離別の果てで、今一度。   作:シー

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 とても長くお待たせしてしまってすまないね。
 さて、早速だが皆お楽しみの断罪の時間だよ。
 まぁ、お別れ前の……身辺整理? 憂さ晴らし? も兼ねているけどね。
 皆、心の準備は出来ているね?
 何があっても狼狽えないでおくれよ。
 だって最初から解っていただろう?
 この話は……彼らの過去には。

 ハッピーエンドなんて、ありはしないって。




第十話:再生の呪い

「ようこそおいで下さいました、イシュタルお姉様。私の愛しい眷属たちの歓待はお気に召されましたか?」

 

 僅かな衣擦れの音でさえ耳に痛いほど響く一触即発の空気の中、火蓋を切り落としたのはダラ・アマデュラだった。至って普通の顔をして、小さな唇から皮肉を吐いた少女の眼に温度は無い。

 苛烈な女神の嫉妬が炎のように燃え上がり、イシュタルの目が人ではあり得ない黄金に染まっても、ダラ・アマデュラは平然とその視線を真正面から受け止めて毒を吐く。

 常になく冷やかな目で己を見下ろす妹に、一瞬だけイシュタルの背を氷塊が滑り落ちる。

 だが、つい先日冥府にて土の下で悲嘆に暮れる自分を笑った夫の姿を知った彼女は、昨日今日の出来事だという事も相まって、常以上に自分を見下ろす存在の全てが憎らしかった。

 故に一瞬の緊張と危機感は瞬きの間に遠くへ放った。あの女神ダラ・アマデュラが伴侶を得たと聞いた時から湧き上がるこのどうしようもない妬心と憤怒は、死を知って恐れを知ったイシュタルの背を思い切り押したのだ。

 一度駆けたら止まらぬ様はまさしく猪。粉砕されたグガランナも、この女神の有様を見たならば頭を抱えて諦めるだろう。例え横腹をど突いて転がそうとも、目先の怒りに囚われた女神はむしろ横腹に触れた瞬間その勢いだけで相手を跳ね飛ばしてしまう様が容易に浮かぶと、彼の雄牛は角を下げて大人しく嵐が去るのを待っていたに違いない……イシュタルにハンカチを落とすレベルのうっかり具合で落とし物になっていなかったならば、の話だが。

 

「あれを歓待と呼ぶのなら、そうね、とても気に入ったわ……思わず見知らぬ誰かにもやってやりたいくらいよ……!」

 

 九割九分九厘は自身のせいであることを棚に置いて、烈火の如き怒りも露わにイシュタルは乱雑に言葉を吐き捨てた。

 自身の皮肉を当て擦った台詞に、思わずダラ・アマデュラの眼が据わる。逆ギレも良い所なその様に、前々からくすぶり続けていた怒りを再燃させた少女に、ナムカラングもつられてぎちりと奥歯を噛み締めて陰惨に笑う。

 

「ならやって見せろよ。この千剣山を出て、無関係の誰かに手を出してみろ。おれは止めねぇよ? だってあんたはおれが殺るまでもなく、おれの嫁の眷属が喜び勇んであんたを灰にするもんな? それを受けてなお生きていられんなら、きっとあんたもその誰かを歓待できるんじゃねぇの?」

 

 どうせ無理だろうと露骨に顔に出して宣うナムカラング。その気になれば容易く人間の時代を閉じる事ができる女神相手にするには、恐れ知らずの域を超えた振る舞いである。

 だが、その態度もある意味当然のものだ。何せナムカラングは本当に女神イシュタルを恐れる心を失ってしまっていたのだから。

 今の彼は精神的には無敵に近い。彼にとって忌み嫌い、憎悪し殺意を叫ぶ神は数多あれど、畏れ敬い愛する神はダラ・アマデュラただ一柱のみ。

 彼が幸福を感じるのも、悲しみを感じるのも、楽しさを、苦しみを、穏やかさを、愛を、恐怖を感じるのも全て、感情が発露する根元と向かう先に愛おしい女であるダラ・アマデュラがいるからこそのもの。心身の全てを余すことなく妻に捧げた彼にとって、ダラ・アマデュラ以外の神の怒りなんぞは恐怖にすらならなかった。

