離別の果てで、今一度。   作:シー

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 遠い過去だった今が始まる前のこと。
 畳んだ本を後ろから開こうか。そう、まだ本で言うところの本編だよ、ここは。
 そして、現在が彼等にとってのエピローグで、僕らにとっての……そうだな、第七章ってところかな。
 さあ、それじゃあ心して聞いておくれ。
 彼らの末期、その様を。
 そしてよくよく考えてこれからの事を決めるんだ。
 僕の話は『既に終わった神代の話』ではない。

 これは、『これから始まる、神代の終わり』の為の話なのだから。



第十一話:悲劇の終幕

 白く細い足首が水面に遊ぶ。とろけるような白を纏う花がそうであるように、彼女の眩い程白い脚にも青紫色の輝石が照り返した光が、そのまま水面の模様を彼女の肌に纏わせる。

 ぱしゃりと跳ねる水音は軽やかで、小さな水の粒が宙を舞う度に彼女の口から毀れる笑い声は密やかだった。

 此処には二人しかいないのだから、きゃらきゃらと声高に笑っても良いものを。そう思っても、彼はそれを口にしない事を選ぶ。

 遠い空の青は暑い季節程の濃さは無いが鮮やかで、そよと吹く風はひたすらに穏やかだった。それだけの理由で、彼はこの物語のような静謐を守るべく沈黙を選んだ。

 彼の視界には幻想のように美しい風景と、それを心穏やかに慈しんで楽しむ愛しい少女が一人。

 それだけの景色であるのに、なんと心充たされる光景か。少年は少女のいる世界の一幕を切り取っては、滴るほどの愛で蕩けた目で美しい時間を噛み締める。

 ほぅ、と持て余す程の充足感に小さく息を吐けば、耳聡く呼気を聞き取った彼女がゆるりと振り返り、柔らかな笑みを浮かべた。

 白金色のしなやかな髪が、刃を鞘から引き抜いた時のような硬質な音を立てながら滑らかに彼女の肩口を通る。

 そのままおずおずと伸ばされる白く幼い腕。未だに遠慮があるのだろうか、そんな自分に自信がない所が愚かしくてもどかしい、けれどそれ以上に愛おしい彼女の控えめなお誘いに彼は迷わず腰を上げ、それから酷く丁寧な所作で少女の柔らかな手に、発展途上ながらしっかりと男らしい硬さと武骨さを備えた手を絡めて、快活に笑った。

 

「……うそだ」

 

 どこもかしこも滑らかで繊細な造りの神殿の中、一等丁寧に心と執念を込めて創られた玉座に腰かけた彼の膝の上に、本来の玉座の主である少女が座る。

 酷く居心地が悪そうに身じろぎながらも、心なしか嬉しそうに頬を染めて彼の肩に手を添える様は、文句なしに愛らしかった。

 だから彼は心の底から彼女を賛美し、口説き、ぎゅうぎゅうとその矮躯を抱きしめて猫可愛がりする。歯止めが効かないどころか、そういった機構など最初から存在しないとばかりに振る舞う彼に、流石に少女も羞恥が過ぎたのだろう。薄紅に色付いた頬の赤は顔どころか全身にまで及び、肩に添えられていた手が流れる水のように止め処なく愛を吐く彼の口を塞ぐ。

 けぶる睫毛に囲まれた宝玉のような瞳を涙で潤ませた少女が非難の声を上げる。か細く震えるそれは、哀れさよりも愛らしさを掻き立てる要素になったのだが、そうとは知らない少女は必死になってどもる口を動かしては切々と彼の羞恥心の薄さを指摘する。

 けれど彼は、己の口を塞ぐ手をすぐさま外しにかかり、そのまま指を絡めて瑞々しい少女の手の感触を楽しみながら、切なく微笑む。

 

「こんな、まさか……こんなこと、うそだ」

 

 彼自身、自分の言動が傍から見て行き過ぎている自覚はあった。二人きりでなければ、否、二人きりでも相当恥ずかしい言葉を朗々と垂れ流していると、彼は顔にこそ出していないが、羞恥してもいた。

 けれど、と、少年は僅かに染めた頬を自覚しながら、真っ直ぐに膝の上で目を丸くする少女の耳に言葉を流す。

 羞恥心が無い訳ではない。歯止めが効いていない自覚もある。けれど、この()が僅かに許された夢だからこそ、それを永遠に近付けるためなら、おれは言葉も行動も惜しまない――と。

