すでに地球上においては、ここ“竹林郷”にしか存在しないのではないか思われる広大で静謐なまでの竹林をDは進んでいた。
少し前から吹きすさんでいた風もやみ、わずかな音でさえ泥の中で沈殿してしまっているかのようだ。
人によって手入れがされている竹林ではない。
むしろ、まともに陽光の下で見れば荒れ果て、腐りかかった自然の侘しさを助長するのだけでしかないのだが、Dという美の化身が踏み入れたことで異様に生き生きと輝きを放つ光景に変化していく。
滅びを前提としていながら、巧妙に隠されていた何か疑似的な生命が気配を醸し出しているようでさえあった。
「見事なものだな。これに比べると貴族がとことんまで機械化した進化の果ての居城は、いかにもつまらない無味乾燥の児戯そのものに思えるわい」
「こんな場所も、かつてはそう珍しい景色ではなかったと聞いている」
「ほう、誰に聞いた?」
左手の問いにDは答えなかった。
いつものように無言のままサイボーグ馬を歩ませる。
しばらくすると、朽ち果てた廃屋らしいものが現われた。
珍しいというべきか、それとも相応しいというべきか。
廃屋はほとんどが木材で建てられていた。
建てられてから何百年も経っているだろうことから、黒ずんで木目などはほとんど認識できない。
ただし、完全に腐っている訳ではなかった。
ところどころ壊れたり崩れたりしているものの、雨風を凌げる程度には健在といえた。
Dは馬から降りた。
廃屋の周囲には腰までの高さしかない柵が巡らされていた。
まさか塀のつもりはないだろう。
この程度の高さでは野生化した妖魔犬《バイオドッグ》でさえ防ぐことはない。
柵はここまでの道中で散々見てきた竹を刈って短くしたものを、藁を編んで作った紐で結って作られた貧弱なものだった。
「見た目はこれじゃが、貴族の原子停止技術で時を止められているぞ。おそらく半永久的に放っておいても壊れそうにないな」
「それだけではない。見ろ、これを」
Dが眼を落としたのは藁の結び目の一つだった。
「モルドレイの結び。貴族の姫が夫になるものに送るための手芸で使われる結び方だ。あまりに複雑すぎて人間には結ぶこともできないと言われている」
すると、このみすぼらしい柵とも呼べそうにないものをここに作ったのは貴族なのだろうか。
「なるほど。みすぼらしく見えるのはわざと、ということか。わざわざこんな凝った造りにするするとはここに棲みついていた貴族は相当に変わった美的感覚の持ち主だったのだな」
それにしてはあまりにも侘しすぎた。
広大な竹林の真ん中に建てられたにしては小さすぎる木製の建物と、ただ建物と周囲を隔するためだけに張り巡らされたような竹の柵。
こんなものが絢爛豪華を極めた貴族文化の成果と呼べるのだろうか。
左手に首というものがあれば、当然何度も捻ったことであろう。
D自身はあまり疑問を抱いていないようではあったが。
「変わった貴族の遺跡じゃのお。ここの竹林といい、けったいな場所だ」
Dは柵の一か所に開閉のできる入り口らしいものを見つけ、そこから敷地内に入った。
彼ならば簡単に飛び越えられる程度の柵であったのに、律儀に入り口を使ったのである。
そこから入るのが正しい礼儀作法であるかのごとく。
建物の大きさは、辺境の資産家の居宅ならばよくみかけられる程度のものだった。
貴族のものとは到底思えない。
だが、間違いなく吸血鬼が拵えた場所なのである。
無造作に開いていた玄関らしい入り口から中に進む。
暗い。
遺跡特有の無限発光灯などはついていないようだ。
光を採りいれるための窓もないらしく薄暗い内部だった。
この廃屋は外から見たよりも大きな建物だった。
階段を昇る二階というものは一切存在しないうえ、一般的に開閉する戸というものがほとんど見つからない。
床に引かれた凹状の窪みを左右に動く引き戸によって部屋と部屋が仕切られ、廊下もまた同様の引き戸で区分されている。
廊下は縦に長い木製の板張りで、室内も同じような造りになっている。
外部と建物を分けるのは一切窓のついていないこれもまた木製の引き戸であった。
「なんじゃ、この家は。昔、見たことがある気がするが……」
「東方の独自の建築法だ。様式は今でもたまに目にするが、ここまではっきりとしたものは珍しい」
「知っておるのか、D」
「ああ。横開きの戸は襖というものだ。外部と仕切っているのは雨戸」
「なるほど、聞いたことはあるの」
Dは左手の感嘆の声を無視して、周囲を見渡した。
あたりは真の闇に近いものがあったが、彼の視力でも十分に見通せる。
襖の一枚を開けて視界を広くする。
だが、それでも彼の探しているものは見当たらなかった。
「何を探しておる」
「捜索を続けよう。奥に行けば敷いてあるかもしれん」
それっきりDは答えず、廃屋の奥へと進んでいく。
徐々に闇に同化しつつ、吸血鬼ハンターは歩む。
何を求めて?
