今は使われなくなった古く寂れた廃ビルの一室に人影が複数あった。
廃ビルらしく塗装やコンクリートが剥がれ落ちガラクタが散乱している室内には似つかわしくないソファーが陳列されていた。
「今日の集まりはこれだけか。ま、仕方ねぇ」
ソファーに座っているゴーグルを掛けた男が他の2名に向けて語りかけた。
「八拳豪諸君……と言っても3人しかいないが気を取り直して言うぜ? 俺たちラグナレクは八拳豪を中心としてこの町で最大の勢力を誇る軍団となった。そして目下ラグナレク最大の敵対組織YOMIッ! 奴等は最近不穏な動向を見せている。その証拠に俺たちのシマで暴れているとの報告も上がっている」
彼は名は
ラグナレク八拳豪の一人、第四拳豪【ロキ】の名を冠する男である。
「ならちんけな弱小チームを掃討するよりもっとやることがあるんじゃないのかい?」
他二人の内一人がロキに意見した。
黒髪のショートカットにランニングシャツとジャケットを羽織ったボーイッシュな女は第三拳豪【フレイヤ】
ラグナレク最強の女戦士はロキの話に興味を持たず一枚の写真を見つめていた。
「だからこそだ。ラグナレクの急務は縄張りの地盤を強固にすることにある。この町の殆どの勢力は我ら八拳豪によって駆逐した。残るは
「だが元はと言えばロキ、お前が柴 千春はバカでその子分たちもバカの集まりだと我々に言って野放しにしていたのだろう。つまりお前が奴等を甘く見て初期対応を間違ったのはそもそもの間違いじゃないのか?」
フレイヤの指摘が全くの言いがかりならロキは即座に否と言った。だがそう言い切れるほど、自身に落ち度がなかったとは言えないのが正直な心中であった。
「……奴等は全員バカの集まりだ。話し合いなんざ通用しねぇ。幹部の何人かに金や女を握らせて内部分裂を図ろうとしたが全員が断りやがった。リーダーをあそこまで祭り上げるとは、揃いも揃って狂人だ」
初めて柴 千春の名を知った時、ロキには自信があった。伊達にラグナレクの参謀を担ってはいないのだ。暴走族など所詮は社会に弾かれたドロップアウトの不良どもの集まりだと思っていた。
だが違った。
柴 千春率いる暴走族はまるで強固な一つの軍団だった。こちらの用意した硬軟織り交ぜた工作を奴等は頑として聞き入れずその鉄の結束の前にはロキ自慢の策略ですら傷一つつけることはできなかった。
「おまけに柴 千春はかなりの腕前と聞く。お前の私兵も随分病院送りになったそうだな」
加えてロキの立場はラグナレクでも特殊であった。幹部とは言え参謀としてあれこれ指示を出すロキのことを快く思っている他の八拳豪など誰もいないのが実情だ。それでも彼が参謀としての地位にいるのは、彼の策略がどれも的を射ていたからであり、今回のようなミスはフレイヤとしてもロキに意趣返しができる格好の機会であった。
「なんならお前が行ってくれるかフレイヤ? お前と傘下のワルキューレなら……」
「悪いが遠慮させて貰う。私には他にやるべきことが出来た」
「バルキリーの敵討ちかい? 手元から離れていっても元部下は可愛いか」
お返しとばかりにフレイヤを嘲るロキだったが、当のフレイヤは気にも止めていなかった。
「勘違いするな。どんな理由があったにせよあれ敗北は敗北、敗けたアイツが悪い。私はただ八拳豪バルキリーを倒したと言う新白連合の宇喜田と言う奴に興味があるだけだ」
フレイヤは確固たる決意の眼を写真に写っている宇喜田 孝造に向けていた。その瞳の奥にはまるで猛獣のような猛りがあったが、それを外に漏らすほど彼女は未熟でもなかった。
「そーかいそーかい。ま、新白連合の方も俺がリサーチしとくさ。柴 千春の反省を活かしてね。
