やはりSAOでも俺の青春ラブコメはまちがっている。   作:惣名阿万

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なかなかまとまった時間が取れず、少し遅くなってしまいました。

今話から第3章の開始となります。
よろしくお願いします。





第3章
第一話:その部屋には、甘い紅茶の香りがする


 

 

 六月に入ってからというもの、アインクラッドでは頻繁に雨が降るようになり、どこにいても不快指数の高い日が続いていた。

 

 今年も梅雨がやってきた。

 天蓋で覆われてるはずのアインクラッドでなぜ雨が降るのかは知らないが、気温が上がって湿度の高くなるこの頃は、SAOに過ごす者にとって最も鬱陶しい季節である。

 

 なんせSAO(ここ)には満足に入れる風呂がない。

 いや、あるにはあるのだが、風呂付きの宿は値段が三倍に跳ね上がるし、シャワーのように便利なものはない。精々がバスタブに湯を溜め、石鹸で身体をこするくらいしかできない。

 

 幸いここはゲームの中なわけで、風呂に入らなかったからといって《不潔》や《悪臭》なんかのバッドステータスがあるわけじゃない。雨で濡れたとしても着替えるだけで問題ないし、最悪放っておけば勝手に乾く。風邪をひくようなこともない。

 

 合理性だけを考えるなら風呂に入る必要は全くないのだ。そりゃあ中には効能付きの温泉に入ることで一時的にステータスを上昇させることができる場合もあるが、わざわざ通うほど効果が高いわけでもない。

 

 とはいえ、纏わりつくような空気と滲み出る汗が不快なことは変わらない。臭いも汚れも残らないとはいえ汗が染みた服を着続けるのは気分が悪いし、『汗をかいた』と脳が知覚したのならそれらを流してさっぱりしたいと思うのはもはや本能に近いのだろう。

 

 だからこそこの部屋を選び、29層攻略までの拠点としているのだが。

 

「待たせてしまってごめんなさい」

 

 そう言って、ユキノがバスルームから出てきた。しかも攻略時の袴姿ではなく、シンプルな浴衣姿だ。昼間は括っている髪も下ろしている。

 時と場所と状況が違えば(ねんご)ろな関係と疑われるかもしれないが、もちろん違う。っていうか、こっちがビビるくらい無防備が過ぎる。

 

 一方で、ユキノの方は特に気にした様子もなく近付いてくる。

 

「昨日も私が先にお湯を頂いたけれど、いいの? この部屋の賃料は折半なのだから、入浴の順番も交互にするのが妥当だと思うのだけれど」

「ああ。俺は別にいつでもいいからな。それにお前は和服で俺より厚着だろ」

 

 以前までのユキノならこういう気遣いにも「あら、そんなに私の残り湯を楽しみたいのかしら。変態谷くん」と憎まれ口を返してきただろう。

 だが――。

 

「そう。ありがとう。なら、その厚意に甘えさせてもらうわね」

 

 ユキノの声は穏やかで、言いながらフッと微笑を湛える。そうして濡れた髪をタオルで撫でつつ、二つある内の奥のベッドへ腰掛けた。

 

 そう。この部屋は風呂付きのツインルーム。

 つまり二人で一つの部屋を借りているのである。

 

 言い訳をすれば、こうすることを提案したのはユキノの方で、俺は寧ろ反対した。

 当然だ。SAOはれっきとしたゲームでシステムに保護されているとはいえ、高校生の男女が同室で寝泊まりするのは問題がある。決して問題のある行動を起こそうとかそういうわけじゃないにしても、一般常識的に考えて大問題だろう。

 

 だというのに、ここ数日ユキノは色々と理由を付けては同じ部屋で寝泊まりすることを要求してきた。

 俺もなんだかんだと抵抗はしたが、「勝手に部屋を抜けださないよう見ているため」と言われてしまったら何も言えなかった。なんせ前科持ちだからなぁ……。

 

「それで、明日はどうするの?」

 

 俺が遠い目をしていると、ユキノが問いかけてきた。

 

「――明日も迷宮区でいいだろ。そろそろボス部屋も見つかるだろうしな」

「なら、そうしましょうか」

 

 頷いて、ユキノは立ち上がる。もう髪は乾いたようで、手にしたタオルを片手間にストレージへ収めていく。

 

