離別の果てで、今一度。   作:シー

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 綺麗な花には棘がある、とは言うけれど。
 その綺麗な花を綺麗に咲かせるための努力は、棘以上に痛いし辛いと思うんだ。
 だからそんな棘のある花を愛する方も、実は結構な素質を備えているんじゃないかなあ。




第九話:幸せの約束

 

 ナムカラングと名乗った少年は、案の定彼をなんとか自分から遠ざけようと躍起になる女神の両手を苦も無く捉え、そのまま引き上げるようにして玉座に据えた。

 女神は突然自分の身体が浮き上がった事に驚愕し、折れそうなほど細い手首に感じる熱と力に、浅ましくも心臓が歓喜を叫ぶ音を聞く。

 小さな身体、小さな手、小さな足、小さな顔は、遠い前世で馴染みある造形であるのに、長年蛇龍として多くを俯瞰してきた身からすると酷く頼りなくて、思うように動かしづらい。力加減の練習もしていない身体では、下手に動けば何かを損なってしまいそうだった。あるいは、あり得ないがこの人間の身体もふとした瞬間に欠けさせてしまいそうだと、己が身であるはずの頭脳体の淡い姿にすら恐怖する。

 自身の身体の操作に四苦八苦しているダラ・アマデュラを見下ろす(・・・・)少年は、女神の苦悩を察するからこそ、今しかない機会をふいにするまいと先手を打つ。

 

「なぁ、あんたはおれが嫌いか?」

 

 ゆるく指先を動かし、ほとんどおっかなびっくりで掴まれた手を引き抜こうとしていた女神の身体がびくりと跳ねた。

 反射的に動いた身体にもナムカラングの台詞にも驚いたダラ・アマデュラは咄嗟にナムカラングの身体に視線を走らせ、そこでようやく彼が満身創痍の身体である事に気付くと、ただでさえ青白い顔を青ざめさせながら緩慢に首を振った。

 「あ」だの「う」だのと音をこぼしながら、女神はナムカラングの傷だらけの身体を前に狼狽える。何を如何すれば彼の傷が癒せるのだろうかと、治癒の権能を持たない女神は瞳を潤ませて己の無力を噛み締める。

 

「嫌いじゃないなら、別におれがあんたの傍にいても良いよな。うん、良いな。間違いない、これが最良で最善で、最高だ」

 

 哀れな生き物そのものの体で佇む女神に、しかし少年は自分の身体を見て途方に暮れる女神を前にして、ここぞとばかりに畳みかけた。

 

「いやぁ、流石にあんたが嫌ならおれも引き下がるしかないが、嫌じゃないなら話は別だ。治るまで居座るのは確定だったが、両想いならもう永住決定だ。当然これはもう一生一緒にいるしかないだろ」

 

 戸板に水を掛けるが如く、調子の良い言葉を怒涛の勢いで並べ立てるナムカラングに、ダラ・アマデュラは思い切り虚を突かれて息を呑んだ。

 心惹かれてやまない少年の身を心の底から案じていたら、何故か同居の約束が取り付けられそうになっていた。

 何を言っているかよく解らないが、などと茶化す空気すら置いてけ堀で、ぱっと顔を上げて呆気にとられた顔を晒す女神に、少年はもう止まらないとばかりに大仰に身振り手振りまで加えて朗々と言葉を紡ぐ。

 その言い回しがどこか愛弟子の語り口を思わせるのは血の繋がりの成せる業か、自分を心底楽しそうにおちょくる青年の姿が一瞬だけ目の前の少年に重なって、すぐさま霧散する。

 違う、この人はあの馬鹿弟子のように人を揶揄うのが楽しいだなんて理由で言葉を重ねているようには見えない。どちらかと言えば、ふざけているふりをして、虎視眈々と結果をもぎ取ろうと相手の思考を翻弄しているように見えた。

 あのおっとりのほほんとした愛弟子と似ているようで似てない、獣染みた狩人だなんて矛盾した姿を思わせる少年の在り方に、どうしたことか女神の心臓がきゅんと甘やかに鳴く。

 

「おれはあんたを運命だと思った。一生に一度、いや、おれのこの魂に一人だけの唯一無二だと、そう確信しているわけだが、あんたは? いや皆まで言うな、解ってる。あんたもそう(・・)だな? でなければあんたがおれの手を取るはずが無い。人を遠ざけようとしたあんたが他人(・・)だったおれに手を伸ばした意味が解らないほど、おれの頭は悪くない」