しかしなんだねぇ……八拳豪の集まりも悪いな。ハーミットとバーサーカーは相変わらず一匹狼だしトールは最近師匠を見つけたとかなんと言って相撲部屋に籠りきり、ジークフリートも放浪中でバルキリーは戦線離脱。まともなのは俺とフレイヤとあんたくらいだよな、
オーディーン、とロキに呼ばれた男は眼鏡をかけ直しフレイヤに向かった。
「フレイヤ、新白連合にはしばらく手を出すな」
「何故だ、リーダーが出るのか?」
フレイヤはオーディーンに鋭い眼を向けた。さながらそれは獲物を横取りされたような気分だった。
「手を出すな」
フレイヤとそれほど違わない年齢であろうオーディーンは、そんは高まったフレイヤの気を異に返さず改めて命令した。その口調はどこまでも暗く、重く、言葉そのものにオーディーンの意志が込められているかのようにフレイヤを黙らせた。
「……分かった」
重ねて言うがフレイヤは未熟ではない。
自分と相手の差がどれほどのものか、勝機はあるのか、それらを十分に理解したからこそ、フレイヤは無駄な争いを避けた。
「その代わりと言ってはなんだが、その暴走族とやらは私が処理しよう」
「リーダーが?」
オーディーンの発言に今度はロキが戸惑った。
「まぁ待ちなよ、大将がいきなり出張るってのは組織として……」
「ロキ、お前がその暴走族にどんな交渉を仕掛けていたのか私が知らないとでも?」
オーディーンの言葉をフレイヤにはなんのことか分からなかったが、ロキの表情を見て納得がいった。
いつも軽薄な薄ら笑いを浮かべている顔が面白いほどひきつっていた。
「……ッ や、やだなぁもう~♥️ 参謀としての立場がないって言いたいんですよ。でもリーダーがそこまで仰るなら楽させてもらいますよ」
会議が終わり各々が帰路につく中で、ロキは苦虫を噛み潰した顔で携帯で通話相手に幾つかの命令を矢継ぎ早に出しながらスクーターのエンジンをかけていた
「ああそうだ。柴 千春への誘引は打ち切りだ。見込みもないしな。いいや20号、裏切りは手はず通り準備を進めろ。俺も予定通りバーサーカーに取りかかる」
携帯を切ると同時にかかったスクーターに飛び乗りロキは笑みを浮かべながらアクセルを入れる。
「ラグナレクもそろそろ終わりだ。精々暴れてくれよな、新白連合さんよ!」
ロキたちが会議をしている頃、荒涼高校中庭では
「どうしたの刃牙くん?」
「んーーなんか良くないものが近づいてる気が……」
だが、その幸せ空間を平気で土足で踏み荒らす悪魔が存在する。その悪魔の名は────
「ヤッホー刃牙くん♥️」
「ゲっ……新島」
───新島 春男である。
この悪魔兼宇宙人の男が現れたことにより刃牙はため息を吐いた。
「お友達? 刃牙君」
「友達じゃない、宇宙人だよ。とびっきり悪魔の」
こんな奴と友達だと思われては堪らないと刃牙は梢江の問いに即座に否定した。当然梢江にはなんのことだかさっぱりである。
「う、宇宙人?」
もう一度大きなため息を吐いて刃牙は広げていた弁当をたたむ。
「ごめんね梢江ちゃん。今日はこれで」
「あ、うん。また明日ね刃牙君」
梢江も刃牙の気持ちを察しその場を離れた。
後に残った刃牙はあからさまに不機嫌な目付きで新島を無言で責めるが新島は心の底から罪悪感ゼロの表情でさらりと受け流した。
「悪いねぇ、邪魔するつもりはなかったんだが」
「なら今度はもう少し配慮してくれよな」
「いやーそれにしてもすみに置けないな刃牙君。さっきの娘、松本 梢江だろ? オレ様の学ランによれば周囲の評価はそれほどでもないがあれはか~な~り~の期待値を持ってる逸材だ。同窓会でいいオンナに化けてる典型的なタイプだ」
