(※封神演義や紂王、妲己絡みは色々ごちゃ混ぜ。太公望の逸話も色々あってよくわからんので捏造過多)
ツングースカ、よかったですね。正月怖い。
生まれ変わって、古代の天子の子となり、即位して。
ろくに知識のない私も長生きをすればそれなりに整えられた。父親やら教育係やらにさまざまな教えを叩き込まれた私は、軟弱な現代人の精神のままとはいえどうにか政治を始め、臣下を従え、賢人と弁論をし、そのまま卅年ほど。
時の流れは早く、私は老いた。
だが、私の体は歳を取らなかった。
それが意味するところを、私は理解できない。ただ、そういった変化は望ましくないということだけは理解していた。
考えるまでもなく、年を取らない絶対的君主なんてものは害悪でしかない。見た目が若かろうが中身はだいたい十代二十代がいいところで成長せず、世相には疎くなっていく。だから、価値観が時代遅れなだけならまだしも、時代の要請に求めることは当然できずに国を潰す。
学ばねばならない。学ばねば、いずれ殺される。
それだけがいつも頭の片隅にあった。
だからだろうか。妲己という女の話を聞いたとき、嗚呼自分が例によって暗君なのだと初めて知った。
だったらもう、少しの理性以外は好き勝手にしてやれと思った。
人を焼くことは嫌いだった。
殺したいとは思わないし、血を見るのは好きではなかった。でも、家臣であまりに
だから、私は妲己に溺れている。
だが、頭は冷えたままだった。
学ぶことはやめられなかった。弁論も手を抜けなかった。賢人を招くことも、変わらずに行った。
今している日課も、そうだ。
頭がぼんやりする。それに寒い。
蝋燭が数本だから、今何時だ。日付は変わったような気がするけど、眠気で頭がぼんやりするからわからん。
筆を一度置き、伸びをしてからそろそろ寝ようか茶を飲もうかと思案していると、不意に戸が叩かれた。
「皇帝陛下におかれましては、」
「拝礼は良い! 何なんだ、夜更けに」
片付けなど終わってもいないから散らかし放題だ。
墨と筆はいいとして、せめて客人を通せるように書籍を積み直す。本当に誰なんだ、いったい。
「誰だ」
「貧道です」
貧道、とは道士が身分の高い者に対し、へりくだるときによく使う一人称だ。そうした形ばかりのやりとりは好かんが、いかんせんここは宮中である。警備のものもいるのだから仕方もあるまい。
それにあの声なら、たしか思い当たるのは呂道士だったか。
謙遜なぞ、しなくても良い。とはいえ立場の上ではそういうこともできないだろうが、室内なら多少は崩しても良かろうと招き入れることにした。
「呂道士か、入れ」
「はい、失礼しま……え?」
戸を開け放ち、柔和な青年の様子を残したまま、呂道士が固まった。
とはいっても、妲己に肩入れしているから念には念をというところなのだろう。しっかりと身支度を整えてやってきた。ちらと腰の辺りに視線を落とせば鞭のごときものがある。……なるほど、備えは万全らしい。
「許せ、就寝前で手元にろくな衣がないのだ」
机の上を片付ける。
こちらは就寝前の自学を行っていた身だ。碌々姿を繕ってもいないがもう構うまい。下手に身支度に時間をかけて勘繰られても困る。
そもそもこんな時間に来る呂道士が悪い。
「茶でもどうだ、呂道士。夜更けだ、いくら修行で慣れようが、貴君も冷えよう」
「あ、えと、お気遣いは」
「気にすることはない。貴君が飲まずとも朕は飲む、いかがか」
「……それなら遠慮無く」
急にうろたえ始めた道士にとっとと入れと促し、茶器を取る。自分でいれるのはあまり良くはないのだろうし、女官より淹れ方が下手だが、それも許されたい。夜更けだし。
呂道士は彷徨わせていた視線を落ち着け、わたしの向かいに腰掛けた。茶器を受けとり、香りを楽しむ様は普通の青年に見える。見えるだけ、かも知れないが。
