バーソロミューの船医だった人の話。
今のところ続編を書こうと頑張ってはいるんですが、どうにも同じくらいの長さのものをかけず苦戦しています。卒論も就活もうまくいかない。しんどい。
黒い船体が近づいてくる。否、こちらから近付いていく。収奪の計画は綿密に、十分な宝の山を積んだ船は、我々が包囲している。
期待と、わずかながらの緊張に体が支配されることはない。ただ、気分が昂る。
「セド――セドリック・ダグラス、時間だ」
自分の傍ら、低い位置にある黒頭に声を掛けると、その冷めた瞳が向けられた。ガラス玉の様に光るそれは、私を見ているようで見ていない。私を通した勝利だけを、冷ややかに見据えていた。しばし目線を合わせると、彼はすぐに視線を標的に戻した。事前の打ち合わせで不測の事態について危惧していたらしいが、それより自分の身の安全について考えないのだろうか、この男は。
「……了解」
彼――セドリック・ダグラスは口数が少ない。薄く汚れていても清潔さを欠かせてはいない生成りのシャツに、墨染めのような黒のキャラコのズボン。シンプルだからこそ、この青年にはとても似合っていて、なおかつ彼の役割にもお誂え向きなものだった。一点、異物のような風貌でそこにいる男は、他のどのクルーよりも目立つ。
「俺は黄禍だ。一番槍になるか?」
「冗談でもやめてくれ、君が消えたらまた壊血病が流行る」
冗談にしても笑えないことを言う。彼は収奪物の中で一番役に立つものだった。早々に死なせるのは大きな損失だ。それと同時に、投げかけられた不審な内容に首を傾げる。
聴き慣れない言葉は、恐らく彼がアジア系の黄色い肌であるということを言っているのだろう。日焼けした小麦色の肌は、元々あまり白くはなかったらしい。図太い男だ。しかし、日焼けをしているせいで元の色など早々にわかるものではない。顔立ちはどうしようもないが、どうせ布で顔を覆ってしまうのだからそれもあまり気にする必要はないだろう。船医として、あるいは戦闘員として有能であれば問題はない。少しばかり不満はあるだろうが、同等に近い扱いをしているのだから。
……開戦前の軽口はそろそろお終いだ。緊張が喉を締める。しかし、その特徴を活かしてふてぶてしく生きようとする男を見ていれば、なぜだかひどく安心した。
「……船長」
「どうした、セド。何か不足したのか」
「……いや、違う。船員のことだ」
あの男に注意したほうがいいだろう、そう言い残すと、彼は早々に船室に引き上げた。……否、万が一のことを考えて、道具を取りに行ったのだろう。パワータイプではない彼の得物は、少なければ少ないほど不利になる。いくらあっても過剰ではないだろう。
「総員、戦闘準備!」
血の海になった船から役立ちそうなものをすべて奪って引き上げると、一足先に戻っていたらしく、山分けの準備を手伝うためにセドが用意をして待っていた。勘定ができる部下は本当に役に立つ。
「山分けも大変だな、船長」
「ああ。だが有意義だ。これで統率が取れればむしろ安上がりだろう。違うかい?」
「ああ、無論だ」
紙の束を投げ寄越すとき、それなりに長くなった髪の毛がまるで尾のように揺れる。ガチガチに固まってしまったりすることはないようだ。セドリックは櫛に油を含ませて漉いていると言っていたが、不思議な、甘い匂いがする。アプリコットから絞ったと言っていたか。そういった油は高価だが、非常食を作る余りから絞ったなら文句を言えない。それに、その匂いが気に入っているから文句を言うことでもないように思えた。
「とはいえ、それ以上の取り分を与えている者もいるけどね」
嫌味を言えば、セドはわかりやすくバツの悪そうな顔をする。それ以上の取り分というのは、今回出た死体の山だ。彼はいつも、状態のいい死体を求める。人がいない時に一人で切り開いて、終わったら全て海に沈めていく。戦闘前に私に注意しろと申し付けてくれた対象も、今日の青年の取り分としてこの船から沈められるだろう。あれは彼が手ずから殺した。状態は極めて良好だ。
