思いつきアンソロジー   作:小森朔

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ちいさな子牙くんが出くわした変なお姉さんの話。
変人お姉さんとショタ太公望くんの続きです。


その一石は海さえ穿つ

「んん? きみ、誰?」

 

 

 

 その人は、何もないところから突然現れた。

 それから、驚いて転んでしまった僕に向かって、何がおかしいのかニッと笑いかけてきたのだった。

 

 その姿がどこか眩しくて、羨ましいと思ってしまったのは、なぜだったのだろう。

 

 

 

 

 

 

 その日は、いつもみたいに嫌になって釣具を持って出た日だった。

 家での生活は悪いことがあるわけじゃない。兄さんは優しいし、僕が勉強をすることに嫌な顔をしたりしない。父さんは仕事の手伝いをすれば頭を撫でてくれるし、ご先祖様のように立派になるようにと笑ってくれる。母さんだって、僕が書物を読んでいても呆れるだけで怒ったりはしない。

 

 ただ、周りの目は別だ。あからさまではないにしろ、僕と同じ年頃の子達との間には壁があった。大人の目があまり届いていないときには普通に遊ぶことはできるし、そうでなくても野山に行けば自由にできる。

 でも、大人たちの目は冷たかった。

 

 生家が、屠殺を生業にしているから。

 

 いつだって、殺生をするものは嫌がられるし、振る舞いをごまかしていても、やっぱりどこか冷たい。みんなはいいやつばかりだから、好きだ。──でも、あまり良いことじゃないんだと、大人から向けられる目を見たらわかってしまう。

 

 だから、嫌いだ。そんなもの、僕にどうしろというんだ。生まれなんて後から変えられるものでもない。

 

 

 

 

 そんな状況の中で僕の前にいきなり現れたその人は、胡桃のような色の髪の女性だった。

 尻餅をついてしまった僕を、不思議そうに眺めている。

 

 身なりからして、高貴な人だろう。鮮やかな色合いの毛織物の服なんて、早々に手に入るものではない。

 形にしたってあまり見ない。色彩のはっきりとした毛織物でできた襦裙なんて、どれだけ手がかけられているのだろう。そう思うと、幻のようにそこに立った彼女の得体の知れなさが増したように思えて、体が妙に固まる。

 

 ──恐ろしい人だ。いや、そもそも、きっと人ではないのだ。

 ──やはり、鬼だろうか。

 

 不思議そうに見てはいても、僕のことを侮ってはないないようだ。観察している目はどこか鋭く感じられるし、野の獣のような雰囲気を纏っていた。

 だから、そのままの姿勢で彼女を見上げた。

 

 

「あの、嘘ですよね、記憶喪失、とか……?」

 

 

 ()()()()()()()()()()()()僕に、彼女は腕を組み唸ってから、脱力した笑みを浮かべた。

 こちらの気も抜けるような、緩い表情がなんとも言えない。

 

 

「いや、普通に正気だし、さすらいの迷子してるだけだよ、私」

「迷子はさすらってるんじゃなくて道を見失ってると思うんですが」

 

 

 今、なんと言った? 

 

 聞き違いであって欲しいと願ったけれど、目の前の女性はそんなことどうでもいいとばかりに、真剣な顔で言い訳をぶつけてくる。

 聞き間違いなどではなく、言うに事欠いて、彼女は迷子であるらしい。

 

 

 思わず半目になってしまったけれど、これに関しては僕のせいじゃない。

 体を起こして、少し距離を詰める。

 ──ただ、あまりにも馬鹿馬鹿しいやり取りだと思って、それに女性の雰囲気が返答の直前にふっと和らいだのがわかったから、きっと安全だと思ったんだ。

 

 

 それでもなにも不自然な動きはない。だから、もう少し、あと少しだけ距離を詰める。女性はなにもしない。

 

 

「迷子にちゃんと声をかけてあげるのはえらいよ少年。けどこんな不審者に声掛けるのよくないよ、危ないぞ」

「不審者の台詞じゃないですよそれ」

 

 