 

「こ……んの、無礼者が! 神ならぬただの人間の分際で天上の女神たるこのイシュタルになんたる言い草! 妻が妻なら夫も夫ね、こんな礼儀知らずの野蛮人、蛇の化物と番ってるのがお似合いよ! 所詮人間なんて使い捨てだもの、あのお使い一つ出来ない下女も、詩人気取りの虫もみんな、母さんに一時使われただけの蛇人形にお似合い――ひっ」

 

 常人が持っているべき心の機構のいくつかを狂人のそれに作り変えた彼の売り言葉に、反射の如き自然さでイシュタルは買い言葉を叩きつける。

 露骨にダラ・アマデュラ以下だと人間に断言されたイシュタルは、己が引く弓の如く鮮やかに、そして比類なき速さと精度で以て、千剣山の夫婦の地雷を打ち抜いた。

 今この場にギルガメッシュ王が居たならば、きっと無言で頭を抱え、静かに宝物庫を開帳しただろう。あるいはエルキドゥならば、輝かんばかりの笑顔で砕け散ったグガランナの破片を手当たり次第に投げつけただろう暴言である。現実にこの場にいない彼らは置いておくとしても、神殿の外で耳を欹てていた眷属群は煮え滾る憤怒に脳裏を焼かれて理性と本能の間で揺らいでいる。けれどやはり、本能の方が戦況的に有利であるらしく、身体の芯を凍らせるほどに美しい銀鱗は苛烈な怒りで燃えていた。

 万に一つどころか億に一つも勝機など見出せない敵地のド真ん中、それも土地の恩恵と契約の守りを得た絶対者を前に放つ台詞にしては、あまりにも蛮勇が過ぎた。

 一息の間に冷えた世界で、重苦しい空気が女神の足首を漂い、金の装飾が躍る白く長い脚を這い掴む。

 小さく息を飲んでさっと顔を青ざめさせたイシュタルに、ダラ・アマデュラは湛える微笑など最初から無かったと言わんばかりの冷徹さを瞳に乗せて差し向ける。血反吐を吐いても許さない。言葉ではなく雰囲気でその一言を感じ取ったイシュタルは、ここにきて漸く己の立ち位置というものを正確に把握した。

 怒りに我を忘れていた、というのは余りにもお粗末な言い訳だ。彼女は既に憤怒に身を焦がされながらも頭を働かせてダラ・アマデュラへの意趣返しの策を練っている。頭に血が上った程度で死地に飛び込むのなら、イシュタルは既に死んでいるし、そもそもオストガロアなんて生まれていなかった。

 嫉妬と、怒りと、傲慢と、楽観。それがイシュタルの女神としての常識を曖昧にして、その瞳を曇らせた。

 「どうせダラ・アマデュラ(あのこ)は何だかんだ言って甘さを捨てきれない」と、高を括っていた。もっといえば彼女の良心と情に胡坐をかいて、慢心しきっていたのだ。

 だから迂闊にもイシュタルは増長したまま彼女の領域へと踏み入ったのだ。自分が薄氷の上に立っていただなんて気付きもしないまま、イシュタルは龍の逆鱗を殴りつけて足蹴にした。

 故にダラ・アマデュラは一時だけ家族の情を削ぎ落とす。そこまでされて何も思わず何もしないのでは、それこそ情のない振る舞いだろう。心を傾けたものを蔑ろにされて笑うことを優しさとは呼ばないと知るからこそ、彼女は心の底で蟠っていたイシュタルへの殺意を引き摺りだす。

 

「……私、が」

 

 あれは一体何だ。イシュタルは声もなく目を見開く。

 いつぞやあの女神を扱き下ろして罵倒した時とは比べ物にならない、濃密な殺意。殺したい気持ちではなく、殺してやるという意志で底光りする瞳に睨まれて、イシュタルの体は石のように固まった。