 

 「なんだ、おれって実はすごく愛されてるんだな」などと照れてはにかむナムカラングの言葉に、漸く自分が無意識に愛を叫んでいた事実に気が付いたダラ・アマデュラは言葉にならない絶叫を上げて一気に顔を赤に染め上げた。

 そもそも彼に惹かれているという自覚すら薄かったと言うのに、一息に他ならない恋慕の対象から暴かれた心の裡は荒れ狂うばかりで纏まらない。まぁ、纏まるはずが無いと言うか、纏めさせないために少年は言葉を弄しているわけだが、さて。

 実は流血が過ぎて少年自身も何を言っているのかよく解っていなかったりするのだが、それは兎も角として。

 そんな切羽詰まった状態でも決してこの女と離れまいと本能で足掻く少年に、とうとう女神は半泣きで折れて「もう同居でも永住でもなんでもいいから、早くその怪我を治さないと永眠しちゃう」と、頭脳体と化した女神は言質を取った瞬間に昏倒した少年を抱えこみ、一目散に山の尾根へと駆け下りた。

 なんだかんだで思考回路がショートしてしまったらしい女神の行動に、少年は本気で呆気に取られた後に深く深く落ち込んだ。いかに見目が幼くとも、力量自体はそう変わらない。だのに蛇龍と少女の肉体の激しい差異をすっかり失念していたナムカラングは、自分よりも身体の小さな女の子にしっかり抱きかかえられるという屈辱と情けなさを痛感する。

 神殿の出入り口でハラハラしながら女神と少年のやり取りに耳を澄ませていた眷属達はといえば、非常に困り切った様子で佇むばかり。女神の意を汲むものとしては少年の存在は当然看過出来るものでは無かったのだが、女神の本心を余すことなく知ることが出来るが故に女神の本心を知る彼らは少年の処遇について持て余しても居た。

 そこは女神が仕方なくとはいえ「なんでもいいから」と彼の永住を許可したので問題は解決したのだが、今度は彼ら自身が抱える心が少年の存在に不安を訴える。

 どう足掻こうとも、彼がいずれダラ・アマデュラの下を去るのは決定事項だ。少年は女神の心に傷を付ける。それは今までの比ではない深さである事は想像に難くない。だからこそバルファルク達は今の幸福と未来の喪失を天秤にかけて、手を拱く。

 二人が深く想い合っていると理解しているからこその葛藤は、女神がその手に少年を抱えて飛び出してきた瞬間により大きく重く彼等の心に伸し掛かった。

 頑是ない少女の無垢な身体に、鋭い所を探す方が難しい手指。巨大な角は柔らかに鳴る銀の髪に包まれて微睡み、淡雪の儚さで燐光を残す姿はまさしく彼ら眷属たちが守ろうとして守り切れなかった、彼女の心根そのもののようで。

 そんな無防備な心そのままの姿で少年に触れる様は、いつか夢見て虚空に捨てた優しい世界を見ているようで。

 あぁ、自分たちはこの光景を見たかったのだなと、そう思ってしまえば、もう駄目だった。

 喜びと悲しみが綯交ぜになった眼で駆け下りてゆく二人の背を見送るバルファルク達は、たなびく銀燐の軌跡に目を細め、「あぁ、眩いなぁ」と、瞳に雫を浮かべて、酷く優しい顔で微笑んでいた。

 

 さて、そうして少年の矜持に傷を付け、眷属たちの心を揺らした女神はといえば、目指した場所を見つけた喜びでほぅと息を吐いて安堵した。

 白い脚が柔らかく大地に降り立ち、傷だらけの少年の足をそっと地につけて肩を支える。ジェットコースター並の速度での自由落下染みた下山に目を回しかけていた少年は、目の前の人工物に僅かに息を呑み、次いで何某かの理解の灯をともしてあぁと納得した風に声を漏らした。

 二人の子供が辿りついたのは、千剣山の尾根にぽつねんと建つ一軒の小屋だ。それはかつてドゥルバルが建て、以降シュガルとバッバルフが住み着いた来訪者の仮宿である。

 外観も内観も掘立小屋と言う他ないのだが、其処には一時生活するのに困らない最低限の道具と設備がある事を聞き及んでいた女神は、ならば当然治療のための道具もあるだろうと一縷の望みをかけて訪ったわけだが、果たして、其処には女神の望み通り、応急処置が施せる程度ではあるが、確かにちゃんとした治療道具が一揃い残っていた。

