やはりSAOでも俺の青春ラブコメはまちがっている。   作:惣名阿万

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11話です。よろしくお願いします。


第十一話:そしてそれぞれの前夜は更けていく

 トンガリ頭が騒いだ会議の翌日。

 昨日の会議から丸一日も経たないうちにボスの部屋が発見されたらしく、今日も例の中央広場で《第一層フロアボス攻略会議》が行われる。迷宮区でコボルト狩りをしていたところでアルゴからのメッセージを受け取った俺は、ユキノと共にトールバーナへ戻ってきた。

 

 広場へ入ると昨日と同じ場所にいたキリトが昨日と同じように手を振ってくる。隣には昨日と同じようにフードを被った女子がいて、昨日と同じように沈黙を保って……昨日と同じことばっかじゃねえか。

 

 ざっと広場を見渡すと、ディアベルやキバオウ、エギルといった連中が彼らを中心としたグループで談笑している。もうパーティーは結成済みということだろう。

 

 ふーん、とか、へー、とか思いつつ昨日と同じポジションに座ろうとしたとき、背中に何かが落ちてきた。

 

「ヘーイ! ハッチ! How are you!」

 

 重い柔らかい重い柔らかい重いイイ匂い柔らかいイイ匂い……ってそうじゃない。

 

「オイ、バカ! いきなり飛びついてくんじゃねぇ!」

「エー、このこのー。嬉しいくせにー」

 

 くそっ。嫌でも背中に意識を集中しちまうじゃねえか。こいつも万乳引力の持ち主か。

 

 しばらく暴れるパンにもみくちゃにされた後、不意に解放される。

 振り返ると、ユキノが呆れ顔でパンの首根っこを掴んでいた。

 

「やめておきなさい。下手にその男に触れたら腐食してしまうわよ」

「うー、ユッキの意地悪ー」

「おい、俺はゾンビじゃねえぞ」

 

 思わずつっこむ。するとユキノはさも驚いた風な表情を浮かべる。

 

「あら、ごめんなさい。目と性根が腐っているからつい」

「ぐっ……事実なだけに反論できねぇ」

 

 

 

 昨日の第一回目の会議の後、結局パンから逃れることができなかった俺たちはほとんどなし崩し的にフレンド登録をしていた。夕食の席で散々騒ぎ倒したパンと別れる頃には(特にユキノが)疲れ切っていたが、懐に飛び込んでくるタイプは突き放しきれないのか、ため息を吐きながらも最後には受け入れていた。

 

 俺? 俺はアレだ。陽乃さんに似てると思った時点でもう諦めたから。

 それに所詮フレンド登録なんてシステム上のもんで、実際に友達になるってわけじゃないからな。それ以上なんて尚更だ。俺はもう勘違いしない。しないんだからね!

 

 

 

 勝ち誇ったような笑みを浮かべるユキノ。

 怒られた猫よろしくシュンとするパン。

 

 タイプの違う美少女二人――それも女性プレイヤーの少ないこのSAOにおいて攻略最前線にいながら、十人中十人が認めるだろう美少女の二人は、当然ながらかなり目立つ。

 それがこんな広場の一角で騒いでいようものなら尚更だ。気が付けば、俺たちをねめつけるように見る視線の数は十や二十じゃ及ばないほどになっていた。

 

 そしてそのうちの一つ。

 最前列のトンガリ頭から向けられる視線は、好奇や嫉妬とは全く違う色を持っていた。

 その視線は昨日の会議の最中で向けられたものと同じ、悪寒のするものだ。

 

「はーい! それじゃあ、ちょっと早いけど、揃ったみたいだし、始めさせてもらいます!」

 

 と、そこでディアベルの爽やかボイスが響いた。全員の視線が前方に向かう。

 青髪の騎士は昨日と同じ堂々と立って全員の視線を受け止めていた。

 

 

 

 迷宮区の最上階でボス部屋を発見したのはディアベルのパーディーだった。彼らは複雑に入り組んだ通路の最奥に佇む扉を開け、中にいるボスモンスターの姿を拝んできたそうだ。

 