 僅かにでも動けば、殺られる。じっとりと滲み出す汗が鉛の重さで肌を伝う感触に、イシュタルは目の前の脅威を正しく理解する。

 

――これは、この()()()()は、はかれない。

 

 あらゆる計測、あらゆる謀略、その全てを問答無用で無意味に落とす埒外の女神、神話世界を構築する絶対の道理ですら縛れない番外の龍を前に、綴じられつつある神代のサナトリウムに舞うイシュタルは、幾度目かの増長を完膚なき迄に磨り潰された。

 

「私が悪し様に言われる事は、許します。だって私も貴女を馬鹿にした。貴女を貶める意図で、言葉を吐きました……けれど」

 

 何度押さえつけられようとも学ぶ事無く、省みる事無く、他の誰よりも神らしくあり続けたイシュタルに、この時漸く例外が生まれた。既に遅きに失した学習だ、それをわざわざ拾い上げて誉めそやしてやるほどの寛容さ、否、妥協を、ダラ・アマデュラは既に手放している。未だに会話が出来ていることは、奇跡だった。

 

「また、貶しましたね? 私の愛弟子を、私の友の家族を……あれほど惨たらしい目に、合わせておいて……あれほど、無残な姿にしておいて……その上、私の伴侶まで、馬鹿にした。ねぇ、貴女、そろそろ――本気で、殺します、よ?」

 

 溺れる程の怒りで言葉をうまく繋げられないダラ・アマデュラに、イシュタルは気圧されるがままに一歩足を引く。蛇龍の感情によって動く眷属群の理性は既に本能に屈してしまったらしく、イシュタルの背後では耳鳴りの様な甲高い風の悲鳴と、大地を抉る轟音を思わせる低音で咆哮する龍たちの怒りが響いている。

 遠い異邦の地で言うところの「前門の虎、後門の狼」の状況に自らを据え置いてしまったイシュタルの顔に、最早常の自信も輝きも無い。顔を蒼白に変え、手足を震わせ、恐慌をきたす脳と早鐘を打つ心臓を持て余す姿は、彼女が陥れては嘲ってきた「無様な人間」そのものだった。

 ふ、とダラ・アマデュラの矮躯がナムカラングの膝から軽やかに降り立ち、そのまま無言でイシュタルへと歩を進める。愛する女を膝に抱え込んでいたナムカラングは一瞬だけ不服そうな顔をしたが、徐に腰を上げたかと思うと、玉座の裏から一張りの弓と矢、そして短剣を引っ張り出し、短剣を腰布に引っ掛けてから弓に矢を番え、イシュタルを睨み据える。

 人間であるナムカラングが曲がりなりにも神であるイシュタルの玉体を傷付ける事は難しい。出来ない訳ではないのだが、彼の弓や剣は、神性や魔性を帯びていない至って普通の狩りの道具。天弓に乗っていないイシュタルを狙い撃って外すことは無いだろうが、致命傷に届かないどころか血を流させられるかどうかも怪しい。

 だが、もしもダラ・アマデュラとイシュタルが矛先を交えることになったならばと思えば、夫としては黙ってみている訳にはいかなかった。

 さて、目の前には神話世界を崩壊させたとしても決して殺せない怪物(ダラ・アマデュラ)。後方には雲霞の如き大群を成して控える凶星の龍(バルファルク)たち。斜め前には直接的な脅威にはならないとはいえ、害せば確実に蛇龍の殺意を今以上に煽る生きた逆鱗(ナムカラング)と、確実に自分を殺せる布陣を敷かれたイシュタルはじりじりと後ずさりながら、真っ白になった頭の中で恐怖を叫ぶ。

 こんなはずではなかった。そんな無責任な思考が生まれるも、現状を打破する手は一つも出てこないまま、小さな歩幅で確実に自分に近付いてくる死の姿にただただ怯える。歯の根も噛み合わず、もはや呼吸すら覚束ない有様のイシュタルにとって、ダラ・アマデュラのゆっくりとした歩みは焦燥を掻き立てる一因でしかない。