実のところ、Dにすらはっきりはしていなかった。
ただ、この廃屋に何かがあるというハンターの勘を信じていただけだ。
かすかな調べが奥の方から聞こえてきた。
Dですら聞いたことのない奇妙な楽器の音であった。
弾くような音の調子からすると弦楽器。
ハーブのように優雅な音だった。
辺境はおろか、都で耳にするどんな曲よりもスローテンポなくせに身体全体に染み入るような不思議な調子であった。
まるで曲の邪魔をしないかのごとくさらに無音でDは音のする方角に向かった。
どれだけの暗闇を抜けたのだろう。
Dが調べの発信源にまで辿り着くと他よりも三倍以上は広く見える室内の真ん中に一人の女が座っていた。
女とわかるのは小柄で床まで伸びた黒い髪をしていたからだ。
背を向けているので顔はわからない。
赤い布地の服のようなものをまとっていた。
「おまえは何ものだ」
Dが問うた。
特段大きく張りあげなくともよく通る低い声だ。
「……」
女は答えない。
ただ、演奏は止まった。
女の手元に横になった長い木製の黒い櫃のようなものが楽器だったのだろう。
「ここは貴族の持ち物だった場所だ。ここに居るというのならば、おまえも貴族かその関係者のはずだ」
それでも無言。
振り向こうとするそぶりも見せない。
Dはゆっくりと廊下から女のいる部屋に踏み込んだ。
辺境を歩くために頑丈だけが取り柄のブーツの堅い足裏が柔らかい感触を伝えた。
板張りではなかった。
一見幾何学的ともとれる目の細かい模様の入った床であった。
「これが畳か。はじめて見る」
「ほう」
警戒する気もないのか、背中の長剣を抜こうともせずにDは女のところへ行こうとすると、その瞳が凄絶な光を放った。
突然、世界が入れ替わったのだ。
いや、そう見えた。
なぜなら、部屋の天井が一瞬で焼失し、三つの光がDへと差し込んだからだ。
彼のよく知る月と、黑月と赤朋の三つの天体が発する光が。
三色の月光が照らし出す室内は、闇すらも溶解させるDの美貌と相まって冷厳な死の牢獄と化したかのようであった。
光のすべてが時を怯えさせ止めたかのごとく。
ただ、Dがこの廃屋に侵入したのはまだ昼前。
月が輝く頃合いではない。
いったい何が起きたのか。
音もなく何かが飛んだ。
下から撥ねあがる銀の光がそいつを両断した。
にもかかわらずDは抜刀したのち構えを崩さない。
手応えがなかったからだ
空を切ったに等しい虚しい手応え。
Dが目標を仕損じるはずがなく、であるのならば今向かってきたものはなんらかの手段をもって斬撃を掻い潜ったのだ。
楽器の前に座り込んだ女は動いていないが、天井がなくなった空の高みからDを見下ろすものがいた。
爛々と殺意の光を双眸に携えている。
「どのようなものも月の光のしたでは身どもにはかなわぬとしれ」
そいつは巨大な羽根を持ち、一矢たりとも身にまとっていない人間であった。
黒光りする装甲のような皮膚と、脚よりも手の方が長い四肢を持った歪んだ姿かたちが人のものと言えるのならば。
そして、異常なほどに長く鼻孔のない巨大な鼻を有していた。