こうして真夜と深夜、お互いは計画を進める事にする。特に決断した深夜は予め選定していた
。その為、実質的に深夜直属の執事と言っても過言ではなく、四葉とは別に、深夜自身が独自に調整技術を研究していた事を知っている数少ない人物の一人であり、信頼を寄せている数少ない腹心でもある。こうして交渉担当に選ばれた紅林は深夜の部屋に呼ばれた。
ノックをした後、深夜の返事を待ってから扉を開けた紅林は一礼して入室する。
「失礼致します。深夜様」
「紅林、ご苦労様。これから重要な交渉を担当してもらいます。少し長い話になるからそこに掛けなさい」
普通、掛けろと言われも執事である以上、額面通りに受け取るのを躊躇するもの。紅林は失礼を承知で躊躇しながらも向かい合う椅子に腰を降ろした。
「貴方には、今回重要な交渉を担当して頂きます」
「畏まりました。何なりとお申し付けくださいませ」
紅林は内容を聴かずに返答した。
「頼もしいわ。今回の交渉は失敗は許されませんので気を引き締めて下さいね。さて、早速本題に入ります」
深夜がそう告げると紅林はこれ以上ないぐらい背筋を伸ばした。
「まず一つは、FLT第一営業部課長司波龍郎の精子を入手する為の交渉担当です。知っての通り、FLTは素性を隠して四葉が出資している企業です。こちらの素性を明かさずに出資者の執事として交渉して下さい。期限はなるべく早く、遅くとも十日以内には必ず入手して下さい。交渉材料については資料を纏めてあるわ」
「畏まりました」
紅林は一切表情を変えず、余計な口も挟まずに深夜へ即答した。そんな紅林の様子を見て深夜は満足そうに微笑んだ。
「次は、警察庁公安局に所属している桜井穂波さんを四葉に引き入れます。こちらに関しては私も交渉に参加するつもりでいますが、貴方には、先に一度接触してもらい大まかな交渉をしてもらいます。その際、私の素性を明かしても構いません」
「それでは早速、細かい打ち合わせに入ります。これが今回の交渉に必要な資料です」
真夜はそう告げると二冊の書類を手渡した。今時珍しい紙の謀体で、今の時代では滅多に使われる事が無くなった物の一つである。紅林は一言返事をして二冊の書類を隅から隅まで目を通した。紅林が目を通し終えるのを確認した深夜は、細かいところを説明しながら詰めていき、ミーティングは終了した。
深夜の部屋を出た栗林は、手筈通りに司波龍郎との交渉を進める為に電話を掛けた。その相手はFLT社社長である。社長室に直通回線を繋げて、翌日の司波龍郎とのアポイントを取り付けた。何故なのかは理由を明かしたりしない。
取引先から直帰しようとしていた司波龍郎の携帯端末に着信が入る。その相手は社長本人であり、翌日の午後一番に第一会議室へ来いと招集命令が下された。これに際して、他言無用だと念を押された為、龍郎の心中は穏やかではなかった。
自宅に着くと妻の小百合が先に帰って来ており、龍郎をリビングで出迎えた。
「お帰りなさい、龍郎さん」
「ただいま、小百合」
龍郎と小百合は龍郎が中三、小百合が中一の時に交際を開始、小百合の大学卒業と同時に結婚した。二人の間には子供はなく、お互い子供はまだ不要だと考えている事や、出世欲が人一倍強い二人は、子供に時間を割かれるのは避けたかった。小百合は夕飯の準備をしていて、エプロン姿だった。龍郎は先に風呂に入り、着替えてから夕食を取るため、小百合の待つリビングに向かう。小百合はいつもより顔色の優れない龍郎の様子が気になった。
「何かあったの?」
小百合は龍郎に問いかけたが龍郎からの返事はない。龍郎は社長直々に他言無用だと念を押されていた為に返事が遅れてしまう。龍郎は迷ったが小百合に話す事にし、先ほどの電話の件を説明した。話を聞いた小百合も、龍郎が呼び出される理由は検討が付かなかった。
