カルデアというこの施設は、思っていたよりもずっと快適だった。お茶は美味しいし、女の子達は笑顔で楽しそうだし、男性諸君も生き生きとしている。まさに理想のアゴラ。特に心に波風が立つことなく、主君の妹君を守護するお役目をいただきつつ穏やかに過ごせている。
「アレクサンドロス……ああ、今はアレクサンドラか」
部屋にやってきた兄が笑う。とても懐かしくて涙が出そうだ。召喚後から何度も彼と会っているものの、未だに緩みそうになる涙腺をこらえられない。
「ヘクトールさん、笑ってないで助けてください。無理、今日はもう嫌なんです」
「諦めろ。それじゃ、明日はよろしくな」
戸を閉めて出ていく彼に本気で、別の意味で泣きそうになるけれど、ヘクトールさんは行ってしまった。ああ無情。
ヘクトールさん、と読んでいるのには訳がある。彼は、私の知っている私の兄ではない。
それは彼だけが違う世界線から喚ばれた、というわけではない。むしろ、私のほうがこの世界的には異物だ。本来僕がいない世界に、今僕はルーラーとして居る。
私がカルデアの人理修復に参加したのは、マスターがオケアノスを攻略したすぐあと。だからそのときにはヘクトールさんは居たんだけど、まさかの違う世界線と僕を知らない兄上に対するショックは大きかった。僕のうっかりでここにきてしまったのか、それとも主君たる遠矢の君の思し召しなのかはわからないけれど、しばらく立ち直れないくらい打ちのめされたのをマスターに隠せなかったほど。今は、折り合いをつけられたから、平気だ。
時折女装を求められる以外は、今日も穏やかだ。こういう形でも、やり取りできる今は、本当に幸せだと言えるんだろうな。
「あら、どうして嫌なの? このドレスもとってもよく似合っているわ」
私を着せ替えさせていたフランス王妃は、兄上が居なくなってからそう訊いてきた。
召喚されてからは男物のキトーンで従者らしく慎ましい服装をしていたのに、いつの間にやら着せ替えられることが日常になってきていて、今日もそうだ。今日選ばれたのは淡いクリーム色のドレス。婚礼衣装のように刺繍がたくさん入っていて、優雅で美しい服。僕みたいな粗野な人間が着てもいいんだろうか。
「いいじゃない、もうちょっと付き合って。ホラ、こっちも着てみて!」
「ア、アルテミス様もですか……?」
もう一方から逃げ場を潰しにかかるアルテミス様に、僕は抵抗を諦めた。もう好きにしてくれたらいい。
こちらのアルテミス様はカルデアのヘクトール兄上と同じ世界線のアルテミス様だ。でも、事情を知っていて、私がパリスだということを黙ってくださっている。いつかはバレるにしても、それまでは悪者としてではなく「何となく居座ってる悪意のない仲間」として扱ってほしいと願っているのを肯定してのことだった。
マスターは僕のことを別世界のトロイア王家の王子だとしか知らない。こちらの僕は男の子だったみたいだし、パリスと名乗っていたみたいだから、ちょうど棲み分けができるだろうから。僕の真名もパリスだから納得行かないけどね。
嬉しそうに服を服を選ぶのは、抵抗できないのがわかっているからなのか、それとも生前から彼女たちはそうだったからなのか。
「どうせなら、あなたが好きな服を楽しんだらいいじゃない。お姉さん、君の服を選ぶの好きだし、着飾って喜んでもらいたいな」
ヘクトール兄上と入れ替わりでやってきたイングランドの女王が、励ますように背中を軽く叩いてくれる。
「そうよ! それにね、素敵な服を着てたら王子様に見初められるかもしれないのよ?」
「僕も王子ですよ」
「そうじゃなくって!」
茶々を入れたら怒られた。僕は王子だよ。白馬の王子様をする側だよ。……体が女だとだめなのかぁ。世界を革命できちゃいそうな、かっこいい王子様にだってなれるのに。
「私とダーリンみたいにかっこいい相手が見つかるってこと!」
確かに、従者として仕事をしているときお会いしたオリオン様は相当な美男子ぶりだったけれど、僕に相手が見つかったところで、ぱっと見たところは少年愛に見える。普段は髪を一つに結んでるか、短く見えるように結わえているから。そっちのほうが楽で好きなんだけど、そんな姿を気に入る相手とは、それはそれでいかがなものなのか。
