前編の島の名前間違えていたので直します。ごめんなさい。
追記:間違えて推敲前の文章の方を投稿していたので誤字を修正しました。
結局、兄上には出立前に余裕をもって伝えることにした。僕の立場はそこそこでも、そこまで高くはない。伝えるに越したことはない。
それで、僕も手持ちのカードを切って兄上をどうにか説得しようとしたものの、やはり手強い。というより、ここまで頑張って舌先三寸で粘ることなんてなかったから、よくぞここまで保ってると褒めてほしい。ちなみにもう30分近く経ってる。
「兄上、ヘレネーへの求婚の際、ヘレネーに危害を加えたものに、求婚した男たちすべてが制裁を与えよとしています。ならば、これを旗印にすることができましょう」
「……メラネオスの出方にもよるが、少なくとも、使えない手ではないか」
「最悪の場合、僕の首を差し出してください。主犯の首だけでヘレネーは逃げたと言うと疑われるかもしれませんが、少なくとも体面は保てましょう」
「どうしてお前はそこまで肩入れするんだ、パリス」
兄上は、僕をパリスと呼んだ。なら、繕わずに本音を言うべきなんだろう。それが認められないことだとしても。
「僕自身が耐えられなかったからです、ヘクトール様」
「そうか。……よし、一発で許してやる。歯ァ食いしばれ」
「はい」
バキ、と嫌な音と激しい痛みが頬に来て、体勢を整えていたのに吹っ飛んだ。
相変わらずいい拳です、兄上。私も少しは体重増やさなきゃ、やっぱり吹き飛ぶなぁ。受け身は取れても、痛いものは痛い。
「お前のそういうところは嫌いじゃない。事前に言いに来たのも及第点だ。だがな、お前は自分を省みろ」
やれやれ、と呆れながらも見放さないでくれる実兄に感謝しながら、痛む頬を伴にしてその場を辞する。
すぐに出港だから、やらなきゃいけないことは多い。ヘレネーは不満を募らせるだろうが、捕虜の女性たちは皆雑魚寝で一部屋に集められる。特別扱いはできないけど、暴行の跡を見た同室の彼女らは、きっと優しくするだろう。流石に酷いことはしないはずだ。
私は荷積みと航海士の仕事がある。交代で星を読まなくてはいけないし、もともと彼女たちに構う時間はない。仮眠だけは、しっかり取っていなくては。
いつぞや見た泉のそばには、美しい方々が居る。審判をしろと仰せになった女神様方と、その見届け役のヘルメース様だ。
「最初に誓っていただきたいことがございます」
賄賂を断り、前置きをしたことに片眉を上げつつも、彼女たちは聞き入れてくださる。私は、世界も美女も名誉も欲しくはない。私は、公平に審判をせねばならないのだから賄賂をもらいたくない。
「構わない。それはなんだ」
「いいわ、言ってごらんなさい」
「ええ、どんな内容でも誓いましょう」
「私がどのような判断を下したとしても、決して私以外に罰をお与えにならないということを。そして、私の判断はただの死すべき人間の考えるところであるとお許しください」
「「「良い。ゼウスに誓おう」」」
三柱の女神たちが異口同音にそれぞれに誓うのを聴き、震えそうになるのを堪えて口を開く。この答えは、きっと不興を買うだろう。でも、私にはこの答えしか思いつかないのだ。
「この林檎は、本来この場におはす皆様方全員に向けられたもの。女神とはすなわち、美しきもの。一柱にのみ捧げるはずがございません」
いつも携えているナイフは、そのまま腰に収まっていた。それを引き抜き、りんごを均等に分割する。こういう、きっちり果物を分けるのは、実は結構得意だ。
「堂々と捧げることがなかったのでしたら、手が震えたのか、綴り間違えて、『最も美しい女神たちへ』と書きそこねたのでしょう。ゼウス様が裁定を私めにさせたのは、貴方様方への不和を避けんがため。そして死すべき人間である私にその裁定をお与えになられたのでしょう。
貴方様方はみなそれぞれの美の頂点。一つの林檎をどなたか一人に捧げようなどと、誰が、一体何故に考えましょう」
金の林檎の文字を削り、直す。『最も美しい女神たちへ』と。
その文字をよく見えるように掲げる。三切れの林檎は、彼女らの望むものではないだろう。
私は、それをわかった上でする。これが、たとえ恨みを買っても私に出せる最善と信じて。
「これが、私めの考えるところでございます」