茶器を広げたあと、ちら、と様子を見る。宮女も羨むだろう艶のある髪が広い背に広がっていた。十分に櫛梳っているのはわかるが、あまりにも無造作に広がっていすぎやしないだろうか。いくらか結ってしまえば良いだろうが、あまりきつく結わえないのを気に入っているのだろうか。
「呂道士、その髪は邪魔ではないか」
「まあ、多少は。ただ、僕、不器用なんですよ」
「そうか。難儀だな」
もったいないな、と思った。こんなにきれいな髪で、もしかすると私よりも美しい髪をしてるのだ。なにもしないというのは、少々損ではないか。
そこまで考えてから、机に置いていた釵に思いを巡らせる。どうせ少し話をしたら帰るだろうが、茶を飲むとき口に髪が入ると面倒だろう。
「女物で悪いが、使うと良い。退出する前には返してもらわねば困るがな」
「それは、妲己の」
「いいや、私のためのものだ。手元に置いておきたくてな、揃いで作らせた」
「……そのようなものを、借り受けて良いのですか」
「構わん。返さねば、そうだな……私が落ち込むだけだ」
釵を差し出すと、彼は逡巡したのち、おずおずと手を差し出し受け取った。
妻がいたというから、纏め方は知っていたのだろう。不器用と言った割にそつのない仕草を眺める。彼の髪は妲己ともまた違う。彼女は舶来の絹糸のごとき髪であるが、どちらかといえば呂道士は山蚕の糸のようだ。どちらも質の良い髪であるから、金に困っても売れば多少のどころではない額になるのではないだろうか。
「それで何用だ……ああ、ここには他の者はない。楽にしてせよ。言葉遣い、態度の無礼も赦す」
「そこは普通に尋ねるんですね!? ……いやぁ、まあ。陛下に聞きたいことがありましたので」
「こんな夜更けにか、それはまた、熱心なことだな」
茶を啜る。濃く淹れ過ぎたかと思ったが、存外いい塩梅になっていた。
ひとくち、ふたくちと啜ると、温かさが胃から体に広がっていくようで心地が良い。
「なぜ、妲己を寵愛なさるのです」
「あれは美しいだろう。それこそ、骨まで溶けてしまいそうなほどに」
なんだ、と少しばかり気が滅入った。
諌めの言葉は聴き飽きた。また、変わらぬ進言だろうと思うと、この男も所詮その程度かと、こころなしか茶の味が薄くなったように感じる。
「ええ、ですがそのようなことに囚われるほど陛下は軟弱ではないはずです」
茶を飲むのを、止める。珍しくしっかりと開いていた目と視線が合った。
見透かされているようでもある。どこか遠くを見ているような目で、思想まで見られているような。
「……なぜ、そう思う」
「妲己を見る貴方様の目を見ればわかりましょう。
いかに杏のごとき顔や柳のごとき腰に顔を甘く綻ばせようと、陛下の目は凪いでいました。ずっとそうです」
「目が良い男だな、貴君は」
この男、噂通りに優秀だったか。随分と目が良いことだ。しかしまあ、気づかれたところで別に構わない。言わずともそのうち気づいてしまうに違いないからな。
こちらから種を明かしてしまえば、この善良な道士は激昂するだろう。そして後の世に私の考えたことが残される。最悪の暗君の思想として。
「呂道士、私はな、歳を取らぬのだ」
「ええ、存じています。いよいよ即位し卅年を迎えんとしていらっしゃいますが、見目は二十歳の頃より変わらぬものと」
「ああ、そうだ。……だから、朕もろとも吾が国は滅んでしまえばいい」
呂道士がやおら立ち上がる。
その双眸は燃えていた。この柔和な道士でさえ、怒るときは常人と変わらないのか。本当に、現代のどこにでもいる普通の青年のようだ。
そう思えば、少し、懐かしいような気がした。
「あなた様は! 自らが何を言ったかわかっているのか!」
「わかっているとも。……なぁ、呂道士。貴君は歳を取らなくなって、どう変わった?」
「……は?」
立ち上がったまま、道士が素頓狂な声を上げる。
