作:『あなた』

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1.柑橘系の香りは美少女の特権

 

 ソル・ペルデールが見る夢はいつも同じである。両親と共に食卓を囲んで談笑する。ただそれだけの他愛もない日常の一節が彼の夢だ。

 ダイニングテーブルには母親の料理が一面に並んでおり、父親がそれを満面の笑顔で食べる。あまりに美味しそうに食べるのでソルの腹は鳴り、口内に涎が溜まる。我慢ならなくなったソルが料理に手を伸ばすと、指が食器に触れる直前で両親と料理は霧となって離散し、ソルのみが取り残される。

 ソルは自分が夢を見ていることに気づいており、料理を食べようとすると全てが消えることを理解している。けれど、心の内に沸き立つどろどろとした誘惑が彼を支配し、決まって同じ結末を辿ってしまうのだった。

 夢から覚めたソルの背中には汗が滲み、胸の鼓動は激しい運動をした後のように荒れている。深呼吸をして落ち着こうとしても脳裏に夢の光景がフラッシュバックし、そのたびに吐き気を催すほどの息苦しさに苛まれる。

 こうなってしまうとソルは再び眠ることはできず、起きた時刻が丑三つ時であっても、早朝の小鳥の囀りを妙に覚めた頭で聞く羽目になってしまう。

 

 

 鬱蒼とした森に建てられた家にソルは住んでいる。彼の家の周囲は円状に樹木が伐採されており、森の中にも関わらず陽光が差していた。煉瓦の屋根は補色である緑の中では非常に目立ち、漆喰の壁には蔦が這っている。破風坂は蜘蛛の巣が張り巡らされ、蜘蛛たちは侵入者を監視するかのようにその八つの単眼をしきりに動かしている。

 ソルはこの家に一人、世捨て人のような生活を送っている。今年で齢十二となる彼には両親がいない。ある日から母親は家に帰ってこなくなり、その一週間後には父親もソルの前から姿を消した。

 

 人間と鬼のハーフ。それがソルを人との関わりを断たせて森で暮らすことを強いる足枷だ。

 鬼の外見は額から二本の角が生えている以外を除いて人間と見分けがつかない。しかし、鬼は人間の肉を食べなければ生きることができないため、古くから鬼は人間の天敵であった。鬼である父親の血を色濃く受け継いだソルはハーフであると言えど例外ではなく、彼も月に一度は森で首を吊った人間の肉を探しては食らっていた。

 

 

□■□■□■□■

 

 

 

 ある日の夕暮れ、ソルは薄暗い森を木の実でいっぱいになった籠を背負って歩いていた。

 現在の季節は晩秋。冬に入ると木の実は取ることができなくなるため、備蓄分も兼ねてこの日は普段よりも多く採取していた。昼過ぎには帰る予定だったのだが、集中していたソルは太陽が西へと下るのをすっかり見落としてしまっていた。

 

 自宅が見えたことにより安堵の嘆息をついたソルは、両腕を伸ばして軽くノビをし、大きな欠伸を一つする。長時間の作業によってソルの体には疲労が溜まっており、既に眠気を生じさせていた。夕食は手短に済ませて、温かい風呂に浸かったらすぐに寝ようとソルが回らない頭でぼんやりと考えていると、家のドアにもたれかかる少女の姿が目に入った。

 思わぬ出来事にソルは反射的に立ち止まり、訝し気な顔をして恐る恐る少女に近づく。

 

 腰まで伸びた黒の長髪は陽光を浴びて光沢を放っている。鼻筋は通っており、パッションピンクの小さな唇からはスースーと呼吸音が漏れ出していた。体を覆う黒のローブは細かな彩色が施され、職人による手作りであることが伺えた。

 少女の外見を端的に表すならば“美少女”。

 人と滅多に会わないソルでさえ本能的な美醜の感覚から可愛いと思う程、少女の顔立ちは整っていた。

 

 ソルは籠を地面に下ろす。重量があるため、地面と当たる時に鈍い音が辺りに響く。しかし、少女がその音に反応して起きる様子はなく、幸せそうに眠ったままであった。

 

