7日目。地には満開の桜、天には欠けることのない満月。
風流に疎い人間であっても思わずため息をこぼしてしまう程に美しい景色だ。
「綺麗な景色よね……」
「幽々子殿も負けず劣らずにお美しいですよ」
「ふふふ…初めとは違ってお世辞がうまくなったわね」
「本心からです」
「お上手ね」
酒を酌み交わしながら2人で花見をする。
どんな選択を選ぼうともこれが2人で呑む最後の酒になることだろう。
それが分かっているからか、普段は体に気遣って呑まない酒を幽々子殿も飲んでいる。
そして、それを止めに来る存在は居ない。
従者の妖忌殿も、友人である紫殿も、隣で呑んでいる夫であるそれがしも。
彼女の最後を悟り、受け入れているのだ。
「ねえ…」
「はい」
「あなたはこの7日間はどうだったかしら?」
ポツリと、耳を澄ませていなければ聞き落としてしまいそうな程に小さな問いかけ。
それを受けてそれがしは逆にハッキリとした声で答える。
「幸せでした。これからも続けていきたい程に」
「本当に…?」
「嘘をつく理由がありません。反対に幽々子殿はどうでしたか?」
逆に問いかけ返すと、幽々子殿は盃の中に映る月を見つめていた。否、それは正しくないだろう。彼女はきっと水面に月ではなく7日間の記憶を映し出しているのだから。
「私も…幸せよ。ええ、嘘なんかじゃないわ」
「それは良かった」
「ちゃんとできたかは分からないけど、お嫁さんらしいことは全部やれたし、それに思った以上に素敵な旦那様に恵まれたもの」
クスクスと笑いながらこちらに視線に送ってくる幽々子殿。思った以上という所にからかいの意味を込めているだろうが、今のそれがしにはそれすらも愛おしく感じられるので効果はない。それが分かったのか、幽々子殿は困ったように笑いながら酒を口に運ぶ。
「最初はもっとぎこちない関係で終わると思ってたわ」
「そちらの方がよろしかったですか?」
「もちろん、今の関係の方が好きよ」
「それがしも同じ考えです」
そう言って2人で笑い合う。夫婦の関係はそれこそ夫婦の数だけ種類があるだろう。
だが、それがしはこの関係で良かったと心から思っている。きっとそれは幽々子殿もだろう。
「あの日あなたが来てくれて本当によかったわ」
「紫殿がスキマに落としてくれたおかげですな」
「だとすると、紫にはもっと感謝しないといけないわね」
「そうですね」
恐らくは紫殿が居なければあの日、それがしは妖忌殿に追い返されていただろう。
そう考えれば、紫殿には感謝しなければならない。
いや、そもそも紫殿はそれがしが死なぬことを見抜いて、幽々子殿の話し相手にしようとしたのだろう。結果的に夫婦になったのは流石に予想外であろうが。
「……本当に幸せな日々だったわ。だから、これでもう」
思い残すことはない。
そう無意識に続けようとしていたのか、ハッとして盃で口を隠す幽々子殿。
彼女の仕草に、やはり最後まで隠し通すつもりなのだろうと察する。
だが、その思惑に乗ってあげるつもりは自分にはない。もう決めたのだ。
「……幽々子殿。昨日それがしに尋ねられたことは覚えていますか?」
「『あなたも一緒に死んでくれる』って聞いたこと? あれは冗談だって言ったはずよ」
「おや、それがしはまだ何のことか言っていませんが?」
「意地悪な人ね……」
自分から口にしたことで、そのことを気にしているとバラしてしまった幽々子殿が、恨めしそうにこちらを見てくるが笑って受け流す。日頃、からかわれている分のお返しと考えてもらおう。
「昨日から今に至るまで返事を考えていましたが、今ようやく答えが出ました」
「その割には答えを誘導された気がするのだけど」
「失礼、今ではなくほんの数刻前です」
「嘘は浮気の元よ。あなたの将来が不安だわ」
完全に自分との関係は今日で終わりだという口調の幽々子殿。
まあ、彼女は今日で人生を終わらせるつもりなのだから、未来など考えられないのだろうが。
「浮気の心配はございませんよ」
「あら、断言するのね」
「ええ、簡単な理由です。幽々子殿が死ぬのなら―――それがしも共に死にますので」
瞬間、幽々子殿の表情が凍りつく。疑っているのだろう。
それがしが本気で言っているのか、比喩表現で言っているのか。
何より、自分が今から死ぬのを知っているかどうかを疑っている。
分からないという不安は耐え難いものだ。だから、隠さずに伝えるとしよう。