 ただし、人の手が入らなかった小屋は先のオストガロア襲来の騒動もあってかボロボロで薄汚く、女神はこの場で彼の傷口に触れる事を躊躇った。当時の文明レベルで言えば多少汚い程度の場所でも、根底に遥か未来の記憶を持つ女神にとって、この場はあからさまに不衛生であったのだ。

 故に、女神が少年の住処を己が神殿に定めたのは必然であり、少年にとっては棚から牡丹餅とでも言うべき幸運であった。

 ちゃっかり同居の幸運に恵まれた少年は露骨に拳を握って喜んで見せる姿に、とうとう女神も顔を綻ばせて小さく噴き出す。そう遠くない昔にそうであったように、人との関わりの中で花を咲かせる彼女の心は、この時ばかりは優しく凪いでいた。

 

 なにせ、何を言っても聴かないし、何をしても無駄なのだ、このナムカラングという己の半身(・・・・)は。

 女神の為を思うのに、結局自分の我も取り入れようと手を入れる。あれこれと理由を探してしまう女神の優柔不断さを先読みして、問題を提示する前から「これが正解だ」と言わんばかりに堂々と我を通し、さも当然のように胡坐をかいてどんと構えて仁王立つ。

 欲しいものほど口にして望めない彼女とは真逆だった。欲しいものは何が何でも手を伸ばして手に入れて、抱え込んで離さない少年の在り方は、傲慢なのにどこか優しい。

 

「貴方は、本当にそれでいいのですか?」

 

 それでも際限なく言葉を求めて確認したがるのは、そんな幸福があるものかと認め難く思う気持ちが捨てきれないからだろう。なんて面倒くさい性分だと自分の女々しさに呆れながらも、女神はこれから先の未来でも不安を捨てきれないに違いない。

 先ずは治療が優先と、生活に必要なあれそれは一旦その場に残して必要なものとナムカラングを抱えて神殿に舞い戻ったダラ・アマデュラは、言外にいつか来る離別を匂わせる。

 玉座の間にある太い柱の陰に隠れるようにして作られていた幾つかの通路と部屋の先、恐らくは浴室と思しき場所で手早く洗った布で血や泥と言った汚れを丁寧に拭いながら放たれた問いかけに、ナムカラングは一度ゆっくりと目を瞬かせたかと思うと、若干青ざめた顔を仕方なさげに綻ばせて「ばか、それ()良いんじゃなくて、それ()いいから此処に居るんだよ」と彼女の懸念を笑い飛ばす。

 鋭い三白眼に堅い表情、少年であるのにどこか鋭く尖った印象を抱かせる面差しが、愛しい女の為にゆるりと綻ぶ。一気に年相応の幼さと生意気な雰囲気を溢れさせた少年は、綺麗に拭われた手を不安に強張る女神の頬に沿えると、緊張を(ほぐ)すように努めて優しく蟀谷に手を這わせ、鈴のように鳴る美しい髪へと指を差し入れた。

 

「確かに、おれは死ぬよ。だっておれは人間だ。あんたほど頑丈にも強くも出来てない、永遠を生きられないそこいらにいる人間の内の一人でしかない」

 

 「でも、今はここにいる」。ぴくりと震えて瞳を揺らした女神に真摯な眼差しを向けながら、もう片方の手で彼女の手を握る。自分の手よりも一回りも二回りも小さくて細い指先に己の武骨で硬い手指を絡ませ、無意識に逃れようと揺れた手を抑え込む。「ここにいるし、まだ生きてる。ほら、あったかいだろ?」と、狼狽えて泳ぐ視線を逸らさせはしないと後頭部にまで辿りついた片手でしっかりと女神の小さな頭を固定すれば、心の底まで見通してしまう蛇帝龍の瞳がどうしようもない期待を滲ませて揺れていた。

 

「いつかきっとなんて、今考えても仕方ないことは放っておけよ。誰だって最後は別れて終わるんだ、おれとあんただけの特別じゃない。誰にでも訪れる、何てことのない『当たり前』なんだよ。怖いのは解るけどさ、だからって逃げちまうのは勿体無いだろ」

 

 自分の有り余って仕方のない熱が、彼女に伝わればいい。柔らかいのに凍り付いてしまった手指を通って全身を廻って、心臓に辿り着いて、骨の髄にも髪の先にも、彼女のずっとずっと深い所までおれの想いが届けば――いいや、いっそそのままおれの想いに溺れてしまえと、少年は昂る心の儘に熱の籠った眼で最愛の少女に心を吐露する。

