「ねえ、
屋敷に来て4日目、桜が五分咲きになった頃。
庭で妖忌殿が剣の鍛錬を行う姿を眺めていた幽々子殿がそんなことを尋ねてきた。
「何故、と言われましても自分が何者かが分からないからですが」
「そうじゃなくて、どうして分からないものを知りたいって思うのかということよ」
「知りたい理由…ですか」
妖忌殿の一種の芸術に見える刀捌きに見入りながらはたと考えてみる。
自分を知りたいと思い始めたのは生まれて間もなくだ。
その時になぜそう思い始めたのか……やはり自分が何者か分からなかったのが理由だろう。
「分からないのが嫌だったから…でしょうか」
「じゃあ、どうして分からないのが嫌だったの?」
「それは……」
何故こうも深く聞いてくるのかと思い、幽々子殿を見るが儚げな笑みを浮かべるばかりである。単なる暇つぶしなのか、意味のある行為なのかは分からないが、主が求めるのならば全てに答えるだけだ。
「答えがない、分からないということは純粋に不快…いえ、不安だからです」
「不安?」
「はい。初めて挑戦する物事、何一つとして見えぬ闇、果ては未来。
結果がどうなるかが、目を凝らしても見えぬから、何が起きるか分からぬから。
人は不安を抱きます。分からないからこそ想像は無限に広がり心を蝕む。
霧に覆われる中で崖があると言われたようなもの。ただ一歩足を進めることにすら勇気がいる。
そのような不安を打ち消すために自らが何者かを知りたいのです」
普段は不安が表面へと出てくることはない。だが、鏡を見たときなどにふと思ってしまうのだ。
黒い髪も、黒い目も本当に自分のものか分からなくなる。そもそも自分は存在しているのか?
一度疑ってしまえば際限はない。答えを持たぬこの身は先の見えぬ闇に囚われてしまう。
それが不安で不安で仕方がないからこそ、分からないものを知りたいと願った。
人でも妖でもないと、生まれてすぐに
これこそがそれがしが自身を知りたいと願った根本的な理由なのだろう。
「分からない……そうね、分からないと嫌なことばかり考えちゃうわよね。私も誰かが死ぬのを見るより、誰かが死ぬかもしれないって考えている方が疲れるもの」
どこか現実離れしたような声を出しながら妖忌殿を見つめる幽々子殿。
聞けば妖忌殿は半人半霊という種族らしく、半分生きて、半分死んでいるらしい。
妖忌殿は人間ではないためか、それとも別の理由か分からないが死に誘われることはない。
しかし、それは今でこそ分かることだ。きっと能力が安定するまでの幽々子殿は不安だったのだろう。他の従者のように妖忌殿も死んでしまうのではないのだろうかと恐れたはずだ。次の日になれば死んでいるかもしれない。そう考えると夜も眠れなかっただろう。
それを思うと急に自身が下らない悩みで苦しんでいた卑小な存在に思えてくる。
彼女はその酷く脆い背中に一体どれだけの苦しみを背負ってきたのだろうか。
仮にも彼女の夫である自分は何か助けとなることが出来ているのだろうか。
「あら、どうしたの? そんなに見つめてきて」
「……いえ、見惚れていました」
「ふふ、ありがとう。でも、もっと楽しそうに言ってくれないと嘘かと思うわよ?」
「申し訳ございません……」
そう言って、自分の頬をガラス細工のように細く冷たい指で引っ張ってくる幽々子殿。
こちらの考えていることなどお見通しということなのだろう。
「そう言えば、妖忌は何か分からなくて怖かった経験とかないの? あ、別に私が分からなくて怖かったとか言ってもいいわよ」
「幽々子殿……妖忌殿が困ります故に冗談は程々に」
「大丈夫よ。これぐらいの冗談はいつものことだから」
幽々子殿の言う様に確かに表情をピクリとも動かさない妖忌殿。内心ではどう思っているかは分からないが、この主従にとっては主の自虐は慣れたことなのだろう。
「私にも分からないことはそれこそ山のようにあります。だとしても――」
ひらりと、風に乗って流れてきた桜の花びら。
妖忌殿はそれを目にとめるや否や、銀閃を走らせる。
「―――斬れば分かります」
花びらが4つに割れて地面へと落ちていく。