 不審者を自称するには、彼女は無防備過ぎる。

 あまり膨れていない袖口は、材質のせいで何か隠せるような部分はなさそうだった。それに持っている背嚢も、抱えて動く姿は兵や密使なんかにしてはどこか鈍臭くて弱そうだ。

 

 

 

 それからのやり取りにしても、その人の態度はほとんど変わらなかった。

 ただ、そのあと彼女は、場所を僕に尋ねてから頭を抱えてしまった。

 口ごもってから、言う。

 

「ここからだとたぶん無理じゃないかなぁ。そもそも海隔てた国だし」

 

 

 さすがにその言葉だけは、にわかには信じられなかった。

 実際にそうした疑念の目を向けると、彼女はなぜか照れたように笑って頭を掻いたのだが、言っていることはにわかに信じられることではないので気にすることじゃあない。

 

 そもそもこの変な女性がそんな遠くから来ているということも。本意ではないのに知らぬ間にやって来てしまって、帰ることは無理だと断じてしまうことも。

 

 

 何を言おうか迷っていると、彼女は少し唸ってから、ひとつ手を叩いて、あ、と呆けた声をあげた。

 

 

「そうだ、飴ちゃんたべる?」

「へ? あ、飴、ですか……?」

 

 あまりにも遠く迷っているというのに、能天気にもほどがある。

 

「そう、飴。柑橘系。一口目はちょっとモサモサするけど」

 

 

 それに飴なんて、何日分の食費になるかを考えれば早々に買えるものじゃない。それを出せてしまうのだから、やはりこの人は貴人か鬼かのどちらかなのだろう。

 

 そう思っている間に衣の内から取り出されたのは、不思議な容れ物だった。彼女の服とはまた違う、濃い鮮やかな青色で、薄くて柔らかそうな材質な、それでいて高価であろうもの。

 

 

「きれいな箱だなァ」

「ん、見たことないの?」

「ええ。飴なんて早々買えません。……それに、箱だけでかなり高価でしょう、それ」

 

 女性は価値がわかっていなさそうで、首をかしげている。

 僕の反応を見て、何かしら察したようで彼女は物言いたげにしていた。けれど、黙ってほのかな笑みを浮かべただけに留めてしまう。

 きっと聴いても無駄だろう、という雄弁な表情で、尋ねることは憚られた。

 

 

 代わりに、飴と称したそれをひとつ、口に放り込んで顔をほころばせるので、思わず唾を呑んだ。

 甘いもの、なんて。この機会を逃したらいつ食べられるだろう。祭りでないと出ないような御馳走にだって、甘いものは少ない。

 

 ほれ、と促されて手を差し出すと、四角い菓子が手のひらにやんわり落とされた。

 外側の薄い皮のようなものを剥こうとしたら、その前にやんわりと止められる。そういえば、さっきは皮ごと食べていた気がする。

 

 

「これ、外のつるつるしたやつごと食べられるからね。で、まあ、帰るには帰るからさ。私は、えーっと……(メイ)だよ」

 

 

 さっきの言いがたい笑みではなく、親しげな表情で彼女──梅娘娘は言った。

 近所の小姐みたいだけど、雰囲気がずっと違う。人里から遠いところにいる仙女みたいだから、娘娘の方が合っているような気がした。

 

 

「明らかに今決めた名前なの、ちょっとどうかと思うなァ」

「どうせこの場限りだからいいんじゃないかね。さてそろそろ行くわ」

「どこに?!」

 

 じゃ、と手を振って適当に茂みの方へ足を踏み出した。

 行く宛がないよりも、適当に迷子になったように──

 

 

 

 ふっ、と、消えてしまった。

 

 

 

 居なくなったのはそもそも僕が見ていた夢だからじゃないかとか、そう思おうとした。

 でも、確かに口のなかにはさっきの柔らかい飴の味や、飴皮の小さな欠片がある。夢ではないのだ。

 

 

 そう理解すると、なんだか愉快な気分になってきた。

 きっとおかしくなったか、山の怪に誑かされたと言われるんだろう。そうやって医者を呼ばれてしまうか、それか道士さまに祈祷してもらうか、はたまた他所へやられて白い目で見られるかのどれかになるだろう。

 

