金庫の奥はいつも暗い。薄く甘い匂いと古い物たち、それから埃の混じった雑多な匂いが空間に立ち込めている。
蝋燭はない。訪れる者は少なく、また、金庫というもの自体、そうであることが求められる空間だからだ。ここにこもって一週間ほど。少しばかりの空腹感はあれど、喫緊の必要もないためにわずかな水分以外は口にしていない。昼と夜の感覚は薄くなっているが、時計の存在がその手掛かりを与えてくれるため、問題はなかった。
微かに、空気が震える。木の軋む音がした。
そのすぐあとに靴音がし、棚の間や積み上がった箱の隙間を動き回る。段々と、踵の響かせるそれが近づいてきていた。
「どこにいる、ギャリー・トロット」
「……私はここだよ、スプリガン公」
現れた人物は、明かりを携えていた。一週間ぶりの強い光は少々目に痛いが、それでも、燭台の光というもののありがたみは薄れない。
「変わりはないか」
「ああ、誰一人訪れず、私以外は何一つ動いてやしない。皆、定位置に」
「ならば良い。……対価は、何でも良かったか」
現れたスプリガンは相変わらずだった。ずっと変わらない姿ではある。きちんと整えられ、見事に揃えられている。
しかし、人間臭さもまた、早々に変わるものではない。それをこちらの誰も知らないから彼は生きていられるのだが。
宝物番として契約したとき、彼なら読めるという外の話を求めたのは、そういうところにある。有り様を隠しつつも、ここで知ることの出来ない過去を知ることは、故郷の地が恋しい心の薬になるのだ。
「可能なら、貴方が気に入ったものを」
「そうか。ならば、恐ろしい話をしてやろう」
長い離別に記憶を残したまま繰り返す生など、かつて自分が歩むと思ってなどいなかった。
彼もまた、こんなところに来ると思ってはおらず、その記憶を求めるものが現れると思っていなかった。
──そうして語られる物語の名は『牡丹燈記』。私の知る物語の元になった、哀れな死人女の恨み話だ。
「何を思った?」
「哀れだなと、そう思うよ。死んでから出来た慕わしい相手だ、それはそれは怨めしいだろうよ」
「なるほど、お前はそう捉えるか、
公は私を足往と呼ぶ。なら、ここでの私は足往なのだろう。同じ犬ではあるだろうが、宝など見つけられないので皮肉めいている。
目の前で、金髪の土の氏族長は笑っている。
蝋燭の明かりに照らされる目尻の皺は濃い。顔色は悪くないが、化粧や礼装によってごまかされている部分もあるだろう。
腹の中では次の謀略が渦巻いている。それがどんな奸計になるのかまでは知らないが、きっととびきりの罠を仕掛けるのだ。相手が妖精であろうが、いや、妖精だからこそ、彼は政治的駆け引きが上手い。それに、相手は生殖で増え、コミュニティを形成して生きてきた人間を知らぬ妖精たちである。我々からすれば、本来それを察することは難しいのだ。
「公よ、尋ねたいことがある」
ふと、気になることがあった。
不可思議そうな顔をするスプリガンに、訊くべきか悩んで、口に出すことに決めた。もとより、そのために口を開いたのだから、ここで引っ込めるのはばつが悪い。
「どうした」
「……貴方は、死ぬことは恐ろしいか」
この人は、何が恐ろしいのだろうか。
この国に生まれた妖精ならば誰しも、モース毒にやられたり、魔物に食われて死ぬのが恐ろしかろう。けれど、彼は違う。ただ外からこちら側へ呼び寄せられただけの人間だ。ならば、何を忌避するのだろう。
人であると知れることか、それとも、帰ることが能わぬことか。
「いいや? だが、この宝を価値も知らぬ誰かが手に入れると思うとおぞましい」
返された言葉は、明瞭で、あまりにもあっさりとしたものだった。
「そうか。スプリガン公、貴方は強いな」
いずれ死ぬにしては、あまりに強靭だ。長生きも出来るかもしれないし、彼のことだからそのつもりで方策を探してもいるだろう。