それがしの目にはいつ刃が花びらを通ったのかも分からぬ程の早業。
「物騒ねぇ。何でもかんでも斬っていたら勿体ないわよ、妖忌」
だとしても、幽々子殿には見慣れたものなのか、のんびりとした口調でそんなことを口にするだけである。そんな自らの主の姿に妖忌殿は呆れた様に少し溜息をつき、刀を一度下ろして話し出す。
「どれだけ悩んだところで分からぬものは分からぬのです。始めてみなければ分からない。
何ができるかを悩むよりも、何か行動を起こし、間違っていても後で悔やめば良い。
故に斬れば分かるということです、お嬢様」
「つまり案ずるよりも産むが易しってことね」
幽々子殿の言葉に無言で頷き、再び剣の修練に戻る妖忌殿。
『斬ればわかる』非常に
やはり何かの道を極めんとする人々の話はためになる。
「でも、悩むよりも行動をしろっていうのを
ふと、幽々子殿がそんなことを尋ねてくる。いや、呟いていると言うべきだろうか。
「自分が何者か考えるより―――自分で何者かを決めるってことかしら」
「自分で…自分を決める…?」
その言葉に先日、伊吹萃香殿に言われた言葉を思い出す。
『人間は自分が何者かを決めることが出来る存在なのさ』。
その時は何も思わなかったが、今になって思えばこれは大切な言葉ではないのか。
自分は今まで自身が何者かを決めたことはない。それは“どっちつかず”なので仕方がない。
だが、逆説的に考えれば“自分が何者かを決めることが出来れば”人間となれるのではないか?
他人に理由を求めるのではなく、自らの意志でもって自身が何者かを証明する。
なるほど、強く美しい生き方だ。この強い意志こそが人間の真骨頂かもしれない。
しかし、それは誰にでも出来るようなことなのだろうか?
「でも、自分が何者かを決める…ね。できることなら蝶になってみたいけど、それは無理そうね」
一瞬だけ瞳に影を落とし、何物にも縛られずに宙に舞う蝶を見つめる幽々子殿。
「人はなりたいものになれる可能性を秘めている。でも、そのためにはとてつもない勇気と力がいる。やっぱり私は私から変われそうにないわ」
寂しそうに、それでいてどこか諦観が籠る声で幽々子殿が呟く。
そのもの悲しさのあまりに妖忌殿の剣先が微かにぶれる。
それがしも何も言えずに黙り込んでしまう。
だが、しかし。
今の自分が何者だったかを思い出し、死にたくないと叫ぶ心を抑えて彼女の手を握りしめる。
「
キョトンとした顔でこちらを見つめてくる幽々子殿。
子どものようで非常に愛らしく思わず眺めていたくなるが、今重要なのはそこではない。
「確かに蝶にはなれないかもしれません。しかし、幽々子殿は少なくとも1つはなりたいものになっていますぞ」
「そんなものあったかしら?」
「お忘れですか? 先日、『嫁になりたかった』と言っておられたではありませんか」
あ、と可愛らしい音が淡いさくら色の唇からこぼれ落ちる。
ついで、嬉しそうな笑い声。どうやら気づいてもらえたようだ。
「ふふふ……確かに、ちゃんとお嫁さんにはなれているわね、
「ええ、何もかも叶うわけではありませんが、何もかも叶わないわけではありません」
「そうね。そう考えると私は幸せ者ね」
そう言って、自らの指をそれがしの指に絡ませてくる幽々子殿。
彼女の常人よりも低く、それでいて温もりを感じる体温が手を通して伝わってくる。
「……後3日で桜は
「…? 恐らくは」
「ふふ、それまでは仲睦まじく居ましょう、旦那様」
「はい、もちろんです」
「嬉しいわ。さてと、そろそろお夕飯の準備をしないと」
今にも散ってしまいそうな桜のような笑みを見せ、幽々子殿は手を解いて立ち上がる。
それがしは離れていく彼女の温もりを名残惜しく思いながら、内心で首を捻る。
彼女は何故、婚姻期間に―――7日間などという期限を設けたのだろうかと。
5日目の夜、幽々子殿が眠りに落ちた後、それがしは庭に出ていた。
目の前には7割近くの花が咲いた桜に、後少しで満ちるであろう月。
相も変わらず桜を見ると死にたくなるが、能力である“生への執着”でそれを押さえつける。