 だから、言わない。

 

 言わないから、みんなこんなおかしなものを知らないままになるんだ。あんな、良くわからないけど良くわからないなりに悪気のないモノを知らないでいることになるんだ。それはちょっと、楽しいことだ。

 

 だから優越感が胸を満たしてくれて、それまでわだかまっていたものは少しだけ忘れることができた。

 

 

 

 

 

 

 

 それから数年間は、半年から一年に一度、嫌なことがあって悩んだときに彼女に会った。

 

 

「あれ、またあったね。あと今日も迷子だよ」

 

 

 いつ、というのは決まってなかったのでわからなかった。けれど、もう全部捨ててやろう、投げ出してやりたいと思ったときには必ず出会えたのだ。だから、僕にとってはそれほど悪いものじゃないんじゃないかなァ、と思えて嬉しかったのを覚えている。

 

 それで、どうしていたら彼女に会うのだろうと考えていて、会えるのは凄く嫌なことがあったときで、それも釣竿や具を持っていっているとき、という条件だと気づいた。気づいたのは三度目の邂逅で、その日の彼女は独特な深衣のようなものを纏っていた。

 

 

 三回目ぐらいまでは、家のことを馬鹿にされて悔しくて、でもそれを言い返したりすることがうまくできなくて黙っていたときだ。

 そんなときに出会ったから、条件にも思いが至らなくて、共通点には気づけなかった。まだふつふつと腹の奥で怒りが煮えていて、彼女にも当たり散らしてしまいそうだったのだから、仕方ないと思う。

 

「少年、釣りって楽しい?」

「……ええ、楽しいですよ」

「そっか。じゃあ私もしてみようかな」

 

 それしか聞いてこずに、慣れない手付きでよさげな棒切れに糸を括りつけて喜んでいた。

 

 

 梅娘娘が僕のことを理解しようとしてくれていたのに気づいたのはそのときで、彼女自身は僕の苛立ちについてはなにも言わなかったからだった。

 ただ、なんとなく微笑みながら手作りの釣竿にミミズをくくりつけている姿が可笑しくて。でも、目を合わせないからやっと気づけた。きっと、僕がそんな目を向けられたくないことなんて、わかっていたんだ。

 

 

 だから、彼女は僕に釣りのことしか聞かなかったし、必要以上に僕を見たりしなかった。前と同じように、あの不思議な飴をひとつ、差し出してくれるだけ。

 それが居心地良くて、そのうち嫌なことがあると、時間をつくって釣竿を持って、彼女がいそうなところへ行くのが習慣になった。

 

 

 

 

「やあ元気か少年。元気無さそうだな、飴いる?」

「……ちょっと色々あって。あ、飴はください」

「きみ、結構図太いよね」

 

 彼女の釣りの腕は、会うごとに上手くなっていっていた。

 以前とは違う、透明で美しい色の硬い飴玉を食べて、それでも晴れない気分のせいで、獲物を一匹取り逃がした。

 

「どうしたよ、少年。なんか元気ないにも程がなくない?」

「……実家のことを、馬鹿にされて。僕の家、屠殺を生業にしているんですよ。……だから大人ほど、僕らを見るとき嫌な目をする」

 

 

 はじめて事情を告げたとき、娘娘は目を丸くした。

 どことなく猫みたいな表情で、この人は狸精なんじゃないかなと少しだけ思った。その日は黒と茶の深衣を着ていて、足元は茶の皮でできた靴だったから、余計にそうなんじゃないかと考えてしまっていたのだ。

 

 それで、どんな哀れみが向けられるだろうか、と少し居心地の悪さを感じたとき。

 

 

「バッカでねぇの、そいつら」

 

 ──娘娘は、ハッ、と鼻で笑った。

 

「誇りな、少年。きみんとこの家は神様の鞭を扱ってんだ。己の誇りは、小人の言葉に汚されるようなもんじゃない。……あ、反撃しても大丈夫そうならしっかりしといた方がいいよ」

「神様の、鞭?」

「うん。まあ、聞き齧った話だし、違う地域の話なんだけどさ」

 

 

 彼女が振るった竿の先が、ちゃぷん、と水面に当たる。

 