「それで! 何の用だい新島。俺と彼女をちゃかす為に来た訳じゃないだろ」
「ヒヒヒ当然……単刀直入に言うぜ。オレ様最近新白連合ってチームを作ったんだ。それに入らない? てゆーか軍門に下らない?」
「断る」
即決であった。
「え~? 中学時代からの仲じゃないか~」
「そりゃあの頃はお前がいてくれて色々と助かったよ。強い奴の情報とか交渉とかさ。でもそれとこれとは話が別だ」
「あっそ。ならいいぜ」
やけにあっさりと引き下がった新島に刃牙は気勢を削がれた。刃牙としては話が長引きそうなら最悪この場から逃げ出そうとも考えていたのだ。
「お前にしてはバカに素直だな。ちょっと気持ち悪いぜ?」
「オレ様はゲーム好きだけどヌルゲーは嫌いなんだよ。お前が入ってくれりゃ怖いもの無しだがそれじゃオレの目指すものは手に入らない」
「ふーん。で? じゃあ俺にどうしろっての?」
「なーに簡単だよ。これからもお互い仲良くしようぜ?」
「仲間に入らないなら敵に回るなってか。新島、俺はお前が害を向けない限りこっちから手は出さないよ。その新白なんとかってのもそう。不可侵条約ってのはそう言うものだろ?」
刃牙の差し出した手を見て新島はニヤリと笑いその手を握った。
「オーケー、条約成立だな。じゃ、彼女にヨロシクね~♪ あっ、
驚くべきスピードと気色悪さでその場から四つん這いで去っていった新島に刃牙は何故お前がトーナメントを知っているのか聞きそびれてしまった。
「驚いた。アイツどっからトーナメントの情報知ったんだか」
本来トーナメントは世界でも指折りの徳川財閥が秘密裏に計画しているものでありネットを検索した程度では分かるはずがないのだ。
新島春男を一介の学生と定義するのも無理がある話ではあるがそれでもますます新島のことが分からなくなる刃牙であった。
「あっ ば、刃牙……」
昼休みの時間もそろそろ終わりそうなので教室に戻ろうとした刃牙であったがそこになんと宇喜田が現れた。
「これはこれは、宇喜田先輩じゃないですか。あの時のリベンジですか?」
「あ……いや、偶然だよ偶然」
宇喜田の言葉は本当であった。南條 キサラに辛くも勝利したものの、捨て台詞で殺害宣言をされた宇喜田のハートは硝子が粉々となるように砕け散った。
それ以降はキサラの言葉が頭を離れず修行にも身が入らない日々が続き今日もふらふらと学校を徘徊している内に刃牙に会ってしまったのだ。
「な~~んだ。てっきりこの前の仕返しかと思いましたよ♪」
「うっ……そ、そのな刃牙……この前はすまなかった。俺が悪かったよ」
「急にどうしたんですか? 不良らしくないですよ」
刃牙は以前宇喜田から感じられていた荒んだ気配が消えていることに気づいた。
「不良は少し前に止めたよ。……なぁ刃牙よ。ちょっと俺の話、聞いてくれないか?」
宇喜田はそこから自身とキサラとの間に起こったことを刃牙につらつらと打ち明けていった。冷静に考えればほぼ他人の刃牙に重大な悩みを話す理由は皆無であり話される刃牙も困ってしまうがこの時の宇喜田はそれほど追い詰められ冷静ではなかった。
柴 千春は内心殺気だっていた。
理由は単純明快であり近く徳川財閥の開く東京ドーム地下格闘技場で行われるトーナメントに参加することが決定したからだ。
自分の実力が通用するのか心配しているのではない。
「遂にあの人に俺の喧嘩を見せれる。待っててくだせぇ……花山さん」
花山 薫────
柴 千春のような不良にとっては神にも等しい不良の中の不良、最強の漢。
その花山もまたトーナメントに参加すると徳川財閥から聞かされた千春は即決で参加を決めた。
憧れの漢に自分が漢であることを証明する。