死すべき人間にとって、どうにもできないことはできないのだ。この方々は皆美しく、そしてすべての美の方向性が違う。もとより比べるべくもなく突出しているのだ。なのに、一つの林檎で足りるわけがない。
どの褒美もいらず、どのニ柱に嫌われても仕方のない状況。なら、三柱の方々全てに嫌われたところで誤差でしかないだろう。きっと、私が選ばれたのも死すべき人間だから、恨みは続かないと考えられたからだろう。
「……良い。誓った以上、反故にするわけにはいかぬ。死すべき人間よ、この審判を、貴様は忘れるでないぞ」
「納得行かないけど、誓っちゃったもの」
「何者にも肩入れしなかったのはこのためか」
そのまま、女神たちに見つめられつつ私は意識を手放して……
「…、リス。パリス! しっかりしろ!」
「兄上……?」
私は気絶していたらしい。周りの瓦礫に多少血がついていて、額が妙に熱くて、湿っている。
「お前、本当に悪運が強いな。休戦だ」
「はは……あにうえ、ぼく、また生き延びたんですね」
ろれつが上手く回らない。ぼんやりする。
「起きなくていい。今回は怪我がひどいからな。少し寝てろ」
「ごめんなさい、ありがとう」
生きたままに何度目かわからない休戦がやって来たらしいのだから、僕はよっぽど悪運が強いのだろう。
今度は、何人の部下が死んでしまったのだろうか。次の使者は、一体どんな男だろう。いっそ、戦場に似つかわしくない、御しやすい者であれば良いのに。
アカイア勢が美しい若武者を使者として送り込んできて、今猛烈に頭が痛い。
なんでよりによってアキレウスなのかな。すぐに武力行為に出られるあちらの有力な武将を送り込んでくるとは。しかも、廊下の向こうで
「ポリュセクネー、僕の可愛い妹よ。何を話していたんだい?」
「あら、アレクサンドラ姉さま。口説かれたの。あのアカイアのアキレウスに!」
さもおかしい、と言わんばかりにクスクス笑う妹に、これはあの若武者もボロボロに言い負かされたかと内心で合掌する。遠くから聞いたことがあるけど、妹の断り方はこう、心をえぐるのだ。敵とはいえ少しばかり哀れになる。
「アレクサンドロス兄さまを超えたら考えるって言ってやったのよ!」
考えていたのとは全く違うパターンの「無理」の言葉に、それでいいのかと今度は深く頭を抱える羽目になった。
いや、僕は確かに生き延びているけどそこまで槍の腕前は強いと言えないよ? どうしてポリュセクネーはガンガン煽っていくのかな。ほら、さっきと全く違う笑顔のせいで、あっちにまだ居たアキレウスが珍獣を見るような目でこっちを見てるよ。ざまあみろと思うから指摘はしないけど。
もう一度こっそりと彼の方を見た。ギョッとしていた顔が徐々に真剣になっていくのを見て、胸がツキリと痛む。ああしてみると、とても精悍で、必要以上の残虐なことはしないように見えるほど、相当落ち着いた風だ。なのに、あれは暴力的な男である。せめて敵方ではなければ、その暴力が妹に向かないのであれば、私も応援できるのに。
そこまで思って、ぐるぐると胸の奥が凝るような心地がして、胃が痛くなってくる。なんで、どうして和平が一時とはいえ叶った時に痛むのだろう。思っているよりも疲れているのか。
「姉さま、お茶にしましょうよ」
「構わないよ。贅沢はできないけど、家族でお茶を飲むのは許されるだろうから」
えへへ、と抱きついてくる妹を正面から受け止めて、幸せそうに胸に顔を埋めてくるその頭を撫でて、髪を軽く梳いてやる。
私と違う金色の髪がキラキラと輝いて、ポリュセクネーはやっぱり今日も美しい。兄様やヘカッサンドラ達もだけど、私は本当に実の兄弟姉妹にも恵まれているんだなぁ。
視線を感じながらも、早々に妹の姿を私の影に隠しながら部屋へ逃げるように入り込む。うん、あの目は少し苦手だな。取られたくないと、僕の中の誰かが叫んでるみたいだ。
お茶を入れながら、私が焦ったように部屋に転がり込んだことをポリュセクネーは笑った。
「姉さまは、きっとあの男が好きなのね」
「どうして」
「だって、彼を見て泣きそうだったもの」
「……あんなに部下を殺されたんだ。顔を見たら、悔しさに泣くだろう」
「いいえ、そういう風じゃない顔だったわ」
否定したいのに、うまく言葉が出ない。