 笑っていた顔から、不意に全て落としてしまったかのように表情が消えた。

 

 

「神様が鞭を振るって命あるものを天に導くように、長い刃を振るって生き物を天へ返すんだ。それでもって、人がやることだから、ちゃんと全部食べられるように切り分けて、骨や皮まで使えるようにする。

 ……私が知っているのは、その集団でしか使われない言葉なんだけどね。たしかにそういうものなんだと、私は思うなぁ」

 

 

 ──口を開いた梅娘娘は、ここじゃない、海でもない、ずっと遠くを透かして見ていた。

 賢人のような言葉は、いつもの娘娘のそれとは違う。学者のようでもあり、また世捨て人のようでもあった。

 

 だから、不安になる。

 彼女は、一体どんなものを見てきたのだろう。僕がなりたいものは、したいことは、婦女である彼女よりさらに先へと進むことだ。それは、あまりにも遠い道になるとさえ思える。

 

 

「……そんなこと言う人は、初めて会いました。みんな、卑しいって言うんですよ」

「そいつが道士様じゃなきゃ笑ってやりゃいいよ。自分もきみんとこの仕事に与ってるんだから。じゃなきゃ、命を繋げないじゃないか」

 

 

 梅娘娘は、からからと木板を鳴らすように笑う。

 

 道士は肉を口にしない。でも、知っていたはずなのに、それ以外の人間から何を言われてもとは、それまで考えたことがなかった。

 あれも、己の道について考えるきっかけのひとつになったといえば、確かにそうだったのだろう。

 

 

 

 ただそのとき、彼女がいつものように消えてから、嗚呼また会いたいなァ、なんて思って。

 ──その頃はまだ、家族よりも遠く、友人よりは近い相手だった。

 

 

 

 

 それからの彼女の姿は全く変化していなくて、やっぱり鬼の類いなのではないかと思ったのだったか。

 

 僕の背丈と髪の毛もどんどん伸びていって、三つ編みが長くなった。どの段階か思い出せないけど、背中の一部以外は折を見てきれいに切り揃えたりもして。

 何て言われるだろう、と不安に思ったのは杞憂で、彼女はまた会うなりこちらに拳を付き出して、親指だけを立てた。

 

「少年って、そういうのも似合うな! いいね!」

「本当ですか? よかったァ……じゃなかった。いい加減に少年呼びは止めませんか、そろそろ元服なんですよ僕も!」

「へー、そろそろ成人か。早くない?」

 

 

 彼女は僕の言葉を聞いて不思議そうに首をかしげたが、僕からしたら娘娘の方不思議で信じられなかった。

 あの頃から、やっぱり変わらないのだ。服装は変わっても、髪の毛も顔つきも誤差にすらならないような変化しかない。

 

 

「まあいいや。少年老いやすく学成りがたしだもんな」

「……なんですか、それ?」

「あー……なんか偉い人の言葉だったと思うよ」

 

 

 ──なんだろう、それ。聞いたことないんですが。

 彼女のその言葉に、ふと、胸に墨が滲んだような感覚があった。

 

 

 実家の書物にはなかったし、近隣の書物にもなかった。腐っても書物は保持し続けている家なのに、見かけることはなかった。娘娘は海の向こうから来たと言っていたけれど、そのときこっちの方が進んでいるのだと言ったのだ。ならば、そんな言葉が書かれた書物は、一体どこにあるというのか。

 

 ──それに彼女は、女性だと言うのにどこで学んだというのだろう。

 

 

 

 

 

「……実家継がずに遊学したい、です」

 

 何日も悩んでいて、釣竿も手に取る気にならない。

 

 そんなときにやっぱりやってきた娘娘は、ミミズを捕まえて嬉々として釣竿にくくりつけている。

 今日は大物も来なさそうだし、彼女は何が楽しいんだろうか。

 

「そっか、悩め悩め若人。ついでにそれ忘れないようにしような、そういう誠実な悩みはわりと大事だから。大人になるとどうでもよくなることあるから」

「そう、かなァ」

「そうだよ。私が保証したげる。違ったら恨んでいいよ」

 

