思いつきアンソロジー   作:小森朔

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Ce frère était tout pour moi!



僕の兄さんは最高なんだ!

 

 寒い、寒い冬が来た。冬は嫌いだ。肺がヒリヒリと痛くて、熱を出してしまう。本当は、外を転げ回ったりしたいのに、僕にだけはそれが許されていなかったから。だから、冬は嫌いだ。

 でも、ぶすくれているといつだって兄さんがやってきて、面白いものを見せてくれた。

 いや、いつだってということはないかもしれない。それでも、つまらなくて嫌気がさしている僕にとっては嬉しいことこの上なかった。

 

「テオ、見てごらんよ。窓に結晶が張り付いているんだ。これなら、外にでなくたってよく見えるだろう?」

「えっ、ホントだ! やっぱりにいさんはすごいや!」

 

 兄さんは、優しい顔をしている。父さんと兄さんが衝突することは多くあったけれど、兄さんは僕には優しかった。きっとそれは、僕があまり兄さんを否定しなかったことにあるだろうが、別に嫌われたいわけではないからそれで良かった。兄さんは気難しいけれど慈悲深い人であるから、良かれと思ったことがうまく行かないと想像以上に傷付くことも多い。でも、それが僕の知る兄さんなのだ。

 

 春には草木の芽吹きを。夏には大輪のひまわりを、翡翠たちが残した鮮やかな羽を。秋には愉快な染め方をされた葉を。兄さんはいつだって僕の知らない、見つけられないものを見せてくれる。父さんと一緒に熱心に聖書を読んだりもしていた。いつだって、人のことを考えていた。それに、僕が動けないときにはいっそ自分まで病気になってしまうんじゃないかと思うくらい心配してくれる。そんな兄さんだから、きっと大好きなのだ。

 

 ──でも、時間はあまり無い。

「ん?」

 脳裏に不穏な予感がよぎる。妙な感覚が、胸騒ぎがあった。何かがひっかかったような感覚だ。釣り針のエサを、魚が食らいつこうかとつつくように。

 

 僕に色々なものを見せてくれる、大好きなフィン兄さん。セントおじさんと同じ名前の兄さん、フィンセント・ヴァン・ゴー。──ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ。僕より早く死んでしまう、大好きな兄さん。

 

「うそ、だ……?」

 ざあっと血が冷えるような感覚に襲われる。耳を切り落とす画家、早くに死んでしまった画家。生来の気性から人間関係がうまく行かなくて苦しみ抜いた画家。──いずれ早くに死ぬ、ぼくの愛しい兄さん。

 そんな未来を歩んでしまうことが、知らないはずの何かがざらざらと脳に押し込まれていく。

 冷や汗が止まらない。僕は、いや私は、違う。自分は一体誰なのだろう。

 

 主よ、主よ、私にどうしろと仰るのですか。僕は何。私は何者なのです。

 

 呼吸が苦しい。喘息の発作とは少し違う感覚の苦しさと、ぼんやりとした視界と思考が気持ち悪い。

「テオ、どうしたの!」

 体を動かすのも億劫で、大変で。しっかりしろ、と揺すぶられて、やっとのことで顔を上げた。

 兄さんの青い目が見える。兄さんは、兄さんだけは揺らがない。僕の兄さん。誰よりも目を輝かせて素敵なものを見つけてくる人。それを惜しみ無く分け与えてくれる人。苦しむ僕を必死に介抱してくれて、大切に思ってくれている、僕の兄。

「……兄さん、苦しい」

 僕はテオ。フィンセント兄さんの弟のテオドルス。そうだ、それでしかない。それだけでいい。

 

 

 

 それから僕がやったことは、ひたすら兄さんを追いかけることだった。

 だって仕方がないじゃないか。兄さんが凄い画家になるってことしか知らないし、他には僕より先にしんでしまうということぐらいしか分からない。こ◯ぱんで読んだのと美術の時間にうっすら知った最期ぐらいの知識しかないのだ。だから、僕が支えてたこと以外は何にもわからない。

 

 兄さんは、画商になってとてもよく働いているときいた。セント伯父の手紙にはそうあったし、少なくともストレスを溜めすぎないことが大事なのだとは思う。

 それと、画家になるし、今は画商なのだから、流行の最先端を知ることはきっと悪くないはずだ。パリでは印象派が流行っているし、価値も付き始めている。

 

 絵の価値は、僕ら画商がつける。僕らがつけた価値をどうにか画家が生きているうちに知らしめられれば、今は無名の画家でも待遇はきっと変わる。だから、兄さんにも少しだけ納得してもらえたらと思った。繊細で客観的で理知的な兄さんなら、きっとその価値を正確に掴めるはずだ。

 

 

 

 そうやっているうちに、兄さんは画商を辞めた。手紙には価値をつけることがしんどくなったとあったけれど、実際には手紙に書いた以上にすり減ってしまっていたのだろう。

 それでも、骨折した母さんの介抱や、僕の薦めでの画家修行で少しずつ、ほんのわずかにでも穏やかさを取り戻せていっていた。

 