 ソルは少女をどうしようかと自問する。

 彼が人と関わりを断っているのは鬼であることがばれて殺されないようにするため。幸運にもハーフであるためか彼の額には鬼の証である角は未だ生えておらず、一瞥したぐらいでは鬼であると分からない。けれど、聖職に就く者には魔族の匂いを感じることができる者もおり、そのような人物と偶然にも出会ってしまえばソルの短い人生は幕を下ろすこととなってしまう。

 少女がどこから来たのかはソルには分かりえないことではあるが、自分が森の中で暮らしていることを知る人物を作ることは、最悪の事態へとつながる糸口になってしまうかもしれないという不安が彼の心中で渦巻いていた。

 

 彼がこの状況で取ることのできる最適解は少女が目を覚ますまで草陰に潜んで様子を伺い、ドアの前から移動することを願うこと。または、口封じに少女を殺すことの二択である。しかし、前者は少女がいつまで経っても目を覚まさない場合のことを艦見すると現実味がなく、後者は他者のの命を奪うことなどソルには到底できないため論外であった。

 

 暫く思惑顔を浮かべた後、ソルは少女を起こすことにした。それは少女が家のドアの前で眠っているのならば、どちらにせよ家の存在はバレてしまっているので、考えすぎなくていいという判断の下であった。

 

 ソルは少女の肩に手を置いて揺さぶる。けれど、少女は一向に起きる気配がなく、むにゃむにゃとありきたりな寝言を言って、抱き枕と勘違いしているのかソルの腕に自身の手を蔦のように絡めだす。これまで異性と触れ合う経験がなかったソルは顔を茹蛸のように真っ赤にして、身動き一つ取らなくなる。

 どうしよう、どうしようとソルは思考をフル稼働させるが、パニックに陥ってしまった頭は妙案を出すことなく自問を脳内でオウム返しするばかりであった。

 

 暫く時が経ち、少女の体がピクリと動く。

 

「ん……んんぅ……」

 

 瞼を重たそうに開き、焦点の合わない紅い瞳はソルをじっと見つめる。ソルは気まずそうに少女から視線を外し、煩悩を振り払うように目を閉じてかぶりを振る。

 

「だ……れ……?」

 

 少女は首を梟のように傾げて不思議そうな顔を浮かべる。それから、自分の絡めている腕とその主を見比べて、漸く状況を理解した少女はソルに負けない程顔を真っ赤に染め上げる。

 

「ご、ご、ごごめんなさいいいッ!!」

 

 少女はすぐにソルから腕を解き、距離を取ろうとしてドアに背中を勢いよくぶつける。

 

「いったぁ……」

 

 少女は痛みに顔を顰めて背中を擦る。ソルは少女に手を貸そうか逡巡するが、気の利いた言葉が出てこず、伸ばそうとした手を引く。ずきんと鋭い痛みがソルの胸に走った。

 

「だ、だいじょう……ぶ?」

 

 ソルが漸く振り絞った声は掠れていた。

 

「う、うん。もう大丈夫」

 

 少女はおずおずと返事をし、地面に座っていたことによりローブに付着した汚れを手で払い、ゆっくりと立ち上がる。それから、顔色を伺うようにこわごわと視線をソルの瞳に合わせる。

 交差する翠と紅。二人はどちらかと話し始めることもなく、ただ静寂が場を支配する。お互いに性格が内向的で、他人と会話することが苦手なことが災いした結果であった。

 

「あ、あの……そこをどいてもらってもいいかな? 君がドアの前にいると僕が家の中に入れないんだ……」

 

 静寂を破ったのはソル。彼はこのままでは埒が明かないと思い、意を決して切り出した。

 少女はソルの指摘にハッとすると、すぐさまドアの横へと移動する。髪が動きを持ってさらさらとたなびき、ソルの鼻腔に柑橘系の香りが広がった。

  

「その、えっと……ごめんなさい」

 

 少女は気まずそうにソルに頭を下げる。 

 