 瞠目を強める少女に、少年はより一層握る手と矮躯を抱え込む腕に力を込めた。

 離さない。逃がさない。何処へもやらない――だから何処にも消えないでと、全身で叫ばれるのは、切羽詰まった懇願で。

 どれ程言葉を重ねても、やはり一生分には程遠い。

 一秒の密度を深めても、積み重ねていけた筈の人生と比べてしまえば点でしかない。

 少年にはあまり学がない。運動能力と根性こそ目を瞠るものがあるが、兄の頭に入っているような美辞麗句は、少年の頭の中では点在する浮島の如き様相を呈しているだけで、埃を被った言葉たちはもう彼の中で意味を主張する力もなかった。

 

「いやだ……こんな、こんなのは、いやだ……いやだッ」

 

 その中でも辛うじて意味の解る言葉だけを、彼は必死になって重ねた。何度も何度も、風情も情緒も無いが、それでも尽きせぬ想いがここに在るのだと愚直に示し続けた。

 これが今口にできる言葉の精一杯ならば、いつ潰えるとも知れない時ならば、おれは馬鹿にでも何にでもなってあんたに心を注ぎ続ける、と。

 情熱的な言葉だった。けれど、その眼に宿る熱は彼女への愛一色には染まらない。

 渦巻く感情は、怒りと不満、そして不安。二人の幼い恋人に安穏を約束してくれない世界に対する、少年の心からの、憎悪。満ち足りた時間の中でも、不安は常に付きまとう。いつ終わるとも知れない幸福の中に、首を擡げて此方を窺う不幸の影を見出しては、それがうっそりと嗤う様に慄いた。

 

 別離は普遍。誰にでも訪れる絶対の約束。そう説いたあの日から、少年の心には闇が巣食う。

 

「こんなはずじゃ、なかったのに……もうすこし、あと、もうすこし、なのに……ッ」

 

 眠りを必要としない少女が、自分に合わせて微睡みを得て、安らぐ姿をみる度に。

 寒暖に害されない少女と二人、一枚の布の暗がりに潜んで暖を取る度に。

 食事を必要としない身体で、共に分かち合った果実を美味しそうに頬張る顔を見る度に。

 暮れ泥む空を見送りながら、不意に沸いた寂しさにそっと寄せた肩の小ささを想う度に。

 世界の彩を知らない少女が、少年が語る世界の厳しさと美しさを知る度に。

 朝に、昼に、夕に、夜に。

 錆びついた宝箱からそっと感情を取り出しては、恐る恐る指で拭って、ようやく本来の色で煌めくそれに、少女と二人で心を震わせる度に。

 目覚めの瞬間、彼女の「おはよう」で一日が色を付ける、その度に。

 

 少年の奥底で、闇は泣いた。

 

 泣いて、喚いて、もがいて、叫んで、引っ掻いて。

 そうして闇は、遂に限界の閾値を超える。

 最愛の少女、誰より尊敬して、誰より信じて、誰より憐れんで、誰より愛した彼女に刃を振りかざした、その瞬間。

 少年に巣食い、少年を満たしていた闇は我慢していた言葉を、愛惜(いとお)しくて仕方がない記憶(かこ)と共に吐き出した。

 

――あんたが死にたがっている事は知っていた。

――あんたが寂しがりなのも、よく知った。

――あんたの優しさは、甘い。甘いが、あんたには苦いんだよな、それ。

――それでも変われも報われもしないあんたを心底哀れに思うよ。

――そして、そんな自分を嫌いながら、それでも人を愛せるあんたが、愛しい。

――愛しい。うん、愛しい。愛しくて、可愛くて、眩しくて。

――そんなあんたの伴侶であることが、誇らしくて仕方ない。

 

――……(かな)しくて、仕方が、ない。

 