「紅茶でも淹れるわ。あなたは?」

「あー、じゃあもらうわ」

「ええ。少し待っていて頂戴」

 

 振り返り、備え付けのかまどへ向かったユキノは、ストレージから取り出した金属製のやかんで湯を沸かし始めた。

 

 ユキノと行動を共にするようになって変わった内の一つがこれだ。

 いつの間にか取得していたらしい《料理》スキル。ユキノはしばしばこれで紅茶を淹れており、こうして俺にも振る舞ってくれる。

 

 彼女は流れるような動作で紅茶をティーカップに注いでいく。まだSAOを始める前、あの部室で何度か見た姿だ。

 ユキノは二つのティーカップに朱色の紅茶を注ぐと、一つを俺の方へ差し出した。

 

「どうぞ」

「おう。サンキュ」

 

 受け取った俺の向かいにユキノが腰かける。そうして二人向かい合い、同時に口元へカップを運んだ。

 

「……美味いな」

「そう。それはよかったわ」

 

 俺の感想に笑みを浮かべたユキノは、そう言って再度カップを口にした。

 

 

 

 

 

 

 25層を突破してからこちら、すべての日で似たような時間を過ごしていた。

 

 ユキノは《軍》の一件以来まるで変わってしまった。

 いや、表向きは同じように、変わらぬように振る舞っていた。けれど随所に違いは現れていて、誰の目にもそれは明らかだったと思う。

 

 物静かで、でもちゃんと反応は返してくれ、時折柔らかな微笑みを浮かべる。

 けれど、あんなにひどい微笑み方はない。

 届かぬものを羨むような、大人に縋る幼子のような、そんな求めていたものを諦めてしまったような、あんな微笑み方は見る者の心を苛む。

 

 けれど、彼女を責めることなどできはしない。

 俺も、それに付き合うようにしていたのだから。気を遣ったふりをして、無理矢理に理屈を捻りだして、彼女の態度に合わせるようにしてきた。

 

 どんな意味があるのかわからない、明らかに異なる彼女の態度。こうなる前には想像もつかなかった関わり合い。

 これが、方々に手を尽くして、俺が守ったと、そう信じたものだ。

 

 俺はまちがえはしなかったかと、再三問い続けたことをもう一度問う。

 自身の策に溺れ、自身の考えに浮かれ、自分に酔ってはいなかったかと。

 俺がすべきことは策を弄することではなく、他にあったのではないかと。

 

 それでも答えが出せないのは、きっと俺自身に原因があるのだろう。

 

 眼前で静かに佇むユキノを見る。

 同じ人のはずなのに、まるで違うように感じる。

 首を傾げる仕草も。口元の穏やかな笑みも。柔らかな眼差しも。

 

 かつての彼女は、もういない。

 

 

 

 

 

 

 × × ×

 

 

 

 

 

 

 翌日。

 朝7時のアラームで目を覚ました俺たちは朝食(ユキノが作った)を食べた後、迷宮区へ向かった。

 

 5日前に始まった第29層の攻略も終盤に差し掛かっている。

 《連合》の把握している攻略最前線は迷宮区第16階層で、恐らく今日中にはボス部屋が発見されるだろう。

 

 最奥部が見つかれば、そこからは『先行偵察隊』の出番だ。俺と、どう言っても付いてくるユキノの二人でとりあえずボスの顔を拝むことになる。

 とはいってもまともに戦うわけじゃなく、外見や初動の速さを見るくらいだけどな。後の本格的な偵察戦に向けた情報収集が目的だ。偵察のための偵察という位置といえば多少は聞こえがいいだろう。

 

 アインクラッド攻略の主体が《攻略組》から《連合》に変わってからというもの、フロア攻略の効率は目に見えてよくなった。クオーターポイントである25層から明らかに難易度が上がっているにもかかわらず、一層あたりの経過日数は以前と1、2日しか増えていないのがなによりの証だ。

 

 それもこれも《連合》に名を連ねるプレイヤーが明確な役割を持って攻略に当たっているのが理由だ。

 各々が自分の仕事に励み、成果には報酬で応える。これが徹底されているからこそ、攻略プレイヤー以外も自分の役割を全うしようとするわけ。まんま会社じゃねぇか。転職しようかなぁ。

 

 そんな《連合》には今のところ5つの部署が存在する。

 