見た目が若いこの男は、修行をしたための不老である。だから、私のような人間の気持ちなぞわかるまい。
──好き好んで不老を受け入れる人間もいるだろうが、そうでないものも、人界には居るのだ。
「我が心は、恥ずべきことに童児と変わらぬ。まだ親も若く、結婚よりも兵役で戦うことだけ考えるような童児同然の未熟者が、世間の変化も理解しないままに吾子を、国を育てるのだよ。……恐ろしいと、思わないか」
くら、と頭が揺れそうになって、堪えてから下を向く。
思考はまとめていたのに、開くべき口が重たい。眠くて、もうなにも気にせず寝てしまいたい。でも、言わなくては。客人の前で無様を晒すのはいけないことだ。
「朕はいずれ、耄碌して私の手で吾子を殺すだろう。よかれよかれと吾子の口から粟の粥を奪い、かわりに砂礫を食わせ、果ては鴆を浸した粥を食わせるだろう。国を納めたこともなく、神仙へ至ることを目指す貴君にはわかるまい」
眠い。道士に滔々と語りはすれど、抑えていたはずの眠気がどうにも酷くなってきた。
気を抜けば人前だというのに船をこいでしまいそうな強烈な眠気だ。最後まで言う前に、気絶しそうだった。
「わたしは、吾子らを育てるべき人間じゃない。ずっとそうだった。……それでも、それなのにここまで来てしまったんだよ、呂道士」
膝にかけた布を手繰る。
寒い。眠い。だから、そろそろ帰ってもらおう。
顔を上げる。茶器の水面が揺れた。
これも、もう冷えてしまっただろう。眠気は消しきれないとはいえ、相手を見る。道士の姿がぼやけている。
「話が終わったのなら、帰り給え。今夜はいささか冷える。貴君も冷える前に、温かい衣を羽織りなさい」
「っ、失礼します」
堪えられぬ、とばかりに怒声のような返事を発した道士が、立ち上がってこの場を辞そうと律儀にも釵を抜く。一瞬の内に髪が散らばるように解け、道士にしては逞しい背を彩った。
言葉の荒々しさとは反して、釵を卓の上に置く動作は柔らかだった。軽い音と共に置かれた釵は、蝋燭の光を受けて柔らかく光っている。
そうかと思えば、呂道士は素早くこの場から去っていってしまっていた。走っていったようにも思うが、ここで罰するほどの狭量と思われたのであれば甚だ心外であるのだが。
やはり、彼には私の考えは合わぬらしい。それも仕方がないか。彼は道義を尊び、私はそうではない。それだけのことである。
しかし、妙に寒いし眠いな、と思って動いて、妙な感覚がするのに気づいた。
ちら、と衣の袷を覗いて、天井を仰ぐ。
「……しまった」
下着がわりの下布すら巻いてねぇや。さすがに人前でこれはない。
衣が厚手だったから透けてはいないが、呂道士には見苦しいものを見せてしまったな。最後は相当怒ってたし、どうせ忘れているだろうが。
他人に対してはそうも思わないが、この体は醜い。
まだ比較的垂れてないとはいえ、この頃の暴飲暴食は腹回りやら首やら腿やらにも現れているだろう。見た目をどうにかする努力ぐらいはしておくべきだった。
「まあ、いいか。妲己に会えば、忘れるしな」
どうせもう長くはない。ならば、いい。
どれだけ水をやり、土をよくしたところで、鉄の樹に花は咲かないのだから。暗愚とされることに変わりなぞあるまいな。
妲己は、私の裸体を知る唯一の女だった。
晒していいと、初めて思ったからだ。
「お前は、私と似ていると思ったんだ。だから、覚悟があるのなら、共寝をしてほしい」
「……ええ、もちろんですとも」
答えた妲己に満足し、するり、と衣を落とす。
傷まみれの私の体を見て、妲己が小さく息を呑んだ。
──私の体が、女のものだったからだ。
「これは、私の罪。これが私への罰だよ、妲己」
「陛下、それがどうして罪なのです」
「だって、こんなの天は赦されないだろう」
天子は乾であり、后は坤である。
ならば、私が天下を治め、地しかない今は?