「……現物は仕事用だ。減らしてくれるなよ」
「わかっているとも。君が居なくなるのは損失だからね」
彼は最後の一言に何も言わず、船長室から出て行った。
「船長、大変だ!ボヤを起こしたやつがいる!」
集計が終わりに近づいた頃、クルーが駆け込んできた。運の悪いことにセドは席を外していた。
「すぐに行く、取り押さえておけ! ダグラスも呼んでこい!」
「アイサー!」
案内された先に駆けつけ、ボヤ騒ぎを起こした船員を見てギョッとする。顔が、明らかに黄色くなっているのだ。明らかにおかしい。
「船長、頼みます! 俺はこんな顔のままじゃやって行けやしねぇよ!」
男泣きに泣くそのクルーの様子に、仕方がないことだと納得ができた。このクルーは黄疸を治すために粥を作ろうとしたのだろう。近くにばら撒かれた米と9つの石は、恐らく治療のために用意したものだ。
「……どういうことだ」
騒ぎを聞きつけてやって来たセドが、顔をこわばらせた。直後、頬に朱が差した。
「この馬鹿が」
セドの殺気立ち低く唸るような声色を、私はその時初めて聞いた。
症状について聞いてから来たからだろう、面を被り、メガネを掛けた姿は滑稽だ。だが、いつもと違う使い捨てる前提であろう長袖の厚いごわついた服装に、彼の危機感が表れているように思えた。嫌な予感がする。
「なぜこちらに聴きに来ない。粥なんぞで黄疸が治るなら苦労するものか」
「ああ?! じゃあどうしろってんだ!」
怒鳴られた船員の方も黙ってはいない。当然だろう。正しい治療法をこんなに怒鳴るやつなど普通は居ない。そう、普通ならば。
「いいか、黄疸の原因は臓腑の機能不全だ。前にそれらしい死体を何体か掻っ捌いてどうなっていたかは確認してある。肝臓が詰まってるか、腫瘍があるか、詰まってなければ臓腑がイカれてる」
怒鳴るでもなく、静かに説明するのを聴いた船員の喉が、ひゅ、とか細い音を鳴らす。
「じゃ、じゃあどうしろってんだ!」
「船長、こいつと一緒にいた人間は隔離したい。陸で詳しい人間に聞いたが、酒が原因でなければこの病は"悪い空気"によるものだ。黄疸が引けば病は峠を越えているらしい。乗り切れば復帰できるだろう。近くで寄れる有人島は無いか、下手をすれば蔓延するぞ」
船室が同じだった者は多い。下手をすれば今後の予定は滞るだろう。しかし、あまり余裕はない。全員同じようなことになれば、そちらの損失が大きいのだから。
「わかった、許可しよう。近くの港にしばし停泊する。だが、キミが責任を持って対処にあたってくれ」
ジロ、とこちらを睨む青年に、息を呑む。静かに、しかし爛々と輝く目は、恐慌するこの場には不似合いだった。
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停泊した港は、よく立ち寄る馴染みの港だ。必要なものを買い込んで、船員たちが取った宿に持ち込む。雑魚寝の部屋に押し込めているが、ウイルス性の肝炎なら黄疸が出ればまあ安心だろう。なぜか伝来していた渋柿を食わせて、あとはしばらく養生させる。もっとも、これが胆道閉鎖症なら開腹手術しか手はない。
……私は、本当は大した知識もないヤブ医者だ。だから切開したり、きちんとした投薬は出来ない。これで黄疸の原因が胆道閉塞症だったら目も当てられないと理解している。私にはそのあたりの診察の知識なんてないからだ。腹腔鏡手術なんてものは今の時代には不可能だし、生きた人間を切り開いて手術するだけの技能も持っていない。切り傷や刺し傷、切除ならできる。だが、内科や精密な外科手術には無理があった。せいぜい、ビタミン不足で起こる病気の治療や按摩ぐらいしか出来ない。現代なら治せたであろうとわかっているのが、何より腹立たしい。それでも重宝されているのは、私がそれなりに病に詳しいからに他ならなかった。
「もっと、もっと知識があれば」