「男として育ってきた以上、王家の人間としての役目でもない限りは男と関係を持つ気はないのですが……」
「でも、サーヴァントなのよ? 自由に生きればいいと思うのだけれど」
王妃も食い下がってくる。理由が理由なのであまり言いたくはないけれど、伝えたらやめてくれるかもしれない。
「だからこそです。僕はルーラーですし、何かを望むことも、偏った心を寄せることも許されません。もとより、サーヴァントの状態も含めて僕は遠矢の君の所持物であり、従者です」
要は余計な現を抜かすことなどできないということなのだ。自由の身ならいざ知らず、すでにトロイアでローンを組んで奴隷契約しちゃってるから下手なことはできないんだよね。バカやらかした従者がハリネズミになったのを見たことがあるのでどうしてもお仕置きは避けたいところだ。
「ガタガタ言って悩んでないで、恋くらいしたらいいじゃない。もしあれなら、私から伝えて自由時間もぎ取るわよ」
うっとおしい、と言いたげに言い放ったアルテミス様に、今度はぎょっとさせられる。多少の自由は認められてるんです。拘束時間めちゃくちゃ長いとかそういう感じなんです。愛人はヘレノスとかが勤めるだろうし、身体的な(もしくは霊体的な)問題があるだけです。だからそこまでしなくても。
「そんな休憩時間みたいなノリで自由時間を取るのは、ちょっと……」
「じゃあ、知ってる人で、いいなぁって人は? それならすぐどうにかなるし、大丈夫かはわかるんじゃない?」
「それは嫌です」
爆弾じみた提案に、本気で顔が引きつりそうになる。これ、どうあがいても知り合いで選択を迫られるやつだ。知っていて、呼び出されそうな相手となるとほぼ一人。あれはやだ、ストレスでお腹が痛い。
「どうして? 結婚するまで知らない人とでもなんとかなるけれど、あなたは知っている人なら安心でしょう?」
「私は、もう誰かを愛してはいけないのです、マリー王妃。生前、全部大切にしたくて切り捨てられなかったせいで、沢山大切なのものをなくしてしまったので」
よくある話、といえばそうだけど、それにしては規模が大きすぎた。
「それに、僕は初めて恋をしていた相手を殺してしまいましたから。もう恋はしないほうがいいと心得たのです」
相手が相手なだけに、二の舞になりそうだ。それを避けるためにも、僕はもう僕自身の気持ちで誰も望んではいけないし、誰かを贔屓にしちゃいけない。触れるときも、公平公正に、何も感ぜさせず、ただの機能としてあるのが一番いい。
……それに、僕自身そんなことと思っているくせに、きっと恋をすれば生きていた頃と同じ状況になって苦しむだろう。だって、この体はいびつに継ぎ接ぎされた状態なのだ。従者として加護を得ているくせに、休戦していた頃の心と、従者の精神と、成長しきっていなかった軽い体でここに居る。体が十分にできていないなら、きっと何かあったら歯止めをかけられず殺してしまうかもしれない。だから余計に、恋なんてしちゃいけない。
黙ってしまった三人になにか言うこともできず、自分の着ているドレスを見る。生きている頃は着ることもなかった婚礼衣装を思わせるそれに、心が痛む。あのとき憎さに取って変わられて捨てたはず。なのに、ゴミ同然に扱った恋心につられてしまう。馬鹿だな、本当に。
「僕じゃなくて、妹たちに立派な花婿を見つけて、婚礼衣装を着せてあげたかったなぁ」
カッサンドラも、ポリュセクネーも、早いうちに嫁がせてやれていたら幸せになれていただろうか。カッサンドラは、主君に見初められるその前に、兄上がいい相手を見つけてやっていたならば、あるいは。
「でも、ありがとうございます、御三方」
考えを振り払うように、お礼を言って頭からその考えを捨てる。もう、全て過ぎたこと。僕の怒りは、どこにも残ってはいない。僕がアカイアの人間たちに持っているのは、もう全て終わったことだという虚しさだけだ。今更あったところで、心はちっとも動かないだろう。
「そのエロースの金の矢が、祝福になりますように」
私の言葉にいち早く正気に戻ったアルテミス様が、私の頬を撫でて言う。愛の神に不敬なのは重々承知で、鉛の矢に変わってくれと心から願った。