 ボスの名は《イルファング・ザ・コボルトロード》。

 第一層に数多くいるコボルト種の王だ。

 

 通常のコボルトはプレイヤーより小さいか、精々が同程度の体格なのに対し、このコボルト王は二メートル近い大柄に強靭な四肢を持っているとのことだ。亜人型モンスターのコボルトはプレイヤーと同じく多種多様な武器を使用するが、コボルト王の場合は斧と盾を装備しており、腰にも別種の武器を備えていた。

 また王というだけあって取り巻きには親衛隊もおり、こちらは《ルインコボルト・センチネル》という全身を甲冑に包んだ斧槍(ハルバード)使い。それが三体いたとのこと。

 

 そこまで聞いてなるほど、と感心する。

 腰のポーチから《ネズミ印》の攻略本を取り出し、全部で五つあるページを流し読みする。

 

 ふむふむ。取り敢えず、ここに書いてあることと同じか。

 なら、ベータのときとまるで違うってわけじゃなさそうだな。

 

「ん? ハチ、それアルゴの攻略本か? なんだか薄いけど」

 

 ふと、隣のキリトが訊いてくる。

 確かにこれはアルゴの略本にしちゃ圧倒的に薄い。それもそのはず――。

 

「ああ、なんせ対ボス用の号外だしな。って、あれ、お前持ってないの? アルゴのやつ、今朝から売りに出すって言ってたぞ?」

「なにぃ!?」

 

 大層驚いた様子のキリト少年。

 

 おかしいな。キリトともあろう者が、知らなかったんだろうか。

 確かに俺はいわば株主的立場だからアルゴ本人から販売開始のお知らせが来るが、キリトだって有力な情報提供者なんだから知っててもおかしくないはずなんだが……。

 

 だがキリトの驚きの声に振り向いた他のプレイヤーたちも誰一人持っていなかったらしく、広場はしばらく騒然となった。

 途中、広場の隣でひっそりと営業していたNPCショップでこの攻略本が販売されているのが見つかったときなんてすごかった。まるでアイドルの握手会に並ぶファンのように、小さな露店に長蛇の列ができたぐらいだ。一人一冊までなんて販売制限があったもんだから全員が全員並ばざるをえなかったのも理由の一つだろう。

 

 すでに入手済みだった俺とユキノは座ったままだったが、それがまたキバオウやその取り巻きのお気に召さなかったらしい。順番待ちの間、ネチネチと嫌味な眼差しを送ってきていた。

 

 NPCから攻略本を買った(これもまた0コルなので貰ったが正確だ)プレイヤーたちは、しばらく中身を読むのに必死で会議どころじゃなくなっていた。

 肝心の情報量は相変わらず大したもので、ディアベルが仕入れてきた情報はもちろん、取り巻きのセンチネルが定期的に湧き、合計十二体となること。初めこそ斧を使うコボルト王の四本あるHPバーが最後の一本になると、ボスは武器を替えて曲刀を使用してくることなどが書かれていた。

 

 そして攻略本の裏表紙。いつもは帯コメントのようなものが書かれているそこには、いつもと違う文面が、鮮やかな赤色で書かれていた。

 

 【情報はSAOベータテスト時のものです。現行版では変更されている可能性があります】

 

 いつものおどけた調子とは違う注意喚起の言葉。それだけでこの一文が示す意味のどれほど危険なことかがわかる。

 元ベータテスターに、そしてこの攻略本を参照する全プレイヤーに対する警告だ。

 

「――みんな、今は、この情報に感謝しよう!」

 

 青髪の騎士ディアベルはたっぷり読み込む時間をとり、全員の視線が自分に向くのを待ったうえでそう言った。広場にいるプレイヤーの多くが頷き、逆に何人かは険しい表情を浮かべる。

 

 否定的、あるいは懐疑的とも言える彼らの心情もわからないではない。何故、このタイミングなのか。この情報は本当に正しいのか。そういった部分が疑わしく思えてしまうのだろう。

 

 昨日あれだけ反ベータテスターを掲げたキバオウがまた何か言うかもしれないとも思ったが、今のところはあのトンガリ頭も静観を貫いている。

 