「【願はくは 花の下にて 春死なむ そのきさらぎの 望月のころ】
……まさに今日のような日ですな」
これで全てが伝わるだろう。余計な言葉は必要ない。後はジッと幽々子殿を見つめるだけだ。彼女は初めのうちは何とか誤魔化せないかと考えていたようだが、やがて不可能だと悟ったのかゆっくりと溜息を吐く。
「はぁ…いつから気づいてたのかしら?」
「つい先日」
「やっぱり、変なことを言ったからバレたのね」
「まあ、他にも手掛かりはありましたので。それだけではありません」
「どの道バレたことには変わらないわ」
少し拗ねた様に唇を尖らせる幽々子殿の姿に笑いながら、肩が触れ合う程に距離を詰める。
「何故隠しておられたのですか?」
「どうして死のうとするかは聞かないのね」
「これでも夫ですので、聞かずとも分かります」
ただ存在するだけで人を殺す化け物となってしまった我が身を憂いて。
もしくは、亡き西行殿が愛した桜が
7日しか共に居ないそれがしでも、情報さえあれば思いつくことだ。
そしてそれは、幽々子殿がどうしようもなく重く大きな苦悩を抱えていることに他ならない。
「……7日だけ結婚して欲しいだなんて、私の勝手なお願いだから。それが終わった後にあなたに変な重荷を背負わせたくなくて黙っていたのよ」
「何も知らずに連れ添った女性に自害される方が、よほど重荷を背負う気がしますがな」
「そんなこと言わないで。これでも一生懸命考えたんだから」
少しバツが悪そうにしながらも、自分は悪くないという態度を取る幽々子殿。
そんな可愛らしい姿を愛でるように、それがしは彼女の手を握りしめる。
「ねえ…本当に一緒に死ぬつもり?」
「死にます」
「黄泉路までついてくるの?」
「共に逝きましょう」
「冗談じゃなくて?」
「この顔が冗談に見えますか?」
「自分の目が信じられないわ」
「それは困った」
カラカラと笑いながらおどけて見せるが、幽々子殿は顔をしかめたままだ。
これではいけない。最後の日なのだから、良く笑うことに越したことはない。
もっとも、共に死ぬと言われても普通の人間は笑う前に困って当然だろうが。
「どうして…どうしてそんなことをするの?」
「決めたのです。西行寺幽々子の夫として生き、死ぬことを」
難しい理由など何もない。自分が真の意味で彼女の夫となりたいと願ったからだ。
この愛しい女性の傍に最後まで、否、最後が終わってもなお寄り添いたいと、そう願った。
そうだ。彼女のためならば命すら惜しくなどはない。
「どうやらこの身は存外情に厚かったようです。妻を失っては生きてはいけぬと思う程には」
「でも…でも…あなたの本質的に“生にしがみつく”はずよ。死のうと思っても死ねないわ」
「そうでもありません。それがしの能力は能力とは名ばかりの生への執着。言うなれば、生きたいという意志の力に過ぎません。ならば、それ以上に強い意志があれば死ぬことも可能でしょう」
何とかそれがしが意見を翻すことを祈り、必死になって説得を試みる幽々子殿。
その想いは痛い程に伝わってくるが、それがしも考えを変えるつもりはない。
「あなたには…人間として普通に生きていく未来も…妖怪として滅びぬ生を送る未来もあるのよ? 私とは違うわ! あなたは希望を持って生きていくことが出来るのよ!!」
肩を震わせながら苦しそうな叫び声を上げる幽々子殿。もう、叫ぶことすら辛い身体であるにも関わらずにそれがしのために必死になって頂ける。その事実がそれがしの共に逝くという意志をさらに固めさせるのを彼女は分かっているのであろうか。
「それなのに…どうして…っ」
遂に体力的にも精神的にも耐えられなくなったのか、それがしの胸に縋りつくように体重を預けてくる幽々子殿。その余りにも華奢な体を抱き寄せながら、それがしは小さく、しかしハッキリと口を開く。
「幽々子殿、人は―――死にます」
胸の中で息を呑む声が聞こえてくるが、敢えて聞こえないふりをして続ける。
「今から人を死に誘うあなたにとって
人も妖も、形あるものは全てがいずれは滅びる存在なのです。
ここで死のうとも、人として往生を迎えようとも、妖として1000年先に滅びようとも。
死ぬのです。
生命とは
あなたが能力を持っていようがいまいが、その運命が変わることはないのです」
