憂鬱の千尋   作:遥野みしん

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「もう、いい加減にして!」

 女の声にも構わず男は食い入るように前だけを見続け、車は激しい揺れに見舞われながら木々の中を進んでいく。

 葉や枝がガラスにぶつかって、がさがさと音が鳴る。音が鳴るたびに女が声をあげるのにも、車の揺れに合わせて体が一瞬浮きあがるのにも、千尋は参っていた。

 やがて、空を覆う木々の終わりが見えた。

 陽の光の下には、先ほど千尋が見たものと似た石像が立っている。その奥には赤い壁、トンネルが口を開けていた。

「おお……トンネル!」

 男がブレーキを踏む。車は音を立てながらも、なんとか石像の手前で止まった。体が前にいこうとするのをシートベルトに押さえつけられた千尋は、ぐったりとしながらもシートベルトを外す。

「行き止まりよ、引き返しましょうよ」

「行き止まり、なのか……?」

 二人をよそに、千尋は車のドアを開けて外へ出た。一瞬だけ煩わしい声が聞こえた気がしたが、バン、とドアを閉めるとそれも聞こえない。

 風が吹く……。無数の葉が揺れ、掠れる音の中で、千尋はぐっと伸びをし、くんくんと自然の匂い、そして遠い昔の、懐かしい匂いを嗅いだ。

 昔の思い出は千尋にとっていいものであれば、よくないものでもある。嫌なことを思い出す前に千尋はそれを中断して、トンネルの方へと歩きだす。

門みたい……。

 瓦屋根の赤い壁の建物に、穴が開けられたみたいにトンネルがあった。

 屋根のすぐ下に看板が掲げられ、文字が書いてある。

「屋、湯……油?」

 千尋は首を傾げた。

 コオ……、と深い呼吸のような音がして、トンネルに、葉が吸い込まれていく。

 トンネルを覗くと、真っ暗な闇の中、遠くに小さく光の穴が開いていて、葉っぱたちはそこに向かって泳いでいるように見えた。千尋も、葉っぱと同じように、吹く風に背中を押されているように感じていた。

私を歓迎してる……?

千尋は戸惑いながらも、一歩、足を踏み出した。

「待って、千尋ちゃん!」

 車から男が飛び出し、女も後に続く。

 待たなきゃいけないの……? どうして?

待ったらどうなるの? この先に行けなくなる……? 

千尋は身震いした。

それは嫌!

「二人は車の中で待ってて!」

千尋は声をあげて駆けだした。

「こら、言うこと聞け!」

「千尋ちゃん、戻ってきて!」

 二人の声がトンネルに反響して千尋をいらだたせる。ああ、うるさいうるさい! 千尋は舌打ちして、トンネルの向こう側へと走った。

 ふいに、千尋はトンネルの中の風向きが変わったことを感じた。何かがおかしいと、立ちどまる。

「千尋ちゃん!」

「こら、戻ってくるんだ!」

間違いなく、何かが起こる。だが、不思議と千尋の胸に不安はなかった。これから起こる何かが、自分に危害を及ぼすとは全く考えられなかった。

瞬間、ごうごうと音を立てて、トンネルが風を吐きだした。風は千尋をよけているように、千尋の周りだけは、束ねた本流からあぶれたか、緩やかで心地のいい風が吹いていた。

背後では人が叫んでいるが、風の音が大きくて、何を言っているかは聞き取れない。聞かなくていい、風がそう言っているかのようだった。

そうしてひときわ強い風が吹くと、辺りはしんとなった。地面には、暗くても緑とわかる鮮やかな葉が散らばっていた。背後、トンネルの外から、カサカサと乾いた葉音が鳴った。千尋は振り返った。

 あ……と息をのむ。

 トンネルの入り口には、新たに二つ、あの、奇妙な石像が立っていた。

 一つは怒鳴っているように口を大きく開けて拳を掲げ、もう一つはめくれた唇から歯をのぞかせて、腰に両手を当てている。たぶん、怒っているのだと思うが、どちらも丸みを帯びていて、小さな子供のように可愛らしい。二人は大人のはずなのに……。

ああ、なんて滑稽なんだろう!

 千尋は喉から漏れる笑い声を手で抑え、くすくすと笑う。

 やっぱり、私を歓迎してくれてるんだ……。

 散らばった葉は冷たい地面と擦れ、トンネルの奥へと這っていく。トンネルはまた風を吸い込み始めていた。

 千尋もまた、歩き出す。

 トンネルの奥へ、その向こうにみえる光へと。

 

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