黒絹の皇妃   作:朱緒

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第80話

 十六日には彼女は治療室から病室へと移動となり、看護師が付き添い、キスリングたちが自然に彼女が目を覚ますのを待った。

 

―― ここは……

 

 窓から差し込む、一週間ぶりの日差し。

 冬らしい透き通る、白に近い陽光を浴び目を覚ました彼女は、当然のことながら自分がどこにいるのか理解できなかった。

 見覚えのない天井に、何となく笑みがこぼれたが、徐々に意識が浮上し、

「……いやぁぁ!」

 最後に見た光景を思い出して、絶叫を上げた。

 もはや目の前には存在しない恐怖から逃れようと、ベッドの上で暴れる。

「ジークリンデさま!」

 出入り口で待機していたキスリングとリュッケが、暴れる彼女を押さえつけた。

 現状が一切分からない彼女は、自分を押さえつけているのが誰なのか理解できず、髪を振り乱し悲鳴を上げ続ける。

 助けを求めることも、意識を失うことも出来ず、ただひたすら暴れもがきながら、混乱の渦に溺れてゆく。

 ベルタから連絡を受けた主治医が、急ぎ駆けつける。

「右足を押さえて」

 キスリングは彼女の上半身を抱き込み押さえつけ、リュッケが両足首を掴んでいた。主治医の指示にキスリングは左肩を乗せるようにして彼女の体をベッドに押しつけ、右腕で暴れてあらわになってしまった右太ももを、動かないよう掴む。リュッケはそのまま。主治医は彼女の足に鎮静剤を打った。暴れていた彼女の体から力が抜け、再び意識を手放した。

「意識を失う直前の記憶を、取り戻されたのでしょう」

 同じく部屋にいたが、全く動かなかったファーレンハイトに説明をする。

 彼女が最後に見た光景は、リヒテンラーデ公の首を持ったロイエンタール。出来ることならば信じたくはない光景だが、充分にあり得ることだと ―― 彼女は知っていたがために。

 

**********

 

「あんな悲鳴を聞いたのは、初めてだ。俺の選択は間違っていたのかもしれないな」

 意識を取り戻し、暴れる彼女を前にしてファーレンハイトが駆け寄ることができなかったのは、狂ってしまうのではないかと思わせる程の叫びが原因。

[私としては、選択は間違っていないと言わせてもらいますよ。ジークリンデさまが亡くなるなんて、考えただけでも嫌です]

「そうだが……」

 彼女が意識を手放したあと、ファーレンハイトは軍病院を出て、容態を知りたがっていた者たちに、直接「意識が戻ったこと」を告げて回り、また軍病院へと戻ってきたのだが、彼女の病室へは向かわず、フェルナーの部屋へ。

[最後に見た光景が、帝国宰相の生首持ったマールバッハ伯爵ですよ。そんな悲惨な情景を網膜に焼き付けたままなんて]

「そうなのだろうが」

[ところで、今はどのような状態ですか?]

「意識を取り戻し、主治医が病院であることと、リヒテンラーデ公が死亡したことを伝えたら、落ち着かれたそうだ」

[それは良かった。それで、退院まで事情を伏せるつもりですか?]

「ああ」

[そうですか。ところで、ファーレンハイト。階級章、間違ってますよ]

 フェルナーの元へとやってきたファーレンハイトは、前日までとは階級が変わっていた。

「誰が間違って、上の階級の章をつける」

 面白くなさそうに、かなり疲れた笑いを浮かべて頭を軽く振る。

 上級大将に昇進したというのに、全く喜んでいるような素振りはなく、実際当人も喜んではいなかった。

[ということは、昇進したんですか。おめでとうございます。それで、なんで?]

 中将から上級大将まで、一年も要しておらず、また目立った武功もない。

「ブラウンシュヴァイク公がな……」

 今回の出世は、落ち着いたブラウンシュヴァイク公が”ジークリンデを守るには、上級大将の地位が必要だ”と考えて、軍務省に推薦を挙げてきたのだ。

 予備役とはいえ元帥であるブラウンシュヴァイク公の推薦ともなれば、無視するわけにもいかず、帝国の混乱を収拾させるためという大義名分で、ファーレンハイトは昇進することになった。

[納得しました。しかし、早すぎる昇進ですね。色々と言われたりしません? 気にするような、あなたではないでしょうが]

「取り立ててくれた相手が死ぬたびに、昇進する……言い得ているな」

[誰が言ったのですか?]