「ううん、気にしなくていいよ。ところで、どうして君はドアの前で眠っていたの?」

 

 ソルの質問に少女は押し黙り、顔を俯かせる。ソルとしては素朴な疑問を尋ねたつもりだったのだが、予想外の反応に何かまずいことを聞いてしまったかと質問を脳内で反芻させる。しかし、特段変わったことは聞いておらず、ソルの表情は胡乱なものとなる。

 

「も、森の中で迷子になったんです……」

 

 未だ蒸気の収まらない少女の頬はほんのりと赤い。指を交差したりそれを解いたりと遊ばせ、唇を丸め込んで自信なく話す様子は小動物のような弱弱しさを放っていた。

 

「迷子に? 一人で森には入ったのかい?」 

 

「お父さんと二人で入りました……お母さんが病気だから、薬草を摘みに来ていたんです。でも私、森の中で綺麗な蝶々を見つけて、追いかけていたらお父さんがどこにも見当たらなくなっていて……」

 

「お父さんを探しているうちにこの家を見つけた、と?」

 

 少女は小さく首肯する。

 なるほどなとソルは深くため息を吐き、破顔して少女を見やる。少女の外見から判断するにソルとは三つ以上年が離れているだろう。大きく真ん丸とした瞳は先ほどよりも紅い輝きを増しており、間近で見ていると眩いほどである。

 少女の説明には至らない点が多いが、嘘は言っていないようにソルには思えた。故にソルは少女が己の居場所を探るために何者かが遣わした偵察であるという考えを捨て、一人の迷子の少女として扱うことにした。

 

「君が迷子なのは分かった。だけど、僕は君を森の外に送り届けてあげることはできないよ。僕にはこの家の近くから出るわけにはいかない理由があるんだ……」

 

 ソルの言葉に少女の表情は曇る。

 ソルには少女が考えていることは何となくではあるが分かっていた。森の中で見つけた家の主――つまりはソルに森の外に連れ出してもらおうという算段だったのだろうと。けれど、ソルは少女にも言った通り家の近辺を離れることができない。それは彼には鬼の血という足枷が付いているからではなく、長年の保守的な思想から生じる未知への恐怖――森の外への畏怖が原因だ。

 

 ソルの両親は屡々彼にこう言っていた。

 

『 森の外に出れば死ぬ』と。

 

 幼きソルには両親と、森での生活のみが価値判断の基準であり、己の脳内で反芻しきったその言葉は彼の根底に染み付いている。

 

 森の外の世界は怖い。

 森の外の人間は怖い。

 森の外に行けば死ぬ。

 

 強迫観念のように植え付けられた思想。それは鬼の血とは別にソルを縛る鎖であった。

 

「そう……ですよね」

 

 少女は苦虫を噛み潰したような顔でそう呟き、目尻に貯めた涙を頬に伝わせる。彼女の瞳は輝きを強め、紅玉と遜色がないほどの光沢を放つ。

 

 ソルの推測は的を得ていたようで、少女はソルの手を借りて森を抜け出すことを最後の光として見ていた。そのため、その光が絶たれた時の絶望は大きく、押さえつけていた感情が涙と共に堰を切ったように溢れだしてしまった。

 

「あ……その……役に立てなくてごめん」

 

 ソルは良心の呵責に苛まれ、少女に対しての申し訳なさが胸の内で溢れんばかりになる。森の外まで送ってあげようかという考えが脳裏に過ぎるが、感情論で動いてはいけないと理性が自制する。 

 泣きじゃくる少女をソルはただ眺めることしかできず、何か慰めの声を掛けようとするもやはり気の利いた言葉が浮かんではこず、黙ってしまう。

 

「森の外に送ることは出来なくても、その近くまでは送るよ」

 

 ソルの口は自然と動いていた。錆びた歯車に潤滑油を注いだように、滑らかにその言葉は出てきた。

 言い終わったと同時にソルは己が何を言ったかを理解し、しまったと口を手で覆う。しかし、時は既に遅く、少女の腫れた紅い瞳はソルを上目遣いに見ていた。年齢不相応な媚態を含んだその瞳にソルは射抜かれ、言葉を失う。前言撤回すべきだと理性が彼の中でしきりに叫ぶが、感情に支配された心は聞く耳を持たない。