「真偽はともかく、このガイドのお蔭で、二、三日はかかるはずだった偵察戦を省略できるんだ。正直、すっげーありがたいってオレは思ってる。だって、いちばん死人が出る可能性があるのが偵察戦だったからさ」

 

 ディアベルの言葉に多くのプレイヤーが頷く。

 

「……こいつが正しければ、ボスの数値的なステータスは、そこまでヤバイ感じじゃない。もしSAOが普通のMMOなら、みんなの平均レベルが三……いや五低くても十分倒せたと思う。だから、きっちり戦術を練って、回復薬いっぱい持って挑めば、死人なしで倒すのも不可能じゃない。や、悪い、違うな。絶対に死人ゼロにする。それは、オレが騎士の誇りに賭けて約束する!」

 

 「よっ、ナイト様!」というような掛け声が飛び、盛大な拍手が沸いた。

 だからディアベルがリーダーシップを発揮して広場が盛り上がる中、「騎士の誇りとかわけわかんねえもん持ち出してんじゃねーよ」などと考えていた俺はやっぱり捻くれているのだろう。合唱祭やなんかでクラスが盛り上がる中、独り冷めきっているあの心境と同じだ。

 

 なんてことを考えているうちに、ディアベルが次のように呼びかけた。

 

「――それじゃ、早速だけど、これから実際の攻略作戦会議を始めたいと思う! 何はともあれ、レイドの形を作らないと役割分担もできないからね。みんな、まずは仲間や近くにいる人と、パーティを組んでみてくれ!」

 

 おっと、これは体育の授業やなんかでよくある、ボッチ殺しの文句だな。続々とペアの出来ていく中、独りだけ残ってこいつどうしようかみたいな空気になるアレだ。

 まあ俺クラスになると「ちょっと体調悪いんで、一人でやれることやってていいっすか。迷惑かけるのもアレなんで」と言って危機を脱することもできるけどな。やはりボッチは最強。

 

 とはいえ、今この瞬間において焦ることはない。

 独りでもいいやとか思ってるわけじゃなく、単純にもうパーティーメンバーがいるからだ。

 

「とりあえず、俺とお前で二人だな」

「そうね。やむを得ず、ではあるけれど」

 

 はっはっは。このこのー。やむを得ずとかそういうの、素で言われると傷つくからやめようね。

 

「ハッチ! ユッキ! ワタシも入れてー!」

 

 と、金髪娘も参加希望ですかそうですか。まあメンバーに余裕はあるし、昨日散々付き合わされて慣れたからいいけどな。

 ちらっとユキノに視線を送ると、彼女はこくりと頷いた。

 

「私は構わないわ」

「あいよ。んじゃあ、申請送るから」

「イエス! サンクス!」

 

 ぽいぽいっとメニューを操作してパーティーに招待する。パンが自分の方のウィンドウで受理すると、視界左上に表示されるHPバーが一本増えた。その上には《Pan》の文字。

 パンも自分の方に俺とユキノの分が表示されたのだろう。少し年上に見える金髪女子はちらっと左上に視線を向けると、嬉しそうに笑った。

 

「よろしくネ!」

「はいはいよろしく」

「こちらこそ。よろしく」

 

 そうやって俺たちが三人パーティーになったところで、今度は反対側から声が掛けられた。

 

「……あの、さ。ハチ、俺も入れてくれないかなー、なんて」

 

 見ると、キリトが申し訳なさそうに伺いを立ててきていた。

 

「いや、そんなビビらんでもいいだろ」

 

 ま、気持ちはわかる。キリトがボッチなのはなんとなく察してたし。

 なんせボッチは同族を見つけるのが得意だからな。名付けて『ボッチセンサー』。まあボッチかどうかわかったところで自分から話しかけられるわけじゃないんだが。

 

「別にパーティーに入るくらいじゃ空気悪くなったりしないだろ。いてもいなくても変わらないこともあるし、なんならいても気付かれないまである。ソースは俺」

「そうね。本来ならハチくんはキリトくん以上に独りぼっちだものね。今も見失いそうだもの」

「見失っちゃうのかよ。目の前にいるだろ」

「……ごめんなさい。あなたという存在から目を逸らしたくなる私の弱さが悪いのよ」

「それ謝ってないから。寧ろ謝罪にかこつけて余計貶してるから」

 

