まだ幸せにはなりません。
仏教的には転生ってどの時代にするかわからないらしいですね。古代ギリシャがどうかは知らないのですが転生の概念はあるし、もしそうならアツいなって思ったので採用。
アスクレピオス先生、ちょっと絆上げ渋い気がするんですけど気のせいですか?
今日も変わらずに、日課のタイニアを編む。明日までにきちんと編み上げて、へーラーさまに捧げなくちゃいけない。物心がついてから、ずっと続けていること。私が自分で決めたこと。いいご縁に恵まれるように、父さまを不安にさせないように。きちんと編み物ができて、織物もできて、嫁に行けるようなりますように。
喉がヒリヒリと痛んで、咳が出る。これはきっと、ずっと私の喉に残るものになったのだと思う。神さまに嘘は通じないのだろう、きっと。それでも、私は捨てたくない。塗り替えたりしないで、抱えていく。ペルセポネーさまのことも、一瞬だけ抱いたお医者さまへの気持ちも、だって、これはいけないものなのだ。もうそれはきっと恋じゃなくて、ただの執着で、醜いもので、捨てなくちゃいけないもの。前の私のもので、今の私が持っていてはいけないものだから、悪いもので、悪いことだ。
ぼんやりと考えながら手を動かしていたけれど、起き抜けだからか大あくびをしているのが聞こえてきて意識が引き戻される。日も高くなってきていて、辺りは薄明かりからしっかりと日が射していた。ああ、もうそろそろ朝ごはんの時間。
「おはよう、父さま」
「ああ、おはようリゲイアー。タイニアもうできたかい」
「いいえ、もう少し。あと少し編んだら、ちゃんとできるから大丈夫」
本当は、嫁ぎたいなんて思えなかった。でも、また罰をくだされるのは嫌だった。今度は父さまを不幸にしてしまうから、絶対に一人になるまでは罰の当たらない、善良な人でいなくちゃいけないと思う。
「そういえば父さま、私、不思議な夢を見たの」
本当は、ちゃんと覚えていた。でも、これを言ったら父さまはきっと私がおかしくなったと思うはず。心配させたくはなかった。母さまが死んでしまってから、父さまは気持ちが沈んでいるから、私がしっかりしなくちゃいけない。私がどこかに嫁いで行くまで、それか、新しい母さまが家にやってくるまで。
「どんな夢だい」
父さまは私を少し大人びた娘だと思ってる。今日も変わらずタイニアを編んで、明日はそれを捧げて、もう少ししたら誰かのところに嫁ぐ。父さまは、私が化物だと思っていない。
「たしか……海に溶ける夢だったんだけど、どうだったか忘れちゃった」
うまく言えなくて、目をそらして海のほうを見る。向こうのほうで、葡萄酒色の海は今日も凪いでいて、穏やかで。あの人の目もそうだった。ペルセポネーさまにも、少しだけ似ている。だから、海を見ると落ち着いた。シチリアの海とは違うけれど、変わらない色、穏やかな色。
「父さんがいる限りそんなことさせないぞ、絶対にだ」
「わかってる、でも、」
父さまが必死になって言うのを慌てて否定する。まだ、まだ死ねない。
そのことに、少しだけ泣きたくなる。私が私を覚えたまま、ペルセポネーさまのことも、レウコシアーお姉さまのことも、パルテノペーのことも、それに最期に姉妹たちを助けると引き受けてくれたお医者さまのことも。私の人生だったものを、もう二度と手に入らないのに考えてしまう。私の世界を作っていたそれらを。
でも、その海がとても、とても素敵な色だったから、私はそれでもいいと思った。死んでからのことは、あんまり良く覚えていない。私を呼んでいるみたいな声が聞こえたけれど、私を許すと聞こえた気がしたけれど、きっと記憶は戻らない。それはきっと、ムネーモシュネーさまが良しとされることではないから。
そのままタイニアを編み上げたあと、なぜだか胸騒ぎがして、海の近くに行こうと思った。昔のことを思い出して、感傷に浸っていたかったのかもしれない。まだ、まだ私は12歳でしかない。嫁ぐまでは時間がある。もう少しだけ思い出しても、きっと許される。
いつもはまばらにしか聞こえない人の声が、今日はなんだか船着き場の方から大きく聞こえた。理由を知るために崖へ駆け上がってみると、崖の上からだと随分と大きな船が停まっているのがよく見える。まるで、あの船みたい。
そのまま、吹く風に押しやられるように崖から帰ろうとして、茂みの方に黒い塊が動いているのが見えた。ああ、あれは、あの人は。
「何をなさっているのですか」
「見てわかるだろう、薬草採取だ」
「それは、そんなに珍しいのですか」
