テーブルやカウンターに陣取っていた男たちが、攻撃的な視線を扉の方に向けた。
強烈すぎる人工の光を遮るように月光が侵入してきたからだ。
この地域に住むものならばみな知っている。
「美しい月の産みだしたものに人間の作ったものは決して及ばない」と。
その法則には光すら例外ではないのだ。
誰かが開いたドアから入ってきた光によって電灯の灯りは駆逐された。
ドアはすぐに閉じられる。
新しい客が後ろ手にドアを閉めたのだ。
“竹林郷”の住人たちは産まれて初めての経験をすることになる。
月光と―――その人影、果たしてどちらが美しいのかに頭を悩ませなくてはならなくなるという体験を。
自分を見つめるすべての視線に価値を認めぬ風に、その若者はカウンターに歩き出した。
その先にはこの酒場兼宿屋の主人が皿を布で拭きながら立ち尽くしている。
若者はカウンターの前で止まり、鋼のような声を発した。
「部屋を借りたい」
宿屋であるのならば至極当然の問いかけに対して主人は息を呑んだ。
辺境の小さな町ではよくあることだが、町に宿泊施設は一つだけしかなく、そこを断られたら野宿するしかなくなる。
夜の辺境で野宿をするということは自殺とほぼ同意であった。
「……一部屋空いてますが、いつもは使っていないので……準備が……」
「そこでいい。いつから使える?」
「今、女房に準備させます」
主人の声を聞いて、給仕をしていた女房がそそくさと酒場を出ていった。
若者の美しさに見惚れていたいという気持ちもあったが、宿屋の従業員としての使命感もあったのだろう。
もっとも宿屋の女房の挙動に視線を向けるものなど一人もいなかった。
この世のものならざる美しさのせいだ。
「少々お待ちを……」
若者は部屋の支度ができるのを待つ間、ずっとカウンターで立っているつもりらしかった。
すぐ隣のスツールに腰掛けようともしない。
まるで天空の神々が彫りあげた美しい銅像のようであった。
人の型をした夜そのものでありつつ、凝固した月光の結晶のごとき若者であった。
辺境の宿屋の主人の言葉を聞いて大人しく待っているという至極当然が、ありえない異常にさえ感じられる。
「Dの兄ちゃん!!」
次に酒場の面々を戸惑わせたのは、新たな人物の登場によるものであった。
彼らはすべて村の住人である。
ゆえに入ってきたもののことは顔も名前も家族構成すら把握していた。
子供であることも、まだ九歳であることも、その祖母が頑固者で、ある意味では村の厄介者扱いであることも。
辺境では子供が酒場をうろつくことはそう珍しいことではないので、戸惑ったのは年齢によるものではない。
夜に出歩くこと自体は懲罰ものだが、それとてありえないことでもない。
問題なのは、少年―――ハヤトが呼びかけた相手とその名前であった。
―――D。
今度こそ変哲もない宿屋兼酒場において激震が走った。
そのシンプルな名前をここにいる全員が知っていたからだ。
むしろ、呼びかけたハヤトだけが知らなかったのはまだ世間を知らない子供であるせいだ。
辺境に生きるものたち、貴族とその落とし仔たち―――
世界に跋扈する妖魅・怪異について無知であるということは死ぬことに等しいからだ。
その彼らの情報のアンテナにいつも引っかかる噂話がある。
村から村へと旅する行商人。
護衛や用心棒を勤める戦闘士。
貴族の遺跡の調査に訪れる学者。
彼らが口にする世界中の事実かどうかも定かではない噂話の中に頻繁に現われる伝説の吸血鬼ハンター。
レーザーすら叩き切るという技量と長剣を一振り携えただけで、数多の貴族を屠ってきたという最強のハンター。
その名が―――Dである。
まさか、まさか、この美しい若者があの吸血鬼ハンターなのか。
今度こそすべての視線がぶしつけに注がれる。
当のDは一切気にしたそぶりは見せない。
ハヤトに呼びかけられても顔を向けようともしない。
「Dの兄ちゃん、とりあえずカグヤ姉ちゃんは家に送っておいたぜ。あの姉ちゃん頭がおかしいからすぐにまた外に出ちまうかもしれねえから、つっかえ棒をしておいた。あれで朝までは大丈夫じゃないかな」
少年は木のカウンターの前から動かないDの横にあった椅子に腰かけると、親しげに話しかけた。
Dからの反応はまつたくないというのにしつこく話しかける。
このあたり、子供というのは鈍感なところがあるようだ。
「おい、ハヤト」
一番傍にいた村の男がハヤトに小声で囁きかけた。
少年がきょとんとした顔を向ける。
「なに、おっちゃん」
「……おめえ、そいつを知っているのか」
「Dの兄ちゃんのこと? ああ、知っているよ。さっき助けてもらったんで、村まで案内してきたんだ」