みんな、苦しんでいる。それがわかっているのに、私は十分に対処なんてできない。結局、私は何もできやしない足手まといだ。
「カーラはどうしてるだろう……」
寝静まった船員たちの部屋を抜け出して、隠していた服に着替えて売春宿の方へ足を運ぶ。彼らは今のところ安定していると思う。原因がウイルスかアルコールかわからないけど、とりあえず酒は絶たせて、監視役にも酒を飲ませないように注意をしてある。だから、一時間未満ならきっと許されるだろう。休憩が必要なことくらい、主張すれば通る。必要なものの買い出しもあったといえばもっと通りやすいだろう。なにせ、私はケネディが裏切る前から船にいて船長に従っている古株だ。彼はもう以前のように
今日は男装ではなく、町娘と変わらないものへ変えた。男装をしているときは客として彼女を買って、話だけする。梅毒や淋病が怖かったからというのもあるけど、海賊の生活での愚痴を聞いてほしかった。女装のときには友達として会いに行った。化粧品を慣れないなりに楽しむのが面白かった。どうでもいい話をできて、自由に息ができていると思える。今日は愚痴じゃなくて、どうでもいい話をしたかった。疲れ切った海賊ではなく、行商から戻った友達として、一緒に話をしたかった。髪の毛は目立つからかつらを被って。声は、いつもなら地声で低めに話しているけど女装のときは高めに出している。だって、もとに戻って話していると、楽しくてつい声が高くなってしまうから。高めの声で、明るくて短い茶髪なら、いつもとは大違いで遠目にははっきりしにくい。化粧品は危ないからほとんど使わない。肌馴染みのいい口紅だけは、つけていた。彼女に、カーラに褒めてもらえたからだ。
急いでいると、ふと、目的の建物の近くで彼女の声を聞いた気がした。嫌な予感がして、走っていた足を止めてあたりを見回すと、少し先に彼女がいるのが見えた。誰かと一緒に、連れ立ってどこかに行こうとしている。
「いいのかい、他に君を待っているお客が居るんじゃないのかな」
「いいの、だってあなたのほうが断然良い男だもの!」
隣にいたのは、船長だった。
そこから戻ってくるまでは、よく覚えていない。泣きそうになりながら走って、途中で転んだのだけは膝の痛みのせいで覚えている。膝を洗って、消毒を済ませてから男装に戻る。そうすると、少しだけ冷静になれた。この服はもう、とっとと捨ててしまおう。口紅も落として、いつも通りの粗野な船員に逆戻りだ。
最低だと思った。彼ではなく、彼女のことを騙していた自分が。彼女の横顔が、まだこびりついている。
たしかに男として会うとき、私は彼女に触れていなかった。船から下りるときには必ず手袋をしていたし、長袖で肌を隠していた。彼女を買うときだって、性交渉は求めなかった。いや、むしろ嫌がったのが悪かったのか。かつらはすぐ外れてしまうだろうし、私の顔は割れている。これで、私が海賊だとバレたらすぐに噂が広がるたろう。そうなれば、私は船に戻れなくなる。二度と、日の下を歩けないような生活が確約されるだろう。だから、でも。
だが、どうしようもなく揺さぶられて、心が重たく、ひきつれた痛みを訴える。好きだったのに、と呟いてみれば、より一層心が痛んだ。
「……馬鹿は私か」
すっかり馴染んだ品のない英語ではなく、思わず母国語が零れ出る。この程度の言葉でさえ、時折意図せず母国語が出る。こちらに馴染んだくせに、宙ぶらりんの中途半端だ。
好きになったところで、幸せにできるはずなどなかったんだ。それに、船長に従うのが生き延びる道なのだから。内心で言い訳をすればするほど、心は軽くなりこそすれ、罪悪感が積もっていく。そうじゃないのか。何に心が痛んでいるんだろう、私は。
「やぁ、セド。どうしたんだい、消灯後に起きているなんて珍しい」
背後から、聞き慣れたよく通る声がした。船長のお帰りらしい。ズキズキとまた痛みがしてくる。吐き気までする。本格的に私は駄目らしい。
