負け犬達の挽歌   作:三山畝傍

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負け犬、紐育の夢に浸る

 イッシュ地方のあらかたを回り終えたあたしが腰を据えたのは、またしても自己基準ではそれなりに高い値段のビジネスホテルだった。どの地方も戦後は治安の悪化が激しいが、元々治安が良くなかった旧アメリカのイッシュ地方は尚更のことで、安宿をこよなく愛するあたしもこの地方ではそれなりの宿にしか泊まれなかった。安宿を選んだばかりに財布やポケモン、ひいては命を失うなんて馬鹿げた真似はしたくなかったからだ。偉いさんや企業、情報屋、その他必要な筋に接触する用事は済んだし、めぼしいポケモンも捕まえるか交換で入手できた。イッシュのジムバッジも集めてチャンピオンにもなった――二日ほどしか維持できなかったが――し、本当ならこんなところはさっさと引き払ってカントーに帰りたいのだが、事情があって二週間ばかり足止めを食らっていた。

 

 シンプルで小綺麗なことに加え、一階に美味いピザ屋が入っているのがこのホテルの気に入っているところだ。イッシュ料理は馬鹿にしきっていたあたしだが、肉とジャンクフードは素晴らしく美味かった。魚に関しては加熱したもの以外なく、高級店はともかく、あたしが普段使うような安い店だとろくなものが食えないのが辛く、ケバケバしい色とギトギトした油に加え溢れかえる砂糖が入った甘味に関してもやや厳しいところだ。イッシュ料理は概ねカロリーがとてつもないのが人によっては難だが、あたしは「骨と皮しかない」と言われたこともあるくらいなのでちょうどいいだろう。今日は一日何も予定がないので、朝から香ばしい匂いのするピザとフライドチキンを出前させてのんびりするのだ。申し訳程度につけられたサラダを食べてからパイプに葉っぱを詰めて、マッチを擦り火をつけ、ゆったりとくゆらせた。あたしにとっては甘ったるい、干し草のような匂いが部屋を満たす。匂いが部屋に染みつくほどはやってないし、禁煙だとは言われなかったので、部屋の空気と自身の肺を汚す事に何の抵抗もなかった。誰だったか、「自分の意思で自分の身体を痛めつけるほど素晴らしい娯楽はない」という言葉にあたしはしみじみ同意していた。人に迷惑をかけないのだから、酒も草も何が悪いのだ。

 

 肺を満たした煙から、血管を伝わって脳がいい感じに酔ってきたのを感じながら、緩やかにパイプを置き、ピザに手を伸ばした。とろりと糸を引いて切れるチーズと、サラミやピーマンの鮮やかな色が食欲をそそる。普通に食べても美味いのだが、食欲増進効果(マンチー)のお陰で更に美味い。とろりとしたチーズの甘味やピーマンのほんのりとした苦味、サラミと香辛料の刺激が舌に実によく響く。コーラも美味い。普段の自分なら二きれも食べればうんざりしそうだが、今日はいくらでも食べられそうだ。ピザ、フライドチキン、コーラ、時々パイプと、静かな幸福感があたしを満たした。

 

 ピザが残り二きれになったところで、ドアがやや乱暴にノックされた。そこそこ回ってきていたあたしは億劫な気持ちと戦いながら声を上げた。モンスターボールか拳銃か一瞬迷うが、使い慣れない銃よりモンスターボールだと判断して手を這わせた。

「どなた?」

「ユウケ、わたし。サラよ。開けてくれる?」

 小さく溜息をついて、あたしは机に備え付けのボタンで鍵を開けた。やや金髪寄りのダークブロンドを左側のサイドテールにまとめ、そばかすをうっすら化粧で目立たないようにした、朴訥さとスクールカーストでいうところのチアが七対三程度でせめぎ合った雰囲気の少女――といっても、あたしより年上の十四歳だが――が入ってきた。地味なダークグレーのスーツを着ていても判るグラマラスな体型だが、あたしは内心、彼女本来のナード気質共々誤魔化しているのでは無いかと疑っていた。イッシュでのビジネスパートナーのサラだ。

