そこは誰も知らない辺鄙な場所、知らずの村。
夏に呑み込まれるように、その物語は始まる。
何だか、長い夢を見ていたような気がする。
空っぽの列車の中、私は一人、目を覚ました。
灰色の空も、知らない街の色も、やけに惚けたものに思えていて。
緩やかな速度で、窓の中を飛んでいく景色を横目に、私は自分が世界から捨てられたような錯覚を覚えた。
ふと、車両と車両を繋ぐ境目の、扉が静かに開く。
黒みがかる赤い目をした、藍色の毛並みの、二足歩行の猫が入ってきた。
大きな瞳で、私を見据えた見知らぬ猫は、尻尾をゆらりとうねらせると、こちらに歩み寄ってきた。
「やあ、待ってたよ。」
にぃっと、少し不気味とも取れる笑みを浮かべて。
見知らぬ猫は、私を歓迎する意を見せた。
「…?」
頭上にハテナを浮かべている私。
そんな私が、よほど阿呆のような顔をしていたのだろうか。
猫は声を上げて、ケタケタと笑った。
「ごめんごめん。
君とは前にも、何処かで会ったような気がして…ね。」
デジャヴというやつだろうか。
悪いように言えば、新種のナンパかもしれないが。
見知らぬ猫は、私の前の座席によいしょっと腰を下ろした。
「ところで…。
…いや、先に名前を教えてもらおうか。
君は誰なのかな?」
彼は何かを言いかけて、その話題を自ら、自己紹介に切り替えた。
血のような色の二つの目が、私を捕うように見つめていた。
「…空蝉。
私は、空蝉だよ。」
忘れかけたことを思い出すみたいな、ちょっと不自然な沈黙を挟んで、私は名前を告げた。
見知らぬ猫は頷きながら、私の名前を口に出して、繰り返す。
「良い名前だね。」
聞くだけ聞いて、猫は彼自身のことは明かさなかった。
思わず拍子抜けした声で、私は見知らぬ猫の素性を問う。
「ははは、俺の名前?
きっと教えても、すぐに忘れてしまうよ。」
そういうものだろうか。
確かに記憶力に自信は無いが。
小さく首を傾げている私に、猫はさっき遮った話を続けた。
「ところで、空蝉さんは何処に行くの?」
「知らずの村。」
今度はつっかえることもなく、ストンと答えが出た。
見知らぬ猫は、少ししわになった地図を眺めて、ふむふむと首を縦に振る。
「誰も知らないから『知らずの村』か…、洒落た名前だよね。
空蝉さんは、今までにそこには行ったことあるの?」
「覚えて…ない。」
それもそれで、きっとわくわくするよ…と。
彼が上手なフォローを挟むと同時に、車掌のアナウンスが流れた。
どうやら、もう知らずの村に着くようだ。
荷物の入った鞄を肩に掛け、私は席を立つ。
「おしゃべりしてくれて、ありがとうね。」
結局、最後まで謎に包まれたままだった、見知らぬ猫。
面妖な微笑みを見せると、減速する車内でふわりと立ち上がり、扉のところまで見送りに来てくれた。
「それじゃあ、空蝉さん。
行ってらっしゃい。」
電車を降りた私に、彼はいつまでも手を振っていた。
私も猫に軽く会釈をすると、背中を向けて、また一人になって歩き出した。
駅のホームを出ると、けたたましく鼓膜を揺らす蝉時雨。
じっとりとした暑さが私を包み込み、今になって、あの列車の中の空調の心地よさを実感する。
眩みそうになる目で、太陽を睨みつける私。
その私を待ち構えていたかのように、建物の影から犬の女性が顔を出す。
「あなたが知らずの村の、新しい村長さんですね!」
モコモコとした、触り心地の良さそうな毛並み。
つぶらな瞳をパチクリさせた彼女は、突然、突拍子も無いことを言い出した。
「あ、いきなりすみません。
私は村役場に勤めている、しずえと申します。
以後、お見知りおきを。」
いや、気になっているのは、そこじゃない。
胸にぶら下がる、ネームプレートを見せて、はにかむしずえさん。
「村長になるとは、聞いてないんだけど…。」
私がこの村に来ることは、知っていたようだが。
何やら、情報の行き違いがあったみたいだ。
戸惑う私をよそに、しずえさんは大して焦ってはいなかった。
「あら、そうでした?
でも大丈夫ですよ。」
何がどう大丈夫だと言うのか。
人違いなのか、デマを流されたのか、そこら辺は不明のままだが。
「人は役割があってこそ、輝けるものです。
私も、お手伝いはさせていただきますので。」
話をトントンと、一方的に進められ。
いろいろ腑に落ちないまま、私は村長に就任させられてしまった。
誰も知らない村ってだけあり、今まで村長という存在が出来上がらないくらいには、寂れたところなのだろうか。
そんな失礼なことを考えながら、私はしずえさんから村の地図を受け取り。
すでに用意されているという、自分の住処を目指すことになった。
「村長って、何するんだろう…。
あ、いちおう住人は何人か住んでるんだ。」
地図を頭上に掲げて、そこに並ぶ、先住の者たちの名簿を読み上げる。
彼らの中から、村長を決めることはできなかったのだろうか。
重々しくため息を吐く。
「あ、でも、村長になるってことは、この村の一番偉い奴の座にいるってことじゃん。
住人は一日一回、村長の空蝉に金を貢ぐ制度でも作ろうかな。」
さっきまでのため息を、もうケロリと忘れて、村長になるのが少し楽しみになった私。
横暴極まりない発言を繰り返しながら、自分でも知らなかった、自分の楽天家な一面を知ったのだった。