私と彼はいつだって隣人だった。
私は女性で、彼は男性だった。
私の家庭は普通ではなく、私自身も普通の人間ではなく。
彼の家庭は普通の家庭で、彼自身も普通の人間だった。
私は魔法師として育ち。
彼は一般人として育った
運命としか思えないほどの正反対の境遇。
だからきっと、私は真直ぐ平穏に育ったのだろう。
だからきっと、彼は静かに狂っていたのだろう。
***
「誰!?」
壬生先輩の声に反応して、私はその場に立ち上がる。
一連の動作に細心の注意を払った私の姿は、多分力が抜けて倒れたという事実を隠していたはずだ。
「司波君……」
壬生先輩は驚愕の顔を浮かべた後、神妙な表情で僅かに振り返り、ツクヨミさんと特別閲覧室へと繋がる扉を一瞥する。
その姿を見たお兄様は何かを察したのか、ため息を吐きながら口を開いた。
「扉の向こうには誰もいませんよ。……そうだろ? ツクヨミ」
「……え」
またも壬生先輩は驚愕の顔を浮かべ、今度はどういうことかと言わんばかりの視線をツクヨミさんに向ける。
この状況に至って、私も壬生先輩に何が起きたのかが解った気がした。
おそらく、テロリストと行動していた壬生先輩は、特別閲覧室の前でツクヨミさんの妨害に合ったのだ。
そして何らかの理由から、壬生先輩をこの場に残す事を条件にテロリストを扉の向こうへ通した。
しかしツクヨミさんは、扉を閉じた後、空間置換でテロリストを別の場所に移動させたのだ。
特別閲覧室の扉は一つだけ。
ツクヨミさんの能力は、他の人に察知されにくい能力。
きっと壬生先輩は、扉の向こうでテロリスト達が作業していると思ったからこそ。
何とか時間を稼ぐか、或いは、どうにか誤魔化すなどしてやり過ごそうと考えていたのだ。
だからこそ、扉の向こうに誰もいないという事実を突きつけられた故の驚愕なのだ。
そんな壬生先輩の視線に答えるように、ツクヨミさんは口を開く。
「私は通っても構わないと言っただけで、その後何もしないとは言ってませんよ」
そう語るツクヨミさんは笑顔を浮かべている。
その表情を見た壬生先輩は顔色を失い、通路の壁に凭れ掛かる。
当然だ、状況だけ見れば、壬生先輩は敵に囲まれているに等しいのだから。
そして、そんな壬生先輩に救いの手を伸ばしたのは。
「選ぶのは貴女ですよ、先輩」
ツクヨミさんだった。
相も変わらず、笑顔を浮かべている。
その言葉の意味は分からなかった。
きっと私達がここに来る前に何らかの会話があったのだ。
「……っ!!」
そして壬生先輩は、何かを覚悟して動き出す。
右腕を向け振り下ろすと、その手から投げ落とされた物が床に当たり、周囲を煙で包みこんだ。
光と音で動きを封じるスタングレネードではなく、唯の煙幕。
魔法師にとっても、それは唯の煙幕だが。
そこにとある物が加わると、スタングレネードを遥に超えるものになる。
アンティナイトによるキャストジャミングだ。
しかし、今の私の実力なら、その中でも魔法を行使するのは難しい事ではない。
誰かが走る音が聞こえる。
僅かに感覚が狂わされているのでピンポイントでの照準は出来ないが、広範囲の魔法を使えば問題ない。
廊下に展開される術式。
そしてその術式は、発動前に大量のサイオン波によって消し飛ばされる。
私とお兄様の横を、誰かが通り抜けた。
軽いため息を吐いて、私は煙幕を収束させて空気中に作ったドライアイスの中に閉じ込めた後、彼に語り掛ける。
「どうして止めたのですか? ツクヨミさん」
「私も射程範囲内だったからですよ」
圧縮されたサイオンをイデアを経由せずに対象物に直接ぶつけ、そこに付け加えられた起動式や魔法式等のサイオン情報体を吹き飛ばす超高等対抗魔法。
それはお兄様の得意とする魔法であり、ツクヨミさんも使える
並みの魔法師が一日かけても絞り出せない程の大量のサイオンを必要とするその技を、彼も使うことが出来る。
ただお兄様と違って、彼は短時間に何回も使うことが出来ない。
しかも一度使えば、少しの間だけ他の魔法の使用に支障がでてしまい、逆に他の魔法を一定時間使用した後では
彼にとって、それは切り札にすらなりえない物のはずだった。
相も変わらず、ツクヨミさんは笑っている。
彼がどういう人間なのか理解したのは、長い付き合いからしてみればつい最近の事なのだろう。
それでも、私は彼の事を知っている。
今だからこそ判る。
彼は嘲笑ってはいない。
微笑んではいない。
面白いからと彼は笑わない
彼の笑顔は作り笑いだ。
きっと誰も彼の笑顔を
だけど
人は嬉しいときに笑うのだと体現するかのように。
彼は嬉しいときにしか笑わない。
今の彼もそうだ。
一人称が『私』なのも、敬語を使うのも、賢者か道化のような口調も。
それは彼なりの目上の人に対する態度ではない。
彼の妹、文香ちゃんの真似をしているだけだ。
彼が使った魔法は、怪我を負わせるようなものではなかった。
もっと言えば、彼がその気になれば、あの程度の魔法なら自分だけ影響を受けることなく無効化出来たはずなのだ。
そして、ツクヨミさんは語りだす。
「良かったのかい、彼女を取り逃してしまって」
「逃がしたのはお前だろ」
「あの『ルーチン』は必要な行為だったんだよ、彼女にとって」
『ルーチン』
決まった一連の動作という意味として使われる言葉。
しかし、今の状況下で出てくる言葉としては、違和感を拭えない言葉。
間違いなく、彼が今回の事件の真相を把握しているからこそ選んだ言葉なのだ。
「ツクヨミ、教えてくれないか?
今回の事件について」
「聞く必要があるのかい? 大体は君も分かってるんじゃないかな」
「……ブランシュ、か」
お兄様の答えに対し、ツクヨミさんは肯定するように見つめ返す。
そしてツクヨミさんは左手を顎に当て、人差し指と中指で口を隠すようにして頭を傾ける。
その顔は先程までの作り笑いではなく、いつもの無表情に戻っていた。
彼がどういう人間なのか理解したのは、長い付き合いからしてみればつい最近の事なのだろう。
それでも、私は彼の事を知っている。
だからこそ、彼が何を考えているのか、私は察してしまった。
「……
「違うのか?」
「違います」
誤字報告ありがとうございます。
遅れてしまい申し訳ありません。
前編と後編に分けると前回書きましたが、あれは嘘ではありません。
予告に反してしまっただけです。