離別の果てで、今一度。   作:シー

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 救われない話をしよう。
 いつかきっとに願いを託して、そのまま腐る前に潰えた願いの話を。






神代篇
第一話:十二番目の怪物


 混沌の中で鼓動を打つ。

 揺蕩う感覚は疑似的なもので、実際に知覚できるものは何一つ無いが、纏わりつく泥土の様な何某かは確かに存在していた。

 そこには全てがあった。全ての生命の源、その種子の全てが、混沌の塩水の中で微睡みながら揺蕩っていた。

 全てが曖昧で、知性の欠片も持ち得ない水の中。しかし、それは確かに知性を、あるいは持ちえないはずの記憶というものを保持した状態で、そこに居た。

 それを端的に表すのであれば、それは迷子と呼ばれるものだろう。幾重にも重なる平行世界の果ても果て、剪定事象の分類に放り込まれた世界に生きた矮小窮まる生命が、ビッグバンが起こる確率よりも低い可能性を掴み取り、何の因果か、死後にこの生命のプールである塩水……原初の混沌(ティアマト)の中に中途半端に溶け込んだのである。

 もちろん、ただの卑小な一生命体の魂が膨大な生命の海、地球創世記の真エーテルの中で真っ当な自我を保っていられるはずも無く、ティアマトの内部に紛れ込んだ魂はあっという間にその他の生命情報との境界を曖昧にし、魂が保持していた自我は欠片も残さず破壊された。

 しかし、記憶という情報は形骸化した魂の器にこびり付いたまま、混沌の中を『不可侵の個』として彷徨いだした。ティアマトは魂の存在を認識していたが、彼女にとって生命とは己の内側より生じるもの、つまりは生まれる前の我が子であったため、彼女は魂を『自分の中に生じた、いづれ産むべき子供』と認識した。外部からの混じり物であるとは考えなかったのだ。

 かくして、遠い世界に生きた魂は、母なるティアマトの胎の中で生まれ出る時を待つことになる。

 

 それから暫くして、ティアマトと呼称される原初の混沌、神々の母は、血ではなく毒で満たした十一体の息子を産み落とした。

 神殺しの為の化物。原父アプスーの一応の仇討ちと、愛する我が子に殺意を以って刃を向けられた悲しみの果てに狂った心で産み落とした子供たち。

 異形の姿を持つ神足らぬ子らは魔獣と呼ばれ、母の望む結末の為に生まれるや否や母の下から離れていった。

 元来は優しい女神だったティアマトの毒は、十一体の魔獣を生んだ時点で尽きた。そこでティアマトは新たな娘を、純粋に自らの混沌から生み出すことにした。

 あまりにも下らない理由から始まった家族殺しに、ティアマトの心はそうとは知らずに疲弊を感じていた。神として在るからこそ、彼女は自らの胸中にずしりと食い込む錘の存在に気付かない。重苦しい吐息を吐いて、彼女はある種の諦念を抱え込むだけ。

 精神的に追い詰められ、激情を毒を宿す息子たちに変えて吐き出した彼女は、喪失と報復で灰色に濁った心を癒してくれる存在を欲しがった。

 そしてティアマトは己の混沌……『自分の中に生じた、いづれ産むべき子供』が揺蕩う場所を掬い取り、心を込めてあらゆる生命の情報が溶けだした塩水ごと『子供』を混ぜた。

 混沌の中を泳いでいた『子供』の記憶は混ぜ合わされるごとに鮮明になり、形骸化していた魂は込められた母の力に応じて、そして自らの内に生じる力に応じて容量と格を増し、一個の器として成形される。

 曖昧に混濁し、散逸していた記憶は器の中に融け込み、他の生命と統合される。本来持ちえない記憶は与えられた性質に求められるまま、最適と思われる形質を肉体の器として提示し、混沌は示された図面の通りに血肉や骨格を形作る。

 生命を育む女神が成したものは、支配者たる男神と成したものでなければ神足りえない。だが、十一の怪物を産み落とした女神はこの十二番目に自らの血を注ぐ事で神の子と生した。

 ティアマトが産み落とした、純粋な混沌から生まれた末の神。女神が単一で生んだ、唯一無二の後継機。

 本当ならば生まれてくるはずではなかった十二番目の神格(かいぶつ)は、千の刃を鎧に纏う長大な蛇に似た姿で生まれ落ちた。

 