 ハイレベルなプレイヤーから成り、迷宮区を踏破してボスに挑む『攻略班』。

 

 《FBI》のメンバーを中心にボスや重要なクエストの情報を収集する『情報班』。

 

 効率の良い狩場やクエストを探し、公表することで自他の育成を促す『錬成班』。

 

 物資の売買や装備の作成・メンテナンス、食事の提供等を行う『支援班』。

 

 各班からの報告を基に方針の決定と調整を行う『司令部』。

 

 《連合》に所属するプレイヤーは全員がギルドとは別にこれらの部署へ割り振られ、日々仕事に精を出しているわけだ。

 

 ちなみに『先行偵察隊員』の俺は『情報班』の管轄下にあり、ボスはあのアルゴだ。

 だからだろう。仕事柄ボス部屋が見つかるまでは基本フリーなせいで、頻繁にお使いに走らされたりする。

 

 一方ユキノは『司令部』の一員なはずなのに、どういうわけか俺への同行が認められているらしい。

 曰く、いつどこでやらかす(・・・・)かわからない俺を見張るためだとか。それで通っちゃうあたり《マイナー》の悪名は推して知るべしだろう。ぐうの音も出ない。

 

 とまれこうまれ、ギルドの垣根を越えた協力体制を敷くことで実現した《ギルド連合》は快調な滑り出しを見せ、ハイペースかつ安定した攻略体制を築きつつあった。

 

 

 

 

 

 

 槍を振る。二連撃薙ぎ払い技《ヘリカルトワイス》で胴を薙ぎ、動きが止まらないうちに回し蹴り技《水月》を繰り出す。続けて《ツインスラスト》で突き放し、反撃しようと腕を振りかぶったラミア型mobから《月面宙返り》で距離を取った。

 

 ここまでで敵の残りHPはおよそ3割。このまま《シングルシュート》なりで削った後に突進技からの連撃で倒してもいいのだが、無理して一人で倒しきる必要もない。

 

「任せた」

「ええ」

 

 着地の間際、居合のような姿勢で構えるユキノに一声かけた。

 ユキノは視線をmobに向けたまま静かに答え、這い寄る敵を待ち構える。

 間もなく、蛇の声を漏らしながら迫るmobがユキノの間合いに入った。

 

 瞬間――一閃。

 

『ァァ……』

 

 力のない悲鳴を漏らして、レベル36モンスター《エンビアス・ラミア》が砕ける。散り散りに消えていくポリゴンの向こう、ユキノは堂に入った所作で刀を鞘に納めた。

 

 その後ろ姿に歩み寄る。

 

「お疲れさん」

「ええ、あなたもお疲れ様」

 

 互いに労をねぎらい、戦利品の確認を済ませると、どちらともなく歩き出した。

 

 迷宮区へ入ってから5時間、途中の昼休憩を除けば4時間弱といったところか。

 それだけの時間をかけて未踏破領域を進んできた俺たちは、ついに20層目に到達していた。

 

 程なくボス部屋も見つかるはずだ。ここまでの消耗も大したことはないし、時間もまだ余裕がある。このまま偵察戦までやっても問題ないだろう。

 

「それにしても、あなたのアレは本当に何でもありなのね」

 

 不意にユキノがそう言ってため息を吐いた。

 ひどく曖昧な言い方ではあるが、まあ思い当たるのは一つしかない。

 

「何でもありってほど便利なもんじゃねぇよ。繋げられるスキルは限られてるし、タイミングがズレれば目の前で動けなくなるしな」

 

 実際、それで殴られてHPが半減したこともある。AGI極振りで紙装甲なやつが目の前で無防備を晒せばそれも当然だ。以来、一人のときはあまり使っていない。

 まあ、ここ最近は二人でいるのが当たり前になってきたからか、多少無茶をすることも増えてきた気がするが。

 

「けれど、《月面宙返り(ムーンサルト)》に関しては万全なのでしょう?」

「……そりゃあ、練習したからな」

 

 おいやめろそんな目で見るな恥ずかしい。

 

「あなたのことだから、距離を取るスキルから鍛えるだろうとわかってはいたけれど、でも、それを聞いて安心したわ」

 

 見透かしたようなユキノの微笑みに、思わず顔を逸らす。

 