 他の地方では珍しいトレーナーのマネージャー業だが、とにかく訴訟を初めとしたトラブルの多いイッシュ地方ではそれなりに見かける存在だった。試合や大会参加の手続きや法的トラブルの対処、トレーナーに必要な契約や申請手続の代行を主な仕事とする。主な収入はトレーナーの賞金のうち一部と企業スポンサーからの広告料、そして賭博有であればトレーナーへの賭け金のリターンだ。ブリーダー資格があれば、トレーナーの孵化させたタマゴの余り(俗に言う不採用個体)の売却益も含まれる。

 彼女が後ろ手に扉を閉めて鍵をかけるなり、けほけほと咳き込み始めた。

「ちょ……!ちょっと、あなた、これ煙草じゃないわね?!」

「昔々、大統領ってのがいた時に、そいつの中でも吸ってた奴がいたらしいじゃないか。大体、これが何の匂いかわかるってことは、経験はあるんだろう?」

「わたしは一度試しただけ!臭いが染みつく!窓開けるわよ!換気扇も!」

 あたしよりほんの少し背が高いだけの彼女は、外では意識してハスキーな声を作ろうとしているのだが、今は地声だ。メゾ・ソプラノの声があたしの耳朶を打った。

「折角いい酔い方をしてるのに、バッドになったらどうしてくれるんだい」

 嫌味を言いながらも、パイプレストにパイプを突っ込んだ。煙たがる人間を前に吹かす気持ちにはならなかったし、このパートナーとは一か月ほど一緒に旅をしたことがあり、口やかましさは重々承知している。長々とした説教からの悪酔い(バッドトリップ)もご免被るからだ。

「それで、オフの予定の無い日に連絡もなしで押しかけてきて、何の用事?ピザかチキン、草のお裾分けが欲しいならあげるけど」

 一瞬、ピザに目線が動いたのをあたしは見て取り、箱ごと手渡した。何か言いたそうに口をもごもごさせた後、素直にピザにかぶり付くのを「まるで餌付けか何かだ」と考えつつ好ましいと思った。この騒がしいパートナーの隠しきれない正直さを、あたしは気に入っていた。

「チキンも食べる?」

 美味そうにピザの残りを食べきってから、彼女は首を横に振った。空箱を受け取って、開けてないコーラの缶を渡した。空箱はそのままゴミ箱に右から左に突っ込み、嬉々としてプルを開けるのを眺めた。ぷしゅ、という心地いい音で彼女は要件を思い出したらしい。

「ありがと。いや、そうじゃなくて。昨日と一昨日の試合の話!」

 あたしは隠すこと無く溜息をついた。

「最初の一戦以外はどう考えても実績的には格下の相手ばっかりだったでしょ!」

 要はトレーナーの勝敗を対象にした賭け試合が主目的の地方大会に出て、そして実績を残すのがあたしの仕事だ。昨日一昨日で六連敗するまでは、悪くない戦績だった。一戦目の相手にあたしのジャローダがリーフストームを外して躓いてからは、普段通り運に見放されたような負けが続き、こうやってお冠のサラが乗り込んできたという訳だ。

「トレーナー経験があるんだから、あたしもポケモンも手を抜いてなかったことはわかるんじゃないの、サラ?」

 ぐ、と言葉に詰まる彼女は勢いよくコーラを飲んでから言葉を継いだ。

「とにかく、次は勝って。何としてもよ。最後の一戦じゃない。それに、次負けたら表彰台は無理よ」

 はっきり言ってあたしにはどうでもいいことだが、マネージャーとしての彼女はそうも言っていられないだろう。ちょっとした借りを返すために頼みを受けてこの大会に出たのだから、もう借りは返したと言えばそれまでだが、今後の彼女のマネージャー業を考えれば、成績を優位に終わらせた方がいいに決まっている。