荷物を取りに来たと思ったからだろう、船長は私がここにいることを咎めなかった。彼が近付けば近付くほど、吐き気と、それに伴ってズキズキと胃や心臓が絞られるように痛む。
「……眠れないだけさ、船長。故郷恋しさで月を見ていた」
誤魔化すために都合のいい理由を挙げて、ふと本当に家に帰りたいと思った。死んでしまいたいとは思わないけれど、ここに居たくない。遠くへ。私が本当にいないといけなかった所に帰りたい。
ここ数年は慣れて忘れていたけれど、ここに来たときは頻繁にそう思っていた。いつもそうだった。ただ、苦しい瞬間だけ、戻れないとわかっていても無性に帰りたくなる。わかっているはずなのに、なにか嫌なことが起きたときには故郷が恋しくて、堪らない。
故郷の深い深い山の、夜の熱くて冷たい土の下に身を埋めてしまいたい。そうすればきっと、この苦しさも穏やかに消えてくれる。そんな、出来もしないことを考えてこの衝動をやり過ごすしか、私は方法を知らない。
萎えきった自分の声、それにすら嫌気がさす。いつもなら風に煽られる帆布のように張った声ができるのに、ままならない。こんなままでは、いつバレるかわかったものじゃないんだ。いつも通りに、90秒で切り替えるんだ。むしろそれすら遅い。お前は、一瞬が命運を分ける生き方をしているんだろう、私よ。
「……君が故郷を恋しがるのを、初めて見たな」
「……俺は見世物じゃない」
「違いないね」
ははは、と豪快に笑う姿には、先程まで彼女に向けていた熱い視線など微塵も残っていなかった。切り替えが早いのはいいことだ。海でも長生きするタイプの人間はだいたいこういうタイプだろう。古馴染みの海運の奴にはこういう人間が多い。ああ、しかし。
「じゃあ、何かあったのかい、セド」
私に向けられている紺碧の瞳が、どこまでも深い色をしているのが、今だけは堪らなく憎い。どいつもこいつも、船長のこの瞳に魅入られるのだ。女たちが噂をするのはその海色の宝石の事ばかり。あの娘も、きっとそうだったのだろう。それに魅入られて、本当に恋をした。
この人が腹が立つほど美形なのはずっとだ。だが、今日初めて彼を殺したいとさえ思った。
でも、船に戻って来る間にどんどん自分の認識に不安が生じ始めて今も頭の中を占拠している。それが彼女を盗られたからと言うわけではない気がしてきたのだ。彼女が盗られたことはひどく寂しいと思えたし、船長が彼女を奪ったことに対してはストレスしか感じない。殺したいのは、このストレスのせいかもしれない。あのときカーラの笑みや、彼女にに笑いかけた顔が脳裏にちらついては、臓腑が引きちぎられるように痛い。きっと、二人が私の知らないものに変質していくのが恐ろしかったのだ。だから、寝首をかいてしまえばと思ったが、どちらにせよろくな衝動では無い。
彼女は、不自由な生い立ちをしていた。それ故にそういう商売でしか身を立てられない。私は彼女を囲えない。なら、誰が彼女を抱こうが、私に文句を言う資格はない。船長が彼女を気に入ったところで、私はそれを止めようもない。むしろ、私が殺されるだろう。……そのほうが、きっと楽になれる。
「……姉に似た女を見た。息災か、心配でな」
嘘であって嘘ではない。こちらに来る前の私の姉は、たしかに今の彼女と同じ年頃だったからだ。でも、そんな理由だけで彼女を気に入ったりしない。歳だけ考えて人を好きになったりするものか。
「それと、どこかの誰かに女を盗られたらしい。アンタにだって居るだろう、そういう女が」
「……ああ、いるとも」
目に見えて渋い顔をした船長に、やはり分かった上でやったことかと気付いた。そういえば、彼は私が彼女と連れ立って歩いているのを茶化したことがあった。まだ前の船長が生きていたときのことだ。なぜ、忘れていたのだろう。今更、思い出したところで何にもなりやしないけれど。