こうすれば、ほとんど人が来ないこの場所は1人で考え事をするにはうってつけの環境となる。
「結局の所、それがしは何者なのだろうな」
改めて自分がここに来た理由を思い起こす。自分が作り出された役目を知ることが出来れば、おのずと何者かが分かると思っていた。しかし、創造主は既にこの世におらず、代わりに幽々子殿から婿になるという役目を承った。
初日はこの役目を全うしさえすれば、それで良いのだと考えていた。だが、幽々子殿と過ごしていく内に疑問が生まれた。この役割を終えた時、本当に自分は何者かになれているのだろうかと。そもそも、何故それがしは“どっちつかず”などになったのだろうかと疑問を抱いていた。
「このままで良いのだろうか…。このような疑念を抱いたままで幽々子殿の願いを叶えられるのだろうか」
そして何よりも気がかりなのは、主であり妻である彼女の願いに応えられているかである。
そもそもからして、自分の正体を知りたいという理由のために夫になるのは不誠実ではないか。
幽々子殿は特別な在り方ではなく、当たり前の夫婦関係を望んでいるはずだ。
だというのに、それがしは自分の都合しか考えずに彼女に接していた。
これは良い夫婦とは言えないだろう。真に夫としてあるならば。
他の何よりも彼女を愛しているべきだ。
「自分以上に彼女を愛することが出来るだろうか。自らが何者かすら分からないそれがしに」
自分が何者か分からなければ、幽々子殿と比較することすらできない。
やはり、そこをはっきりさせなければ幽々子殿を愛するために、前へと進むことは不可能だ。
「……自分が何者なのかを何としても見つけ出さねば」
幽々子殿の願いを叶えるという覚悟を新たに月へ呟く。とは言っても、覚悟を新たにしただけではどうしようもない。そう考え、自嘲するように笑みをこぼした時だった。
「お悩みかしら?」
聞き覚えのある寒気がする程の色気を持つ声。反射的に後ろを振り向くが姿はない。
まさか空耳だったのだろうかと
「女性が目の前に居るのによそ見なんて酷いことをするのね」
ハッとして前に向き直る。そこには扇子で口元を覆い楽し気に目を細めている女性が居た。
一度見ただけだが、この正体が分からない胡散臭さは見間違えようがない。
「……これはとんだご無礼を。天上の調べもかくやな美しい声が聞こえてきたものでつい気を取られておりました」
「あら、そういったことは愛しの奥方様に囁いてあげるべきではなくて?」
「お言葉ごもっとも。ですが、それがしは何者かも知れぬ声を言い表したまで。それとも貴女は声の正体にお心当たりが?」
「皆目見当もつかないわね、そんな声があるのならぜひ一度聞いてみたいわ」
そうぬけぬけと言いながら女性、八雲紫殿は鈴を転がしたように笑う。
つかみどころがない。話していれば相手の意のままに操られてしまいそうに感じる程だ。
幽々子殿の友人であるらしいが、よく幽々子殿はこの御人と対等に渡り合えるものだと1人感服する。
「それで、それがしに何か用ですかな? 八雲殿」
「あら、名乗った覚えはないのだけど?」
「幽々子殿からご友人だとお聞きしております」
「なるほどね」
そう言うと、納得したとばかりに扇子をパチンとたたみ、胡散臭い笑みを向けてくる。
「でも、礼儀として一応名乗っておきましょうか。私は
「既に知っているでしょうがそれがしは
「あら、つれないわね。そんなことだと可愛い奥さんに愛想をつかされちゃうわよ」
渋面を作り、面倒だという様子を隠しもせずに見つめてみるが紫殿に反省した様子はない。
やはり、好き好んで相手をしたい人物ではないと、これ見よがしに溜息を吐いて見せる。
「で、結局何の用でしょうか?」
「何かお悩みのようだったから、相談に乗ってあげようと思ったのよ」
「はぁ…それはありがたいですが、なぜそのようことを?」
「人として困っている者を助けるのは当然のことでしょう?」
嘘だ。そもそも人じゃなくて妖怪の間違いだろうと思うが口には出さない。