 神々が畏れ慄き逃げ惑った女神を恐れも敬いもしないナムカラングの言葉は、まるで甘露のように甘やかに女神の全身を痺れさせた。脳髄から犯しにかかる少年の誘惑の前に、もはや女神はただの少女と成り果てる。

 それでもこれまでの悲惨な離別が残した傷が癒えていない少女は、明確に言葉を欲しがって頑是ない子供そのままに絡まる褐色の手に縋る。自らの意思で少年を求めて来た少女に、ナムカラングはもう堪えきれないとばかりに破顔し、湧き上がる喜びのままに少女の額に自らの額を押し当て、誰よりも近い位置で少女の心を覗き込んだ。

 

「それでもあんたがおれとの別れを怖がるなら、おれがあんたに死をくれてやる。だから、あんたはおれに死を寄越せ。そうすればあんたはもう誰とも別れずに済むだろう?――まぁ、でもそれは一番最後だ。それまではおれと一緒に面白おかしく幸せに生きて……幸せなまま一緒に終わろうか」

 

 「だから、安心しておれのお嫁さんになればいい」。陶然と笑むナムカラングの求婚に、ダラ・アマデュラは言葉では応えなかった。

 ただ真っ直ぐに切り込んできたナムカラングの想いにふるりと身体を震わせ、それから顔を真っ赤に染めた後、言葉にならない感情を持て余した彼女は多大なる羞恥と罪悪感、それから抑えども抑えども溢れて止まない歓喜に震える手をナムカラングが自分にしたようにそっと彼の髪に差し入れる。

 自分の髪とは違って硬い髪質にきゅうきゅうと鳴く心臓を宥めながら、ダラ・アマデュラはすり、と自分から合わさった額を擦り合わせ、芽吹いて花咲いたばかりの恋心を隠す事無く瞳に乗せて恥ずかしげに微笑んだ。

 

 そうして此処に婚姻は成った。

 二人きりで結んだ赤い糸に、流星の眷属たちは二人の末路を見届ける覚悟を決めた後、盛大に二人を祝福して喝采を叫ぶ。

 結婚したといっても、二人はいわば恋人になったばかりだ。一目惚れからの電撃的な結婚は本能に後押しされたもの故に、互いに心の裡を悟れども其々の趣味嗜好や来歴といった細やかな情報までは知りえない。

 この結婚は二人の魂が早急に明確で確固たる結びつきを欲したが故のものである。

 一息に燃え上がった恋心は冷めるのも早いという。けれど魂が求める伴侶は、熱が穏やかになる事はあるだろうが、それが立ち消えることはあり得ない。恋はいずれ愛になるだろう。そしてその愛は永遠だ、少なくとも、その魂が消滅するまでは。

 この関係に「何故」や「どうして」といった問いは無意味だ。神がそうあれかしと定めたわけでも、世界の意思がそういう物として定めたわけでもないが……強いていうなれば、これ(・・)は云わば魂レベルでの融合に近い。損傷と言っても良いくらいに互いの魂が互いの深い部分に根を張り、境目なんて消えてしまうくらいに堅く強く結びついてしまっているのだから、離れてしまえばどちらも崩れて消えてしまうのだ。

 事故のようなものに思えるだろうが、これはそういう不可抗力の果ての欠損ではない。

 これは、そのように成ってでも離れたくないという、理論や理性では説明不可能な両者の間に生じた狂おしい程の希求によって生じる現象なのだ。事故だなんて言葉で片づけてしまうのは余りにも風情がない。

 ならば、これはまさしく「運命」なのだろう。あらゆる道理も柵も理性も置き去りに、ただ目の前の存在と共に在る事を全てとする、ただの「運命」。

 触れたいのも、声が聴きたいのも、傍にいたいのも、笑顔が見たいのも、視線も体温も心も未来も、命すらも全て欲して止まないのも、それは偏に互いが運命の相手なのだから、仕方がない事なのだ。

 

 治療の途中で歓喜のままに少女を抱き上げ、くるりと回って傷を悪化させた少年は、痛みに呻いて転がりながらも笑っていた。何の遠慮も呵責も無く少年の掌に身を委ねていた少女はといえば、そんな少年を見て涙腺を決壊させながらも、やはり笑っていた。