翌日、呼び出された第一会議室に到着すると、龍郎はノックをして返事を帰って来るのを待った。
「入りたまえ」
社長の声で言われたのを確認して龍郎は扉を開けた。
「第一営業部課長、司波龍郎です。招集命令につき出頭致しました」
一礼した後、社長の側に見慣れない自分と同年代の外見で、妙に迫力がある男性が居る事に龍郎は違和感を感じていた。龍郎の緊張を他所にその男性は社長に一言声を掛けた。すると、社長がその男性に一礼し、龍郎の側を通り過ぎて部屋から出て行ってしまう。予想外の展開に訳が分からないといった顔の龍郎に目の前にいる男性が口を開いた。
「突然の招集命令で戸惑っておいででしょうが、此方に来て掛けて頂けますか?」
その声に意識をはっきりさせた龍郎は言われるがまま向かい合わせに座る。
「では、自己紹介させて頂きます。私、紅林と申します。本日はFLTの出資者でおられる我が主の命を受けて参上致しました。今回、私の主人は司波龍郎殿にご協力頂きたい事があり、勝手ながら社長を通して、直々に招集命令を下す事で面会の機会を作らせて頂きました」
突然の招集命令の意味を理解した龍郎であったが、そんな大物が自分に協力して欲しい事とは何かと警戒心を引き上げる。一瞬、顔が強張る龍郎だったが、すぐに持ち直して普段通りを装った。紅林には龍郎が警戒心を引き上げたのが手に取るように分かったが、そんな事に一々反応したりはしない。
「....招集命令の理由は理解出来ました。それで私にどのようなご用件でしょうか?」
平常心を装いながら龍郎は自分のペースを崩れまいと、営業で培ってきた処世術で対抗しようと心構えていた。龍郎の心中など紅林にとっては手に取るように把握出来るが、ここで敢えて警戒心を解くような真似はしない。深夜からの情報で、龍郎の性格を熟知している紅林にとっては、警戒させたままの方が交渉を有利に進められると考えたからである。龍郎の警戒心がしっかり上がった事を確認した紅林は、更に龍郎の警戒心が
「...これからお話する事は呉々もご内密にお願い致します」
そう言うと紅林の目付きが一層鋭くなる。
紅林の思惑通り、龍郎の警戒心が
「司波龍郎殿には精子をご提供して頂きたいのです。素性については申し上げる事は出来ませんが、主人は子供を切望されております。しかしながら相手が誰でも良いという訳でもありませんが、必ず龍郎殿でなければならないわけでもありません」
紅林は曖昧な言い方をした。しかし龍郎は紅林の思惑通り、突拍子もない事を言われて固まってしまっている。龍郎の思考は文字通りグチャグチャになっていた。そんな龍郎を他所に紅林は説明を続ける。
「我々が独自に相性が良い遺伝子をお持ちの方を選定した結果、今回、他の二人様と龍郎殿と合わせて三人が最終候補に選ばれました。このお三方ならどなたでも構わないと決めた主人はある決断を致しました。本日、同時刻に交渉を開始して一番早く決断された方からご提供して頂くと。その際、御本人以外の判断が横槍にならないよう、最後は決断力のある方に決めると仰せになりました」
勿論、これは真っ赤な嘘であり、交渉しているのは龍郎しかいない。紅林の思惑は龍郎の判断力を奪う事で、此方の思い通りに交渉を進める事にある。思惑通り思考が纏まらない龍郎は、いきなりの事で暫く固まったが何か発言しなければと焦っていた。想像以上に此方のペースに持ち込めている事を確信した紅林は、ここで一つ目の策に動く。
「主人からはご提供の意思がお有りなら、それ相応の御礼をさせて頂くと申し束っております。龍郎殿にとって良いご提案だと自負しております」