その為ならば死んでも構わない覚悟を千春は既に決めていた。
「トーナメントも近ぇし警察にパクられて参加取り消しも御免だ。チーム総出で走るのは今日で最後にしとくか……」
千春はチームが既に終結している河川敷に向かって名残惜しそうに呟くも、心の中では仮に捕まって手錠をはめられたとしても、千春は腕を切り落としてトーナメントに行く腹積もりであった。
千春のスタンスとしてトーナメントがあるからといってトレーニングなどは一切しない。走り込みや筋トレもしない。組み手などもってのほか。まして相手の分析や対策などあり得なかった。
────生のままに生き
────生のままに強くある
それが千春の尊敬すべき花山 薫と言う漢の生きざまであるが故に、柴 千春もそれを実践している。
しかしながら、花山はこの世に生を受けた瞬間から強者としてある一方で千春はただの体格が良いだけの一般人。
常人では決して真似できない強者の生き方を普通人柴 千春はあえて選択し苦難の道を進んでいる。その原動力は全て千春の並外れた精神力の成せる偉業であった。
この精神力こそただの暴走族たる千春が徳川財閥の目に留まりトーナメントに参加できた最大にして唯一の強みであった。
「へっ……今日はいい夜風が吹いてやがる。こんな夜に暴走しねぇ暴走族はいねぇぜ」
千春はタバコに火をつけハチマキを絞め直し河川敷に飛び降りた。
「おい、オメーら何処にいやがるんだ……?」
当然血気盛んな手下たちが集結していると思っていた河川敷は、夜の闇が広がるばかりで千春は辺りを見渡した。
「残念だが今夜の暴走は中止だ」
「……誰だ」
「君の名前は忘れてしまった……大変申し訳ないのだが君を家には帰さない」
現れたのはラグナレク、八拳豪の頂点に君臨する第一拳豪 オーディーンだった。
千春が眼を凝らすとオーディーンの背後には機動爆弾巌駄無のメンバーたちが大量に横たわっていた。
「や、野郎……ッ!」
「既に君の部下たちは全滅した。一度だけ降伏するチャンスをやろう。それがこれまでラグナレクに抵抗してきた君たちに対する私なりの誠意だ」
「降伏だぁ? なに言ってやがる。俺たちの世界じゃあな……大将がやられるまで勝ち負けはねぇんだよ」
「状況が理解できないほど馬鹿なのかい? 君と私の戦力差は火を見るより明らかだ。断言しよう、もし闘うのならば君は一撃で敗れ──」
「ウラァ!」
言葉を遮るように放たれた強烈な千春の右ストレートだったが、オーディーンは毛ほども焦らずにまるで羽虫をあしらうかのような動作で払い除けた。
「シッ!」
と同時にオーディーンは千春のコメカミに正確かつ強烈な掌底を見舞った。
「ッ…………」
千春は受け身も取れず後方に倒れそのまま動かなくなった。
「やれやれ……この程度の相手にてこずっているようではロキも所詮は凡人か」
オーディーンは興味を失った眼で倒れ伏した千春を一瞥し、その場から去ろうとした。
「待てよ」
オーディーンの足が止まる。
「……大したタフネスだ。今の打ち込みを喰らって意識を、まして喋れる奴はそうはいない」
オーディーンが振り返ると千春は既に立ち上がりガンを飛ばしていた。
「いい一発だったぜ。けど漢の喧嘩はやっぱこれだろ」
千春はオーディーンの前に右手を突き出し拳を握った。
「喧嘩だと? まさか君は今の一撃を喰らってもまだレベルの差に気づいていないのかい」
「しゃらくせェッ!」
千春は握った拳を振りかぶり再度オーディーンに殴りかかる。その構えは我流であり効率を無視した完全な素人のパンチだが、勢いだけならば大の大人をノックアウトするだけの威力があった。
「馬鹿め……ッ!」
「おッ!?」
一直線に突き進む千春に向けてオーディーンは強烈な気当たりを放った。