 生まれて初めて実感する極限状態に、イシュタルの目に涙の膜がかかる。一度冥界で死んだときでさえ、これまでの恐怖は抱かなかった。こんなじりじりと焦げ付く殺意に巻かれたのは初めてで、嬲り殺されると怯えたのも初めてだった。

 蹂躙する側であった女神が、蹂躙される側の精神を理解する。本来ならばあり得ない状況だ。神が人間に近しい感性を芽生えさせるなど、他所は兎も角として人間を労働力と割り切るメソポタミアの神からすれば考えつく事すら出来ない異常事態である。

 天の女主人としての矜持も、戦いと美の女神である自負と実力も、全てを無に帰された。前に立つ者全ての上に在る事を当然とする星の龍を相手にするには、高々一柱の女神では荷が勝ちすぎた。

 

「っ、ぁあっ……い、やぁ……いや、いやぁあ……」

 

 青ざめながら身体を震わせ、細い腕で己の身体を掻き抱くイシュタルに、ダラ・アマデュラは小さく首を傾げて目を細める。それはまるで、人の娘のようではないか。これから無体を強いられるような少女さながらのイシュタルの様子に呆れ果てながらも、ダラ・アマデュラの歩みは止まらない。

 

「なぃ、で……こない、でよぉ……」

 

 怯え縋る眼。女神としての矜持などもはや今のイシュタルにありはしない。ダラ・アマデュラの怒りの前では、全ての命は等しく同じ場所に立たされる。生殺与奪は蛇龍の手にのみ在った。

 

「こない、で……って、い、言ってるっ、の、ぉおおおおお!!!」

 

 けれど、反撃の機会は何時だって彼らの手にある。ただそれを実行するだけの精神力が、彼女を前に容易く死ぬだけで。

 だが、それでもイシュタルは腐っても女神であるらしい。万夫不当の大英雄であろうとも晒されたならば呼吸を止めて凍り付くその睥眼に一心に見つめられてなお、イシュタルの手は弓を取った。

 

「あああああああああああああああ!!!!」

 

 恐怖に負けて、矢を放つ。涙と汗に塗れた顔には一切取り繕われる事のない蛇龍への恐怖と生への執着が浮かぶ。

 何故自分が遠回りな嫌がらせという手段を取らなければならなかったのか、その理由である神々との制約など頭に無い。契約違反の代償にさえ頭が回らないのは、そんなもの以上に蛇龍を恐れたからだろう。

 ただ己が今この場を生きていたいが為に放った、命を長らえるための本能の一矢。そこには文字通りイシュタルの全身全霊が込められていた。

 

 けれども。

 

 

 

 

 

「あー……んっ。んむ……う……美味しくない、です……」

 

 

 

 

 

 けれども、その一矢も――()()()()()()()()()()()()

 恐慌の果てに放った決死の抵抗は、ダラ・アマデュラの手ではしっと掴み取られたかと思うと、そのまま自然な流れで彼女の()()()()()()()

 ダラ・アマデュラの頭脳体は、モドキとはいえ骸龍オストガロアの肉体で出来ている。捕食を業に背負う龍の特性を帯びた矮躯は、確かに捕食したものの性質を鎧うほどの変異を許容されてはいない。

 しかし、その代わりとばかりに彼女の身体は捕食したものを単純なエネルギーに強制的に変換する機構を得ていた。思わぬ副産物、否、置き土産に一時絶望を深めたダラ・アマデュラだったが、きっとその時の彼女以上にイシュタルの絶望は深いだろう。

 え、とか細く一つ音を吐いて驚愕に目を見開くイシュタルの前で、ダラ・アマデュラは眉根を寄せてイシュタルの起死回生の一矢を無慈悲に食む。

 

