主人公:禅語では立ち返るべき自分自身の姿のこと。
空想好きな私がいつぞやに会った君のことを思い出すのは、きっと悲しいときだろう。君は随分寂しそうで、苦しそうで、でも歩き続ける意志を持っていた。ちっぽけなちっぽけなそれは、大切に握りしめられて形がグシャグシャになっていたけれど、たしかに輝いていたと思うよ。そんな君は、私にはひどく眩しかった。
「君はどうかな、ゲーティア」
たしかに幸せだったかい?もしそうなら、見送った私も幸せだよ。君に会えないのは、心が裂けそうなくらい、とても寂しいけれど。
そこに落ちたときは、多分夢だと思った。広い広い原っぱ、薄ぼんやり輝く神殿。それから、何かに食いつぶされたみたいに感じるやたらと空っぽに見える星空。
人のいない世界。誰も入り込めない世界だ。それがとても、単純できれいだと感じる。
「何者だ」
「おや、人がいるのか」
気配にはとんと鈍いので、背中の向こうからかけられた声でやっと気づいた。振り返ると長くて白い髪の美丈夫。服はゆったりとしているから、中東、西アジアとかそんな感じのところの人なんだろうなぁとぼんやり思う。その青年の髪に編み込まれた紐の目のような赤は、もしかしたら魔除けか何かだろうか。そんな文化は知らなかったけれど、私の無知のせいだろう。
「答えろ。お前は、何者だ」
「何者にもなれない者だよ」
深遠な問いに、私なりに思いつく答えを返した。私はまだ何者でもない。こうだといえるものは見つからないし、見つけることもできないだろう。
「人間風情が、なぜここに来ることができた」
「わからない。ただ、きっと君と語るためではないかな」
ここは美しく、人がいない。禅問答のように語り合うためにではないだろうか。私は、きっとそのために頭の中にこの空間を作り出しているんだと思う。
ある種の明晰夢。それにしては、随分と美しい主人公を生み出してしまったものだ。主人公の私はこんなに美しくないだろうに。
「……そうか。ならば、好きにしろ」
「いいのかい。ならしばらくはそのへんで昼寝でもさせてもらおうか」
頭を使うと、疲れる。疲れたらすごく眠いんだ。夢の中で眠るのは不思議だけど、主人公と見える形で対話できているのだから、いいのではないか。
ごろりと転がると、爽やかな風が一迅吹いた。ここは、とてもいいところだな。目覚めたくなくなってしまう
「お前は、私を怖がらないか」
「なぜ恐れる必要がある?」
「私は、お前たちを、人類を滅ぼしたいと望んでいる」
大の字に寝転がった私のそばに、青年が来た。彼も腰を下ろし、私に目を合わせる。風に遊ばれている髪は、とても柔らかそうだ。
「私と随分似た価値観を持っているんだね、あなたは」
「似ている?」
「似ているとも。人は滅びていい。存在していることが間違いのもとであるのだから、そのまま消えればいい」
死ぬのは怖い。でも、必要であるならは、避けることはできないだろう。
「良いものとして再生したくはないか」
「君は善良だね」
優しい人だ。私の望む姿ではなさそうだから、主人公ではないのかもしれない。でも、とても優しい心根の持ち主だ。良いものになりたい、その手助けをしたい、という心はとても優しいもの。そのために間違えたことをするのは、たしかに悪いことかもしれないのだろうけど。それでも、優しい。
でも、それは間違いだ。
「きっと再生したところで何らかの苦しみは残る。死ぬことができなければ、全て抱えて生きねばならない。それは、心が耐えられるようにできていても、あまりに苦しいよ」
人は間違う生き物だ。たとえ、自分の思う完全な姿になっても、きっとどこかで間違うだろう。例えば不老、例えば不死、例えば間違いのない人間性。どれも、何があっても得られないもの。それを得てしまえば、きっとそれは人間ではない別の生き物でしかない。
「それに……あ、ごめん。ちょっとかなり眠たい」
「な、待て、まだ話は終わって……!?」
像が歪む。だめ、もう瞼が限界。開けてられない。
起きたら、ホットサンド食べたいな。
「起きたか」
「……あれ、夢がまだ続いてる」
「お前は、夢だと思っていたのか」
こめかみを押さえる青年は、主人公でも脳内の虚像でもなかったらしい。失礼なことをしてしまった。でも、彼は人類を滅ぼそうとしているのだから、今何をしたって死ぬことに変わりはないだろう。
「お腹は空いてないなあ」
「ここは固有結界だ。外のお前とは切り離されているんだろう」
さらりと言われたけれど、多分幽体離脱しているってことだろう。固有結界?と言うものが何なのかはわからないけれど、切り離された異空間か何かなんじゃないかな。