「できる限りカバーはするけれど、あまり無茶はしないで」

「……おう」

 

 あー、くそっ。ここまで毒も棘もないと本当にあの雪ノ下雪乃なのか疑いたくなる。

 別に罵られたいとか嫌味を言われたいとかじゃない。俺はMじゃない。じゃないが、憎まれ口の一つもないとなると、違和感があるというか拍子抜けというか……。

 

 歯痒いような気まずいようなモヤモヤを抱えたまま迷宮区を歩く。

 道中、何度か同じようなラミアやコウモリ型のmobが出現したが、俺は手数に物を言わせて、ユキノは手堅く強力な《カタナ》スキルの一撃で沈めていく。

 

 AGI極振りの俺とは違いSTRにも相応に振り分けているユキノは高いクリティカル率もあってか一撃の威力が高い。さっきラミアを倒した《絶空(ぜっくう)》もHPの3割以上を削ったし、単発技の威力はキリトよりも上だろう。

 

 敵の動きを見極め、ダメージ効率の良い箇所に最速かつ強力な一撃を加える。

 冷静沈着で合理的なユキノらしい戦闘スタイルだ。

 

「――と、ここがボス部屋か」

 

 そうこうしているうちに迷宮区の最奥部へたどり着いた。高さ5メートルはあろうかという大扉には物々しい彫刻が施されている。

 ユキノも隣に並び、重厚な扉とそこに描かれたレリーフを眺めて言った。

 

「これは、クモかしら」

 

 その言葉通り、扉の中央にはクモを模したような彫刻があった。

 八本の尖った脚と顎には二本の牙、大きな腹と無数の眼が描かれている。これまでの経験上ボスの大きさについては想像するしかないが、恐らく全高2メートルは下らないだろう。これで糸まで飛ばしてこようものならかなりの難敵だ。

 

 加えて、気になることがもう一つ。

 

「なあ、いまいちハッキリと覚えてないんだが、クモって背中あったか?」

 

 訊ねると、天下のユキペディアも気付いて腕を組んだ。

 

「……いいえ。クモは昆虫とは違って身体が腹部と頭胸部の二つで構成されているはずよ。けれどこの絵では頭部と胸部が別れている。これは現実のクモとは全く違う特徴だわ」

「つまり、この背中だか胸部だかが描かれてるとこには何かがあるってことだな」

「そういうことになるのでしょうね。なんとなく人の顔のようにも見えるけれど」

 

 ハハハ、それはシミュラクラ現象って言うんだよー。

 などとジョークの一つでも飛ばせれば良かったのだが、残念なことに横長の楕円が三つ並んだその模様は俺も顔に見えた。

 

 クモの身体に人の顔とくれば、文系的には心当たりがあるが――。

 

「まあ、入ってみればわかるか」

 

 ボスの正体が予想できようができまいが、偵察には行くのだから結果は同じだ。

 弱点を探るのも、対処法を考えるのも、本格的な偵察戦をしてからの話。情報部がフロアに散りばめられた情報を全部集めてからの話である。

 

 扉に手をかけると、ユキノが一転して物憂げな表情を浮かべた。

 

「やっぱり行くのね」

「ああ。……お前はどうする?」

 

 答えはわかってる。だから訊ねることに意味はない。

 それでも万が一を思えばユキノを連れて行くのは躊躇われる。だからこその問いは今回に限ったことではなく、そして返ってくる答えもいつも通り。

 

「当然、行くわ」

「そうか。転移結晶だけは用意しておけよ」

 

 もはや定型句になりつつある忠告を並べて、扉を押し開いた。

 

 

 

 

 

 

 扉の中はまっくらだった。

 入り口から差し込む仄明かり以外に一切の光源がない。これまでの層ではあった松明も灯っておらず、窓のようなものもなし。上下左右完全な暗闇だった。

 

 慎重に、一歩一歩様子を窺いながら部屋の中へと歩を進める。

 

 隊形は俺が前で、ユキノが数メートル後方。

 AGIが高く《軽業》もある俺が前でボスの注意を引き、ユキノが後ろからボスの動きを観察する、そういう布陣だ。

 

 静寂に包まれた部屋にあって、唯一の音は俺とユキノの靴音だけだった。ブーツと床石が触れた際に鳴るほんの小さな音が室内に響き、耳に残る。

 けれど五歩、十歩と進んでも未だに灯りは点かず、ボスの気配も感じられなかった。

 