「正確には、自己主張が激しい。権能、魔力、意志、単体なら濃くてしつこくて大味で尖ってはいるものの、まぁ美味しいです。ですが、それらが互いに譲ることなく我も我もと主張し合い、殴り合って調和しないので、個々の主張の激しさもあって非常に不味い」

 

 小さな赤い舌が桃色の唇からぺろりと覗く。ひどくげんなりした様子で眉根を寄せるダラ・アマデュラに、イシュタルはとうとう腰を抜かして膝も尻も地に付けた。

 あ、あ、と最早何事かを考える事すら出来なくなったイシュタルに、凍てついた眼差しが注がれる。手も足も出せなくなった彼女だが、投了は許されていない。手札が尽き、心が折れても、神の怒りは収まらない。そういう世界だと懇切丁寧に教えてくれたのはイシュタルだ。前回まではダラ・アマデュラだったが、今回はイシュタルにその役回りが回ってきただけ。ただそれだけの事だ。

 

「とても食せたものではありませんでしたが、()()()は頂きました……えぇ、アレは手土産ですよね。攻撃ではなく、菓子折り。貴女が私に攻撃したように見えたのは白昼夢です。女神も夢を見るのですね、一つ学びました」

 

 良かったですね。と小首を傾げるダラ・アマデュラに、番えた矢を放ちかけていたナムカラングはひっそりと安堵の息を吐く。彼女に下手物を食ませてしまったのは業腹だが、彼女の意に沿わない道を辿らなくて良かった。

 もしイシュタルの一撃を攻撃と処理していたならば、神々の約定によってイシュタルは他の神によって罰を下されただろう。そしてイシュタルは速やかにダラ・アマデュラの下から離されたに違いない。天罰によってその場は解決した、そう判断されて全てがまた零から始まる事を、幼い夫婦は認めたくなど無かったから。

 だから、良かった。要らない置き土産による功績に思うところは多分にあるが、横槍を入れられた挙句に獲物を掻っ攫われるのは夫としても狩人としても、非常に面白くない。

 冷徹にイシュタルを獲物のカテゴリに入れたナムカラングの視線の先で、愛しい妻が憎らしい女に肉薄する。僅かにでも手を伸ばせば触れる位置にまで寄った蛇龍に、イシュタルはと言えば失神寸前でギリギリ持ちこたえてしまっているらしく、美しい瞳を極限まで見開き、魂を凍てつかせる程の鋭さで冴える龍の眼に呑まれていた。

 

 漸く。漸くだ。漸く報復が叶う。

 奪われるばかりだった女神が、漸く奪う側に回る。

 念願の、と言っても良いのだろうか。心の底から湧き上がる憎悪も憤怒も尽きないどころか、今がまさに盛りの時とばかりに煮え滾り荒れ狂っているけれども、やはり根底に善性を有する蛇龍の感傷は頭の片隅で絶えず自己主張を繰り返すから、事此処に至っても、ダラ・アマデュラはイシュタルの命を刈り取る勇気を持てないでいた。

 殺意は本物だ。ダラ・アマデュラはイシュタルを殺したい。けれど、だからと言って死んでほしいかと言えば、それは……大きな声では決して言えないが、否、となる訳で。

 だから腕の一本や二本、いや四肢を奪うくらいで何とか溜飲を下げるべきかと、ダラ・アマデュラはイシュタルの身体に視線を這わせながら思案する。

 イシュタルはその性根こそ腐っているが、一応れっきとしたウルクの都市神で、彼女の死は即ち国土の疲弊に直結する。神は憎いが人間に恨みは無い彼女は、人間を人質に取られている気分になりながら最善の報復を考える。

 土地神としての権能を削る真似は出来ない。ならば他の権能、つまり美しさと強さを削るしか無い。

 となると、潰すべきは四肢と天弓、そして長く美しいその頭髪かと、ダラ・アマデュラは彷徨う視線を髪に留める。先ずは、切りやすい髪から。エビフ山を下した戦いの女神としての強さより、美の女神としての矜持に手を掛けようとしたのは、そんな理由だった。