ふるふると体を震わせて否定の意思を示す彼女の髪を優しく撫でる。自分は彼女が傷つくことを言っているのだろう。だが、同時に言わなくてはならないことでもある。彼女は人を死に誘ってきた。もちろん、それは良くないことだろう。しかし、全てが彼女のせいであるわけでもないのだ。
「それがしもそうです。ここで死なずともいつかは死ぬのです。そして、必ず死に場所を求める。
命は生まれる場所は選べない。しかし、死に場所は選べる。故に誇れる死に場所を求めます。
布団の上での往生か、戦場での討ち死にか、はたまた桜の下での終焉か。
人それぞれが求める死に場所がありますが、それがしにとっての死に場所は――」
「それが私の隣だって…私があなたまで―――死に誘ったって言うの?」
幽々子殿が今にも泣きだしそうなくぐもった声を出す。
まるで、やっと見つけた安住の地を奪い取られるかのような悲痛な声だ。
そんな彼女の余りにも残酷な問いかけにそれがしは。
「いいえ、それがしは―――愛に誘われたのです」
否定の言葉を返す。
「愛…?」
「はい。そもそも誘われるという表現がおかしい。追うのです。自らの意思であなたへの愛だけを頼りに黄泉の国、地獄の果てまで追うのです」
それがしの胸から顔を離し、キョトンとした上目遣いでこちらを見つめる幽々子殿。そんな彼女の瞳を真っすぐに見つめ返しながらそれがしは強く語っていく。
「先日話した通り、それがしの愛とは執着。死しても幽々子殿を手放すつもりは毛頭ありません」
「……私が生まれ変わっても?」
「例え、幾千、幾億の輪廻を巡ったとしても必ずあなたの隣に立ちます。誰にも渡しはしません」
勢いよく告げると、ようやっと幽々子殿の顔が綻ぶ。
そして、先程の悲しみなど彼方に消えたとでも言わんばかりに笑い始める。
「ふふふ……重いわ。凄く重いわよ、あなたの愛」
「それがしの生への執着すら超える愛ですので、当然」
「それだけ重い愛だと何をやっても退かせられる気がしないわ」
「運が悪かったと思ってくだされ」
「いいえ。私―――とっても運が良いわ」
花が咲いたような笑顔見せ、それがしの頬を撫でる幽々子殿。
その手は、どこかいつもよりも熱が強いように感じられた。
「私も今からあなたに酷いことを言うから許してね」
「はい」
「お婿さんにするのはね、誰でもよかったの」
誰でも良かった。その言葉だけ捉えれば、自分が必要とされていない様に感じられるだろう。
しかし、彼女の表情は自惚れでなければ、かけがえのないものを見つめているものだ。
「私の隣に居て死なない人ならあなたでなくてもよかった」
悪戯気に仕返しをするように笑う幽々子殿。
「でも」
その表情を見ながら自然と微笑むそれがし。
「今はあなたじゃないとダメだって心の底から言えるわ」
言葉と共に送られる軽い口づけ。
それを受けてそれがしも思う。自分も彼女でなければダメだ。最初は西行殿が死んでいたことに絶望しかけたが、今になって思えばそれは運命だったのかもしれない。自分が何者かを求めたのも、幽々子殿から役目を承ったのも、そもそも自分が生み出されたのも、全てはこの瞬間のためだったのではないだろうか。
「私と出会ってくれて、私の夫になってくれて、本当にありがとう……それしか言えないわ」
満面の笑みを浮かべての感謝の言葉。
それは咲き誇る桜に劣ることのない美しさで。
同時に桜以上の儚さを感じさせるものだった。
だが、儚さなど自分達にとっては何の障害にもならない。
花が散るのならば共にこの命を散らそう。地に落ち土に還るならこの身も土となろう。
夏が過ぎ、秋を迎え、冬を越え、再び咲き誇る春が来ればこの身は何度でも隣に立つ。
幾度の季節を
「ふふふ…私ったらいけないわ」
「何がでしょうか?」
「だって、人を殺すのが嫌で死のうとしているくせに……」
幽々子殿の瞳から一筋の涙がこぼれ落ちていく。
「あなたが一緒に死んでくれることが、嬉しくて仕方がないの」
泣き笑い。
みっともなく映るかもしれないその顔は酷く美しくて、思わず自分の瞳も潤んでしまう。
いや、頬を伝う温かい感触からして、それがしも泣いているのだろう。
「本当はね……1人で死ぬのは怖くて寂しかったの」
「大丈夫です。それがしが決して1人にはさせません」
「嬉しいわ。…じゃあ、そろそろ」
「はい…それでは」
『共に逝きましょうか』
どこに向かうかなど語らずとも分かる。立ち上がり、寄り添うように一歩、また一歩と桜と満月の下へ足を進める。恐怖はない。それどころか、どこか安らぎのようなものすら感じられる。
