その日、ギリシャ談話室に激震が走った。
「え、アッティカ先生チョコレート作んねぇの!?」
「ああ、職員の分だけで片付けてしまっていたが、どうした?」
平然と答えるアタランテに対し、講義も面白かったな、と遠い目をするマスター。当然ながら寝耳に水の情報にアキレウスが驚愕する。大師匠のバレンタイン直前の特別講義に、明日のチョコレート中止のお知らせ。驚かないはずがなかった。
マスターが貰ってきたブラウニーを一切れ貰って噛りつつ、アタランテはチョコ菓子特集のレシピをめくっている。次の日渡さねばならないチョコレートの内容について考えているらしかった。
「で、でも明日はバレンタインだろ? それに先生の分だって」
「ああ、なんかもう供物以外作らずに終わらせるってよ」
「「えええええ!?」」
談話室に本を返しに来たヘクトールに、今度はメディア・リリィとアキレウスが叫ぶ。
「女の子のお祭りなのに楽しまないなんて!」
「ちょっと待て、ヘクトールそれどこで聴いた。あとそのホットチョコレートは」
「ああ? 本人から聴いたんだよ。これは、そん時に貰ったやつ」
甘い匂いから不自然に思われたそれは、特大級の爆弾に等しかった。普段のあれこれをあまり知らないヘクトールらしくもあるが、このときばかりは致命的である。
「……悪いこと言わない、とっとと飲め。そして無かったことにしろ。死にたくないだろ?」
「え、何、急に真面目なトーンで言われてもオジサン猫舌ですぐ飲めないんだけど」
「いいから!」
無理やり飲ませようとするアキレウスに、ヘクトールが抵抗してあわや喧嘩になりかけていた。が、
「やめなさいアキレウス。……ヘクトール殿、どういう経緯か、詳しく教えていただけますか」
一番会わせてはいけない人物がやってきてしまった。心なしか存在感が増している気がするのは、気のせいであろうか。マスターは特に現実と3人から目を逸らした。
「あ……(逃げろ)」
「は、はは……(無理に決まってんだろ)」
小声でやり取りしながら冷や汗を流すが、現状が打破できるはずもなく、そのまま向かい合って正座で座ることになった。ホットチョコレートを貰った状況を伝えても、纏った空気は変わらない。
「でも一応おやつとかは用意するんじゃないのか?」
あまりに面倒なやり取りをしていた3人に、呆れたような目を向けながらアタランテが言う。しかし、よそ見をしていたはずのマスターが復帰して呟いた。
「先生のことだから、余程何か無い限りはそういうのないと思うな」
「(マスター退路断っちゃだめー!!)」
「特別講義って、何の話をしてたんですか?」
貰ったものは粗末にしてはいけないと言う話になり一段落ついた後、参加できずに気になったらしいメディア・リリィが尋ねた。
「ああ、媚薬の話だったよ。面白かったなぁ」
「ぶっ!?」
「大丈夫ですか?」
要は食品の効果の話だったが、イマイチまとめきれないな、と、立香は詳しく説明するのを放棄した。吹き出したのはもちろんケイローンである。何てことをやってるんですか師匠。
「は、はい……マスター、媚薬の講義とは、まさか誰かに」
「じゃなくて、チョコレートに媚薬効果はないよって話!」
薄らと暗い目をしたケイローンに、立香が慌てて訂正すれば、明らかな安堵のため息が吐かれた。カルデアに来てから師匠が何をするかわからないだけに、ケイローンの負担も大きかった。妙齢の女性が講義する上に、内容が内容である。
「そうですか……あまり教育上よくない話題は出さないはずの人ですから驚きましたよ」
「先生は清姫の疑問に答えただけだよ」
「それでも、です。最悪の場合はお茶を濁して終わらせる人ですからね」
基本的にアッティカは教師である。子供に教えられないと判断すれば全力でそこから遠ざけ、必要なだけの時間をかけて叩き込む。この場合教えるべきだと思えない紹介のされ方だったのが問題だったのだ。
「でも、先生の場合ちゃんと授業の真面目な内容です〜って感じだからそんなに違和感感じないよね」
「……大先生、時々突拍子もねぇことするんだよなぁ。先生はよく慣れましたね」
「昔から、いつもそうでしたからね……」
昔を知らない他の面々は興味が出たが、男装の教師であっても今の愉快な人柄と大差ないだろうと検討をつけた。聞かぬが花かもしれない、と認識が一致したこともある。
だがそこで訊かないという選択肢がないのが立香だった。
「昔の先生ってどんな人だったの?」
「そうですね。師匠である以上に、父親のような、母親のような人でした」
そう言われ、立香はセナがアッティカを召喚したときのことを思い出した。男性物のキトーンを着込み、立ち振る舞いや堂々とした雰囲気から男性に見えた。あれが師として、父親代わりとしての姿に近いのだろう。
今は再臨して女性物のキトーンに、長くなった髪は編み込んであるため、普段は母や女教師としてのイメージが強い。生きていた頃なら、どちらも併せていたはずだ。
「お父さんとお母さんの中間みたいな感じかぁ……」
「ええ。食事の用意から弓の稽古の復習まで、一人で全て教えてくれましたから」
先程の授業のように、食事の支度をしながら講義をしたのだろうか、と立香は少し気になったが、何が飛び出してくるかわからない以上、訊くのはやめておこうと思った。
「先生って本当に親みたいな人なんだね」
「そうですね」
慈しむような目をして語るのは、限りない親愛からだろう。どれほど大切にされたか、とてもよくわかる表情だった。
そんな目を見たからには、それはそれとして先生はバレンタインのチョコレート用意してくれないんだよね、と立香は言えなかった。蜂蜜で大丈夫であると信じるばかりである。
せんせいがどんどん愉快な人になりつつある不思議。
いくら回してもケイローン先生来ません。