彼女は残虐だ。彼女は美しい。
だからこそ、私は彼女を好きになった。少なくとも友人に抱くよりも下劣な欲がある。この女を抱くことを求めるようになった。
女に恋をしたことを後悔などしない。だが、それでも天下を欺いて何になるだろう。
女の天下をよく思わない者など多くいる。当然、私も私の知る紂王と変わらぬ末路を遂げるだろう。
「妲己よ、女が天子ではならないなら、私は天に背き続けていることになる。君とのこの閨事もそうだ。だから、ここでは私を煕鳳と呼んで欲しい」
女は、我が子を次の天子にしたがるからだろう。
本来ならば禅譲をするべきところを、ボンクラだったとしても玉座へと引き渡してしまう──そんなことを話していた。
だから私は、閨では、妲己の前では天子たる子受ではない。自らつけた名の、ただの煕鳳としていたかった。
「煕鳳さま、何を考えていらっしゃるんです」
思考が引き戻される。
寝台に共に寝そべった妲己も、私も、衣は纏っていない。共寝をしていても寒いから、くっついて暖を取る。
「あなたのことだよ、妲己。私の体を見たときの、君の驚いてた顔を思い出してた」
「まぁ、意地悪。……ねぇ、陛下。煕鳳さま。お願いを聞いてくださいませんか」
「聞くだけ聞こうか」
「ふふ、つれないお返事。陛下とずっと一緒にいたいんですもの、聴いてくださらないと困るわ。それで──」
妲己の願いを聴いて、笑ってしまう。
真剣な顔をして、妲己の願いというのはとても些細なことだった。そんなものならいくらでも、と口約束をその場でできそうな、そんなこと。
だからもう一度、戯れることにする。
あと、何日彼女といられるのだろう。
日が、落ちて部屋を照らし始めようとしている頃。妲己が隣で寝ているなか、ひっそりと起き上がる。
重い腰をさすり、茶を淹れた。──道士に振る舞ったのと同じ、薔薇の実の茶だ。少し色を淡くすれば妲己の髪にも似た色になる。牛乳を飲むハードルは高いけど。
「あの青年には勘づかれてしまったけど、もういいか」
あるいはあれは、若作りな爺だったのだろうか。
道士というものは本当に仙人に至ろうとするものがいるのだから見た目で判別ができないのだ。
だから私が言った何に対して怒ったか、何となくわかる。道士であるあの男が尊ぶべき相手を尊ばないことを、臣民を弄ぶような暴挙を、道理から外れていると信じたのだろう。
歳が若かろうが老いていようが呂道士には関係なく、ただ天子であること、その振る舞いのみが絶対である。
「本心を晒したからこそ、あれらは本当に飢えたものを救うだろう。
だから、あれはあれで良かったんだ。
煕鳳として、子を生まず母にもならなかった。
子受として、我が子たる臣民や国を十分に育てられなかった。
天子として卅年近く、よりふさわしい天子を探した。
同時に、自分で思い付く限りのことは、やったつもりだった。
完璧な祭祀より、簡便で行いやすい祭祀をと計らった。
粟稗にしても徴収し、日持ちする食べ物を作るよう研究をさせようとした。
敬うべき君主にならねばと道を探り、蝋燭を湯水のように融かして使ってでも学んだ。
無駄ではなかったと信じたいが、成果は芳しくない。やはり、わたしは鉄でつくられた樹のようなものだったのだろう。もっとうまくできる”次の天子“はいたはずだ。
だから、わたしの軍は破れた。
引き連れたものは戦争奴隷と犯罪で奴隷に身を落としたものたちだ。そのなかでも特にどうしようもない振る舞いをしたものだけを選別した。
