をついて人類は生き続けるかも知れない。それはそれでいいだろう。その方がいっそ望ましい。

 ああ、だけどだけどだけど。

(ごめんね、あなた、シンジ)

 限りなく永遠に近く愛を続けられるというのは、あまりにも甘美な誘惑であり、彼女はそれを退けることができなかったのだ。

 そっと布団の上から夫の背中を撫で、彼女は囁く。

「あなた」

 身じろぎした。

「あなた、あなた、もう起きて、朝よ」

「ああ……解っている、ユイ」

 

 

 

「愛してるわ」

 

 

 

 

 

 fin

 

 

 

 




昔、別名でコンペに出し損ね、そして友人のサイトにだしていた短編です。
なんとなく、ツイッターで本編補完系の二次創作の話をしてたら思い出したので投下してみました。
友人のサイトがなくなってからもうかなり立ちますし、彼とも連絡がつかないしまあいいかなと。

掲載時からほぼそのままです。

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