 もはや鎮静的な程良い酩酊感は吹き飛んでいた。あたしは重い溜息をもう一度吐いて頷いた。

 

 カントーはポケモンバトル最先端地域と見なされている。特にポケモン業界で日本語が事実上の公用語として扱われているのは、旧日本地域が前大戦の被害が一番少ない先進国で、連邦復興の経済面で多大な貢献――日本資本の多大な進出と引き換えにだが――も大きいが、ポケモン研究最先端であることと、ポケモンバトルのルールを最初に確立し、戦術面でもリードし続けているのが何より大きい理由だ。そのカントーのみならず、ジョウトでも元チャンピオンの肩書きを持つあたしの試合は、自他共に認める落ち目という今に至っても注目の的だった。いや、むしろ落ち目だからこそからかもしれない。立場を変えて見れば、カントー流の強さを実績で裏打ちされたトレーナーを、そうでない地元イッシュのトレーナーが破るというのはカタルシスのあるものだろう。アウェーの敵対的な雰囲気で、野次とゴミが投げ込まれるのも致し方なしというところだった。

 

 今日の対戦予定はこの一戦だけ、相手は確かバーニーとかいう、あたしと同い年の若手トレーナーだった。朝刊の下馬評によるとかなり将来を嘱望されているらしい。地元の言葉(英語)であたしを口汚く挑発していた。本来はリーグ規定の違反行為だが、一言二言程度であればどこでも見逃されるのが慣習だった。言葉のわからない田舎者が、という顔をする彼に、あたしも口の端を歪め、小声の英語で返事をした。

『クソカントー人が、くらいわかるよ。ポケモンへの指示より罵倒の方が上手いのかな、ボク?』

 彼の顔がさっと紅潮した。審判が一瞬だけ両者の顔を見て、試合開始を宣言した。

 

 この頃のイッシュの地方大会ではまだポケモンにアイテムを持たせるのは一般的ではなく、アイテム所持と見せ合いなしでの三対三だった。あたしはゴウカザル、相手はギャラドス。あたしのゴウカザルはギャラドスのりゅうのまいにアンコールを入れて、相手の交代際にステルスロックを撒いた。実況の残念そうな声が僅かに苛立たしい。交代で出てきたのはドンファン。がんじょうの効果はまだ失われていない。おにびを覚えていればまだ居座れるのだが、あたしは素直にゴウカザルを手元に戻した。捕まえてから初めて人前に出すボールに触れた手の震えを押さえつけ、あたしはボールを投げて叫んだ。

「行け、スイクン!」

 スイクンから放たれる冷気と雄叫びと共に会場がしんと静まり返った。一瞬の沈黙の後、沈黙前よりも大きなどよめきが会場を支配した。旧日本地方のポケモン協会公式リーグ戦では希に見かけるポケモンではあるが、北米大陸、特に連邦地域内では極めて目撃情報が少ないからだろう、イッシュの公式リーグ戦ではほとんど見ないポケモンらしい。つまり、観客もトレーナーもほぼ初めて見るポケモンということだ。ルール上は違反では無いものの伝説のポケモンを使うことへの罵声や、相手トレーナーを応援する声に混じり、感嘆やスイクンへの美しさへの称賛らしきどよめきが僅かに聞こえてくるのもその証拠だろう。対戦相手を見ると完全に色を失っていた。推測だが、昨日までのあたしのパーティは草や電気に強い構成になっていたから、恐らく三匹の中にスイクンに強いタイプのポケモンが入っていないのだろう。いずれにせよドンファンは一撃で落とせないので、あたしはまず削ることにした。