案の定、本当にすぐ瓦解したから笑ってしまう。降伏し、諸手を挙げて武王たちを受け入れた。それでもきちんと戦ったものについては弔われるだろう。性根が変わらないものも、文王なき武王の世でも《徳治》で変わるのなら安いものだ。
そしてここにはもう、わたしだけ。
使用人のひとりにいたるまで、皆逃がした。
悪し様に言えと伝え、残ったわずかな財を握らせ、親切な誰かに助けてもらえるように。家族を守れるように。
残った財は、着たきり雀のこの紫の衣だけ。
日昇前の朝の冷えた空気には、少し寒い装いだったけれども。
「妲己、ちゃんと逃げたかな」
冷たい空気が、肺を、身体中を漱いで透明にしていく。
わたしの町は、きっとうつくしかったのだろう。これから夜が明ければ釜を炊く煙が見えるだろう。人々の活気も溢れるだろう。
こうなっては、さほど見る間もないけれど。
「ほんとうは、さぁ」
声が出る。もうここには誰もいないから、今ぐらいは弱かったわたしの本音を言ったって構うまい。
きっと、妲己も呂道士も気づいてただろうけどさ。
「ずっと怖いし、怖かったんだよ」
痛いのが、嫌いだった。
死ぬのも怖かった。
嘲られるのが怖かった。
──だから、死なないように滅多打ちにされながら剣術の訓練をした。いつだったか、気づけば誰よりも強くなっていた。だから同じように兵の動かしかたを学んで、国を平らかにしようとしてきた。
──だから、低く見られないように文字の練習をした。気づけば、見劣りはしない文字が書けるようになった。それでも文字を書くことは苦手で、執政も自分だけで書き付けるのは恥ずかしかった。代筆をしてほしかった。
──だから、批難されないよう良い国をつくろうと学んだ。身を偽り、寝る時間を削り、問答をして限界を知っても取り繕おうと必死だった。
国を治めるのも、誰かの前に立つのも、死ぬのも。本当は怖かった。ひとりで籠って布団で震えてて良いなら、そうしたかった。
「でも、私が天子になったから、仕方なかったんだ」
国が治まれば天帝のご意志の賜物。
国が荒れればわたしのせい。
ずっと逃げたかった。逃げ出したくて、でも、そうしたら次の天子がいないから、堪えるしかなかった。
ほんとうは、ただ、誰かと並んで立ってみたかった。
今世をただの女として、いろいろな人と接してみたかった。
妲己は振り向いてもくれなかっただろうけど、天子でも貴族でもないただの
けど、それも今日までのこと。
鹿台から見る山向こうは、薄く色がぼやけてきている。天の星はまだ消えておらず、だが同時に日も昇ってはいない。
もう大丈夫。私は私だ。天子として落ちるところまで落ちた。権威の衣も引き剥がされ、ちっぽけな私しか残らないところまできた。
「さあ、女禍娘娘、とくとご覧あれ!」
鹿台にて、私は私と鹿台に油を撒く。
寒い。着込んでいても上着がほしくて、でもこれ以上の礼装などないのだから、この姿で挑まねばと気合いを入れ直した。
衣は紫。時は未明。
これより夜は明ける。新しい、全く違う世が開ける。
「吾子や、吾が国や。吾が身は滅びれど、弥栄に」
金板と、石を打つ。
かちん、かちんと音が響き渡った。
「さいわいあれ」
──封神演義では、破れた紂王は鹿台で焼身自殺したとされ、またその死体の首は切られたという。しかし。
「何、首が消えただと?」
「はい、どこを探しても見当たりません! 妲己も市中に逃れたまま、見当たらず」
「そんな、馬鹿な……」
その直後、紂王の首はいずこにもなく、煙のように消えてしまった。市中に逃れた妲己共々一度消えたのだ。