だが、それにしたって己の死を見つめざるをえないのに生き延びているこの男は迷っていない。
この人は強い。そして、私が持ち合わせないその強さが羨ましいと、つくづく思う。
それが判ってか判らないでか、スプリガンは顔を僅かに歪ませた。不機嫌そうに引き結ばれていた口が、にわかに動く。
「だから、お前は見届けろ、ギャリー・トロット」
「無茶を言うね、雇い主殿は」
雇用関係にしては、奇妙な言葉だったと思う。
だが、私には政治的な意図や彼の心情などわからない。私は混ぜ物が多いだけで正真正銘の妖精であり、彼は人間なのだ。
ならばただ、紛れもなく彼の信頼を表すものとして受け取っておけばいいだろう。これから先の、予言の成就までは。
走る、走る。嫌な予感がする。
待ち合わせのあと、何がある予定だったか。思い出したときにはもう間に合わないところだった。
広場の見えるか見えないかのところまで到達したときには、群衆のようなものが見えつつあった。
いや、まだなら。まだ演説をしているならば間に合うかもしれない。
どの程度のやり取りになるかはわからないが、あの手のパフォーマンスはそう長々やるものでもない。ただの一瞬、偶像を相手の印象に強く焼き付けて、すぐに引っ込めるものなのだ。それから、もっともらしく引っ込めた理由を述べて口八丁手八丁で丸め込む。
渦中の相手は、それがどういうものか想像しにくい。蚊帳の外にいれば子供ですら判るとしても、だ。
「マシュ!」
──辿り着く前に、
ギリギリまで勢いを殺さないよう足に力を込め、跳ぶように駆ける。
間に合わなくても、まだ彼女はあの場にいるのだ。少女を演説台前に取り残してざわめく妖精の群れは、まだ敵ではない。
だが、それだけだ。だからこそ走り続ける。
走って、跳躍し、カルデアのマスターの姿を見た。
囲まれた立香は、周囲の兵士にも恐れることなく立っていた。否、兵士など気にならないほど、茫然としている。
目の焦点は合っていても、立ち方、顔つきのその全てが物語っている。既に彼女の手を落ちたものが、その重さが。
──してやられた。
あの元雇い主のことだ、
ということは、我らがカルデアのマスターは噂の《予言の子》である妖精騎士に近づこうとしたわけで。
居ても立ってもいられなかったであろう黒い戦闘服の彼女は、まだ演説台の前に立ち尽くしている。
何にせよ放っておけない。彼女が害されたら、予言の子の巡礼は立ち行かないのだ。ここでお終い、なんて冗談ではない。私にも、彼らにも。
シュシュで纏められた赤い髪が揺れていた。顔は見えないが、ダメージが大きいことは見てとれる。体は、その肩は震えてはいないが、きっとそれ以上に苦しいだろう。
でも、そんなことで大事な人を諦められるものか。
悔しいだろう。悲しいだろう。だがそれ以上に、無力感がある。忘れられること、失うことを繰り返そうが、それを学習できるほど藤丸立香は大人でもないはずなのだ。
まだ、背負わされているとはいえ、彼女は子供だ。そして、彼女ほどの年頃だったら、友達の大切さはそれこそ命に等しいことだってある。
だから、叫んだ。この子は、まだ手放さなくていい。
まだ、相手も自分も生きている。だから、訊かねばならなかった。私が、彼女の口から聴きたかった。
腹に力を込め、空中から落下を始める寸前、叫ぶ。
──立香が、私を見た。
弱い光をした目が、叫びながら落ちる獣の姿を、ハッキリと。
火花のように、意思が爆ぜるのを見た。
ならば、まだいける。
そのまま身を捩って兵士のいるあたりに落下地点をずらし、踵落としで1人、ついでに周囲にいた4、5人を蹴り飛ばしておいた。
ついでに蹴った勢いで立香の元へバックステップで移動する。