 

 あっけらかんと答えを出してしまうのは、やっぱり梅娘娘だった。彼女がそう言うのならは、違っていたときには遠慮なく恨んでやろうと思う。

 

 親と夢の天秤にかける。それは、どう考えても不孝者だ。兄がいるとはいえ、そう簡単に決めていいことではない。屠殺は、家族で行う大仕事なのだ。

 それを放棄しようかと考えていることすら、梅娘娘にはあまり関係ないことらしい。

 

 

「人間にはさ、色んなことに合う合わないがあるんだよ。人間でも、仕事でもさ。家族だって折り合いつかないときあるしねぇ。

 だから、折り合いがついたら百点満点どころか、一千点だってつけちゃっていいんだ」

 

 何の点なんだろう、それ。

 

「折り合いがつかなかったら?」

「逃げちまえばいいのよ、そんなもん」

 

 あ、同じだ。

 彼女はまた、かつて僕に「誇れ」と言ったときと、ほとんど同じ顔をしている。

 

「思いやりやら仁義なんてのは余裕がある人間にしかできないよ。……なにより、余裕は体と心と財布が豊かじゃなくちゃね!」

「は、はは、アハハハハ! 身も蓋もないなァ、貴女は!」

 

 

 含蓄のある言葉が若い彼女の口から出てくるのは今に始まったことではない。

 でも、最近ふと、それにしては老成しすぎているようにも思えてきた。近所の姐さんたちはもっと気楽だし、考えていることといえば自分の家や子、近所付き合いのことばかりで閉じている。

 

 

 二人でひとしきり笑ってから──ふっ、と。彼女の顔から、それまでの笑みが剥がれ落ちた。

 

 

「私はその辺わかってなくて、ちゃんとできなかったからさ。少年は無理しちゃダメだよ」

 

 

 思い出したように。あるいは、なにかを懐かしむように。

 

 何気なくぽつりと呟かれた言葉は、何よりも重たく胸に沈みこんだ。

 

 

 

 

 

 

 

 その次は、またしばらく経ってから。

 

 修行のために郷里を離れることが決まった後だった。酒の抜けた後、釣竿を持ち出す。夜までに会えなかったら、それまでだった。

 

「修行? そりゃまた、随分だなぁ」

「ええ、とある人に見込んでいただけまして」

 

 お師匠から声をかけていただいて、それに乗ったのがついこの間のことだ。

 だから。伝えるにはいい時期であったのだと思う。

 

 

「そうかそうか、じゃあ立ち止まらないどきなよ。振り返ろうが後悔しようが構わんけど」

「なんでですか?」

「まあ、じきにわかる」

 

 

 それでも彼女はいつも通りに興味がなさげで。

 ただ、彼女は表情が豊かなので心配されているんだなァ、というのはなんとなくわかった。

 

「それから、立ち止まるのと休むのは別だからね、一応言っておくけど」

「わかってますよ」

 

 いつも通りのへらりと気の抜けた笑み。

 それに背を押されて、一応彼女の言葉を書き付けてから、満を持して異界へ踏み込んだ。

 

 

 

 

 それから、50年。

 仙境に踏み込んでから、またそのうちには会えると思っていた彼女とは、決して会うことはなかった。

 

 

 

 

 

 

 それからやっと、僕は、彼女が仙女でもなんでもないことを知ったのだ。

 あの人が生きていた理由なんて知らないけれど、時折現れていた彼女は、間違いなく生身の人間だったのだ。その上での修行の50年間は、人間にとってはあまりにも長かった。

 

 

 

 

 

 

「おや、お久しぶりです。しばらく見ませんでしたが、お元気でしたか?」

 

 

 ──だから、現世に戻ってすぐに彼女と会ったときは、少し声が震えていたかもしれない。

 

 

 でも、彼女はやっぱり変わらなくて、なにやら悩んだ様子を見せたのち、ポンと手を打って「少年か!」と呟いた。

 ──僕の見た目は、20代の頃から変わっていない。

 それはそうだ。仙境に至るための修行をつけるのに、10年。遊学をしながらの修行の成果で、ほとんど肉体に変化はなくなっていた。

 