それと同時に、あの笑顔を思い出す。彼女の目は、間違いようもなく本気の恋の色をしていた。彼と添い遂げてくれるはずだ。それなら、独り身よりはいいだろう。なにせ、私が今いるこの時代なのだ。彗星よりも早く、私達はきっとすぐに燃え尽きてしまう。それより熱く、早く、身を焦がせるほど愛したい人間が必要だ。海賊として生きれば、人生は随分と長さを詰められてしまう。
諦めよう、そして祝福しよう。彼女は本気だ。彼が本気になれば私は勝てやしない。きっと、そういうことなのだ。負け犬には、負け犬の流儀を貫いて退場するしか道は残っていない。だから、盛大に祝福してやらねば。人間関係を壊してまで彼女を奪おうとするくらいなのだから、この人も本気だろう。むしろ、そうでないと、私のこの気持ちはどうすればいい。
「大切にしてやれよ、船長。アンタは長生きして暴れ倒すだろうしな」
「暴れ倒さなきゃ、大切にしなくていいっていうのかい」
「まさか。暴れ倒したら大切にする前に俺らは死ぬ」
風に流されて甘い、甘い匂いが鼻を掠める。船長がいつも身に纏うよりも、幾分甘さが増した、慣れているのに慣れない匂いがした。
あの娘の残り香が、船長のコロンと混ざり合って私の知らない匂いになっているんだろう。私はもう、きっとあの娘のところにはしばらく行かないだろう。今また会えば、船長といたときの笑顔を思い出してしまうはずだ。それに邪魔されて話ができなくなるのは御免だった。
そう考えるだけで、顔が醜く歪むのが自分でも感じられる。きっと今の私は、ひどい顔をしているはずだった。
「それじゃあな」
私が知らないところでよく知った二人が変わっていくのが、怖くて、辛くて、寂しかった。
戸の隙間から覗いて、私が去ったふりをしたあと船長が部屋に戻ったらしいのを確認して、こっそりと船を降りる。海辺を歩けば、べたりと張り付くように海風が纏わりついてきた。もう、何年になるだろう。港町で日雇い労働をして1年、船の下働きで1年。海賊船に乗せられて、明日で4年になる。いや、もうあと数時間程度か。こちらの世界に、わけがわからないままタイムスリップしてからもうほとんど7年経つ。
それこそ、私が希望あふれるボンクラ学生になった直後の頃にきたのだから、何もなければもう大学も卒業して、きっと社会人3年目だったはずだ。そのまま現代で暮らせていたなら、パソコンも使いこなせているようになっていただろうし、本も読み漁って、自分がしたいことを好き勝手にしていたに違いない。でも、ここにいるのが現実だ。必死に言葉を覚えて、辞書を分捕ってからはそれで夜毎に勉強した。粗野な話し方になっているであろうことは知っている。でも、喋れないよりはマシだった。そんな努力を続けて、生き抜くために必死だった。言葉は、今のところは大丈夫なはずだ。それでも、日本語のほうが出てきやすいときもあれば、今の英語が馴染んでいるときもある。結局、中途半端にしかならなかった。
小説なんかよりもずっと奇妙で、ずっと過酷な生活だ。いつ死ぬかわからない。自分の体に変化がないか怯え続ける毎日が続いている。きっと、これからも。
その割に、私の見た目は変化していない。背も伸びなければ、体重も変化なし。これはきっと帰れるからだ、と思い込み続けて早7年なのだから恐怖を通り越して笑えてくる。もう、限界も近かった。私は安倍仲麻呂じゃないんだぞ。そんな大層な肩書も、仕事も、栄誉も無い。
ただ最初は細々と海辺の街で仕事をしていた、それだけのつまらない人間だったのだ。それがどうしたことか、船乗りになり、その船が襲撃され捕虜になり、いつしか医学の心得があると重宝されるようになっていたのだから堪ったものではない。真っ先に始末される邪魔者だ。必死に戦い方を覚えた。こんなわけのわからないところで、何処ともしれぬ海原の上で、帰ることもできずに死にたくなかった。
それでも……それでもだ。こうして生きている。人を殺すのを是としながら。腹を立て、嫉妬に狂いそうになり、そして諦めながら、私はまだここにいる。それならそれが答えなのだろう。諦めきれないと諦めてしまえばいいのに、無駄に強情な心は故郷を逃避先に、ずっと思考を巡らせ続けている。