幽々子殿から聞いたことだが紫殿はスキマ妖怪という妖怪で、様々なものの境界を自在に操ることが出来るらしい。恐らくはいきなり現れたのも、どこか別の場所とこの場所の境界を繋ぎ合わせて直通の道を作り出したからであろう。
「それに……友達のためになることですもの」
ぼそりと何かを紫殿が呟いたようだが、聴覚の境界を弄られたのか上手く聞こえなかった。
「さ、それじゃあ、ゆかりんのお悩み相談と行きましょうか。どうぞお悩みを言ってくださいな」
「……紫殿ならば既に知っているのではないか」
「ふふふ、私は先程来たばかりだから分かるはずがないでしょう?」
こちらをからかっているとしか思えない態度に、何とも言えない気持ちになるが、考えるだけ無駄だと割り切り、素直に語ることにする。
「自分が何者かを早急に明らかにしたいのだ」
「それも奥さんをちゃんと愛すためになんて、幽々子が羨ましいわぁ」
「…………」
「あら、そんな『やっぱり、聞いてただろう。分かっているなら言わせるな』なんて顔をされても私には何のことだかさっぱり分からないわ」
この様子では普段の生活すら覗き見られており、知らないことはないのだろうと半ば確信する。
それならばこちらが口を開く必要はないだろう。そんな、拗ねた気分になりつつ紫殿を見る。
こちらが言ったのだから次はあちらが答える番だ。
「でも、そうねぇ。あなたが何者かを答えてあげる前に1つ聞いておきましょうか」
「何をだ?」
「あなたは人間か妖怪、どちらかになりたいと
「何を当たり前のことを……?」
そんなことは常日頃から思っていると声に出そうとして、はたと止まる。
自分を知りたい。何者かになりたい。それはそれがしの根本的な願いだ。
だが、自分は今まで
「何者かを知りたいという願いに嘘はないでしょうね。
でも、あなたは明確にどちらかになりたいとは思ってこなかった。
自分を知ることが出来れば、人間だろうと妖怪だろうと構わない。
だって、不安から逃れたかっただけですもの。どちらかになれればいいだけ。
そんな心があなたの境界をあやふやにし続けてきたのよ」
紫殿の視線が己の全てを見通す様に向けられる。自分が何者かを知ることが出来れば、何者かになれる。今の今までそう考えてきた。だが、実際の所は違ったのだ。何者かを知ったところでどちらかになることはない。何故ならこの身は。
「人と妖の境界で彷徨うあなたは―――“どっちつかず”でしかないのよ」
“どっちつかず”。
最初から、少なくとも伊吹萃香殿に会ったあの日から答えは知っていたのだ。
ただ、漠然とそんな存在があるはずがないと思い込んで、真実を見落とし続けていただけ。
「そして、どっちつかずになった理由はきっと――」
「―――
「…ええ、あなたは幽々子の父親が残した言葉を、
そう、この身は頭につけた帽子が見つからぬと探し回る滑稽な道化に過ぎなかったのだ。
主に役割を与えられなかった? 否、西行殿は与えてくださっていたのである。
人でも妖でもない“どっちつかず”という確かな役割を。
「何者かを知ったところで何者かになれるはずもない。初めから何者でもないのだから」
つまりはそういうことだったのだろう。ゆっくりと肩から荷を下ろす様に息を吐いて座り込む。肉体的には疲れてなどいない。だが、心が立ち止まらせてくれと言ったので腰を落ち着けたのである。
「……大丈夫かしら?」
「なんだ、からかいはせぬのか?」
「失礼ね。人が落ち込んでいるところに塩を塗るような趣味はないわ」
「そうか、それは安心した」
ここに来て初めて紫殿の表情が澄ましたものから驚いたものに変わる。
どうやら、紫殿はそれがしの心が砕けたと思っているらしいがそれは違う。
単純にほんの少し休憩をするために座っただけだ。
それを示す様に足にグッと力を入れて飛び上がる様に立ち上がってみせる。
「さて、自分が何者か分かったのだから幽々子殿のために何ができるか考えるとしよう」
「……空元気じゃないわね。開き直ったってことかしら?」
「結果はどうあれ、それがしが悩み続けてきたものは無くなったのだ。気分も軽くなる」
「“どっちつかず”なことに変わりはないわよ。それともその答えでも不安は消えたのかしら」