 

「やっほー、元気元気。ありゃ、少年、春先の筍より成長早くない?」

「……ええ、そうですね。そういえば、貴女に前に言われたことがちょっとわかった気がします」

 

 

 僕は、そのときどうしようもなく疲れていた。

 お師匠から使命だと投げ出されて、好きにしろと選択肢を与えられて。どうにもならないまま仙境から故郷へ戻ってから、うまくいかなくて。

 もう全部投げ出したいとすら思った。

 

 だから、嬉しかった。

 身長が伸びたこと以外、彼女にとっては些事だということが。彼女が止まるなと言ってくれたことをちゃんと覚えていられたことが。それに、彼女が相変わらずやってきてくれて、元気そうだったことが。

 

 

 そんなことを考えているなど知らない梅娘娘は、よくよく頷いてから真剣な顔をした。自然、僕も顔つきを引き締める。

 なんだかんだ言って、この人は後から必要になることを言う。だから、覚えておく。忘れないことが大事だと、忘れても思い出せるようにしておかなくては、と。

 

 

「そっかそっか、それなら次は成長し続けることだね」

「また、難しいことを言うなァ」

「がんばれ。まあ無理ならしなくてもいいよ」

 

 

 梅娘娘はいつもそうだ。

 逃げ道を残して、決めることはこちらに投げる。お陰で逃げようがないのなんて知ることもないのだろう。

 

「努力はしますよ。貴女が言うんですから、きっと必要なんでしょう」

「信頼してくれるねぇ、嬉しい限りだわ」

 

 だから、僕もそれに応える。

 この人は、間違いなく味方なのだ。それだけは決して変わっていないと、なにより僕自身が知っている。

 

 

 それで釣れた魚は、修行中の身では食べられないので彼女に差し出した。が、なぜかその場で焼いて全部食べきって帰っていった。

 

 

 

 

 

 

 

 それから数百年。

 何もかもが終わってから。懐かしくなって仙境の泉で釣りでもしてみようかと釣竿を持ち出したとき、懐かしい声が聞こえた気がして。

 

 

 ──その姿を、見てしまった。

 ──目が、合ってしまった。

 

 

「久しぶりだね少年! あれ、なんか見ないうちに随分でかくなった?」

 

 あの人が、そこにいた。それも、生身の体で、だ。

 

 心臓が早鐘を打つ。ここは彼女がいていい、人間がまともに生きていられる場所ではない。

 

 

 なのに、まるで気づいていないかのように、笑って、その足でありえざる地を踏みしめているのだ。

 ()()()()()()()()()()()()にも関わらず、なにも気づいていないかのように。

 

 

「……どうして」

「ん?」

 

 

 それが痛ましく、見ていられなくて、一度はうつむいてしまった。

 

 体が震える。言って諌めるべきか、叱り飛ばして返すべきか。だが、どちらにせよ彼女がそれを受け入れるかどうかだ。

 

 

「どうしたよ少ね、」

「貴女はッ!」

 

 

 とはいえ、時間の余裕もない。

 

 肩を掴んで、視線を合わせる。彼女の体が強ばったのをはっきりと感じ、申し訳なさが襲ってきた。

 言わなければ。()()()()()()前に、はやく。

 

 

「なんでっ、仙境まで来てるんですかッ!!!」

「え、なにそれ知らん……怖……」

 

 

 

 絞り出した声は、もうほとんど悲鳴だっただろう。

 

 

 両肩を掴むと、その部分から少しだけ肉が溶けた。

 先ほどまで緩やかだった侵食が、完全に通常の迷い子へのそれと同様に始まっている。書き換えは、さっきまでほとんどなさそうに見えたのに、なぜ。

 

 そのまま肩を掴んでいては余計に溶けるかと思い、慌てて離そうとして──止まる。

 

 もし、離してしまって()()()()が加速したら? 