――仕方がない。仕様がない。如何しようもない。

――だってあんたと約束した。おれが、あんたに約束した。

――あんたの最期を、おれが、あんたにくれてやるって、言った。

――…………。

――……、…………。

――…………。…………でも、さ。

――でも、おれ、本気だったけど……あの時、本気でそう言ったけど。

――それでも、おれは、あんたともっと、生きたい。

――あんたの笑顔を、支えていたい。

――あんたの涙を、守りたい。

――あんたの怒りを、拾いたい。

――あんたの楽しみを、共有したい。

――ずっと、ずっと、もっと、ずっと。

――おれは、あんたと、生きていたい……生きて、いたかった。

――なによりも…………死んでほしく、なかった。

――……生きていてほしい。死なないでほしい。生きて生きて、生きてほしい。

――あんたの全てが、命が欲しいってのは、蓋を開ければ、そういう事で。

――笑って、泣いて、怒って、また笑って……そうやって、生きてほしい。そういう命であってほしい。

――そうだ。そうだよ、おれの願いは。おれの、本当の、心は、想いは、願いは。

 

「何で、おれは……あんたとの約束を、守れないんだよぉッ……!」

 

 何時だって、何処でだってそうだった。あの日、あの時、少女と出会った瞬間から()()だった。

 

「ああ、くそッ、くそがッ! なんで、あと少しッ、あと少しだけなのにッ!」

 

――あんたと一緒に死ぬことよりも、命も心もひっくるめた、あんたの全部を守りたい。

 

「あと少し……あと少しで、叶うのにッ! 大好きなあんたを、殺してやれるのに……ッ!」

 

――例え、それがあんたの願いを砕く、あんたにとって何より手酷い裏切りだとしても。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()――なんでおれはこんな時に、()()()()()()()()()()なんて気付いちまうんだよぉ…………!!」

 

――おれがおれである限り、おれはあんたを殺せない。

 

 だって、生きていてほしいから。

 殺したくないとかではなくて、大好きだから。

 命も魂も欲しくて焦がれて仕方がないのは、その末期の先すら欲しての事ではない……訳ではないけれど、本当は、欲しがって手元に抱え込んで、ずっとずっと守って、守り切って、その先もずっと生きていてほしかったから。

 終わるためにと理由を偽って、それを本心だと思い込んだ。けれど、本当の本心は何時だって心の奥底から必死に愛しているを叫んでいた。終わるためだなんて後ろ向きな愛ではなくて、例え彼女が独りぼっちになったとしても、終わりに夢を見ない――本当の意味で、前向きな生を歩んで欲しいという、どうしようもなく独り善がりで絵物語染みた、展望の無い理想を、叫んでいた。

 愛しているから、生きていてほしいから、殺せない。

 子供に許された無鉄砲なまっすぐさで神様に手を伸ばした少年は、共に朽ち逝く下心(こい)の奥底に、底なしの理不尽(あい)を抱えていた。

 これが大人であれば、また違った結末もあっただろう。抱えるものは同じでも、より多くの柵と壁にぶつかってきた大人ならば、もしかすると躊躇いを振り切るために『責任』や『良心』が最後の一押しを買って出てくれたかもしれない。

 だが、現実として少年は子供だった。大人顔負けの狩人で、一人前に独り立ちできるだけの技量を持っていても、経験と研鑽という点において、彼はまだまだ未熟な子供だった。声高に恋だ愛だと叫んだとしても、育ち切っていない理性はそれらに振り回されるばかり。そもそも制御しようとすらしていないのでは、大人とか子供とか言う以前の話。自分の感情に溺れて振り回されて突き動かされて……それが最良だった段階は、出会いの時点で終わっている。

 愛は全てに勝るという。その通りだ。愛は何にでも勝る。

 悪意にも、不条理にも、倫理にも、道理にも、困難にも、正義にだって勝つだろう。

 美しさで、清々しさで、潔さで、鮮やかさで、愛らしさで、清らかさで、哀しさで、惨さで、浅ましさで、しつこさで、穢さで、醜悪さで――愛は、他の何か誰かを圧倒して、潰して、足蹴にして、踏みつけて、上に立って、喝采を叫ぶ。勝利を、叫ぶ。

 

 そうして響く雄叫びは、自分以外の誰かを傷付けて止まない。誰かの屍の上でしか叫べない愛は、足下の誰かの愛を、ともすれば、それを捧げたかった誰かの心までも傷付ける。そんなどうしようもなく哀しいものだって、数多ある愛の形の、ありふれた一つでしかない。

 ナムカラングが選んでしまった愛は、それだった。

 何処までも大人ぶった子供(ガキ)でしかなかった少年は、今の今まで子供でしか在れなかった少女の願いを足蹴にした。

 