「いや、不安は減ったが消えたわけではない。しかし、どっちつかずでない何かになる道はあるのだろう?」
そう確信した口調で問いかけると紫殿が感心したように微笑む。
相も変わらずに胡散臭い笑みだが、どこか優しさを含んだものにも見えるから不思議だ。
「正解よ、あなたは妖怪のようにに誰かに決められた存在じゃない。自分で何者かを決めることができる人間に近い存在。まあ、そうでないなら“どっちつかず”でなく、ただの正体が分からない妖怪になっていただけだから当然と言えば当然ね」
やはり幽々子殿にそれがしの素性を話した時にも盗み聞きしていたのだろう。
そうでなければ知り得ない情報を紫殿が語るがもはやツッコむ気も起きない。
何より、今はそれ以上に大切なことがあるのだから。
「初めは人間として生まれたのだろう。だが、どちらでもないものになり一度は遠回りをした。しかし、それでも再び自分が何者かを決めることができる権利を与えられたそれがしは幸せ者だ」
幽々子殿の願いを最高の形で叶える。今のそれがしにそれ以上に大切なことはない。
「……覚えておきなさい。必要なのは何になりたいかという自分の強い意志よ」
「貴重な助言、感謝いたす」
「どういたしまして。それじゃあ、幽々子を頼むわね。泣かせたりしたら許さないわよ」
「肝に銘じておこう」
こちらの悩みが解消したからか、それとも言いたいことを言い終えたからかスキマの中に消えていく紫殿。そんな姿を見ているとふとした疑問が湧き、消える前に尋ねてみることにする。
「紫殿」
「なにかしら」
「何故それがしに手助けなどを?」
特に意味のある質問ではない。
また煙に巻かれるような言葉でかわされてしまうだろうと思っていた。だが。
「……少しでもあの子に幸せであって欲しいからよ」
返ってきたのは良く言えば純粋な、悪く言えば当たり障りのない言葉。
だというのに、去り際に見せた紫殿の悲しそうな顔が妙に印象に残るのだった。
婿になって6日目。明日には桜が満開となり、月も満月を迎えるだろうという日。
それがしは窮地に追い込まれていた。
「私に黙ってこっそり紫と会うなんて酷いわ」
「いや、やましいことは一切ありません」
「あら、私はそう言ったことは一言も言ってないんだけど。本当に何かやましいことがあるの?」
「い、いえ、そういうわけでは」
何故か紫殿と会っていたことが幽々子殿に伝わっていたのは、別に大したことではない。
紫殿が話しに来たのだろうと思えば何も不思議なことではないはずだ。
しかし、それを知った幽々子殿がやたら不機嫌なのはどういうことか。
頬を膨らませて如何にも怒っていますと表現する姿は非常に愛らしいが、心臓に悪い。
さらに心なしか、いつもよりも死に誘う力が強く感じるのは気のせいだと信じたい。
「女の子は好きな殿方が他の女の子とコッソリ会ってたら不安になるのよ」
「も、申し訳ございません」
「それに加えて私だけ仲間外れなんて寂しいわ」
「妖忌殿も居たわけではありませんが……」
「分かった、
「は、はい」
どうして怒った女性というのはこうも怖いのだろうか。特に幽々子殿は表情自体はそれほど変わっていないのだが、雰囲気がおどろおどろしいものに変わっているので非常に恐ろしい。元気があるのはいいことであるが、いつもの儚げな彼女はどこに行ったのだろうか。早急に帰って来て欲しいものだ。
「反省している?」
「反省しております」
「私に悪いと思ってる?」
「悪いと思っております」
「じゃあ、今日は私の言うことを何でも聞いてくれる?」
「わ、わかりました」
肯定の言葉以外は許されない圧力を受け、ただひたすらに首を縦に振る。
何を要求されるか知らないが、甘んじて受け入れる以外の選択肢はないのだ。
「それじゃあ、まずは何をしてもらおうかしら」
やけに真剣に考え込む幽々子殿の姿に死刑宣告を待つ罪人とはこのような気持ちなのかと現実逃避を行う。しかし、そのような逃避も大した意味も持たず、ポンと手を叩く音で現実に引き戻されてしまう。一体何をされるのかとビクビクとするそれがしを置いて幽々子殿は立ち上がる。