紅林の言葉は物騒な返答ではなく龍郎は無意識のうちに安堵した。それどころか、龍郎の心を擽る言葉でもあった。現金な龍郎は冷静さに欠きながらも紅林のアメに食いついた。
「因みに提供した際の見返りとは何か、聞かせて頂いても良いですか?」
「以前から龍郎殿と小百合殿が懇願されている部署への異動と、それなりの役職をご用意させて頂きます」
龍郎は思わず背筋を伸ばした。自分ばかりか妻の小百合の分まで、役職を用意されていると知って一気に気持ちが傾く。龍郎は以前から開発部に強い拘りを抱いており、小百合も以前は研究部門に在籍していた。が、思うような結果を出せず管理部門に異動になっている。小百合が研究職に未練がある事を知っていた龍郎は、最初は不躾な頼みかと思ったが、その不躾な頼みの見返りは喉から手が出るほど渇望していたものだった。ここで龍郎はもっと甘い蜜が啜れまいかと欲が出てしまう。同時刻に交渉しているという、他の二人の候補の動向が気にはなったが、龍郎は甘い蜜をもっと啜るために紅林にどう反撃しようか考えていた。その時、紅林が左腕にある時計に目を落とす。一瞬、冷や汗が出た龍郎が反撃に出ようとした瞬間、紅林が先に口を開いた。
「申し訳ありません」
紅林が時間を確認したのを詫びたあと、更に続ける。
「交渉が纏まり次第、主人に連絡を入れる事になっておりまして、他のお二方にも魅力的な提案をご用意しているが故に、主人の見立てでは交渉に三十分も掛からないだろうと言われているものでして」
確かに自身だけで判断しないといけない上に、その本人にとって魅力的な見返りが用意されていれば、即決も十分あり得ると龍郎は思った。そこで自分の甘い考えを捨てて、龍郎は形振り構わず決断した。
「分かりました。そのお話お受け致します」
龍郎がそう決断すると、紅林は内心でニヤリとした。ここまで僅か二十分...その短い間で深夜からのお使いを纏めてみせる。そんな胸の内を微塵も見せず、打ち合わせ通り深夜に連絡すべく、自身の携帯端末から電話を掛けた。
「ご主人様、司波龍郎殿よりご提供の件、承諾頂きました」
紅林が音声のみの相手に伝えると、端末から実に色気のある声が響く。龍郎は背筋に電気が走ったような感覚を覚えた。それほどまでに深夜の声を聞き入ってしまう。一体、どんな女性なのかと興味が沸いたと同時に、そんな女性に選ばれた自分自身を誇り、酔っていた。
「ご苦労様、貴方が最初に交渉を纏めてくれました。よって正式に提供者は司波龍郎殿に決定します。後の段取りも引き続きお願いね」
そう告げて電話は切れてしまう。もっと声を聞いていたかったが、紅林の視線で現実に引き戻された。その後正式に書類にサインした。その際、幾つかの規約を設けられた。
ー今回の交渉について、一切を生涯口外しない事
ー此方の素性を探らない事
ー提供は異動後すぐに行う事
ー役職は用意するが異動後の優遇は一切行わない事(実績があげられない場合、再異動もあり得る)
以上が履行されない場合、それ相応の対応を取る事と書かれてある。龍郎のサインが済んだ契約書を鞄にしまい、栗林はそのまま社長室に足を向けた。社長には出資者権限で龍郎と小百合を以下の役職に異動させるよう命令が下る。
司波龍郎を開発部第一課主任を命じる
司波小百合を第一研究部門に新チームを開設し、その主任を命じる
なお、異動は三日以内に完了させるものとする。紅林がそう告げると社長は一礼して了承した。社長は四葉が出資しているとは知らされていない。が、自身も四葉の鶴の一声で社長に就任した為、逆らう事など出来はしない。こうして司波龍郎の精子入手任務は決着した。
深夜の計画通りになった。穂波は原作と歳も違いますし、調整体でもありません。次回、穂波が登場