 

 

 体から彼女を構成する情報群が溶け出していく。

 この仙境でも太極へ還るそれは、魂魄そのものといっても過言ではなく。

 

 

「──あ、」

 

 

 理解した。少なくとも彼女は納得したのだと、反応を見て察知する。そうだ、頭の回転はなかなかに悪くない彼女のことだ、何かしら対策は打っているだろう。

 肩を掴んだまま、彼女の言葉を待つ。

 

 

 だが、彼女は僕の手を跳ね除けて、一歩だけ引いて、普通に腰に手を当てた。胸を張って、こちらを見上げてくる。

 

 

 ()()()()()()()()()()くせに、その行動はやけに元気そうだった。

 

 

「ていうか、邪魔なら帰るわ。すまなんだわ」

「え、あの、ちょっと!?」

 

 

 帰るって、どこに。

 それより、その体で帰るなんて正気ではない。止めなくては。

 

 

 焦る声を上げた僕に、あの人が振り向く。

 

 

 前よりも、もっとずっと小さな背で、小さな体だった。

 そんな背中を、今まではとても大きく感じていたのに、今ではこんなに頼りなかったのかと愕然とする。

 それでも、何でもできてしまえそうなほど頼もしく思ってしまう力強い姿は、相変わらずだったのだ。

 

 

「子牙くん。立派になったね」

 

 

 ──だから、これは決別の合図だった。

 

 目をかけられた子供の僕へ。長く、そしてほんの一瞬一瞬を見てきた彼女からの。

 想像を絶する痛みに襲われているだろうに、ケロッとした顔で、心の底から祝い、寿いでくれているように。

 

 

「お暇するよ、息災でね」

「っ、梅姐……!」

 

 

 止められはしない。止めてしまえば、彼女は失われる。

 

 見送った後でも、探すことぐらいはできる。

 だから、歪みそうな顔を必死に留めて、その背中が消えるのをただ見送っていた。

 

 

 

 

 

 それから、記憶の中の彼女はずっと笑っている。あの頃から変わらないと思っていた、同じような笑顔だ。

 あんなことがあった後でも、それでもまたどこかで。どんな姿になっているかわからずとも、一度くらいは会えると思っていたのだ。

 そう、高を括っていた。

 

 

 ──でも、梅姐はどこにもいなかった。

 一度、あまりにも機会がなかったので、外に出たときに世界の端まで探してみたのだ。

 

 しかし、そんな人はいない。

 存在していたら残るはずの要素すら薄く、それならあの存在は一体なんだったのかと混乱を極めたりもした。

 だが、存在した形跡がないのだから、やはりあれは、幻かなにかだったとでもいうのだろうか。

 

 

 

 梅姐が居ない理由に気づいたのは、その長い時間の中で、外界から新しい弟子が来たそのときのこと。

 

 

「良く励んでいるね。良いことです。少年老いやすく、学成りがたし、ですからね」

「あれ? 師匠、それは魯の孔先生の言葉ですよね。

 外界には疎いと仰っていましたが、よくご存じではありませんか」

 

 カチリ、と最後の譜が、然るべき場所に収まった。

 

 土地の名前を聴いただけで場所を理解し、頭を抱えていたこと。

 菓子の小箱を上等な衣に隠していたこと。

 僕が知らない言葉を知っていたこと。

 女性なのに、学ぶ姿勢があったこと。

 

 

 ──それなのに、僕の問いのそれに答えず、ただ笑っていたこと。

 

 今から振り返れば、あっさりと答えが出てしまうことでした。

 そしてそれに気付いてしまったがゆえに、恥もなにもなく、己の失態に泣いてしまいたかった。

 

 

 

 

 もしあのとき、僕が彼女をその場に留めてしまったら。そうしていたらきっと、彼女は死ぬよりも辛い目に遭っていただろう。

 

 

 

 仙境は、決して生身の人間が長く居られる場所なんかじゃない。

 それは比喩などではなく、物理的に変化を強いられるからだ。後に知ったムーンセルという存在に近いといえば近い。生身の体を融解させ、五大元素に最適化して太極の一部として取り込まれるのだ。

 

 神仙に至るための修行は、まず真っ先に痛覚の遮断を学ぶこと、それから任意の人格を残すことが求められる。それが出来て初めて、神仙への道を拓くことが叶うのだ。

 

 