 少年の前では幼い女神はただの少女になって、少女の前では幼い狩人はただの少年になった。

 互いに年相応の顔で、年相応の恋に心を弾ませる様は余りに稚けなくて、大人から見ればさぞ馬鹿らしい光景に見えただろう。児戯同然のままごと染みた恋愛は、微笑ましい触れ合い程度の距離を保って歩き始めた。

 視線を合わせるだけで心は満ちる。指先の温度で心臓は温まり、寄り添う重みは心地良い充足を感じさせてくれる。

 それでも時折熱が灯りすぎて、近付きすぎて頭の芯から茹る時は、そっとお互いの唇を重ねればいい。途方もない熱は羞恥と幸福に変わって、穏やかに全身に満ちるだろう。お互いに顔を赤らめながら、それでも握った手だけは離すまいと、くすぐったいと感じる喜びに笑みを溢し合えたならそれで幸せなのだから。

 

 

 

 穏やかに、緩やかに、二人の時間は過ぎていく。それでもナムカラングの傷が癒える頃には、追い付いてきた現実がそっと二人の肩を叩くものだから、二人を愛で守っていた眷属達は怒りも露わに舌を打つ。

 もう少し空気を読めと遥か遠くを睨みつけるバルファルクに、心身ともに満ち足りた時間を過ごしたダラ・アマデュラは、遠く追いやっていた感傷を再びその眼に宿して苦笑する。ナムカラングが傷を癒せるだけの時間が確保できただけでも僥倖だと言う女神に、伴侶となった少年はバルファルク達に混じって盛大な舌打ちをかましたばかりか、嫌悪も露わに顔を歪め、眷属たちに「今のうちにアレ、撃ち落とせねぇの?」と物騒な言葉を吐き連ねていた。

 眷属たちは心揺さぶられたようにそわっ、と身じろぐも、呆れたように自分を見る主の眼に耐え兼ねて大人しく地に伏せた。

 

「アマデュラ、玉座に戻るぞ。わざわざあんたが出迎えなくてもいい相手だ、アレは」

「けれどナムカラング、そうは言っても今からこちらに来られるのは、私の……」

「伴侶殿の言う通りだ。主よ、彼奴はそもそも招かれざるもの。もっと言うならば、彼奴は敵だ。彼奴は迎え撃って殺さないだけ有難いと思わねばならんのだ。出迎えなどしてはつけあがる」

「そうそう。だからアマデュラ、戻れ。あとついでに真体の方もしっかりがっつり隠しとけ。何されるか解ったものじゃねぇ」

 

 さぁ戻れすぐ戻れ今すぐ戻れと、ぐいぐいと背中を押す伴侶と眷属にダラ・アマデュラは僅かに慌てながら、それでもされるがまま、言われるがままに神殿の奥へと足を進めながら、蛇龍の方の身体に意識を割いて千剣山の奥深く、千剣山を内側から穿って作った山中の寝所へと納めた。

 水面の庭も紗の通路も抜け、玉座の間に辿り着いた瞬間ナムカラングはダラ・アマデュラを横抱きにして颯爽と彼女を滑らかな石造りの玉座に降ろ――さずに、そのまま自分が玉座に腰かけて片足だけ胡坐をかくと、そのまま胡坐を組んで出来た窪みに女神を据え置き、酷く太々しい態度で背後からがっちりと女神を抱きしめた。

 流石に虚を突かれて目を丸くするダラ・アマデュラに、ナムカラングは満足げに息を吐く。すっかり嫁馬鹿が覚醒して真正の馬鹿に成り果てたナムカラングの行動に、さしもの女神もそう簡単には理解が追い付かず、完全に思考を止めて膝の上で凍り付く。

 その直後、俄かに外が騒がしくなったかと思えば、紗の通路の向こう側からぺっと吐き出されるようにして一柱の女神が玉座の間に転がり込んできた。

 おそらく眷属たちが蹴り入れたか尻尾で打ち込んだかしたのだろう。しきりに臀部をさすって声にならない声で呻く女神の姿に、意図せずして座布団代わりにしてしまった伴侶の身体が小刻みに震える。

 

――まさか、此処からが正念場で修羅場だと言うのに、このままいつも通りの体勢で始めるの?