そして、正座しているそれがしのすぐ前に座り、幽々子殿はためらいなくその膝に頭を乗せる。
……これは
「硬いわ。それに高くて寝づらい」
「では、座布団でも持ってきましょうか?」
「それよりも、正座を崩してくれる?」
「分かりました」
自分からやっておいて失礼なものだなと思いながらも、幽々子殿が寝やすいように足を崩す。幽々子殿はしばらくそれがしの膝の上で寝やすい体勢を探していたが、やがて落ち着く体勢を見つけたらしく、動きを止める。
「頭を撫でて」
「分かりました」
しかし、彼女は要求をまだ終える気が無いらしい。
今度は頭を撫でろとせっついてきたので、要求通りに撫でてみる。
「少し強すぎるわ。髪の毛は女性の命なんだからもっと優しく扱って」
「こう…でしょうか?」
「うん。それぐらいでちょうどいいわ」
絹のように滑らかで、それでいて花のように艶やかな髪を撫でる。
それを境にしばらくの間、会話が無くなる。
だが、気まずくなるような沈黙ではない。
ただ、春のうららかな日差しのような穏やかさがあるだけだ。
気を抜けばそのまま夢の中へと旅立ってしまいそうになる程の心地よさ。
今だけは、今だけは、彼女から発せられる死の呪いすら忘れてしまえる。
そんな夢か現か分からぬひと時。
「ねえ…」
「なんでしょうか?」
それを破ったのは幽々子殿の囁くような声だった。
「愛って何なのかしら?」
唐突な問いかけに答えを返すことが出来ずに、幽々子殿をまじまじと見つめてしまう。
「近くで触れ合っても見えないし、感じることもできない。いくら雄弁に語っても嘘か本当かは分からない」
「では愛とは存在しないものなのでしょうか?」
「いいえ、きっと存在するわ。誰の目に見えずとも、誰の耳に入らずとも愛はある。でもそれが何かを証明する手段が分からないの」
幽々子殿はぼんやりとした瞳で
常人よりも体温が低くひんやりとした彼女の手が、優しくそれがしの手を撫でる。
「多くの人は自分が愛している人をこの世で最も大切なものと言うわ」
「自分が最も大切にしているものならば確かに愛と呼べましょう」
「最も大切にしているのだから、その人のためならどんなことだってできる」
「ええ、そうでしょう」
親を大切にする者は親を養うためにならば盗みすら犯すだろう。
妻を大切にする者は妻を守るためにならば殺しすら犯すだろう。
子を大切にする者は子を生かすためになら命すら捨てるだろう。
愛のためならば人は容易く鬼にもなる。愛の向かう先は人それぞれだが、そこに
そして、愛の向かう先とは何も他人だけではない。
「“生にしがみつく”あなたにとって最も大切なものは自分の命かしら」
拗ねたような声を出しながら幽々子殿がそれがしの手をつねってくる。軽い痛みが走るがそれを咎めることはしない。これはきっと、愛の向かう先が最初から自分だと決まりきっているそれがしへの仕置きなのだろうから。
「ねえ…あなたは愛って何だと思う?」
そして再びぶつけられる質問。不意に自分の唇が酷く乾いていることに気づき、舌で湿らせる。例え、彼女の納得のいく答えでなくとも応えなければならない。そう覚悟を決め、声がしっかりと出せるように大きく口を開く。
「愛とは―――“執着”だと考えます」
「執着? どうしてそう思うのかしら?」
膝の上でコロコロと笑いながら幽々子殿が説明を求めてくる。
そんな彼女の髪を再び撫で始めながら、それがしは言葉を続けていく。
「それがしの最も大切なもの、つまり愛するものが自身の命だというのならば、それは生への執着に他なりません。命に危機が訪れれば、この身は如何なる方法をもってしてでも生き延びようとするでしょう。それは絶対に命を手離したくないが故にです。この手を離したくないという感情こそが執着であり、愛と考えます」
何者にも渡したくない。全てを引き換えにしてでも守る。失えば生きていけない。
これは全て、愛という名の執着なのだ。
狂愛であろうと、純愛であろうと、対象への執着無しには語れない。
大なり小なりの執着があるからこそ、それが愛となり憎しみとなる。