「スイクン、ねっとう!」

「ドンファン、じしんだ!」

 お互いにさしたるダメージは受けていないのを見て、彼の顔色がややマシになった。あたしは小さく鼻を鳴らして次の指示を出した。

「めいそう」

「じしん!」

 後一度はめいそうをさせられると踏んだあたしは同じ指示を出し、がむしゃらでの痛撃を狙った相手を空振りさせ、ねっとうでドンファンを撃破し、ついで出てきたギャラドスもかなり弱らせてやけどを負わせたところでスイクンは力尽きそうになったので、あたしは「ねむる」を指示した。

くそったれ(damned)!何て丈夫な奴だ!」

 頭に血の上った彼は、眠っている間にスイクンを落とそうとギャラドスにかみくだくを命令していたが、やけどを負った状態ではさしたるダメージにもならない。目が覚めたスイクンのれいとうビームでギャラドスが倒れ、蒼白になった彼は最後の一匹、シャンデラを繰り出した。もちろん、ねっとうの前に一蹴され、結果的にではあるがスイクン一匹で三タテとなった。あたしと対戦相手両方への凄まじいブーイングの中、審判はあたしの勝ちを宣言した。

 

 試合終了後、コートの隅で満面の笑みのサラがあたしに抱きついてきた。

「あなた、最高だわ!どうして今まで使わなかったの?!」

 口やかましいことを除けば、彼女の人柄もルックスも嫌いでは無いが、折角の柔らかな感触を楽しみつつ疑惑の解明を図る気には到底なれず、あたしはぽんぽんと彼女の背中を叩いて引き剥がした。

「絶対トラブルの種になるからだよ。あんた、顔が割れてるんだから、これから帰るまで絶対離れないでよ。今日はホテルに一緒に泊まった方がいいかもしれない」

「パーフェクトな勝ちのせい?競技は競技だから、大丈夫だと思うけど。それに、あたしはヘテロよ」

 冗談めかして笑う彼女に、あたしは真顔で首を横に振った。

「珍しいポケモンを奪いに、身の程知らずの間抜けか、金持ちの手下かが来るよ。きっとね」

 

 銅賞でブーイングを受けながら淡々と地方新聞のインタビューなどのスケジュールをこなし、関係者入口から会場を出たのはもう二十二時になろうという頃だった。不安げな表情のサラの手を取って最寄りの地下鉄駅へ大股で歩き出した。

「ね、ねえ……警察とか、それか、ポケモンに乗って帰るとか……」

「駄目。あたしがイッシュにいる今のうちに掃除しておかないと。サラのポケモンは、そこまで強くないでしょう」

 彼女の泣き言を一蹴し、周囲に気を配りながら歩いた。あたしの腰のボールホルダは生体認証付きのものだから、少なくとも全部のボールを外すまでは殺される心配は無い、はずだ。

 

 工場の塀と車道に挟まれた道を行くことしばし、駅の手前百メートルほどの、壊れたまま放置されている街灯の下でスキンヘッド、モヒカン、逆モヒカンの三人の男に声を掛けられた。中身の無い威嚇混じりのお喋りをあたしが要約すると、「お姉ちゃんとカントー人のガキ、スイクンとついでに他のポケモンも寄こせ」だった。涙目になっているサラの手をぎゅっと握ってから一歩前に出て、あたしは口を開いた。

「で、依頼主は誰?」

「はぁ?おめーのポケモン売っ払うのになんで誰かの指図がいるんだよ?」

 リーダーらしきスキンヘッド――ご丁寧に額に鎌と槌のマークが入っている――が喚き散らしたお陰で、依頼主がおそらくいないということだけはわかった。腰のボールは四つ、三つ、リーダーらしき奴はあたし同様ボールホルダを隠していて判らない。あたしはスキンヘッドを指さして言った。

「少し黙りな」

「あ?!てめッ……」

 言葉の途中でスキンヘッドは崩れ落ちた。あたしの指さしの合図で、影の中に忍ばせておいたゲンガーが相手の背後まで回り込んでから襲いかかり意識を奪ったからだ。何が起こったかわからずに動揺する二人の回復を待たずに、あたしはボールを二つ投げた。