「さあ? 誰かな。元帥になるときは、誰の命と引き替えになるのやらと、心配までしてくれた」

 遠回しに彼女のことを指しているのは明らかで、腹立たしさもあったが、無視をするのが最良と、薄氷ともたとえられる瞳に怒り一つみせず”ご心配痛み入る”と ―― 皮肉が口からこぼれるのは、押さえきれなかったようだが。

[そうですか。ところで、その少将の軍服は?]

 そんな上級大将の手には、少将の階級章がつけられた、新品の軍服。

 聞かれたファーレンハイトは、持っていた軍服の胸元から封筒を取り出し、目を通せとばかりに書類をまだ左目が開かないフェルナーにつきだした。

[門閥貴族を撃ち殺して昇進って、おかしいでしょう。降格ならあり得ますが]

 内容は昇進の通知。それ自体はフェルナーにとって、見慣れたものだが、この状況でこの辞令が下ることに納得はいかない。

「お前の昇進もブラウンシュヴァイク公の指示だ。公はお前がグントラムさまを射殺したことは知らないから、仕方ない。なにせお前は、伯爵邸の異変にいち早く気付いて、救出に向かって爆発に巻き込まれて大やけどを負ったことになってるんだからな。ブラウンシュヴァイク公が、昇進させてやろうと考えるのは当然だろう」

[そういうことですか]

 あまり回復したと感じられない指で文字を綴り、肩でため息をつく。

「まあな。とくに公は感情が昂ぶると、口を滑らせてしまう人だからな」

[そうですね……昨日から少将でしたか]

 シーツの上に置かれた辞令の日付を確認し、

「喜ばんのか」

[そっくりそのまま、お返しします]

 背もたれのようにしていたベッドを、元に戻すボタンを押して目を閉じる。

「退院まで預かっておく」

 ファーレンハイトは辞令を封筒に戻し、軍服とともに持ち去った。

 

**********

 

 意識を取り戻した彼女は、主治医から「リヒテンラーデ公が死亡した」ことだけは聞かされ、一応落ち着きを取り戻した。

 死亡したことを聞き、悲しいのだが、死亡したということしか教えてもらえないため、全く実感が沸かず、感情をどうして良いのか? 困り果てていた。

―― リヒテンラーデ一族はどうなったのかしら……やはり流刑と処刑でしょうか

 リヒテンラーデ公が死亡した時点で、一族はほぼ終わりだと、彼女は考えていた。

 原作からすると、そう考えて当然なのだが。

―― でも私がこうやって治療を受けて入院しているということは……でも

 彼女は一人で眠るには大きすぎるベッドに身を預け、こちらからは景色を楽しめるが、外側からは室内をうかがうことのできない、防弾ガラスの窓の外を眺める。

―― 父上とお兄さま、ご無事かしら。エルフリーデはきっと大丈夫ですよね

 助かっていたら良いなと楽観的に考えてみては、後で真実が残酷な場合はショックが大きいから、できるだけ楽観視してはいけないと自分に言い聞かせ……を繰り返していた。

 

 彼女と接触のある主治医や看護師、身の回りの世話をしてくれているベルタなども、リヒテンラーデ公の死以外は、けっして語ろうとしないので、不安が募っていった。

 ベルタは会話をしてくれないわけではなく、むしろよく彼女に話し掛けていた。

 シーツの肌触り、ネグリジェの着心地。部屋の温度、シャワーを浴びる際の湯温。欲しいものはないか? 食べたいものはないか? など。だが、重要なことは言おうとしない。

―― 私の部屋にやってくる人たちは、本当に知らないかもしれませんが

「靴を」

「はい」

 彼女はベッドから足を下ろし、ネグリジェの裾を少し持ち上げる。

 ベルタは踵がなく、甲の部分が大きく開いているバレエシューズを揃えて差し出す。靴を履き立ち上がろうとした彼女は、バランスを崩しかけた。

「よろしかったら」

 ベルタが差し出してくれた手を取り、

「窓の近くに行きたいのですが」

「はい」

 窓際へと近づき、枠に寄りかかるようにして外を、注意深く観察する。

―― 警備は多いような気がしますが、異常事態ならこの程度は普通でしょうし……

「夫人、椅子をお持ちしました」

「ありがとう」

 窓枠にしがみついている状態の彼女に、ベルタが椅子を勧め、彼女が腰を下ろすと、太い毛糸で編まれた、やや大きめな薄い灰色のカーディガンを肩にかけて、一礼して一歩後ろの下がった。