愛という強い感情を生み出すには、その対象に執着していなくてならない。
そもそも、何の執着も見出せないというのは何物にも無関心ということだ。
無関心なものに対して愛を抱くことなど出来るはずがない。
「国造りの神、イザナギとイザナミの愛を例にすれば分かりやすいでしょうか。イザナギは死んだイザナミへの
偉大なる神々ですら愛を執着という形で表していた。
ならば卑小なるこの身が愛を執着で表したとしても何も問題はないであろう。
「……そうね。確かに執着なのかもしれないわね」
「お気に召しましたか?」
「ええ、納得のいく答えよ。だからついでに聞いておくわ」
「なんでしょうか」
「あなたは私にどれぐらい執着しているの?」
その質問はこの話を始めた時から来ると分かっていたものだ。
要するに『あなたはどれぐらい私を愛しているの?』といういじらしい質問である。
そのため、答えは話している間に考えておいたので素早く答える。
「絶対に手放したくない。そう思えるほどには」
「じゃあ、自分の命とどっちが大切?」
「……分かりません」
「あら?」
分からないという答えに意外そうに目を丸くする幽々子殿。
恐らくはそれがしが自分の命と答えると思っていたのだろう。
しかし、今のそれがしは命への執着が少し薄まっているように感じられるのだ。
まるで、それ以上に大切なものができたとでも言うように。
「もし、幽々子殿が死ねばそれがしはイザナギのように黄泉の国へと足を運んでしまうかもしれませんな」
「ふふふ、そう言ってもらえると嬉しいわ。でも、イザナミみたいに見捨てられるのは嫌よ。イザナギも黄泉の国まで来ておいて酷いことをするわよね」
「恐らくこの話は生者と死者は決して相容れてはならないという教訓を残したものでしょうから」
残された者が先に逝った者達を追わない様に。反対に先に逝った者が帰りたいと思わない様に。
イザナギとイザナミの話は生者と死者は交わってはならないという教訓だ。
故に2人が再び共に居ることが出来る未来はどこにもないのだ。
「そうね…生者と死者は共に居ることは出来ない。でも、同じ死者同士ならどうかしら」
「幽々子殿…?」
不意に寝ていたそれがしの膝の上から起き上がり、顔を近づけてくる幽々子殿。
その事に戸惑い、体を強張らせると今度は頬に手を添えられ顔を固定される。
そして―――魂を吸い出さんばかりの
「ねえ…もし、私が死ぬとしたらその時は―――あなたも一緒に死んでくれる?」
全身が凍り付く程に冷たい笑みと共に告げられた言葉。
まるで死の宣告を受けているようである。
しかし、それよりもなお目を引いたのは、今にも泣きだしてしまいそうに震える瞳だ。
怖くて怖くて仕方がないのに、必死に怯えを押し隠そうとする弱者の瞳。
それを見てしまったために、それがしは何も言葉を返すことが出来なかった。
「……冗談よ、忘れてちょうだい」
「…………」
「それじゃあ、夜も遅いしそろそろ休むわ。おやすみなさい」
逃げるように足早で去っていく幽々子殿の表情は見えない。
しかし、いつものと違うのだけは見なくともわかる。
きっとあれは隠していたものが思いがけずに出てきてしまったゆえの動揺。
「幽々子殿……」
思えば最初からおかしな点は多かった。
婿になれという命を出したというのに期間は7日間だけ。
どこか時間が無いとばかりに焦りを感じながら家事を行う姿。
生に憂いを感じさせる程の生命力の無さ。
特に関わりのなかった紫殿からの唐突な手助け。
そして、何より7日目に満開となる桜に、満月に近づく月。
【願はくは 花の下にて 春死なむ そのきさらぎの 望月のころ】
明日はまさにこの歌の条件を満たすにはピッタリの日だ。
桜が咲き誇る満月の夜の下で、その生涯を終わらせる日には。
「幽々子殿、あなたは―――」
―――明日の夜に自らの生涯を終わらせるつもりなのですか。
ほとけには 桜の花をたてまつれ わが後の世を 人とぶらはば
訳:わたしが死んだら、仏となった私に桜の花を供えてほしい。
わたしの後世を誰か弔ってくれるならば。