 なんだか以前にもこんな感じの応酬をした気がする。

 相変わらずこいつの罵倒は変わらないし、俺の存在感も変わらない。

 

「あはは……。ハチとユキノさんは相変わらずだな……」

 

 苦笑いを浮かべるキリト。どうやら肩の力も抜けたらしい。

 メニューを操作して、キリトにもパーティー申請を送る。

 

「ありがとな。よろしく! ……っと――」

 

 キリトは申請を受諾すると、何か思い出したように後ろを振り返った。彼の向こうには昨日もいたフード女子が一切態勢も変えずに座っていて、キリトは彼女を見てどうしたものかと頬を掻いた後、再度こちらへ視線を向けてくる。

 

 キリトの視線の意味はボッチの俺でもさすがにわかる。

 

 あのフード女子は微動だにしていないが、この広場にいる時点でボス攻略に参加する気はあるのだろう。だが自分からどこかのパーティーに参加しに行くつもりはないようで、ということはどこかのパーティーが誘ってやるしか彼女がボス攻略に参加する方法はない。

 

 現在、広場には総勢四十七人のプレイヤーがいる。一つのパーティーには六人のプレイヤーが参加できるので、最低でも八つのパーティーができる計算だ。

 ディアベルが言っていたレイドというのは八パーティーからなる集団で、最大四十八人で組むことのできるレイドは戦闘によって獲得した金や経験値をレイド内の全プレイヤーに自動的に割り振ることができるシステムだ。

 

 つまり、ボス攻略においてはレイドを組んで挑むのが常識というわけ。

 

 幸い、俺たちのパーティーはキリトを入れても四人なので、あと二人入れる余地はある。暫定的なリーダーが俺の時点でパーティー内連携などお察しレベルなので、あの女子を入れること自体は別に構わない。

 あの女子の方がパーティーに入るのを拒むことはできるが、その場合は九パーティーになってしまってレイド内に収まらないので誰かが割を食うことになる。

 

 この辺を加味した上で、キリトは彼女をパーティーに入れてやりたいと考えたのだろう。

 

 またしても窺うような視線のキリトに手を振り、こちらは構わない旨を伝える。

 キリトは顔の前で両手を合わせて小さく頷くと、未だ動かない少女へ話しかける。

 

「彼女、一人でここまで来たのかしら」

 

 ふと、ユキノがそう呟いた。

 独り言のようにも聞こえたが、隣からきた問いに答えないのも薄情か。

 

「かもな。パーティー組んでたことがあるなら、あそこまで頑なにはなんねえだろ」

「……そうね。恐らく、この一か月を独りで……」

 

 何やら呟きながら考え込むユキノ。ちらっとそちらを見てから、またキリトとフード女子の方へ目を向けると、ちょうど彼女がパーティー申請を受諾するところだった。

 

 三度HPバーが追加され、その上に少女のものだろう名前が表示される。

 

 《Asuna》――アスナ、だろうか。それがあのフードに顔を隠した少女の名前だった。

 

 

 

 

 

 × × × 

 

 

 

 

 

 会議が終わると、ボス挑戦を翌日に控えた今日は早めに解散しようということになり、キリトはアスナという名前のフード女子を追って町中に消え、パンは一人ふらっとどこかへ歩いていき、俺とユキノは食事をとった後で早々に宿へ引っ込んだ。

 

 見事にバラバラで協調性のない様子は見た目にもわかる通りで、俺たち五人のメンバー構成を見たレイドリーダーのディアベルは、肝心のボス戦において俺たちをどう扱うか決めあぐねたようだった。

 しばらく考えた上で彼が出した結論は『基本はキバオウ率いるF隊と同じく親衛隊を相手取り、余裕ができれば遊撃隊としてボスへの攻撃に加わる』という何でもありな役回りだった。

 