【気当たり】
己の闘気やオーラと呼ばれる物を放ち威圧感やフェイントを相手に与える技である。
達人級の武人ならば誰でも使うことができる技で並みの一般人ならば卒倒してもおかしくない気をオーディーンは千春に放ったのである。
気当たりによって怯んだ千春の拳をオーディーンは擦るように合わせた己の腕で捌くと同時に、その勢いを利用して打たれる掌底で仕止める算段であった。
「終わりだ【
「へッ───」
だがオーディーンには大きな思い違いがあった。
「舐めんなッ!!」
柴 千春はただの不良ではない。
こと意地をツッパルことに関しては恐らく世界一の不良、それが柴 千春である。
拳をいなされた千春は気当たりによる精神的な抑圧を即座に跳ね退けオーディーンの鼻っ柱向けて思いっきり頭突きを喰らわせた。
「がふッ!? くっ……貴様ッ」
これに面を喰らったのはオーディーンだった。
己の気当たりをまともに喰らっておきながら即座に反撃をしてくる人間など今まで彼が屠ってきた相手にはいなかった。
(私が……血、だと!? こんな素人に……ッ)
オーディーンは鼻から噴き出す血を拭い激怒した。柴 千春は明らかに武術の素人である。繰り出す打撃や佇まいからもそれは確かだ。
そんな奴の攻撃を喰らって無様に鼻から血を流している自分─────柴 千春以外は誰も見てはいない河川敷だと言うのにオーディーンは激しい恥辱に駆られ奥歯を噛み締めた。
「今のは中々のガン飛ばしだったぜ。だがその程度でビビってちゃあ族の総長が務まるわきゃねぇだろ!」
「……大した自信だな。右手を見てみろ」
「ん? ……おっ」
オーディーンの指摘で千春は自分の右手が肘から逆関節に曲がっていることに気づいた。
オーディーンは千春に頭突きを喰らったものの、瞬時に接触していた千春の右手の関節を外したのである。
当然だとばかりにオーディーンは勝ち誇るように笑みを浮かべた。
(暴力に耐性のある人間でも自分の体が壊れていく様を見るのは相当のストレスだ。どんな人間でも必ず弱気になり戦意は削がれる。闘争心の隙間に恐れが生まれ、恐れは敗北を引き寄せる。この暴走族も例外ではない。直ぐ様悲鳴をあげ後退る筈だ。
そこを自分は打ち、終わらせればいいのだ)
「さぁ、これで利き手はもう使えな────」
「それがなんだってンだァッッ!」
意外────
オーディーンにとってはあまりにも意外に千春は再度突貫した。
外れた筈の関節をまるで他人事のようにブンブンと振り回して此方に全速力で向かってくる千春にオーディーンは僅かながら足がすくむ感覚を覚える。
「ッラァッッ!」
「……ッ本当に大した度胸だよ君は! だがね、やはり君は素人だ!」
千春の右手はもう使えない。それがオーディーンにとっての純然たる事実であった。
(使えるのは両足と残った左手のみ。
そして此方に向けて走る奴の姿勢は間違いなく打撃姿勢それも上半身の配置だ)
千春が次に繰り出す攻撃は左ストレート
それがオーディーンの出した結論であった。
加えてオーディーンは自身周りに制空圏を張った。自身の間合いに侵入した攻撃を自動的に打ち払うオート迎撃システムはどんな不意打ちであろうとも反応できる代物だ。
千春が外れた方の右腕を振りかぶり打撃のモーションを取ったのを見てオーディーンは内心ほくそえんだ。
(素人なりに頭を使ったのだろうがバレバレのフェイントだ。制空圏を使うのも馬鹿らしいほどにな。
人間は無意識に患部を庇うものだ。外れた右腕では仮に当たったとしても大した打撃にはなるまい。いかにも不良らしい小賢しい手だがそんなくだらない手に私の武術は決して敗けん!)