 これが、最後の裏切り。

 不朽不滅の永遠に絶望する幼子の唯一の希望が与えた、尋常ならざる理不尽。

 きらきらしい刹那を現と酔わせておきながら、その全てを夢にした、愛溢れる無情の一手。

 斯くして、最愛の夫、魂の伴侶であるナムカラングに裏切られたダラ・アマデュラは唯一の逃げ道を失った。

 子供同士の他愛のない口約束でしかないと、言うのは簡単だ。けれど、神と人、夫と妻、魂と魂の間で交わされて結ばれた約束を破るという行為は、子供の口約束だからと言い訳できない程に重い。

 積み重ねた時間を鎖に変え、語った夢を騙りにして、たった一度だけ許された機会をふいにした代償に、両者は消えない傷跡を掻き抱く。

 

 ナムカラングが滂沱と涙を流し、震える声で血を流す心を晒す、その数瞬前。

 彼が突き立てた刃は確かにダラ・アマデュラの矮躯を突き刺したが、ナムカラングの身体を支配した(こころ)は、刃の切っ先が僅かに心臓に触れた所でそれ以上の侵入を止めた。

 どんな鈍でも、どんな小さな得物でも、伴侶であればただ一度だけその命に届かせることが出来る呪いは、心臓(いのち)に触れた僅かな一瞬を()()()と解釈する。実際に彼女の命が奪われた訳では決してないが、それでも呪いは心臓に刃が触れ、そして手指の震えによって僅かに()()()瞬間に成就する。

 

 『ダラ・アマデュラは、伴侶の手で心臓に刃を突き立てられて、()()()()』。

 

 例え彼女の心臓が未だに鼓動を刻んでいても、一滴だけ血を溢して再生した心臓の傷が塞がりつつあったとしても、ティアマトの紡いだ呪詛は、剥がれ落ちていく彼女の()()()()ごと脱げてゆく。

 彼女を哀れむために、母に縛り付けるために紡がれた愛の言葉が、仄暗い希望が、ナムカラングの幼い恋情を道連れに剥がれて、逝く。

 事を静観していたバルファルクらの羽搏きも失せた無音の空間。しかし、すぐさま吠え猛るようなナムカラングの慟哭が静寂を割いて神殿を揺らす。

 火が付いたように泣き喚く彼の叫びに、しかしダラ・アマデュラは呆然と己の肉に埋まる刃を見下ろすばかりで、彼に対する反応が無い。一滴の血を溢したきりの胸を見下ろすダラ・アマデュラの身体から、ぬらりとした光を放って硬質化した皮膚が落ちる。

 あ、と声を上げたのは、イシュタルだった。悲恋の末路、悲劇の語り部に選ばれてしまった女神は、不意に感じた悪寒に身を震わせて白金の尾を引く皮膚を見送った。

 それが地面と触れ合う直前、千剣山の地下深くで蜷局を巻いていたダラ・アマデュラの本体からも、相応に巨大な外殻がぼろりと剥がれ落ちて、千剣山を大いに揺らす――否。

 

 ぼろぼろと外殻をふるい落としながら、ダラ・アマデュラの眠れる本体が――千剣山を大きく()()()()()

 

 剥がれていく呪いへの歓喜か、あるいは永遠の孤独への絶望か、頭脳体を介して齎された『死』によって始まった『再生』に、ダラ・アマデュラの本体はのた打ち回りながら己の住処である千剣山を抉り、削り、切り刻んで押し潰す。

 当然、千剣山の地下深くとはいえ、千剣山の内部で暴れられたなら神殿も無事では済まない。

 美しい白亜の世界は、今や瓦礫の雨に降られて見るも無残な様相を呈していた。

 けれども、誰もがその場を動けなかった。イシュタルはその場の空気に呑まれて、ナムカラングは泣きながら、それでも何か他に手は無いかと優しさ故の殺意と愛しさ故の無力さに挟まれて。そしてダラ・アマデュラは、受け入れがたい現実に打ちのめされて。

 三者三様の理由で、彼らは己の足を崩れゆく地面に乗せていた。

 