 まあ《槍使い》に《盾なしの片手剣士》、《細剣士》が二人と、最後が《拳闘士》じゃあ扱いに困るのも頷ける。寧ろ真剣に考えてくれたディアベルはすごく親切なやつなんじゃないかとすら思えた。

 

 キリトとパン、そしてユキノの戦闘能力を知ってる俺からすれば、こいつら三人は単独でも取り巻きのコボルトくらい余裕で相手取れると思えるが、キリトはともかくパンとユキノは女子だからな。どうしても戦力とは考え辛いかもしれない。

 そういう意味じゃあ、戦力としては未知数な俺たちを主戦力にカウントできなかったっていうのもあるんだろう。計算の立たない連中を大事なポジションに置くわけにもいかないしな。

 

 

 

 宿屋のベッドに横になって、明日のボス戦について考える。

 

 間違いなく、明日のボス戦は苦戦するだろう。

 ディアベルはレベルがもうちょっと低くても勝てると言ったが、それは大きな間違いだ。

 

 現在レベル10の俺でさえ、亜人型モンスターのソードスキルをまともに喰らえばHPの半分近くを持っていかれる。俺のステータスが敏捷性に大きく偏っていることを計算に入れても、脅威の一言だ。

 

 なぜならボスの使うソードスキルによっては、一度の技で殺される危険もあるからだ。

 敵がワンヒットの技しか使わないならまだいい。仮に一発喰らっても逃げて体勢を立て直すことはできる。だが二連撃、三連撃もの技を持っていた場合は、下手をすればそれだけでHPが全損しかねない。

 

 不確定要素もある。ボスの能力が攻略本の通りだという保証はないのだ。アルゴ自身が裏表紙という目立つ位置に書いている通り、ベータのときから変更されている可能性は大いにある。

 

 そしてこのことはリーダーのディアベルもわかっているはずだ。

 

 それでもディアベルはレイドメンバーを鼓舞するためにああいう言い方をしたんだろう。一か月という長い時間がかかってようやく掴んだチャンスだ。挑戦するプレイヤーたちの士気は高い方がいい。

 

 なら、捻くれ者でボッチの俺は冷静に、冷徹に、現実的な行動をとろう。

 ディアベルが最高を追い求めるのなら、俺は最悪を想定して動くのみだ。

 

 ふと、そこまで考えたとき――。

 

 トントンっと、扉がノックされる音がした。

 

「…………またアルゴか?」

 

 以前から何度かあるシチュエーションを思い浮かべて、何気なく扉を開く。

 

 だがそこにいたのは《鼠のアルゴ》ではなかった。

 

「ユキノ……?」

「夜分遅くにごめんなさい。……少し、いいかしら?」

 

 そこにいたのは、普段の服装に身を包み、けれど革の胸当てや剣を外したユキノだった。

 

「お、おう……。別にいいけどよ」

「ありがとう。失礼するわね」

 

 だがユキノの雰囲気はいつもとまるで違った。

 冷たく凛とした空気はない。寧ろ儚く、触れたら割れてしまいそうですらあった。

 

 招き入れて扉を閉め、足を止めたユキノの背を見る。

 

「ハチくん……いえ、比企谷くん」

 

 ユキノは背を向けたまま、あえて本名を言い直して呟いた。

 

「明日の戦い、勝てると思う?」

「……どうだろうな。簡単に勝てるとは思わないが、そうそう負けるとも思わない。ま、なんとかなるんじゃねえの」

「そう。あなたがそう言うのなら、勝てるでしょうね」

「おいおい、人の話聞いてた?」

「ええ。あなたがなんとかなると言ったのだから、きっとなんとかなるのでしょう」

 

 どうなってんだ。こいつ本当にあのユキノか?

 

 彼女の言うことをどう捉えたものか考えている間に、ユキノがスッと振り向いた。

 

「比企谷くん」

 

 窓から差す月明かりに横顔が浮かぶ。

 

 青白い光に、ユキノの白い肌が輝く。

 

 薄桃色の唇が微かに動いて、隙間から小さく、けれど確かな音が紡がれる。

 

「…………無理はしないでね」

 

 そう言って、雪ノ下は僅かに微笑みを湛えた。

 

 

 




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