 不本意ながらその様子をつぶさに観察していたイシュタルも、何をされるのかは解らないが、これから何かをされると理解したのだろう。ゆったりと四肢を這っていた視線が一点で固定されたのを見て取ると、死期を悟った身体が自然と震えを止め、次いで女神の思考も止まる。他人の死に様こそ散々見て来たイシュタルだが、人間がするように死を己がものとして想像できなかった彼女は、それ以上先の未来を、己の死の形を想像する事が出来なかったから。

 完全に抵抗を止めて曇った眼を、幼い少女が無感動に見下ろす。小さく白い手が気負いなく滑らかな髪に伸ばされて、そのまま髪を梳くように首の裏まで手が回る。

 このまま手だけを本体と重ねたら、彼女の髪は肩口にかかる程度になるだろう。それはそれで似合いそうな気もするが、この時代、()()()()で、尚且つ()()()髪を保つためには現代の比では無い金と時間と手間がかかる。一つだけなら平民でも多少の工夫と金銭で満たせるだろうが、三つとも全てとなると有力者や大商人でもなければ満たせない。

 そんな、人間がわざわざ金と手間暇と労力を十分に用意しなければ手に入らないものを、生まれながらに標準装備している夢物語にしか出てこないような理想の美女(イシュタル)は、性根が厭らしくとも正しく美の女神である。つまり、如何に似合っていようが、美人の条件、理想の女性の型に()()が無いのであれば、髪の短いイシュタルは美の女神として落伍したと判断されてしまうのだ。

 

 命を獲らない代わりに矜持を削ぐ。ともすれば殺されるよりも非情な選択肢を選んだダラ・アマデュラに、彼女の意志を感じ取った眷属群は物足りなさを感じはしても納得はしたのか、ひとまず傲慢な女神に土を付けた事実で僅かなりとも溜飲を下げる。

 ナムカラングも、出来ることならば自分の兄がされたように惨たらしく四肢を裂いて、無様にのた打ち回らせてやりたかったのだが……彼も眷属群と同様に、一応の納得を示して弓を下げた。

 人間である彼には理解できないが、神というものは時に己が命よりも矜持に重きを置くもの。神々の中でもとりわけ自信に満ち溢れすぎた自己愛の激しいイシュタルのことだ、彼女もきっと例に漏れず己の優位性を損なわれるのを最も厭う性質だろう。

 恵まれ過ぎてしまった権能に鼻を高くしていた女を、泥の中に突き落とす。全てを失わせる事は出来ないが、多少損なう事は出来る。高く育ってしまった花を刈り取ってしまえば、その下に隠された汚泥は成す術もなく白日に晒されるのだ。所詮は神も感情の生き物。皮一枚剥いでしまえば、その下には汚らしい本性が巣くっている。免罪符となっていた美貌を欠けさせた女神は、さて、本性を覗かせたままで一体どれだけの男を誑かせるのか。

 顔を赤くして怒り狂い、けれども足りない姿故に何も言い返せないその無様を拝めるのなら、この憎悪も一時宥めておけるだろう。

 まぁ、自分の妻はどんなに髪が短くても愛おしいが。なんて惚気を胸中で吐きながら、ナムカラングは静かに腕を組んで静観の構えを取る。ほんの少しだけ……否、割と本気で、珍しく愛しい妻が加減を誤って髪だけでなく首もさぱりと落としてしまう事故(ハプニング)が起きやしないかと期待しているが、兎に角彼は全てを彼女に委ねる。

 

 そして、嗚呼――事故は、起きた。

 

「――……ぇ」

 

 ぱきり、と、何かが固まる音がした。それはまるで製氷された氷が時折立てる音に似ていたのだけれど、それを知るのはダラ・アマデュラただ一柱であったから、彼女以外の誰もがその音を何かが割れる音と思い違った。