 彼女はカーディガンに袖を通さず、左手で右の前身ごろを掴み、外を見つめたが、結局なにも知ることはできないまま、

「ベッドに……戻ります」

 体が冷えてきたので、またベルタの手を借りてベッドへと戻った。

「はい」

 テーブルまで歩いて行く気にもなれず、ベッドの上ですら食事をするのも億劫に感じ、シーツにくるまり体を丸めて、飢餓に耐えた。

 肉体ではなく精神が、飢えていた。現状について詳しく知りたいという思いで。

 誰かが詳細を教えてくれることを待っていた。むろん、知りたくないという気持ちもあったが、とにかく誰かに会いたかった。

 

**********

 

 二月二十二日。

「明後日には退院できます」

 主治医は彼女にそう告げた。

「そうですか……」

 結局見舞いに訪れた者はなく、

「違和感がおありでしたら、些細なことでも教えてください」

「いいえ……」

―― 見舞いに来て欲しいわけではないけれど……忙しいのかしら。それとも、みんな別の人の元に行ってしまったのかしら。……寂しいけれど、大伯父上が居なくなったのですから、そうなったとしても仕方ないか。フェルナーはラインハルトのところに行っちゃったのかしら…………居るなら忙しくても顔見せてくれる筈だから……仕方ないか

 ”分かっていたけれど、寂しいわ”と「知るもの」特有と表現すべきか? ともかく思い込みで、自分の周りから誰も居なくなったのだと、手に持っていたハンカチを握りしめて心許なさを、必死に堪えた。

 主治医が下がると、ベルタがやってきて、

「明日、ファーレンハイト提督が、お越しになるそうです」

「……ファーレンハイト? 来るの」

「はい」

「何時に来ると?」

「午後一時と」

「そ、そう。ファーレンハイトが来るのですか」

 彼女が病室に移ってから初めて嬉しそうに微笑んだのを見て、ベルタはなにもしていないのだが、罪悪感と後悔の念に駆られた。

 それでも視線をそらさず。

「はい。仕事が忙しくて、来られなかったと聞いております」

 これに関し、半分は真実を含んでいる。

 彼女の意識が戻るのと前後して、ケスラーがオーディンを発ったため、帝都警備の半分を受け持つ者が必要となり、ファーレンハイトがその任を買って出た。

 彼女の病室を訪れない口実であったのは、言うまでもないが、それをとやかく言う者もいない。

「そうでしたか。オーディンに居たのですか。てっきり……」

 顔を出さないので、オーディンには居ないものだとばかり思っていた彼女は、ファーレンハイトが居ると聞かされ、フェルナーが乗り換えたのだろうと、勝手に予想していた時と同じような、切ない気持ちになった。

―― お別れかなあ。もしかしたら、私を流刑地に連れて行くのかも

 ベルタはそれ以上なにも言わず、

「明日着る洋服を、選びたいのですが」

 彼女もそれ以上、聞くことはなかった。

 

 クローゼットの前に立った彼女は、ハンガーに丁寧に吊されている衣類を、一着ずつ確認したのだが、ネグリジェ以外のものはなく、やや不思議に思ったが、不審は感じなかった。

「あら……」

―― 外に着て行く服が一着もない。ネグリジェやガウンだけ……明後日退院するのに。持ってきてくれるのかしら?