 原初の混沌に至り得る後継機。ティアマトとはまた違った『母体』のモデル。天地創造を成す父母の後継機。人格を持った天変地異の具現。異なる世界の理を知る稀有な神格。始まりの母(ティアマト)が存在するが故に生命の可能性を秘めたまま成長する、永遠に未完成なまま芽吹くことのない系統樹の種。

 剪定事象からの迷い子の魂が混じってしまった混沌から形作られた、神格として生まれ出でる為の生命モデル『蛇王龍(ダラ・アマデュラ)』の能力を額面通りに受け取って神代に顕現せしめた生命体。

創世を成す十四の偉業をその身に宿した、創世を成せない星の卵。

 母・ティアマトから上記の権能を受け継いだそれ(・・)は、己の持つ強大無比にして過分に過ぎる力に畏れ慄き身を震わせた。

 しかし、ダラ・アマデュラとして生まれた肉体は、否、ダラ・アマデュラの形質を得て顕現した神格は、ただの震えだけで周囲の全てを損なった。

 具体的には、生まれたばかりの己が身を自覚し、己自身に恐れ慄いた臆病で心優しい()を宥めようと首をもたげたティアマト(ははおや)の頬に傷を付けた。

 生まれては『千古不易を謳う王』、長じては『不朽不滅を謳う帝』となる生命体が神として作り直された結果、ダラ・アマデュラは文字通り決して損なわれる事のない肉体(・・・・・・・・・・・・・・)を得た。故に山肌を削り地殻変動すら起こす千刃の巨体は、己と比べることも馬鹿らしいほどより巨大で強靭な原初の混沌である母の体に一筋の傷を与えてしまう。

 神殺しの怪物を生んだ延長で生み出されたことも一因だろう。毒を満たして生まれた十一の兄たちとは比べるべくもない体躯と権能を得て生まれた妹は、神殺しを成す力をもって生まれ出でたのだ。

 

 突然頬に走った痛みに驚いたティアマト以上に、己の母を殺せる存在に生まれたダラ・アマデュラは驚愕し、そしてさらに己を恐れ、己を心配してくれた母を傷つけたことを心底悔やんで大泣きした。

 ぴゃあぴゃあと頑是ない子供の声で泣く我が子の悲痛と後悔に彩られた声に、星が降る。青白く輝く流星の雨はその一つ一つが神殺しの力を纏った凶弾だった。

 それを目にしてさらに驚いたダラ・アマデュラは、己へも母へも無差別に降り注ぐ星々に向かって身体を伸ばし、大きく口を開いて、流星と同じ色の焔を束ねた一条の熱線で星々を迎撃する。

 撃ち漏らした隕石は母に当たる前に己の身で受け、砕けた神殺しの焔は尾で振り払う。己の手で不始末にケリを付けた体に、しかし神殺しの力は全く響いていないようだった。きっとそれは、己の権能で呼び寄せたものだったが故にだろうと楽観視するには些か引っかかる結末に、ティアマトは全力で母を愛し、守ろうとした末の娘に多大なる喜悦と憐憫の感情を抱いた……抱いて、しまった。

 

 生まれたばかりの末子は、天地創造の後継機であり、天変地異の具現であり、芽吹かぬ生命モデルの母であった。

 そして何より、ティアマトが望んだ心ゆえに神として成り損ない、また神として生まれた故に不完全な人間には成りえず、竜として生きるには権能が過ぎ、神格に押し込められたが故に怪物としても堕ち損なう、そんな何者にも成り損なうが故にあらゆる致命傷から逃れられてしまう一個の生命として生まれてしまった娘を、ティアマトは心底憐れんだ。

 裏切りによって狂ったティアマトは、自分を慰めるために生み出した子供に――自愛のための被造物に、親が子を想って与えるような愛情を注ぐ理性など、この時持ち合わせていなかったから。

 故に、ティアマトは言ってしまった。千剣の肉体の守りを完璧にするための、親が肉体の次に子供に与えるべき祝福(なづけ)を飛ばして、彼女を憐れむ言葉(のろい)を吐いてしまった。

 

「――憐れな子供、お前の肉体は決して壊れず、決して朽ちず、決して変化する事のない永遠をゆく――」

「――千の刃を鎧に纏うお前の肉体は、身じろぎ一つでこの母を傷つけた――」

「――お前の叫びは凶つ星々を呼び寄せ、お前の抱く膨大な力はありとあらゆる全てを灰燼に帰してしまう――」

 