「助けてもらった……だと? おめえ、もしかして村の外に出たのか? こんな夜中に!!?」
村の大人からすれば信じられない愚行であった。
辺境の夜などまともな人間なら出歩くことは決してしない。
悪戯が過ぎるですまされるレベルの行為ではない。
「ううん、違うよ。おいらが出たんじゃない。カグヤ姉ちゃんがふらふらしていたから追いかけていっただけさ」
聞き耳を立てていた大人たちの顔色が変わる。
カグヤの名前を聞きだしたからだ。
彼らにとってその少女の名前は特別な意味を持っていた。
しかし、さらに驚かせる発言をハヤトがした。
「おいらさ、カグヤ姉ちゃんと黑月の鬼に襲われたんだ。死ぬかと思った。でも、ちょうどこのDの兄ちゃんが通りがかかってくれてさ、あいつらをぶっ倒してくれたんだ。凄かったぜ。あんなの見たことも聞いたこともないもん」
「黑月の鬼を―――ぶっ倒しただと……」
「うん。あの背中の剣でばっさばっさとぶった斬ったんだよ。ほんと、いつ斬ったのかもおいらにはわかんなかった」
唖然と絶句で口を閉じられないものがでた。
それもそのはず。
黑月の鬼はここ数百年近く、斃すことはおろか傷つけたものさえいないという文字通りの
もし目撃したとしたら逃げるか隠れるしか村の人間にはなすすべのない魔物どもだった。
それを斃した、だと。
だが、Dのありえないほどの美貌を見るとそれも理解できてしまった。
これほどまでに美しければどんな奇跡でも起こしてしまうのではないか、と。
「だよな、Dの兄ちゃん」
ハヤトが確認をとってもDは一瞥すらしない。
彼にとって余計と思われることについては筋一つ動かしたくないと言うが如き徹底した無視であった。
「ちぇ、愛想がないなあ。そんなんじゃ、一人旅しかできないのもわかるよ。一緒にいてもおしゃべりもできないんじゃさ」
怖れを知らない子供らしい発言だった。
さっきまで勢いよく呷っていた酒がアルコールごと抜けてしまったかのように男たちは寒くなった。
Dの名前だけでなく、あのこの世のものとは思えない闇という概念が人の姿に結実したかのような美貌の持ち主がこの少年の暴言に対してどのような断罪を行うのか想像してしまったのだ。
馴れ馴れしい子供はそんな大人たちの恐怖に気づかず、さらに続けた。
「兄ちゃんはさあ、うちの村に何か用事でもあんの? 言っとくけど、ホント、この村って面白いものはないぜ。月が三つ見える程度でさ」
Dは無言。
会話を成立させようという気は一かけらもないようだった。
「黑月の鬼のことも知らなかったみたいだし……」
村のものにとっては脅威そのものだが、この地域以外に出現しない空飛ぶ鬼の知名度はかなり低いのだろう。
Dは知らなかったようだ。
もっとも、この若者にとってはどんな未知の妖物であったとしても所詮はただの敵でしかなく、剣で切り捨ててしまえば変わらないのかもしれないが。
「うーん」
ハヤトは小さな腕を組んだ。
本気で考えている。
このままでは答えが出るまでここから離れないかもしれない。
「観光だ」
まさか、Dが少年の問いに答えるとは。
しかも、その内容が「観光」などという想像もできない陳腐なものだとは。
「ああ、そうなんだ。
少年は完全に腑に落ちたという顔で手をぽんと叩く。
それから、Dに手を振ると、
「じゃあね、Dの兄ちゃん。明日、うちの手伝いが終わったら色々と村を案内してやるよ。たいしたものはないけどさ」
生意気な口を利いて、ハヤトは酒場兼宿屋から出ていった。
「お部屋の支度ができました」
おずおずと宿屋の女将が話しかけてくると、さきほどまでと同じ無言のまま、Dは案内された部屋に向かう。
その途中、Dにしか聞こえない程度の大きさの声が彼の左手のあたりからした。
「ほお、野宿ではなくわざわざ宿まで借りて腰を落ち着けるなど珍しいことをすると思っていたが、あの小僧に対してもおかしな態度をとりおって。おまえ、どうかしたのか」
「黙れ」
「三つの月など、貴族の手慰みとしてはそうそう大したものではあるまい。おまえはもっと奇天烈なものをふんだんに見てきたはずだ。……それとも、あれか」
けらけらと声は笑った。
「二十三年に一度やってくるというこの地域の元の支配者が気になって仕方がないというところか」
揶揄う声に対して、Dは答えない。
図星という訳でもなく、返事をするのがおっくうなのだろう。
「まあ、いい。おまえの行くところは常に死の影が落ちる運命よ。こことて例外ではない。せいぜいけったいな月見を愉しむがいい」
美しい影がドアの向こうに消えても、酒場兼宿屋に集まった村人たちの視線は長い間逸らされることはなかった。