「行け、ゲッコウガ、オムスター!」

 相手の二人も動揺しながらボールを投げた。スカタンクとレアコイルだ。

「ゲッコウガ、たたみがえし!オムスターはからをやぶる!」

「スカタンク、つじぎり」

「レアコイル、ほうでんだ!」

 ゲッコウガが素早く地面から防楯を作り出し、オムスターとゲッコウガ自身を守る。ほうでんでダメージを受けたのはスカタンクだけだ。

「てめー何しやがる!」

「うるせえ!」

 おそらくスイクン対策のためにポケモンを選んだのだろうが、会場併設のポケモンセンターでパーティをまるごと集団戦用に入れ替えてきたあたしには関係ない話だ。揉め始めた連中のチームワークが悪そうなのを見て、あたしは内心ほくそ笑んだ。オムスターにまもるを指示してから、ゲッコウガを交代させ、パラセクトを出した。スカタンクはオムスターのまもるに攻撃を弾かれ、パラセクトはレアコイルのでんき技を悠然と受けたので、あたしは次の指示を出した。

「パラセクト、いかりのこな!オムスターはもう一度からをやぶる!」

 パラセクトが真っ赤な胞子を振りまくと、相手のポケモンは激高してトレーナーの標的指示を無視し、狙いをパラセクトに変えた。もう一撃ずつ、これも辛うじて耐えた。あたしはパラセクトをボールに戻し、ニョロトノを繰り出した。ニョロトノの特性あめふらしで、ぱらぱらと雨が降り始めた。雨の勢いが徐々に増していく中、あたしは攻撃命令を下した。

「オムスター、なみのり」

 雨下で二度からをやぶったオムスターのみず技の火力は、乱暴に計算すると通常の六倍だ。相手のポケモンは一撃でくずおれた。ニョロトノからもう一度パラセクトに交代させ、特性かんそうはだでパラセクトを回復させつついかりのこなを打っているだけで相手のポケモンは完全に壊滅した。逆モヒカンの方は余りの負け方にへたり込んでいた。

「嘘だろ……一匹もやれてねぐえっ」

 へたり込んだ方の意識にゲンガーがとどめを刺し、もう一人もゲンガーが眠らせた。あたしは手袋をして、わからせてやる材料にするため、阿呆共の懐を漁り始めた。それがいけなかった。最初に眠らせたスキンヘッドが目を覚ましたのだ。

「あ、あァッ?!てめー汚い真似しやがって!」

「三対一で囲む方が汚いでしょ。やるかい?」

 あたしは意識を失ったままの逆モヒカンの携帯と財布をとりあえずそいつの身体の上に置いて立ち上がった。

「う、うるせえ!」

 スキンヘッドは目を覚まして、ボールを取り出した、かのように思った。ボールでは無く、拳銃が握られていた。よほど血迷ったのか、銃口はあたしの方では無くサラの方を向いていた。

「オムスター!ゲンガー!」

 あたしから見ると、サラの方が近い。叫んだ直後に反射的にサラを蹴り飛ばした。蹴った右足、ふくらはぎの辺りを熱湯に漬けたかのような感触の後に、馬鹿でかい銃声が響き渡った。直後にオムスターのなみのりがスキンヘッドに直撃し、ボールのように吹き飛ばされたスキンヘッドが塀に叩き付けられて動かなくなった。

 

 右足の感触は激痛に変わり、あたしも立っていられずにへたり込んだ。雨の名残の水たまりを血が赤く色づけていった。起き上がったサラが泣きながらこちらに駆け寄ってきた。この地方では銃声がしたら野次馬はまず寄ってこない。その代わりに警察は早く来る――あくまで一時間かかるのが四十分になるとかそれくらいだが――はずだ。あたしは泣いているサラに結束バンドを押しつけた。