「でも……少し短かったわね」
桜の木の下に着き、懐から準備しておいた短刀を取り出したところで幽々子殿がポツリと呟く。
気になり、何のことだと問いかける。
「結婚生活よ。今更だけど7日間は短く感じるわ」
「それだけ幸せだったということでしょう」
「そうね。本当に幸せだったわ」
穏やかな表情、しかし少しだけ寂しさを感じさせる顔を見て一度短刀を下ろす。
幽々子殿に伝えなければならない。これは終わりではないのだと。
「桜が咲き誇っていられるのも7日間。
世の人々は何故咲き続けないのだと、今の幽々子殿と同じように嘆き悲しみます。
しかし、こうも言います。―――必ず、
その発想はなかったと驚きつつも、穏やかな笑みを湛える幽々子殿。
「……そうね。
「はい、
もう悩みも不安もない。
全ての準備は整ったのだと大丈夫だと理解し、短刀を握りなおす。
そこへ、幽々子殿が口を開く。
「ねえ、
「何でしょうか?」
恐らくはこれが最後の言葉になる。
だというのに、お互いの口から出た言葉は驚くほどに安らかなものであった。
「―――
満面の笑みで告げられたほんの7文字の言葉。
だというのに全ての感情が、想いが伝わってくる。
ああ…そうだ。これが愛し合っているということなのだろう。
ならば、それがしが返すべき言葉も7文字で十分。
「―――
そう、全ての想いを込めた言葉を、今生の終わりに返すのだった。
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夜が明け、朝日が闇に隠れていたものを映し出していく。
西行が残した屋敷。西行が愛した桜。そして桜の花びらが降り注ぐその下には。
抱きしめ合いながら息絶える一組の男女。
安らかな表情を浮かべる顔だけを見れば、ただ眠っているようにも見えるだろう。
だが、しかし。その衣を赤く染めあげる黒ずんだ血を見れば既に命が無いことが分かる。
如何なる理由があってか、2人は死して添い遂げることを選んだのか。
事情を知らぬものには理由など到底分かることではない。
しかしながら、理由が分からずとも分かることはある。
2人は最後を迎える刹那の時まで―――愛し合っていたのだと。
ほとけには 桜の花をたてまつれ わが後の世を 人とぶらはば……
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そこにはあることが記されていた。
【西行の娘とその夫、西行妖満開の時、幽明境を分かつ。
その魂、白玉楼中で安らむ様、西行妖の花を封印しこれを持って結界とする。
願うなら、二人分かたれることの無い様、
亡霊の姫は自身が管理する白玉楼の中には、半人半霊の庭師を除いて肉体を持つ者が居ないことを良く知っていた。だというのに、西行妖…咲くことを忘れた桜の下には2人の亡骸が眠っているというのだ。これは明らかに何かがある。亡霊の姫はそう確信した。
「桜を満開に咲かせてあげれば封印はとけるかしら」
彼女は端的に言えば桜の下で眠る2人を復活させようと思っている。
普段は死霊を操り、人を
皮肉なこともあるものだと自身でも思うが、特に気に留めることはない。
「蘇ったらどんな人達か話してみるのも面白いわね」
何故なら、彼女は興味本位でやっているだけだからだ。成功するに越したことはないが、失敗したとしても彼女に不利益はない。せいぜい彼女の親愛なる庭師が苦労するだけだろう。
「でも」
しかし、実行しようとすると何となしに心に引っかかることがある。
「せっかく2人だけの世界に居るのを呼び出すのはお邪魔かしら」
桜の下で眠るのは夫婦だという。共に死んでいるのだ。それは仲の良い夫婦だったのだろう。
どんな人物だったか気にはなるが、乙女の心情として邪魔されたくないのではとも思う。
「うーん…悩みどころね」
自らの興味を優先するべきか、僅かな良心を守り2人の安寧を祈るか。
色々と考えてみるがなかなか決まらない。
「ねえ、あなたはどう思うかしら」
ならば、人に意見を求めるのも1つの手だろう。
亡霊の姫は振り返り、先程から黙って茶を飲んでいる隣の人物に目を向ける。
そして、その者の名を呼ぶ。
「―――旦那様?」
心中ENDが書きたくて始めた短編ですが一先ず完結です。
生き延びて友人として幽々子に関わる√も考えましたが、2人で死ぬ方が綺麗ですよね。
感想、評価を頂けると幸いです!