「……ん?」
何か、浜辺にぼんやりと光るものが見えた。近づいていってみると、なぜだか植生が違うものが生えている森のような空間が、ポッカリと口を開けている。幼い頃から見慣れた温暖湿潤気候の木々だ。もっといえば私の家の裏山にそっくりだった。見慣れた岩がある。
なぜこんなところに捻じれの空間があるのか。幻だろうか。ここはカリブの島の浜辺だったはずだし、明らかにおかしい空間の歪だ。
……でも、これで、帰れるなら。もうこれ以上変わることなんてない。これ以上私が酷い目を見ることはない。
一度、船のことを思った。嫌いではない。でも、私が本当にいないといけない場所は此処じゃないんだ。辛くて苦しくて理不尽な現代でも、そこが私の生まれ故郷で、一番大事な家族がいる場所で。だからこそ、私は7年間ずっと忘れられなかった。
でも、ここにも家族のような仲間がいた。私は必ず責められるだろう。お前があのとき裏切らなければ、と罵られるだろう。でも、それでも私は捨てられない。私は私の大切なものを他に持っている。誰にも奪わせたくない。奪って奪われて、そうして奪い尽くした7年だったからこそ、これだけは何が何でも守り抜きたかったもの。私の大切な故郷の記憶。私のルーツ。
腹を括る。早く帰らなくては。あの入り口が消えてしまう前に。
船の方を振り向かないように、船長やみんなのことを今だけは思い出さないように、頭を振ってから駆け出した。
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彼がどんな顔をするか見物だと思って女を買った自分を、その時やっと恥じた。
セドリック・ダグラスという男は繊細だ。病人を気遣い、使命を全うし、そのくせ自分の身の上を恥じて、惚れた女に自分は似合わないだろうと指一つ出していなかった、高潔で繊細な男だったのだ。
それは普段の様子からもわかっていた筈だった。私が海賊船に移されてからよく知ったことだった筈なんだ。それでも、彼がそれに苦しむと気づかなかったのだから愚かしい。
船に乗っているときには常に仏頂面をしていて、笑うことはあまりなかった。物語には笑うが、下世話な話にはほとんど興じない、しかし理解は示す男だった。教育を受けている者も受けていない者も平等に扱い、指示を与えれば動くものの、私さえも特別視していなかった。
私には、すべてが彼の興味の外にあったように見えた。だからあの女を買った。彼が見たら、どんな表情を見せてくれるのか、心が踊った。まるで、幼い日の誕生日の前夜のように。
だが、期待はずれだった。悲しみに暮れて虚ろな目をするなどとは、思いもしていなかった。彼は私を嫌い、ここから去ってしまった。こんなはずではなかった。彼女を買ったのは、ただの戯れに過ぎなかったのに。
「セドリック……」
あの会話の翌日彼は消えた。黄疸の患者は彼の指示を守り続ければ治った。だが、彼は戻らなかった。浜辺に血と彼の靴だけが残り、彼自身は島のどこにもいなかった。今更何が悪かったかなどと考えたところで、もう何もかも手遅れでしかない。
「さて、今日も始めよう」
ケネディ達は逃げた。セドリックも消えた。だが、彼がまだ生きていれば捕まえられる可能性はある。彼が居たおかげで壊血病は起きなくなった。あれだけ有能な人間だったのだ、どこかの船に拾われたに違いない。
私がプリンセス号から移されたときからずっと側に居たのだから、彼を奪うのは間違っていない。傍らに置いていたものを、また手元に取り戻すだけの、他愛ない作業だろう。
――ロバーツ、無理はするなよ。
ああ、わかっているとも、我が友。私の船医。君がいないと、きっと大きな仕事を始められないじゃないか。待っていろ、すぐに連れ戻してあげよう。君だってこちらのほうが勝手がわかっていて仕事をやりやすいだろうからね。
がんばります