オーディーンは勝利を確信し【交差撃墜】の構えを取る
「今度こそ終わ────!?」
オーディーンは仰天した。
虚の攻撃の筈の千春の右腕のストレートが勢いそのままに自分の眼前に迫ってきているではないか。
そんな筈はない──
きっと別の攻撃手段を繰り出す筈だと眼を凝らすも千春の右ストレートはそのまま右ストレートとしてオーディーン目掛け振るわれている。
「ブチかますぜッ!」
辛うじて発動した制空圏によって千春のストレートを受け止めるも想像より痛烈な打撃によって掌にはビリビリと衝撃が伝わる。
「まだまだイクぜーーッ!」
「なんて奴だ……外れた右腕で殴るだなんて!」
千春は今しがたのストレートで関節部位が赤黒く変色した右腕を更に振りかぶり猛烈な連打を至近距離からオーディーンの頭部に叩き込んだ。
制空圏と言えど所詮は使う武術家の精神が揺らげば絶対の防御システムも脆いものだ。千春の蛮行、暴挙、自殺行為とも取れる闘い方はオーディーンにとっては全く理解できない異次元だった。
何よりも目の前の不良から発せられる気当たりにも似た圧力が確実にオーディーンの精神に怯みを与えていた。
「オラ! オラ! オラオラオラオラァッ!」
(なんなんだ……何がコイツを此処までッッ)
この柴 千春の背負っている『誇り』『男気』『根性』などは、痛烈な打撃と共にオーディーンの肉体に打ち込まれていく。それらはオーディーンの凍ったどす黒い精神に僅かながらの反応を与えた。
「~~~~ッッ! いい加減に倒れろ!!」
オーディーン放った起死回生のカウンターは正確に千春の顎を捉え打ち抜きそれまでの猛攻が嘘のように河川敷の土手に転がった千春を見てオーディーンはようやく溜飲を下げる。
「素人風情が武術を舐めるからだ。体力や根性だけでこの私を──」
「……弱ぇな」
「───!?」
千春は倒れたまま夜空を見上げて今しがたのオーディーンの攻撃を分析していた。
分析といっても姿勢がどうのとか力の加減がどうのとかではない。
それは忘れもしない衝撃だった。
千春の脳裏には過去の不良グループとの抗争が思い起こされていた。
角材や鉄パイプを持ち襲いかかる不良たちを拳一つで殴りまくっていた時、突如として照らされたライトに振り返れば単車に股がった一人の不良が此方に突撃してきた。避ける間もなく単車と正面衝突し、後に千春の子分が語った話だがその時の千春は数メートルは余裕で越える程大きく吹き飛ばされ地面に激突したらしい。
「
だが千春にとってそのような九死に一生も許容範囲であった。
(何なんだコイツは……? 何故立ち上がる、何故立ち上がれる。実力の差は一目瞭然、奇跡など起こるはずもない。根性だとか気合いで闘っているとでも? バカな───!)
「分からないな……何が君をそこまで奮い立たせる?」
「……
「何だって……?」
「この俺の信念の為に俺は立ってんだ。そいつは眼に見えねぇが、確かにこの俺をここに立たせている。漢はそいつがあればッ 死んだって無敵だッッッ」
その千春の啖呵はオーディーンにかつて肉体的にも精神的にも敗北した一人の少年を思い起こさせた。
「信念……なるほど、信念か。君は……君は私が最も憎む男と少し似ているよ」
それはオーディーンにとっては消し去りたい苦い過去だった。自身が武術の道に入った動機であるかつての友人との思い出は、オーディーンの人生に絡みつき蕀のように彼の心に深く棘を射し込んでいた。
「あぁァ~~ん?」
オーディーンにはゆっくりと
「君を壊す」
柴 千春に覚悟があるならオーディーンにも覚悟はあった。真っ黒に変色した巨大な覚悟を、彼は今再認識し、目の前の男について考えることを止め、一人の闇の武術家と成った。
「やれるもんなら────」
千春には見えない。オーディーンが既に千春の懐に移動したことを。
千春には感じられない。オーディーンのジャブ気味の打撃によって既に胸骨が粉砕されていることを。
千春には分からない。オーディーンが心臓に向けて放ったトドメの貫手を、フードを被った謎の男によって止められたことを。
「はい、そこまで」
「けッ─────拳聖ェェッ!!!」