 だが、彼女はそんなものはできなかった。体が溶けていくような感覚があっただろうことは想像に難くない。痛覚を遮断できないのだから、生きたまま酸に浸けられるように溶かされていたのだから。

 

 何の準備もなくこちらへ踏み込んだら、心肺から順に体が書き換えられ(アップデートされ)て、元素から成る幻想器官に変換されていく。その激痛は意識を保てるだけでも十分に驚嘆すべきものになるのだ。指一本も動かすことはできないのが普通で、崩れ落ちてそのまま書き換えが完了する(オールグリーン)まで変換が進行してしまう。

 ──そして、それまでの人格は仙女としての感性や感覚に塗り替えがな(イニシャライズ)されて、欠片を残して消えてしまう。その残る欠片だって記憶を保持するには心許ないもので。

 

 

 修行という下準備なく、痛みを止める手段も持ち得ない。さらには神秘も薄まっていたであろう時代の人間など、耐性もない分、人格の構成要素が残る可能性は低い。

 神秘の色濃い時代であれば、まだもう少しましではあるだろうけれど、それでも油断すれば意識ごと真っ更な状態になるような、危険な行動だったのだ。

 

 

 

 なのに、彼女は耐えた。

 信じがたいことに、耐えられてしまった。

 

 顔面を蒼白にしながら、それでも僕を祝福して。笑顔で、自分の足で去っていったのだ。

 

 

 僕にも、それが何故なのかはわからない。

 でも、あの状態で動けていたということは、少なくとも心肺の一部は生身の器官とはかけ離れたものに変質してしまっていたはずだ。

 

 そうした器官はこれから先の世、僕らの時代から見て上等だと思える衣を普通に着られる世界では、彼女はきっとひどく貴重な存在だ。

 普通の人間からしても不可解ななほどに強い機能を保持し続けるし、方術や魔術を嗜む人間が気づいてしまえば、彼らにとって喉から手が出るほど欲しいモノになる。

 

 

 ──そんなものが、知れてしまったら? 

 

 

 ぞわりと背筋が粟立つ。

 僕は、もし一歩間違えていれば、我欲で取り返しのつかないことをしてしまっていたのだ。

 

 

 しかし──そんなことならば、いっそ、彼女にとっての夢のようなあやふやな場所から、帰ってしまわないでいて欲しかった。

 きっと修行している弟子たちのよき支えになっただろう。

 

 

 だが、もし、仮にそうしていたら梅姐は苦しんでいたに違いない。

 被検体や材料にされるのなら。そんな扱いで苦痛を味わうくらいなら、こちら側のものになっていた方が生きていやすいのもまた事実だ。

 

 だから、そのままいたらよかったんだ。それで、そばにいて笑ってくれていたら。

 

 

《立派になったね、子牙くん》

 

 

 でも、そうなればきっと、僕は自分のしでかしたことに耐えられなかっただろう。

 あの人の言葉は、まだ鮮明に覚えている。だからこそ、彼女が祝福した立派な人にならなくては、その寿ぎに足る者でなければならない。

 

 

 

 

 だから、想う。

 

 梅姐は、ただ普通の女性だった。いや、仙境に来て体が書き換えられつつあるのに何事もなかったかのように振る舞える時点で普通ではないが。

 でも、確かにただの人間であるあの人に、情をかけてもらっていたのだ。

 

 紛れもなく、僕は大切にされていた。

 偶然に遭遇した子供として。そのうち時間をかけてから、ちゃんと友人として、確かに信じられ、気を許されいたのだろう。

 

 

 ただそれだけの、これからもきっと出会えないその人がひどく懐かしく、苦しく思い出されるのは。

 




変人お姉さん:うっかり立ち入り禁止区域に踏み込んで溶けかけてた。なぜか気合いだけで生還したリアルアマゾネス。

太公望さん:何百年かしてから一人前になったあと、弟子ができた辺りでやっと変人お姉さん真実を知る。一度現世を探したけどSAN値チェック入るだけだった。


もし変人お姉さんがマスターやってたら:ツングースカで隠れて活性アンプルバカ打ちしてるところで藤丸くんと少年に見つかる。鉄拳フラグ回収。
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