 

「付いてきて、案内するよ」

 

 ソルは少女にそう伝えると、森の中へと早足に入っていく。少女はそれに慌てて付いていく。

 木々によって陽光が遮られ、橙の世界は黒へと姿を変える。その変化を受けて冷静になったこともあり、ソルの理性が漸く感情に勝り、後悔の念が波のようにソルへと訪れる。

 

 ソルと少女は初対面の、なんの関係もない赤の他人だ。ソルが考えていたように少女を森の外へと送ることは己の命を確率は低くとも危険に晒すことになる。それは森の外の近くでも同じことで、ソルからすれば少女など知るかとほおっておいて家に入ってしまえばよかったのだ。しかし、内に沸き立つ未曾有の感情はソルを簡単に操り、耳心地のよい言葉を流暢に話させた。己を制御できないことなど合理的に生きてきたソルには初めてのことであり、混乱が彼の中では生じていた。

 

 森には人が通ったことによりできた人口の道がある。少女と彼女の父親のように薬草や果実を採取しに来た人々はその道を通り、迷うことなく帰途につく。故にソルはそれを見つければ、少女は森から抜け出させると考えた。

 ソルは人口の道に見覚えがあった。何故なら幼い頃父親と果実を取りに来ていた時にその道の近くに行っただけでこっぴどく叱られた経験があったからだ。

 普段全く怒らない温厚な父親が怒鳴ったことはソルにとって一種のトラウマであり、それが幸をそうしてか道の存在を数年がたった今も覚えていた。

 

 

 少女は道中不安を隠すかのようにソルの服の袖を握っていた。それはソルにはとてもむず痒く、気恥しいものであった。頼られているという喜びと、歩く速さを調節しないと少女が追いつけなくなり服を引っ張る力が強まるので、それを意識しなければならないという億劫さ。加えて、異性と共に歩いていることを実感することで生じる酸味の効いた甘い感情。それらがミックスジュースのように混ざり合い、ソルを平常心ではいられなくする。

  

「見つけた……何年ぶりだろうな」

 

 家から歩き始めて約一時間。ソルは記憶と同じ道を見つけた。ソルは以前と比べて道が小さくなっているように思うが、自分が大きくなり相対的に道が小さくなったのだと理解する。

 

「着いたん……ですか?」

 

「ああ。目の前の道を沿って歩いていけば森から出れるはずだよ。ここからは僕は送ってあげれないけど、一人で大丈夫だよね?」

 

 少女は力強く頷き、ソルの服の袖から手を離して礼をすると、トコトコと道へと駆けていく。

 ソルはその姿に幼き頃の自分の面影を重ね、感傷深く微笑んで踵を返す。

 

「また、家に遊びに行っても……いいですか?」

 

 背後からの声にソルは立ち止まる。

 ソルはうんざりしていた。少女という存在が己の感情を揺さぶり、人に見られる危険のある人工の道まで来てしまったことに。これ以上少女と関われば、これまで守ってきていた信念が崩れてしまうという予感がソルにはあった。

 ソルは少女のお願いを断ろうと少女の方へと振り返り、口を開く。

 

「ああ、勿論だよ」

 

 紡がれた言葉はソルの思いと正反対のものであった。喜悦と驚嘆が交差し、晩秋にしては肌寒い風が二人のに吹く。木々の葉は歌うように音を立てて揺れ、木に止まっていたヒガラは鳴き声を上げて飛んでいく。

 少女はソルに手を振り、走り去る。立ち尽くすソルは頭を掻きながらそれを見やり、口から時季外れの白息を吐く。

 

「調子狂うな」

 

 ソルは踵を返して足取り重そうに家へと帰る。憂鬱気な声音とは対照的にその表情はどこか清々しかった。

 

 

 

 

 

 

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