「話すことは、もうほとんどないと思うんだけどなぁ」
「……なら、お前の好きに、言いたいことを話すといい。お前の話は興味深い」
「誰か別の人間をとっ捕まえて話させるほうが面白いとは思うよ」
まぁでも、もう少し長生きできるならいいか。話し終わる頃には、彼の手で世界はきっと終わるだろう。
大したことは語れなかった。私が好きな本の話。文学や歴史や生物の講義で聴いた面白い話。好きな音楽の、どういう時代と思いがあったかの話。たくさんの感情を含ませた、私の話したいこと。面白いと思ったから、誰かに聞いてほしかったことたち。
もちろん、彼の話も聞いた。なぜ、そこまで思い至ったか、人がどれほど愚かしいか、その業がどれほど深いか。時折、直に脳内に流されたから「こいつ直接脳内に……!」ネタを挟んで叱られた。そうでもしないと、身も世もなく泣いてしまいそうだったから許してほしい。彼はきっと、体験してひどく泣いたんだろう。苦しんだんだろう。とても柔らかい心がズタズタにされただろう。私でさえそうだから、彼には耐えられなかったんだ。それを完全に理解することは絶対にできないけど、ただ、聞くことだけはできる。それだけは、していようと思う。
そうやってどれくらいか話して、ごろんと寝転がって眠って、それからまた起きて話して。日付の感覚も何もなくなった。ここはいつも昼間だ。日付なんてわかるわけがない。
途中でゲーティアと名乗った彼が、私に教えてくれたことは、心を揺さぶるには十分すぎると思う。でも、私はどこか他人事でしかなくて、ただ彼が話したり、見せたりするものに同意するしかできなかった。
ただ、眠っては起き、起きて話をしては眠りを繰り返して彼と居た。
少しばかり気を許してくれたのか、触れさせてくれることがあった。ひどく苦しいものを見せられたときには、思いっきり頭を撫でて、頑張ったね、と抱きしてめてやることもあった。
……自分よりずっと年上のはずなのに、ずっと幼い子供のようで。ついそのように接してしまうことがあったのは、彼には悪かったかもしれない。
そのうちに、その空間がじわりじわりと崩壊し始めた。何か起こっているのはわかっていたけれど、どうしようもないから黙って見ていた。彼の髪紐と似た茨の蔓のような何かが解けて消えていくのも、神殿のあちこちが溶けるように崩れていくのも、私にはどうにもできることじゃない。
「怖くはないのか」
「怖いよ。でも、君だって死んでしまうだろう。君こそ怖くないの?」
「怖い。……だが、自業自得だろうからな」
「なら、何も問題はないね」
頭を撫でると、目が細められる。随分慣れてくれた、のだろうか。
自業自得でここが崩れるなら、私は元の場所に戻るかもしれないし、そうじゃないかもしれない。
でも、ゲーティアはきっと死んでしまう。それは、自業自得と口では言えても、とても受け入れられないほど怖いだろう。彼は私よりもずっと長く生きたらしいから、それだけ怖いのは当たり前のことだ。彼は偉い。
「君が怖がっているなら、ひとつだけ呪いをかけてあげよう。"まじない"ではなく、とびっきり重たい呪いを」
だから私はゲーティアを呪ってやろう。私は魔法使いではないけれど、彼もきっと次を生きられるように。できれば人としてまた生まれ変わって、ここであったことを忘れても生きられるように。
「ゲーティア、君はよくやったよ。だから、次は君自身のために生きなさい。人類や生命なんて考えず、ただ、君がために」
知ってるかい、ゲーティア。言葉ってね、すごく重たいんだ。発することで本当になるくらい、重たい呪いになる。名前は古くて最高に重たい"まじない"だから、合わせたらきっとすごいんだ。
だから、ちゃんと君自身で、次を生きてね。絶対にだよ。私はその時会えないかもしれないから、きっと、きっと君自身でやり遂げなさい。
「ねぇ、ゲーティア。私は君と会えてとても楽しかった。君の人生が、悪くない終わりでありますように」
「……お前の呪いは、本当に重たいな」
今にも泣きそうに顔を歪めるゲーティアが、たった一言そう言ってくれるだけで嬉しかった。
でもごめんね、もう、眠たいんだ。さよなら、ゲーティア。
目が覚めたら、外には雪が降っていた。電子時計が、一年ぐらいバグってる。確認したら、祝日だ。
今日は学校が休みで良かった。多分、今日は夢みたいだった彼の顔のせいで使い物にならない。私は、思ったよりも彼のことが好きだったみたいだ。
寂しいなぁ。できることなら元気でいてね、どこの、どの時代の人かわからない、でも確かに語り合った、遠い遠い世界の人。
作者風邪気味でちょっと書くのが遅くなります。
あとレポートが倒せない。