報告を受け、執務室で机を壊さんばかりに殴り付けた武王であるが、そのまま力なく座り込んでしまった。
「何か……どうにかして王の首を取り戻し、祀らねばならん」
焦る武王が消沈しながら呟いたとき、戸が叩かれた。
「入れ!」
「陛下、少しお話が」
「おお、太公望ではないか! 良いところに来た!」
訪ねてきたのは、礼装に身を包んだ太公望であった。
いつになく張り詰めた空気の満ちた武王を前に、泰若自然の立ち姿で拝礼をし、入室する。
武王は武に長けた天子。とはいえ、礼を失することはない。すぐさま腰掛けるよう勧め、賢人に判断を仰いだ。
「知恵を貸してくれ、紂王の首が」
「ええ、はい。もちろん存じています。妲己が持ち去ったのでしょうね。だから、宮中に妲己を誘き寄せます」
「できるのか」
「困難ではありますが、やってみせましょう」
太公望も真剣な表情で語り、普段は細めている目を開き、硬い表情をしていた。自然と、武王も背筋が伸び、表情を引き締める。
「ですから、市中に密使を放ち、噂を流していただきたい。持ち去った首があり、持ち去られたそちらが偽物だと思わせれば、いくら彼女でも姿を表すはず」
「そうか……ならば、その通りにしてみよう。誰ぞ、誰ぞある!」
武王は声を張り上げて席を立ち、太公望は目を伏せた。
──狐狩りは、明朝である。
翌、未明。
煌々と火の焚かれる陣、その中央に紂王の首と胴があった。
焼死したはずの体は、むしろ生前よりも張りがあり玉のごとく。首は苦悶の表情を浮かべて目を見開いていた。
──それらの前に、影が立つ。
「やはり、来ましたね」
「あら。誰がこんな悪趣味な真似をと思いましたが、あなたでしたの」
「ええ、その通り。お久しぶりです、妲己」
遺体の前に立った影は、妲己、その人である。
「そう、じゃあ、あの人の首はちゃんと本物なのね」
「もちろん本物です。でも、貴女が持ち逃げをしたから偽物が晒されてしまったんですよ」
陣に置かれていた遺体。その胴は本物であるが、首だけは太公望の術によって再現されていた。
再現のもとになったのは、就寝前に太公望を出迎えた、あの夜の紂王の首から上である。それが、最も記憶に新しい、素の首であったからだ。
だが、それを見つめる妲己の表情はひどく険しかった。
「まったく──とんだ不敬者どもが。閨での陛下の顔を、貴様がなぜ知っている」
「夜更けに尋ねたら普通に入れていただけましたよ。貴女に惑っていたとはいえ、道士の私を閨に招くほど淫乱であったとでも?」
「……そうね、そうだったわ。この人はそういう人だもの。まったく、もう」
毒気を抜かれたようになり、妲己はあきれの混じった視線を手元に落とした。
彼女は、下底部が赤く湿った布包みを持っている。
「しかし、まあ。陛下の首をまさか持ち逃げされるとは」
「獣は恩を忘れませんわ。あなたたちと違ってね。首を持って行ったのだって、晒されるのを防ぐためよ」
「口では何とでも言えるでしょう。……さて、答え合わせをしましょうか、妲己」
「ええ、構わないでしょう。当てられるものなら当ててごらんなさいな。陛下もお聴きになっていますもの」
おもむろに、包みが解かれた。現れた顔は、術によって造られたそれとは違い、穏やかそのものである。
内心を踏み荒らされるやも知れぬというのに、妲己は涼しい顔だ。当てられるはずもない、と思っていると、太公望にもわかっている。
だが、それでもその平静さを剥がさねばならないと、彼はふたたび口を開いた。首は抱え直され、彼女の胸に収まる。