 ぱき、ぴきと、音は続く。イシュタルの聞き間違いでなければ、その音は己の頭の後ろに添えられた目の前の女神の手から鳴っているようだ。

 彼女はそれをダラ・アマデュラの手が本性に転じた音だと思ったのだが、どうにも目の前の少女の様子がおかしい。

 先ほどまでの冷厳さは何処へやら。不意打ちを喰らった獣のような顔をしている少女の手が、徐にイシュタルの髪の中から引き抜かれた。通り過ぎ際に数本だけ女神の髪の毛が切り落とされたが、誰もそれに気づかないまま、ただ目の前に晒された()()に眼を奪われていた。

 

「え…………あ、アンタ、それ、その、手……」

「――ッ、アマデュラ!!」

 

 絶えず割れた音を立てる、幼い手。中途半端に本性に転じたそれは、音を立てて人外の表面積を増しながら……見間違いで無ければ、鈍く曇って、ひび割れていっている。

 からからに乾いた喉から、イシュタルは声を絞り出す。目の前で起きている事が何なのか、彼女は凍り付いた思考回路をじわじわと溶かし解きながら、不可解極まりない現象の原因を探る。

 静かに混乱するイシュタルとは対照的に、ナムカラングは焦燥も露わにダラ・アマデュラの下へと駆け下りた。

 彼は階段を一気に飛ばして飛び降りた勢いのままダラ・アマデュラに抱き着いたかと思うと、イシュタルの方を向いていた身体を己の方へと向けさせ、鋭い目で彼女の異変を観察する。

 

「痛くないか? 気分は? まさかイシュタルに何かされたのか? なぁ、アマデュラ、これは、この変異は一体何だ!?」

 

 これが単にイシュタルの髪を削ぐための変異ならば、こうも焦らない。だが、これは明らかに異常事態だ。彼女の変異はそもそも音が鳴らない。音もなく転じた刃が風を刻む事はあっても、彼女の身体が音を立てて、()()()()()()()()()()変化するなど、それこそ裏切られた時以外ではあり得ない。

 眩い銀鱗が生じた端から曇っていく様に、ナムカラングから冷静さが根こそぎ奪われていく。訳の分からない現象に冷や汗を流しながら、少年はこの場で明確に敵であるイシュタルを睨みつけた。

 焦りと恐怖で血走った眼光と威嚇するように剥き出された歯、悪鬼羅刹もかくやという程の形相で睨みつけられたイシュタルが一瞬だけ怯む。彼が首から下げた冥界の竜の威圧もあるのだろう、半歩分尻で下がった女神は、急速に巡りだした血を頭に集中させて思考を加速させる。

 

「あたっ、あたしじゃないわよ! こ、こんな状況で、こんなの相手に、そんッ、そんなこと、ッ、出来る訳ないじゃない!!」

 

 あたしじゃない。自分にそんな権能は無い。だったら、何故この女神はこんな風になったのか。

 あのオストガロアという化け物が理由か。否、それはない。原初の女神、母さんの呪いは確かにあの子の身体を変質させただろうけれど、それ以上は許さないはず。こんな石のようになっていく変化は、母さんの望んだ哀れな姿には重ならないから。

 故に、この異変はティアマトの呪いでも、オストガロアの置き土産でも何でもない。だとすれば、これは一体何処から来た呪いか。この不変の化物が、何物にも成り損なう、蛇龍の帝、が…………。

 

「あ」

 

 ふと、イシュタルは何事かに思い当たったのか声を漏らす。

 そうだ、蛇龍だ。この女神は、この幼気な頭脳体の本性は、千の剣を鎧う蛇体の龍で……。

 

「蛇、の女神……蛇達の王の、上に在るもの……蛇の帝、蛇を統べる姫……蛇の、(おう)

 

 「あんたが蛇の皇なら、蛇も、あんたの眷属、よね?」。イシュタルは、青ざめた顔でダラ・アマデュラの顔を覗き込む。静まり返った玉座の間に、イシュタルのか細い声が嫌に大きな音で響く。「それなら、あんたの眷属が取り込んだ不死の霊草(シーブ・イッサヒル・アメル)は……あんたにも、適用、されるんじゃない、の?」。