このあたりだとどこにでも生えている植物。化膿止めになるそれは、それほど珍しいものだと思っていなかった。でも、思い出せる限り、そういえば使う人はそれほどいなかったかもしれない。昔は知らなかったから、きっと私が知らないことや薬はまだたくさんある。もっと知ればよかった。もうあまり時間はないのに。でも、お医者さまに会えたら、どうしても聞きたいことがあったから、ゼウスさまに感謝しないと。
「お医者さま、私、ずいぶん前から貴方を知っています」
物心がついたときには、私はお医者さまのことを知っていた。名前は、それからあとに知った。小指の先ほどの少しの期待と、それから二人の治療を引き受けてくれた感謝を込めて、お医者さまと呼ぶ。私なんかが名前を呼ぶのは、きっと不敬なことだ。
お医者さま、アスクレピオスさまは決してその植物から目を離さなかった。慎重に土を削り、根を掘り出そうとしている。
「僕は知らない。お前の勘違いだ」
「いいえ、知っています。絶対に、貴方も知っていらっしゃいます」
「知らないと言っているだろう。もう帰れ、採取の邪魔だ」
お医者さまは私を見てくれない。言葉は交わしているけれど、全くの無意味。でもそれは、知りたいことだけ切り出せばいいのに、いざとなったら怖気づいて言えない私のせい。決して、お医者さまのせいじゃない。
いい加減に早く聞けばいいのに、そうしないから怒らせてしまった。最後、そう、これが本当に最後の機会。明日には船が出ていくし、お医者さまはこの植物の根を手に入れたら、きっとすぐ船に帰ってしまう。風が強くなってきた。私も帰って、家にいなくちゃいけない。こういう天気のときは、天気雨が降る。私が化物だったときから知っていること。ずっと海にいたおかげで、海の天気についての勘だけは決して外れなかった。
「……ごめんなさい、お医者さま。どうか、一つだけ聞かせてください」
心臓がいやに早く脈打つ。きっとこれは聞いてはいけないこと。でも、どうしても知りたかった。レウコシアーお姉さまやパルテノペーのことは、きっと私が知るべきではないことだけど、私は私のことを知る権利があるはず。
「私の血と肉と骨は役に立ちましたか?」
お医者さまの態度の変化は劇的だった。全くこちらを見ることもなかったのに、私を見た。あの時と変わらない、あんなに美しいと感じた海色の目が恐ろしい。きっと、蛇に睨まれる蛙はこんな気持ちだろう。
私は、自分が変わらず役立たずじゃないかと考えるのが怖かった。なんの取り柄もない私が最後には役に立てたなら良かったのにと今世も、前世も何度も思った。死んで何かを残せたなら、それ以上嬉しいことはないと思った。
ああでも、やっぱり聞かなければよかった。怖くなって、足が震えて、喉がヒリヒリと痛む。うまく息ができなくて、視線にさらされるのを我慢していられなくて、私はそのまま後ずさって逃げ出した。
「……っ、お前まさか! おい、待て!」
お医者さまが呼び止める声も聞かずに走って、走って、走って、息がしんどくなっても走る。帰らないと。お医者さまにも迷惑をかけてしまった。それに、無責任にも言葉を聞くのが怖くなった。私にはもう前みたいな血も肉もない。私はリゲイアー。でも私は前のリゲイアーじゃない。帰ったら、家で父さまが待ってる。
あと少しで家に着く。ドアに手を伸ばして、それで。
ぱつん、と何かが弾けて、視界が消えた。
暗い部屋の寝台には、娘が一人横たえられていた。部屋には多くのタイニアと、乾燥させた大量の薬草が吊るされていた。着せられている淡い海色の婚礼装束は、娘が亡き母と共に作ったのだという。
「あの娘は、医者になりたいと言っていました。本当は、婚礼までに叶えてやりたかったのです」
ああ、知っている。あの珍しい植物の効能もきちんと知っていたような女だ。よほど熱心に薬について学んだんだろう。
忘れていたわけではない。ただ、甲板に飛び込んできたときとは似ても似つかない声をしていた。金切り声などではなく、掠れながらも柔らかな声をしていた。姿は振り返ったときの、泣きそうな笑顔を覚えている。甲板で喉を掻き切られた時のそれによく似ていた。今横たわる女の、苦しげなそれではない。
「治りたくないのか、お前は」
『私の血と肉と骨は役に立ちましたか?』
「ああ、役に立ったとも。いい薬になったぞ、愚患者」
死に際と造形が全く変わらない顔に言葉を吐きかける。腹立たしい。治るつもりのない愚かな患者ほど、救えないものはない。
すぐに忘れてしまいたいはずだ。そのくせ脳裏にこびりつくその声に、なぜだかひどく虚しい気分になった。
6.27 誤字修正させていただきました。ありがとうございます。
もうこの子幸せにするの諦めかけてます。次が思いつかなければこのまま打ち切りになるかもしれません。