違う。僕はあの男は嫌いだよ。だって、大事なものを浚っていこうとする。部下も、大事なポリュセクネーも、このトロイアさえも。だから、好きになんてなるはずがない。なったところで、そんな気持ちは押し殺してしまうだろう。
「姉さま、いっそあの男を誘ってみればいいのに」
「大人しく罠にかかって殺されるような奴じゃないと思うけどね」
嫌だなと思っているところに、またとんでもないことを提案してくる妹は楽しそうだ。いつも対峙しているときと照らし合わせた感想を述べると、膨れっつらになってしまった。
「もう、そうじゃないわよ……動いてみないと、わからないでしょう」
「分からなくていいよ。あれは部下たちの仇だ」
「本当、いっつもそうなんだから……」
もういい、なんて言ってお茶を飲む姿に、そう言いたいのは私だと言おうとして、やめる。人間は変われないし、現を抜かす暇なんてない。でも、もしこの戦争が終わって自由に恋をできるなら、誰か良さそうな相手を探してみようかな。男として生きていることを許してくれる、私がしたかったことを肯定してくれる人が、本当に居てくれたらいいのに。少しだけ前を向けるように。
なんて、考えたことももはや遠い。
兄上は死体になって帰ってきた。手勢も。
がんばる?いや、そんなものではぬるい。
兄上の敵。ここで殺さなければトロイアが滅ぶ、怨敵。倒さないと。はやく、仕留めないと。
絶望までは、まだ一歩遠い。まだ踏み止まっている。憎悪に突き動かされるだけ、まだマシだ。城内にすぐにでも攻め込んできそうな軍勢に、まだ心は折れていない。
頭が冷えていく。まだ、戦力は3割を切ったわけではない。和平交渉も、アキレウスを送り込んでくるものの、まだ叶うと決まったわけではない。なだれ込んでくる相手に、手勢を分散させるのは悪手。ならば、分散を避けつつゲリラ的攻勢を仕掛けるべきか。
「戦力を分散させるな! 和平が破棄された場合に敵の来るであろう通路を絞れ! まだ終わってはいない!」
「「「「はっ!」」」」
近くにいるほうから情報を伝えさせる。指示の一つ一つは短いほうがいい。まだ折れていないことを示すには、将が指示を下し続けること。この場を持たせるには、発破が上手くかかること。それに、あと一人分の強い首級を得ることだ。きっと和平の提案は、勢いのあるアカイア勢には受け入れられない。ならば、あとの一手を考えておくしかない。
アキレウスがこの建物を出たが最後、奴らはなだれ込んで来るだろう。一番は、和平を破棄された瞬間が狙い目だ。手元にあるのはただの弓だけ。射抜くには相当距離がある。でも、今ならまだ近い。それに、ここで手を出せるのは私だけじゃない。
あの男に兄が討たれ、激昂しているのは私だけではない。兄上を愛した遠矢の御方も、また激しく怒っている。
「フォイボス・アポッローンよ! 私に捧げられるものは我が死後のみ! その全て貴方様に捧げます! どうか、どうか私にあの男の踵を射抜く力を!」
血肉はトロイアに、魂は遠矢のお方に。これが正しく届くか、それはわからなかった。でも、私にはそれしか捧げられない。ひとかどの将として扱われている以上、私の死体はトロイアの守護の要になるだろう。英雄の死体は守護の力を持つから、捧げることはできない。でも、そうではなく魂なら。今後生き返ることがなくたって構わない。私を大切にしてくれた兄の死に報いることができたなら、それでいい。
「よく決めたね。いいだろう、パリス。君に力を貸そう。今このときを以て、君の死後は僕のものだ。我が従者よ、こちらへ来なさい。アキレウスは直に城内へ来る」
「外しはしません。絶対に」
息を潜め、やってくるその金色を見つけた瞬間に狙いを定める。
大丈夫、昔射抜いた猪より、この敵は分かりやすい。それに、きっとこのときのために僕の弓の腕はあったのだから。
ビュン、と風を切り、あの男の踵から血が噴き出す。命中した。でも、まだ生きている。
「貴様ァァアアア!」
絶叫する男に、口角が上がるのを誤魔化せない。兄上、僕はやりましたよ。あと一息で、貴方の仇を討てる。和平? そんなものは口実だと、どちらの軍勢も思っている。あちらの誤算は、この男が死なないと思ったことだけだろう。
「ハッ、たかが人間ごときに撃たれないとでも思ったのか、アキレウス!」