 家族仲はそれなりで、ときどき大喧嘩すること以外は対したことなかったけど、それでも女性関係には口出しをしてあわや絶縁、何てことになりそうにもなったっけ。ただ、ちゃんと家族になってくれる人と幸せになってほしい一心だったけれど、きっと兄さんの方では少なからず根に持っているだろう。

 それでも、それでもだ。それほど悪くはなかったし、場所ややり方を変えてからは兄さんの絵も名前も売れ始めた。だから、これから兄さんは長生きできるし、幸せになってくれると思った。人の温かさを得られる場所を作れると、あるいは一人でも住み良い環境を手に出来るだろう、と。

 どうにも油断していたのだ。娼婦をしていた女性とは喧嘩別れしてしまったからと、少し安心してしまっていたせいなのだろうか。それとも、年上の恋人が出来たことで落ち着いたと思い込んだせいか。これで兄さんも明るい人生を歩めると思い始めていた。

 

 

 

そうなるはずだった。

 

 うまく行きかけていた。明るい色調の絵を書き始めて、兄さんがゴーギャンさんと同居しだして。それで、安心しきって気がついたらこれだ。

「に、いさん……兄さん」

 蝋人形のような、引っ掛かりのない冷たい肌。顎から頭の天辺までをぐるぐると巡らされている包帯。

 私のよく知る、絵では見たことのあった、欠損した兄の肉体。

「嗚呼、あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛」

 ただの物体になった兄さんには、腐臭が薄く纏わりついている。

 ピストルで死んでしまった、まだ若いはずの兄さん。

 

 私が良かれと思ってやったから。資金援助をし、仲裁をし、兄の名を知らしめようとした。でもそのせいで、心配しないようにと報せてもくれないままに兄さんは喪われてしまった。苦しかったろうし、心細かったろうに、報せもしないで。

 

 

 だが、ひたすらに泣いている場合ではなかった。葬儀も、作品たちの保管も、兄さんが過ごした黄色い家の保存もしなくてはならない。

 それに、結婚してからまだ5年も経っていないし、子供も生まれたばかりだ。かわいい僕の子供を、なにより下手をすれば育児にかかりっきりになってしまうヨーを放っているわけにはいかなかった。

 

 急ぎ交遊のあった画家たちに連絡をし、作品や書簡の目録を作り、黄色い家を保全するために大家さんとの交渉を進めていくうち、なんとか目処はついた。

 

 だが、今度は私が倒れる番だった。

 

 ヨーは体調を崩してしまった私の代わりに頑張ってくれている。早く回復しなくては、彼女にばかり迷惑をかけてしまう。

「フィン兄さんは迷惑ばかりだったけど、テオ兄さんまで」

「それは違うよ、アンナ。兄さんは、兄さんは自分にしか出来ないことをしたのだから」

 面会に来てくれた妹はまだ兄さんを恨んでいる。気難しい人だし、周りから見たら突拍子もないことをしたからだろう。ただ、あれは仕方のなかったことだ。本人にどうにかできることではなかった。

 

 兄さんの、フィンセント・ヴァン・ゴーの名は売れた。生前にはそれなりに売れた絵には巨額の価値がついた。そんなことで箔をつけてくれとは、決して思わなかったのに。

 

 アンナが帰ったあと、ヨーが私の手を握った。心労をかけないようにと気を付けていたつもりだったが、全く足りていなかったらしい。彼女はやつれてしまったし、手も荒れていた。早く体調を戻して軟膏を買ってこなくては。

「ねえ、あなた。義兄さんが描いたことは、無意味だったの?」

 兄さんがやったことは決して無意味ではなかった。確信しているし、私の心は揺らがない。

「いいや、決して!」

 私は笑って答えましょう。だって、この絵のおかげで、兄さんの見ていた景色をわずかながらにでも理解することが出来る。

 だから、それでいい。それでいいのです。

「兄さんは……兄さんこそ、私のすべてだったんだ。もちろん、君だって私の生きる意味だ。

でも、体の弱かった私に世界を見せてくれたのは兄さんだ。」

 ああ、眠たい。愛しい妻と我が子の顔を見ていたいのに。

「だから、それでいい。それだけで、十分すぎるぐらいだ」

 ヨーと共に、寝室に飾った兄さんの遺作を見る。色鮮やかな一枚の絵。僕の一番のお気に入り。今は僕だけの宝物。兄さんにしか表現できない感情のうねりをぶちまけた、最高の作品たちの中のひとつ。

 家族と兄さんの絵を見ていられて幸せだ。これ以上は望むべくもない。

 

 そうやって、私、テオドルスは長い永い眠りについた。

 

 

 

 と、思ったんだが。

「ねぇテオ聞いて!」

 ……どうして兄さんが女の子になってるんだろう。


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