 

 束の間、風が止む。シーブ・イッサヒル・アメル、不死の霊草、原初の深淵アピスに生えているという若返りの薬草は、そういえば蛇がその腹に納めたと、イシュタルの冥界下りの話の合間に聞いた覚えがある。

 その時は王様も気の毒にと思うだけだったが、そうか、蛇が食ったのならダラ・アマデュラと無関係では無い。不死の霊草を食んだ事で脱皮による永遠の生を得たのなら、逆説的にダラ・アマデュラもその不死性を持っていることになる。

 元々死ねない身体ではあるが、蛇体である以上、()()()()()()()()()()という認知から逃れる術は無い。

 これは脱皮だ。古い細胞を捨て去って、新しく強い身体へと転じるための行為。

 

 それならば、今、捨て去られようとしている()()()()とは、一体――?

 

 誰もがそこまで考えた所で、ダラ・アマデュラは自分から剥がれていく()()に気付いて、大きく目を見開き、そして叫んだ。

 

 

 

 

 

「ッ、ナムカラング! 今すぐに――()()()()()!!」

 

 

 

 

 

 

――()()()()()()()()()()()()()()()()()!!

 

 悲痛な声で耳を劈いたその言葉に、ナムカラングは何事かを考える間もなく仕舞った短剣を手に取った。

 そうして呆然とこちらを見上げるイシュタルなんて思考の外にも追いやって、鈍く煌めく銀色を頭上高く振り上げる。

 

 ティアマトがダラ・アマデュラに掛けた、原初の呪い。

 彼女が生まれながらに持つ不完全さ故の不死を覆す、唯一無二にして残酷な抜け道。 

 

 『憐れなままで、可哀想な仔のままで、ずっとずっと、(いと)しいままで在りなさい』。

 

 壊れず、欠けず、損なわれず、変わらず、そして如何なる力をも己の物として取り込む力を得てしまった彼女は、もはや不死殺しすら恐るるに足りない。母の呪詛によって『死の概念』を定義された彼女は、最早大元の呪詛など無くとも不死殺しでは死ねない身体になってしまった。

 けれど、そこに脱皮による再生の概念まで付与されてしまうと、話は大きく違ってくる。

 確かに彼女は不死殺しでは死ななくなる。彼女の死は愛する者の手によってなされる、そういうものだと定義されているのだから、彼女は決して『不死』ではない。

 だが、彼女は既にいくつもの不死の要素を備えている。永遠、不壊、不朽、不滅、そして不変。そこに再生まで加えられてしまっては、いかに唯一無二の『死』といえど、心臓の一突きで息絶えられるかどうか。

 順当に理をなぞるのならば、確実に死ねた。そういうルールになっているのだからと、彼女は死ねた。

 けれども彼女は事実上、神話世界の理に縛られていない。一応属してはいるが、適応されるルールの境界は曖昧で脆い。それは偏に彼女の魂が正しく世界の外側から来たもの故の弊害と言えるのだが、今回もまた、例に漏れずに理から外れた。

 だからこそダラ・アマデュラは叫んだのだ。新たに舞い込んできた『再生』の概念は、呪詛による『離別』の傷すら何事も無かったかのように再生させてしまうだろうと、本能的に理解してしまったから。

 

 呪詛が完全に剥がれてしまえば、ダラ・アマデュラはこの先も永遠を生き続ける事になる。

 それは最愛の伴侶と交わした約束を違える事になる。誰とも別れない未来が、夫婦で共に微睡む幸福が、死ぬ。

 

 それだけは絶対にみとめない。

 それだけは、絶対に、いやだ。

 私から、おれから、愛しいひとを、とらないで。

 

 夢が終わる。

 束の間に煌めいた幸福な時が、目を閉じる。

 

 蛇龍の鱗とは比べる事すら烏滸がましい安い銀色が、血を吐くような絶叫と共に振り下ろされた。

 

 


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