 唐突に紡がれた母の言葉に、生まれたばかりの生命は身体を強張らせ、目を見開いて母を仰ぐ。

 一筋の傷は既にないが、頬を滑る血の一滴が嫌に生々しく目に付いた。

 

「――地を成し、河を生む血肉を有し、天変地異を成し、星々を墜とす異つ星。神殺しの末仔、原初の塩水(わたし)から生まれた混沌(はは)の如きもの。不朽不滅、永遠の不壊を約束された神なる蛇龍、万物を灰燼に帰す者、混沌で形作られたが故に、万物をその身に溶かせども、何者にも成りえない……可愛い可愛い、可哀想な、(かな)しい仔――」

 

 長大なティアマトの体が、憐憫に震える。

 しかし、彼女の体躯は空間を揺らすのみで、決してダラ・アマデュラを傷つけない。

 神殺しの権能をその身に帯びない女神の鱗は、生まれた我が子とは似ても似つかないほどに滑らかだったから。

 ありとあらゆる全てを損なう為に生まれたような肉体に不釣り合いな、ティアマトと比べても優しい……甘いと言わざるを得ないような脆く儚い心の在り方は、癒しを求めた母の心に仄暗い愉悦を抱かせた。

 母を守るためならば己の身を損なう可能性を考えない(モノ)の在り方は、とても哀れで、とても稚くて、神代では考えられない程に甘い考え方は、ティアマトにとってこれ以上ない程に都合が良かったから。

 

 故に、母たるティアマトは、呪う(あわれむ)

 

 神らしくない心を持って生まれた優しい我が子を、神らしく傲慢なまでに安穏を求めてやまない頑是ない命を、憐れむことで、手元で愛玩し続けられる理由を押し付ける。

 

「――その柔い心に相応しい、脆弱な命に生まれなかった不幸を、なんとしよう。これは母の落ち度、貴女を望んでしまった……いえ、貴女の心を望んでしまった母の、間違い――」

 

 物理的な守りを成す肉体と、呪術的、あるいは思念的な力への守りとしての名を与えられる前に差し込まれた憐憫(のろい)が、ダラ・アマデュラの魂に絡みつく。

 丁寧に心を込めて紡がれたそれは、名の守りを得たとしても打ち消すことは叶わないだろう。

 なにより、今まさに丁寧に砕かれている彼女の心が、その言葉を忘れない。

 間違ったと、間違いだったと、望まれた筈の心を諦める言葉を、彼女の生まれたての魂が忘れられない。

 

「――可哀想な仔。可愛い可愛い、憐れな仔。ごめんなさい、望んでしまって。ごめんなさい、産んでしまって。ごめんなさい、殺してあげられなくて、本当にごめんなさい――」

 

 千の刃を纏う体が小さく震える。赤々と輝く瞳から光が失せ、絶望を湛えて暗がりへと落ちていく。

 見開いた瞳で()てしまった母の至純すら理解する余裕などなく、言葉の暴力の威力によって記憶の奥底へと叩き落された。

 心を千々に切り刻まれて、呼吸すら危うくなった我が子に、ティアマトはどろどろに煮詰まった慈愛(どく)を、生まれたばかりの我が子に注ぐ。

 

「――それでも、母は愛する。血脈に連なる神も殺せない(やくめもはたせない)貴女は、ただ母の手元で(わたし)のために歌っていれば良い――私の愛しい末娘、(ティアマト)の最後の子供、私の大事な『千の刃を鎧う塔の如きもの(ダラ・アマデュラ)』――」

 

 

 ティアマトの頬を滑り落ちた一滴が、いつのまにか大粒の涙を零していたダラ・アマデュラに滴り落ちる。

 表皮を滑りながら染み込んだ歓喜(のろい)が、粉々に砕けた柔らかな心を絡めとり、脆いままで在り続けなさいと囁いた。

 

――憐れなままで、可哀想な仔のままで、ずっとずっと、(いと)しいままの貴女で在ればいい。

 

 かくして、人間の心と怪物の身体を持つティアマトの十二の怪物の中でも唯一神格を持つダラ・アマデュラはメソポタミアの神秘の中で産声を上げ、母の悦びの中に囚われる事となったのである。

 

 

 





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