立香に駆け寄る前、ちら、と、その状況を作り出して撤退する間際だった金髪の男と、目が合ってしまった。
相変わらずの強い光は、やはり寄る年波に左右されるものではない。こちらまで焼き殺せそうな、鋼の意思の乗った視線。
──これだから、政治屋を敵に回すのは嫌だ。
「まったく、立香も無茶をするなぁ……!」
まだいけると言ったのは彼女だ。言わせたともいうが、だからといってそれは消える訳じゃない。声にも、目にも、消せるほど弱い火は宿っていない。
俯いていた顔は、既にこちらを向いて真っ正面から見つめてきていた。黄金にも似た琥珀色の目が私を見る。
──まだ、いける。まだ終わってはいない。むしろ、言葉にするよりもその視線にこそ説得されるほどに瞳が燃えていた。
同時に、自分が彼女のことをかなり舐めていたと理解した。
見ないと納得できない信頼など、信頼と呼べただろうか。それを信頼として良かったのだろうか。そう思うと腹の底に黒いものが渦巻いた気がしたが、今ここで考えることではない。
「ギャリー!」
「ほら、正念場だよ立香。どうする?」
大丈夫、彼女はまだ立てる。
その実感を得て気合いを入れ直した私とは対照に、スプリガンの兵は明らかに動揺していた。
かつての同僚が躍り出れば動揺もするだろうが、それにしたって、まるで私がこの状況を静観するだろうと思っていたような態度だ。
「ギャリー・トロット、どうしてお前が!」
「契約だよ、わかるだろう?」
それについても、あとで調べる必要があるかもしれない。スプリガン公は厄介だ。どこで、どの段階で彼の采配があるかがわからないと困る。だって、私は立香と契約しているのだ。
正式な契約ではなくても、立香が道連れであることに差はない。そのように決めて、ここまで来ている。それに、あの石を渡しているのだから確実に彼女とは連れ立っていく必要があるんだ。
そうすれば、今の彼らに求めていることはなくとも、私の願いは最終的に彼らの手で叶えられる。途中で死んで、またどこかでやり直しになりそうになっても、だ。
「この子が今の雇い主の連れでね、退いてくれないか」
「いくらお前が雇われていたからと、」
「ああ、言い方が悪かったのか。この子に手を出すな、まとめて食い殺されたいか」
犬歯を剥き出し、笑う。大人数だ、恐ろしくないかと言われれば当然恐ろしい。だが、この子が害されるかもしれないと思えばなんてことはない。
これでも顎は強いんだ、相手を食いちぎるくらいは造作もない。殺したくないと思ったって、それが自分の牙であるか、剣であるかの違いだけ。命のやり取りであることに変わりはない。
ぎょっとした相手が一歩後ずさるのに合わせて、一歩、踏み出す。また後ずさる。追いかけるように、相手が退いた歩数分だけ、踏み出す。
半端妖精の威嚇だが、半端だからこそ効く方法だ。牙の氏族でもやらない同族食いを引き合いに出すだけ、こちらも覚悟はしている。
下手をすれば全面戦争、だが、ここでなにもしなければ退けられるだけだ。ここで必要なのは、撤退よりも面子。スプリガンの配下である絶対性を崩しておかねば、この後の動きにも差し障る。
脅しでさらに数歩退かせたところで、奥歯を噛み締めている立香の肩を叩く。
それで気づいたのか、顔が少し柔らかくなった。
「よく耐えた。例のマシュって子は無事だったかい、立香」
「……うん、大丈夫そうだった!」
「なら良い。さて、どう出る?」
琥珀が燃える。諦めているわけではない。まだ折れていないから、何度だって、どうなったって彼女は立ち上がる。
痛々しいまでに、眩しい意志だ。
「当然合流を目標に!」
「了解した、それじゃ、行こうか」
剣を構え直す。
さて、相手の技量も癖もおおむね知ってはいる連中ばかりだが、どう切り抜けたものか。そう考えると、ひどく心が踊った。
ああ、全部食い殺せたら、腹に溜まるんだろうな。