慢心しないよう、毒矢の二発目をつがえた。
ああ、なんて虚しいんだろう。僕が生きる理由をくれた人たちは、一体あと何人残っているのか。復讐なんて、一瞬。もう、あとに残るものなんてほとんどないのに。
アキレウスが倒れて、その後全てが目まぐるしく起こっていった。ヘレノスが出奔して、アカイア勢に再び攻め込まれて。僕もまた、誰かに射抜かれた。あれは、きっと音に聴くピロクテーテスだろう。よくあのお方を説得できたものだ。オデュッセウスというのは、やはり相当な切れ者なんだろう。
射られてから激痛が走り続けているが、解毒はきっとできない。できるのは一人だけだし、その一人だって、すぐ来てくれるかわからない。顔を見せてない友は、きっととても怒っているだろうから、いたずらだと思って断られるかもしれない。あるいは、まだ顔を見せないことをずっと根に持っているか。
「オイノーネー様をお連れしました!」
「離してよ! パリス、この馬鹿! 私になんてことをするの!」
使者が急ぎ連れてきたものの、彼女はやはり怒り狂っていた。無理に連れてきたのだろう。少し、望みが薄まる。
きっと助からない。その予感を振り払いながら、昔なじみに恥を捨てて頼み込む。もう後がない。長らく連絡を取らなかったのは悪かったけど、彼女も流石に命と引き換えにはしない女の子だと、そう思っていた。
「傷を、治してほしい」
足から今にも力が抜けそうだ。声を出すこの苦しい。でも、頼みの綱のオイノーネーは怒りに顔を歪めている。視界もぼやけてきたから、ちゃんとは見えないけれど。
でも、怒髪天を衝く状態の彼女に返された言葉は、当然ながら否定だった。
「いやよ! ずっと私のこと忘れてたくせに!」
確かに、僕はオイノーネーに会いに行かなかった。でも、忘れたわけじゃない。友を思う気持ちを忘れたりなんか、しないのに。
「それは王宮に抱えられて……」
「そんなの知らない! 私が一番じゃないと嫌なの! 私を好きなんでしょ、愛してるんでしょう?!」
それは、そうか。涙ながら叫ぶ友人の主張に、ああ、ここでも間違えたのかとようやく気付いた。
彼女は、僕が恋をしていると思ったんだろう。だから大事にされないことに腹を立ててしまった。オイノーネーは悪くない。僕のしたのが勘違いさせる素振りだったんだろう。だって、ここにいたとき、僕はいつも男の子だった。恋をした男が通うのは当然だし、そう思われていたんだ。
目の前が霞む。自分の心臓が鼓動する音が、激しく、大きく、耳の中で鳴り響く。
「不快にさせてごめん。さよなら、オイノーネー。どうか、幸せで」
背を向け、最後の力を振り絞って寝台から起き上がり、走る。
きっと、血の巡りが早くなるから保つ時間も思っているより短くなるだろう。宮内から出なければ、きっとまだ大丈夫だ。死体を取られはしない。
「何よ、何なのよ急に! 帰ってきなさいよ、ねえ!」
後ろの方で叫ぶ声が聞こえる。せめて、彼女が追いかけて来られない遠くへ、彼女に僕の死体を見せないように行かないと。きっと、気づいたら自分を責めてしまうだろうから。
さよなら、オイノーネー。僕はもう死ぬけど、他のニュンペーたちも真っ青なくらい、すごく長生きしてね。
追いかけてきて、今まさに僕を支えているはずの弟の声が、恐ろしく遠くに聞こえる。もう、僕もその時が来たのだろう。これで僕の血肉はトロイアの守りの一部になる。できれば、アカイア方に取られないことを祈る。みんな、全部愛していたのに、どうしてこんなことになったのか。
……ああ、そうか。養父母も、実父母も、血の繋がった兄弟も、血の繋がらない弟も、友人も哀れな巫女妃も、トロイアさえも。全部愛そうとしたからだめだったんだ。
なんで今気付いたんだろう。もっと早くわかっていたら、これよりも失わずに済んだかな。でも、これからは関係ないから、もういいか。
遠矢の君、私の死後全てを委ねます。貴方様の愛した我が兄が、我が兄が、弟妹が、両親が、友が、エリュシオンで平穏を得られますように。
「サーヴァント・ルーラー、アレクサンドロス、あるいはアレクサンドラ。どちらで呼んでくださっても結構です、マスター」
僕を召喚した青い目の少年は、どこか弟によく似ていて泣きそうになる。ああ、女神が紡いだ運命は、一体どこまで惨いのだろうか!