必殺の貫手を片手で止められたことよりも、何故この男がここにいるのだと言う衝撃がオーディーンを駆け巡った。オーディーンの知る限り、この男は弟子である自分が何処で野垂れ死のうが「あ、そう」と軽く片付ける冷徹な男だからだ。
「何故止めた……拳聖」
「お前、今この青年を殺すつもりだっただろ? やめとけやめとけ、達人でもないお前がやったところでまだ国家権力には勝てんぞ?」
男の発言はもっともだった。ここは日本、世界有数の法治国家である。殺人がどれだけ社会的に悪とされ、その犯人逮捕に国家がどれだけ本気になるかもオーディーンはよく理解していた。
「言いたいことはそれだけか?」
だが今オーディーンの眼は刃のように研ぎ澄まさた漆黒の殺意で満ちていた。
「敵は殺せ……それがあなたの理念のはずだ」
オーディーンは知っている。
善人ぶるこの男がどれだけの血にまみれているか。その人生が、生きながらにして最早戻ることのできない修羅道に陥っていることに。
だからこそ、自分が師と認めた達人なのだ。
「やれやれ、我が弟子よ。童貞を捨てるのはまだ早い。この青年も中々の逸材だが、それはここ一番って時まで取っておきなさい……ね♥️」
辛うじて意識のあった千春は、男が発したオーディーンの数百倍の気当たりによってその意識を手放さざるを得なかった。
オーディーンもまた膝を屈しながら男を睨むもそれだけしかできなかった。
「そろそろかな?」
男が大袈裟に耳を澄ますポーズを取ると、肩で息をするオーディーンの耳に、遠くからサイレンの音が聴こえてきた。
「救急車は私が呼んでおいたよ。お前も一応高校生なんだから今日はもう帰りなさい」
「……クッ」
その口調は穏やかだったがそれが師としての命令なのは先の気当たりで充分にオーディーンは理解し、黙ってその場を去っていった。
「さて……」
男────
「……暴走族君。我が弟子に良い経験をさせてくれてありがとう。あれは少々頭が堅いからね。師匠の私からお礼を言わせてくれ。君の名は知らないが、その勇姿は覚えておくよ」
キサラとの一幕を話している間、他人にとっちゃどうでもいいだろう出来事を刃牙は意外にも黙って聴いていてくれた。
「……てな訳なんだけれどもよ、すまねぇな。こんな話、赤の他人のお前に聞かせるもんじゃねぇわな。忘れてくれ」
「何ですかそれ。宇喜田先輩が落ち込む必要全然ないじゃないですかぁ?」
「あぁ?」
俺は少しイラっと来た。刃牙の顔は控え目に言ってかなりムカつく表情だったからだ。
「だってそうでしょ? その女の子は自分で闘いの、つまり
「お、お前なぁ~~俺はッ 俺はなァッ!」
「……しょうがないなぁ。これでも宇喜田先輩を気遣ってるんですよ? じゃあ少し宇喜田先輩に厳しめの事言いますね」
カッとなって胸ぐらを掴んだ俺の手を刃牙は蝿を払うように軽くあしらうと、底冷えするような強い瞳で俺を見た。
「……アンタがもっと強けりゃその女の子も
「……ッ!」
それは俺がもっとも言われたくない一言だった。
「甘ったれないで下さい。宇喜田先輩がどんな脅威からも全力でその人を守護り抜きゃよかっただけの話です。守りたい人を守る為に地上最強に成る必要があるなら俺は喜んで目指します。それくらいの覚悟が無きゃ絶対に手に入らないんですよ。
諭すように俺に告げる刃牙は怒っている様にも哀しんでいる様にも見えた。まるで自分に言い聞かせているかのように。
「ち、地上最強って……」
「ちなみに、俺は目指してますよ。地上最強をね。それが俺の
刃牙の眼は本気を訴えてた。俺をからかうとかビックマウスだとかじゃない。本気で地上最強に成ろうって眼だった。
「……いんや刃牙、お前の言う通りだわ。そうだよな、俺がもっと強けりゃ良いだけの話だよな。はは……なんだ、こんな簡単なことだったのか」
「つってもそれが一番大変なんスけどね!」
「だな! はははっ」
俺は笑った。刃牙も一緒になって笑った。
俺たちは
バキの新装版が発売されましたが、やっぱりと言うか流石と言うか板垣先生の恐ろしい画力で恐ろしいほど濃い表紙が描かれています。