「え?!え?!傷口を縛るの?!」

「違う。襲ってきた阿呆共の両手首と親指をこう、合わせて縛って。早く。怪我の応急処置は自分でするから」

 パラセクトに念入りにきのこのほうしを三人にかけるように指示してから、念には念を入れてゲンガーとオムスターに見晴らせて、あたしは傷口をなるべく見ないようにしながらタオルで縛り上げた。とりあえずの止血が終わった後、サラを見ると、泣きながら男達を拘束していた。まるであたしが脅迫している側のようだな、と苦笑いし、ようやく救急車を呼ぶ必要に気付いた。契約した保険会社から聞いていた番号に電話して救急車を呼び、サラが三人目の男を拘束し終えた辺りであたしの意識は途絶えた。

 

 担ぎ込まれた病院で、激痛で目を覚ました。痛いと喚くあたしに、執刀中というか、縫合中の中年男性医師は面倒臭そうに追加の注射を打った。

「出血量も大したことないし、これが終わったらもう帰ってくださいね」

 迷惑極まりないという雰囲気を全く隠そうともしない医師の言葉に、あたしは呻き声で答えたのだった。

 

 その後、げっそりする金額を払い、心配して残っていたサラが泣きながら抱きついてきたことと、タクシーを捕まえてホテルに戻ったことしか記憶に無い。次にあたしが意識を取り戻した時には、パブストブルーリボン(ビール)の缶が山ほど転がっていた。水みたいなものだし怪我を消毒するために、とか何とか言って飲んだような気がした。おまけに服を着ていなかった。地獄の底から出ているかのような呻き声を上げながら上体を起こすと、シングルの部屋であたししかいないはずなのに、隣に誰かが寝ていて更に小さく罵声が出そうになった。酔った勢いでまた外に出たか、コールガールでも呼んだか。自分が信じられなくなった。そっと掛け布団をめくると、全裸のパートナーが寝ていた。胸のそれは自前か、疑問が解けたな、と下らないことが頭を支配した。彼女の安らかな寝顔を見て久々の二日酔いが益々酷くなった気がして、あたしは頭を抱えた。

 

 当然と言えば当然だが、どことなくぎこちない雰囲気のまま、あたしとサラはフキヨセ国際空港に来ていた。国際空港と言っても、それほど大仰な設備があるわけでは無い。痛む足を引きずりながらカントーへの移動手続きを終え、出国ゲートの前でサラに別れを告げた。

「じゃあね、サラ。元気でね。もしまた危険を感じたら、ジムリーダーを頼って。それか、逃げられそうならあたしに連絡してきて」

 あの三人は留置所に入っているが、おそらく警察は捜査せずに釈放してしまうか、そうでなくても微罪ですぐに出てくるだろう。カントーに戻ると言ったあたしに大して話を聞かなかったのがその証拠だ。それを踏まえて、空港に来るまでの間、しばらく他の地方で働くなりするよう説得したのだが、彼女の考えを変えることはできなかった。

「うん、ユウケも……。ユウケは何もなくても、連絡ちょうだいね」

 彼女のことはともかくとして、イッシュは恐ろしいことが多すぎた。多分だが、もう直接会うことはないだろうと思った。手を差し出したあたしの手首をサラが掴み、軽く引っ張った。怪我で踏ん張りの効かないあたしは彼女の方にたたらを踏んだ。頬に柔らかい感触。

「絶対、連絡してよね」

 何とか笑顔を作ろうとしながら顔をぐしゃぐしゃにして泣く彼女に、あたしは小さく笑って頷いた。

 