 

 女神にばれる前に何とか笑いの衝動をやり過ごそうとする伴侶を背に、ダラ・アマデュラは冷や汗を流す。

 けれど、事態はダラ・アマデュラが思った以上にややこしい方向に進むらしい。

 なんとか臀部の痛みをやり過ごした女神は、自分より高い位置から感じる視線に向けて殺意を込めた目を向け、次いでダラ・アマデュラとナムカラングの体勢に目を丸くした後――血管がブチ切れる勢いで「それは私に対する当てつけなの!?」と、物理的に神殿が揺れる程の大音声で叫んだのだ。

 

 ダラ・アマデュラは知らなかったのだが、実はナムカラングが完治するまで女神が……女神イシュタルが彼女にちょっかいを出さなかったのには訳がある。

 二人が穏やかに恋人生活を楽しんでいた間、イシュタルは何をトチ狂ったのか知らないが、何故か冥界に下り、案の定冥界の女神であるエレシュキガルの逆鱗に触れて殺され、吊るされていたのだ。

 ナムカラングはそれを、イシュタルを警戒して外界を見張っていたバルファルク達から聞き及んでいたのだが、この時彼はある意趣返しを思いつく。本当ならば、眷属はこの話をダラ・アマデュラに持って行ったはずなのだが、彼らはナムカラングが提案した意趣返しに全力で乗ったが故に、イシュタルの冥界下りを己の喉元に留めた。

 別にこれだけで叛意ありとは見做されないことが幸いした。ダラ・アマデュラはバルファルク達に侵入者の排除を命じはしたが、情報の収集と報告までは命じていない。これは彼らがちょっとした趣味(・・・・・・・・)で聞くに至った、他愛のない噂話(・・・・・・・)であるのだから、わざわざ主の耳を汚す必要もないだろうと、冥界下りの与太話(・・・・・・・・)は一切ダラ・アマデュラの耳に入ることなく、今日まできた。

 だから当然、ダラ・アマデュラはイシュタルが身ぐるみを剥がされた事も、怒り狂ったエレシュキガルに刺殺された事も、そして夫であるドゥムジにその死を連日連夜祝われた事も、何一つ知らなかった。

 知っていれば、ダラ・アマデュラは即座にその膝を飛び降りてナムカラングを玉座の背に隠しただろう。あるいはあの小屋に隠したかもしれない。

 けれど彼女が全てを知ったのは、その当の女神が「当てつけか!」と叫び、困惑するダラ・アマデュラを心底愛おしげに抱きすくめるナムカラングが「当てつけとはどれのことです?」と慇懃無礼にイシュタルの失態を論っている最中であった。

 ダラ・アマデュラとしては全て初耳なのだが、目の前で怒りに震える女神にダラ・アマデュラの困惑は欠片も伝わらない。ただ、ナムカラングの愉悦はしっかりと伝わっているらしく、イシュタルは視線で人が殺せるのならばと言わんばかりの形相で二人を睨む。

 そんな女神の視線に晒されてなお平然としていられるのは、偏にダラ・アマデュラの瞳を毎日見続けたおかげだろう。瞳自体に権能染みた力を宿すダラ・アマデュラの眼を毎日真正面から延々と見続けたナムカラングは、神威や威圧に対してそれなりの耐性を備えるに至っていた。

 そうして一頻り扱き下ろすだけ扱き下ろしたナムカラングは、肩で息をするイシュタルに向けて僅かに口角を上げると、二人の仲を見せつけるように無防備なダラ・アマデュラの片手を己の指と絡ませ、己の口元に運んで小さな爪に口づける。

 

「――それで? 旦那に玉座を掠め取られたばかりかその死を喜ばれたイシュタル様は、伴侶に愛されて日々幸せを噛み締めているおれの女(いもうと)に、一体何の御用でしょう?」

 

 喜悦に塗れた声が、耳朶を打つ。言いながら艶然とダラ・アマデュラの矮躯をいっそう強く抱き込むナムカラングの様は、まさしく恋人を溺愛する男そのもので。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――ナムカラング、実は貴方も相当頭にきてましたね?

 

 見ずとも解る。彼が真実ダラ・アマデュラを溺愛しながらも、その様を見せつけることで家も家族も村も失った怒りを煮え滾らせていることが。

 だから、最初は彼を止めなければと思っていたダラ・アマデュラは、自分からナムカラングの胸に頬を寄せて心底幸せだと甘やかに微笑んだ。

 

 

 同じ怒りを抱えるもの同士、何を恐れる事が在るだろうと、幼い二人の恋人は怒れる女神を見下ろした。

 


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