 嫌な予感は当然する。

 ここまで何度もボス部屋に入ってきたが、ここまで姿を現さないボスはいなかった。

 部屋自体も暗いままなのはこれが初。これまでは最初から明るいか、すぐに明るくなるかのどちらかしかなかったのだ。

 

 もう一分以上経つのに気配すら見せないというのは、絶対に何か意図がある。

 そう思いつつ、何歩目かわからない右足を踏み出したその瞬間――。

 

 なにか柔らかなモノを踏んだ感触と共に、強烈なプレッシャーが部屋全体を覆った。

 

「――っ!」

 

 咄嗟に《月面宙返り(ムーンサルト)》で飛ぶ。

 直後、さっきまで俺が立っていたところから硬質な音が響いてきた。まるで金属で石を叩いたような音だ。

 

 不意に明かりが灯る。

 壁に設置された松明へ一斉に火が灯り、円形をした広間の全容が浮かび上がる。

 

 空中で身を捩り、眼下に佇む巨体を見て、予想が的中していたことを悟った。

 

「《Arachne the arrogant spider》――やっぱ《アラクネ》だったか」

 

 タランチュラのようなおっかない外観のクモ。その背中らしき位置からは人間の女の上半身が伸びている。クモ部分の赤紫色とは対照的な白い肌をした女は、脚の下に侵入者がいないことを見て悔しげに口元を歪めていた。

 

 アラクネがこちらを見失っている間に着地。そして止まることなく踵を返す。

 その音に気付いたアラクネがこちらを見て牙を鳴らすが、奴が動き出したときにはもう俺とユキノは駆け出していた。

 

 

 

 

 

 

 開きっぱなしの扉を駆け抜け、そのまま最寄りの安全地帯まで走る。

 

 道中会話はなく、抜き身の武器を手にしたまま《安全地帯(セーフティエリア)》を示す白いラインを跨いだ。

 

 途端、疲れがドッと押し寄せる。

 抑え込んでいた緊張と恐怖が湧き上がってきて、堪らず壁にもたれて座り込んだ。

 

 あー、びっくりした。まさか暗闇からの奇襲攻撃をしてくるとは思わなかった。

 運良く避けられたからいいものの、俺の紙装甲じゃアレで大ダメージを負っていてもおかしくない。下手すりゃ死んでたかもな。

 

 内心でぼやきながら荒くなった息を整える。と、その間にユキノが隣へ腰かけた。

 

「また無茶をしたわね。相変わらずの悪運の強さだわ」

「だな。すげービビった」

 

 肩を落としながらため息を吐く。緊張と一緒に力も抜け、だらしなく足を伸ばした。

 

 そのままぼーっとすることしばらく。

 

 ふと、左手に温かく柔らかい感触が重ねられた。

 そちらへ視線を送ると、ユキノは膝を抱えた体勢で右手だけを伸ばしていた。

 

 …………え、なにこれ、新手の嫌がらせかなにかなのん?

 

「……いや、なんだってばよこの状況」

 

 思わず某忍者風に問いかける。

 けれどユキノは黙ったまま、顔を膝に埋めたままで答えず、なんとも言い難い雰囲気が流れた。

 

 それがおおよそ十分ほど続いた頃。

 

「…………ごめんなさい。もう大丈夫よ」

 

 ユキノは顔を上げ、重ねていた手を離した。

 立ち上がり、軽く埃を払うような仕草をして、こちらへ振り向く。

 

「あなたはどうかしら。もう動ける?」

 

 ああ、またこの笑みだ。

 優しく儚げで、どこか甘えるような色を帯びた笑み。

 鳩尾が痺れるような、うなじが熱くなるような、甘く痺れる感覚。

 

「……んじゃあ、行くか」

「ええ。行きましょう」

 

 立ち上がり、ユキノの隣に並ぶ。

 心なしかSAOに来たばかりの頃よりも近い距離間。

 転移結晶を取り出し、顔を見合わせ、主街区の名前を唱える。その動作もほんのわずかに俺の方が早くて。

 

「「転移、《エムナイク》」」

 

 視界が変わる瞬間、そっと袖口を握られたような気がした。

 

 

 

 

 

 







以上、第3章 第1話でした。
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