 夢の中で痛覚が無いというのは、やはり嘘だった。まだ足がずきずきする気がする。サラとは今も時折メールのやりとりをしているが、来年にビジネスパートナーでもある男性トレーナーと結婚するらしい。イッシュの思い出にもろくなものがないが、彼女と過ごした時間は今思えばそれほど悪くなかった。それにしても、なぜあの夢を見たのか。目を閉じたままぼんやりした頭が覚醒していくにつれ、右足にじわりとした痺れがあることに気付いた。右足にはちょっとした傷跡が残っているだけで、特に後遺症はなかったはずなのだが。あたしは恐る恐る起き上がろうとして、両腕と右足が全く動かないのに気付く。仲良くなっている瞼を開けると、右腕にリーリエが、左腕にアセロラが抱きついていた。アセロラには更に後ろから子供達のうちどちらか――何しろ腕だけしか見えないのだ――が抱きついているのが見え、ネッコアラのようになっている。何とか首の筋肉を酷使して頭を上げて足下を見ると、マヒナが覆い被さって寝ている。暑くないのは、掛け布団がマヒナの更に足下に蹴り飛ばされているからだ。団子のような有様の俯瞰を想像して、小さく笑ってしまう。なるべく誰も起こさないように気をつけながら、首と目だけを動かして掛け時計を見ると、もう起きる予定時刻数分前だったので、あたしはリーリエから順に起こすことにする。手がほぼ動かないのだが、何とか右腕を揺さぶりつつ小声で声を掛ける。

「リーリエ、リーリエ。起きて。朝だよ」

「ん、んん……」

 リーリエは割と起きるのが早いらしく羨ましい。眠たげに瞼を擦る様子が非常に可愛らしい。

「ユウケさん、おはようございます……ふぁ」

「おはよう、リーリエ」

「ユウケさん、朝の。お願いします」

「いや、体が動かせないし、皆いるから」

 それは不味いと慌てるあたしを尻目に、少し上体を起こしたリーリエがそのままあたしの顔に覆い被さる。

「ん……!」

 流石に周りを憚ったのか、ついばむような軽い口づけをした後ににこりと微笑む彼女に心臓が小さく跳ね、顔が真っ赤になるのを自覚する。

「うふふ。さあ、皆さんを起こしましょう」

「う、うん……」

 首だけ動かしてアセロラの方を向くと、アセロラの口元が笑っている。起きているのか寝ているのか判断に迷うところだな。

「アセロラ、起きてる?」

「…………」

 左腕を揺さぶってみる。反応が無い。自由な右腕を使って、アセロラの両腕を引き剥がす。まだ反応が無い。寝息が規則的だし、寝ているのだろうか。しょうがないな。あたしはそうっと上体を起こし、マヒナを起こさないようにそろそろと引き剥がして布団に寝かせ直し、スマフォのタイマーを切った。

「起こさなくても良いのですか?」

「いつもアセロラがご飯の支度してるらしいし、今日の朝ご飯を温め終わるくらいまでは寝かせておこうと思って」

「なるほど、いいアイデアです」

 あたし達はそっと立ち上がり、足音を殺して部屋を出た。

 

 賑やかな朝餉の後、あたし達はアセロラ達の見送りを受けてライドポケモンを呼び出した。

「ユウケ、リーリエ、また来てね」

「ええ。また伺います」

「今度はもっと気の利いた土産を持ってくるよ」

「「お姉ちゃん達、また来てね!」」

 アセロラがにやりと笑みを浮かべてリーリエに耳打ちし、リーリエが真っ赤になってアセロラの肩をぽんぽんと叩く。真っ赤になっているリーリエが本当に可愛いし、アセロラも可愛いので目が喜んでいる。それにしても随分打ち解けたようで何よりだなと思ったところで、リザードンが降りてきた。じゃれているリーリエに声を掛ける。

「リーリエ、リザードンが来てくれたから行こう」

「は、はい!」

「アセロラに何言われたの?」

「内緒です!」

 あたしは小さく笑って頷き、リザードンに跨がってからリーリエに手を伸ばし引っ張り上げた。リザードンがポニ島へ向け飛び上がり、アセロラ達三人もエーテルハウスもみるみる小さくなる。マツリカの試練もあと少しだ。


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