物質が存在しないはずの気泡部分を浮遊する惑星ならぬ惑星「ブラフマン」
そこには彼とも彼女ともつかぬ人物がいた。
この宇宙に神が存在するならば
私を如何に創造したのだろうか。
この宇宙に神が存在するならば
私の姿をどのようにしたであろうか。
この宇宙に神が存在するならば
何故この地に私一人だけを創造したのだろうか。
私がこの宇宙に創造されて与えられたモノはこの星と幾ばくかの知識だけだ。
私は創造されて間もなくまずこの星に名を与えた。
星の名は「ブラフマン」
真理・理(ことわり)を支配する者の名だ。
そしてこの星に住む者は私一人。
この星にあるもので暮らしていける。
この星の大きさはさほど大きくない。
私が歩いて1周するのに地球の単位で言うところの8時間程度。
長さにしておよそ40km。
つまり直径は10km強ほどしかない。
幸いにして私には他の星の知識が与えられている。
この星が極端に小さいというのもこの知識がなければ理解できなかった。
そう…ここには知識だけがある。
真理を支配し、真理と一体であるブラフマン。
そうしたら私は一体何者か。
ブラフマンと通じることのできる唯一の存在「アートマン」に他ならない。
周囲に一切の星が存在しない空間に浮かぶちっぽけなブラフマンとアートマン。
もっとも近い星ですら光の速さで数百万年かかる場所にある。
仮に宇宙に他に文明をもつ星や生物がいたとしても遭遇することはあるまい。
私とこの星は永遠に孤独なのだ。
この星には昼も夜もない。
そもそも昼と夜の概念があるのは恒星を周回する惑星だけだ。
いわばここは常に夜空である。
幾億もの星々が見えるがどれも遠い。
決して私と交わることの無い星たち。
常に代わる代わる見えるこの星たちを見る度に孤独を再確認させられる。
哀しいかな。
私には同類の友がいない。
哀しいかな。
私には仕事がない。
哀しいかな。
哀しいかな。
哀しいかな。
言葉ならぬ言葉でブラフマンは語りかける。
私たちは唯一絶対の真理だと。
ではその真理は哀しいものなのか。
ブラフマンは答えない。
ブラフマンとアートマンは真理を体現するもの。
だが私たちは見ていない。
宇宙という全体の真理を。
ブラフマンは言う。
私たちが真理だと。
では何故こんなに哀しいのか。
私は答えを知りたかった。
ブラフマンの言う通りであれば答えは私自身と言うことになる。
だが、この哀しみは私自信から溢れ出す。
外的要因が私にそうさせるのだと考えた。
そして私は与えられた知識とこの星の物質を使って宇宙を観測する道具を作った。
宇宙の観測を始めた私は更なる哀しさを味わった。
知識で知っている宇宙像は半径約100億光年の巨大な球体の空間。
数字で語るのは易しいがこの数字の重みを私は体感していなかった。
そう、哀しみの源は体感だった。
それと同時に別の哀しみが溢れ出す。
私たちは…なんてちっぽけなんだろう。
宇宙という存在に対してあまりに小さく、
あまりに切なく、
あまりに刹那の間しか存在できない。
小さすぎる存在が真理とは滑稽に過ぎる。
するとブラフマンはまた言葉ならぬ言葉で語りかける。
「私たちは真理である。」
と。
違うじゃないか!
そう思ったとき観測装置に映ったのはある惑星の生命の営み、生命の循環だった。
そしてこの宇宙の星々も循環していく営みを繰り広げている。
ああ…そういうことか…。
ブラフマンの言っていたことがようやくわかった。
そして、最終的に「それ」が答えだとわかった。
ブラフマンとアートマン
輪廻転生の輪から解脱し宇宙の真理と一体となった者。
あるときの姿は仏陀。
あるときの姿は転輪聖王。
解脱は哲学の完成。
解脱は生命の死。
私の哀しみは生けるものとして創造されたものが解脱の存在に放り込まれたゆえの結果である。
解脱とは孤独。
必要なのはモノでもなく知識でもなくただ悟りだけである。
蛇足
蛇足:余計なもの
ブラフマン:インド哲学における宇宙の根元原理。真理。
アートマン:インド哲学において精神の最深部に存在する自我。転じてブラフマンを感じる自我の部分。超越的な力や感覚を示すことがある。
ブラフマンとアートマンを一体とし梵我如一と言う。
仏陀:仏教における悟りを開いたもの。仏教においては通常、釈迦を指す。
転輪聖王:インドにおいて理想の王のこと。転輪とはダルマ(法)の事で規律をよく守る王のこと。
輪廻転生:いわゆる生まれ変わりの連鎖のことだが、転じて現代では生命の循環を指すこともある。
宇宙の真理の側面の1つ。
解脱:輪廻転生の輪から脱すること。仏教ではすべての苦しみは輪廻転生の輪に原因があるとされるため解脱することで一切の苦しみから解放されるとされる。
ただしこの作品では逆説でとらえている。