 洋服がないので仕方なく、洋服にも見えるデザインのコットンレース製のネグリジェと、ダークグレーのショール、それにパール色のバレエシューズを選び、ドレッサーの前で合わせて明日に備えた。

 

**********

 

 二月二十三日。

 ファーレンハイトは新無憂宮の一角で、カタリナが見繕った彼女の外出着一式が入っているスーツケースを受け取った。

「用意してあげたわよ、役立たず」

「ありがとうございます。そして、全く以てその通りにございます」

 貴族の洋服は、様々な形式がある。

 ファーレンハイトも知ってはいるが、万が一にも間違いがあってはならないので、カタリナに頭を下げて、ドレス、帽子、靴、バック、その他小物にいたるまで、全て選んでもらったのだ。

「認めればいいってわけじゃないわよね、役立たず」

 色鮮やかな赤い唇を歪ませて詰る。

「そうですね」

 スーツケースに手を乗せ、頭を下げたまま、ファーレンハイトは黙って詰られる。

「オーディンに居なかったから無罪……が、あなたたちの見解かしら?」

「そのように、取ってくださっても結構です」

「大事な時にオーディンに居なかったって、本当は最も役立たずだった……ってことよね」

 言われている側のファーレンハイトにも自覚はある。

「小官も同感です」

 カタリナは象牙の扇子をファーレンハイトの顎の下へ。”顔を上げろ”とばかりに力を込める。それに黙って従い顔を上げる。

「役立たずって、自覚はあったの。そうなの」

 カタリナはゆっくりと扇子を突き出し、先端が喉仏に触れるとぎりぎりと力を込めて、回転させた。

「……」

「捨てられないように、必死に縋りなさい」

 そう言いって喉仏を突く。そして黒と紫の妖艶なドレスを翻し、咳き込むファーレンハイトを無視し去っていった。

 ファーレンハイトは咳をしたままスーツケースを持ち上げて足早のその場を後にし ―― 軍病院へと向う。

 向かう車中の空気は当然重く、不自然な静けさが充満していた。

 本来であれば、部下が荷物を持つところだが、スーツケースに手を出す者はない。

 軍病院に到着したファーレンハイトは、まっすぐ彼女の病室を目指した。

 エレベーターを降り、額に手を乗せて少しばかり俯く。

 そうしていると、料理をのせたワゴンを押すベルタが病室から出てきた。ファーレンハイトの元までやってくると一礼し、

「伯爵夫人がお待ちかねです」

 そう告げて、エレベーターのボタンを押した。

「ほとんど手つかずのようだが」

 ワゴンに乗せられている料理は、きれいに盛りつけられたままで、手を付けたようには見えない。

「今日は入浴され、お疲れになったので、食事がいつもより進まなかったようです」

 ベルタはそう言い、エレベーターに足早に乗り込んだ。 

 

 病室に一人取り残された形になった彼女は、飲み干し空になったグラスを持ち、気怠い体をソファーに預けて、部屋の隅に見えるウォーターサーバーを見つめていた。

「失礼いたします」

 聞き覚えのある声だが、彼女はそちらを見なかった。

 素直に喜んでいいのか分からないこと、死に関する事実を知ることになること。それらが入り交じり、姿を確認することに恐怖を覚えたためだ。

「ファーレンハイト。久しぶりね」

「多忙にかまけて、不義理を働いたこと、お詫びいたします」

 ファーレンハイトが側にやってきたので、覚悟を決めて彼を見上げる。

―― 表情から、判断できないのよね……

「悪いと思ってる?」

「はい」

「じゃあ、水を汲んできて。喉渇いてるの」

「喜んで」

 彼女はグラスを手渡した。

 少し離れたファーレンハイトの肩と首の辺りを見て、彼女はテーブルの上に移動させていた卓上鏡を両手で掴み、自分の顔を映し、注意深く観察した。

「どうなさいました?」

 グラスをテーブルに置き、手を後ろに組む。

「もしかして私、一年くらい寝てたのかしら?」

 卓上鏡をテーブルに戻して、少し上を見るために小首を傾げるようにし、長い睫をしばたかせて尋ねた。

 胸の中程まで伸びた黒髪が揺れる。

「いいえ。一週間ほどで意識は戻られましたが。どうなさいました?」

「そうなの……昇進したのね、ファーレンハイト。おめでとう」

―― 随分と早い出世ですね。出世すること自体は、いいんですけれど

「ありがとうございます」

「残すは元帥ですか」

 彼女はコップに手を伸ばし、手に持ったのだが、

「そうですね……。ジークリンデさま、ご報告しなくてはならないことが」

 言われて、グラスから手を離し、両手を膝の上に乗せた。

 

「なにかしら?」

 

 わざとらしい ―― 彼女自身そうは思ったが、このように返事をすることしかできなかった。

 

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