「まず、君が陛下の首を持ち去ったのは、呪具たりえるものだからだと思っていました。我々を擂り潰すために使い、用済みになれば棄てればいいのかと。……ですが、」
汗が顎を伝い落ちる。
彼女は話を聴き、目に剣呑な光を宿していた。それが何を意味するか、わからない男ではない。
「陛下の首を見てみて違うと理解しました。……手元に置いておくつもりで持ち去ったんですね。己の戦利品として」
「ええ、そうよ。でなくば、持っていく必要などあって?」
「どうするんです」
「知れたこと」
女を見る太公望の喉が、笛のごとく鳴った。
「しばらく抱いてから、欠片も残さず食べようと」
国を傾けた女が笑む。口の端が裂けんばかりに。
白い歯が見える、壮絶な笑みであった。
「煕鳳さまったら、本当にあどけない顔をしていらっしゃるでしょう? 戻すのには苦労しましたの」
するりと、白魚の指が朽ちもしない首を撫でた。
血が通っていれば、その仕草に嫌々と反応をしてもおかしくはないであろうと思わせるほど、瑞々しい様子を保っていた。
紂王の首は、生きていた頃ほど色がない以外は昏々と眠っているようである。あの夜、太公望に茶を出したときと変わらない顔で妲己に抱えられている。
赤かった頬と唇は彼女が術を掛けたのだろう、生前のままにされていた。長い睫と髪は妲己が手ずからそうしたのだろう、生前よりもよほど美しく、宮中の女たちのように整えられている。
それを幸せそうに抱く妲己もまた、美しかった。
「煕鳳さまはね、自分が死んだら死体は好きにして構わないって、食べたいならそうしてくれって泣き笑ってたのよ」
「……っ、それは」
嬉しそうな妲己の姿に、太公望はぞわぞわと腹の底が撫でられ、混ぜっ返されるような嫌な感覚に囚われる。
動けず、返事すらできずに、そのまま獣に話を続けさせてしまう。
もちろん、妲己はすべて察したうえで口を開いていた。そうでなくては、極上の笑みの中に嘲るような歪みは見せなかったろう。
「化粧も、口に含んでも害のないものを煕鳳さまが作ってくださったわ。私がお腹を壊したら大事だって。……馬鹿な人でしょう」
口先では馬鹿にしながらも、心底愛おしげに、楽しげに、臣下を炮烙にかけたときと変わらぬ優美さで妲己が微笑む。
彼女がそっと、慈しむように抱えていた首の断面を掲げると、まだ新鮮な血が滴った。断面もまた、煤のあとすらなく、きれいなままになっている。
妲己はその血を、戸惑い、固まってしまった太公望の目の前で啜った。
小鳥が甘い果実を食むようにして飲み、唇に残る紅をぬぐう。だが、令嬢としては相当はしたない仕草の中にも、紅を引くかのような密やかさな甘さがあった。
──煕鳳さま。わたくしの煕鳳。あわれな小娘。いとしいひと。国どころか、自分の首まで私に貢いでしまって。
妲己が笑む。
犬歯を剥き出して、愚かな周軍を嘲っている。
「だからこそ。わたくしが、このひとを食べるの」
「な?! 待っ、」
彼女は、彼らが首を安置するだけでしばし放ったらかし、みすみす手放す隙をくれたことに喜んでいた。
そうでなければ、この男の、生前の煕鳳を知る男の目の前で獲物を食えなかったろうと。
焦り、制止する太公望を尻目に、悪女が艶然と笑う。
目線が合うように持ち上げられた首は、しかし目蓋も閉じたまま、愛した女に何一つも反応をせず。
がぶり、と。王で自らを彩った獣が、冷たい唇に噛みついた。
鉄の樹に花が咲く:めったにないこと、実を結ばぬことのたとえ。
来年もよろしくお願いします。