 ナムカラングの裏切りによって、ダラ・アマデュラの中で世界が急速に色を失っていく。

 彼の慟哭を耳にした時、彼女が最初に感じたのは途方もない罪悪感だった。彼の絶望を、彼女は誰より知っていた。多少の差異はあれど、彼の胸に巣食った絶望はきっと、あの日、ダラ・アマデュラが人の身体を得た時とほとんど同じ色形をしていたに違いない。あの泥濘に浸かるような幸福を、空々しい虚飾で塗り固めた癖に、ともすれば本物以上の柔らかさと温かさで虚しさを深めた幸福を、彼も食んでしまったに違いない。

 

「ごめん、なさい」

 

 天上の一部が崩落して、寝室へと続く道を一つ殺す。

 穏やかに体温を分け合って、呼吸を混ぜ合わせた柔らかな寝台へはもう戻れないのだろう。手を握り、肩を寄せ合い、時折唇を重ねるだけの児戯だったけれど、そこには確かな安堵があったのに。

 

「ごめんなさい……本当に、ごめんなさい」

 

 崩れ落ちる白の中、褪せていく視界とは裏腹に脳裏に映し出される映像(きおく)は鮮やかだ。

 滝のように自分に与えられる愛の言葉は稚拙だったが、必死になって連ねられる言葉の重さは、むしろ重ねるごとに増していくようで、面映ゆいと同時に切なさを覚えて泣いてしまったことを思い出した。

 きっと、あの時も彼は今この時を思い描いていた。ダラ・アマデュラの命を奪う瞬間、重ねた言葉も心も己の手で最愛ごとふいにする今を恐れて、泣きそうな声を溢れる愛で誤魔化していた。

 

「解ってたのに、本当は誰より、解ってたはずなのに」

 

 ナムカラングは、優しかった。我儘で、傲慢で、強かに自分の我を通そうとするけれど、目指して切り開く道はいつだって誰かの為の道だった。

 誰かの為に切り開いて均した道の先で、臆病さ故の必死さで強さを取り繕って、そうやって彼は笑っていた。そういう優しさを持っている人だからこそ、彼は今の今まで、あるいは今なお本気でダラ・アマデュラを殺してやろうと必死に思索を廻らせてくれている。

 そんな彼に、自分は一体何を強いてしまっていたのか。ダラ・アマデュラはいよいよ己の身勝手さに嫌悪以上の殺意を抱く。

 

「幸せに痛みを伴うのは、哀しいと……寂しいと、解り切っていたはずなのに」

 

 こんな優しい人の優しい心を傷付けてのうのうと笑っていた自分が信じられない。

 もう二度と味わいたくないと思った感傷を強いていた自分が殺したい程憎い。

 最愛の伴侶との永遠の別れが確定したことへの絶望が虚脱感となってダラ・アマデュラの身体に圧し掛かるけれど、それに潰されてへたり込んでしまうには、彼女の身の内を焦がす遣る瀬無さと自己嫌悪は余りにも大きく深かった。

 黄昏色の瞳に塩辛い水が満ちて零れる。確かな絶望で静かに白い肌を滑り落ちるそれに、ナムカラングの顔がくしゃりと歪む。

 まるで迷子の子のような泣き顔だった。寂しい、哀しい、辛い、痛いと訴えかけてくる顔。強がりな彼が見せた何一つ取り繕えていない顔は、心臓に届かなかった刃以上にダラ・アマデュラの胸を抉った。

 同時に、ナムカラングもダラ・アマデュラの涙に心を締め付けられていた。失意の淵どころの話では無い。まさしく失意の底、期待も希望も裏切られた彼女の泣き顔は、静かだからこそ自分のしでかしてしまった失態を浮き彫りにした。

 何もかもを諦めた顔で泣くダラ・アマデュラに、とうとう良心の呵責に耐えられなくなったナムカラングは震える身体で彼女をその腕に掻き抱く。

 「傷付けてしまってごめんなさい」と謝りながら自分の心を殺していく少女に、それは違うと言えたらどれほど良かったことか。

 しかし、心が追い詰められたナムカラングに彼女を気遣うだけの余裕なんてある訳もない。

 ダラ・アマデュラを傷付け、孤独を深めて地獄を深めたナムカラングは、これまでの幸福の過程こそ後悔しないが、自分がオストガロア擬きたちと同じだけ、否、ともすればそれ以上に酷い置き土産を残して逝ってしまうことを後悔しながら、ダラ・アマデュラの矮躯を己の全身で抱え込んで泣き喚く。

 

 これは獣の遠吠えか。それにしては酷く乱暴で切羽詰まった、聞くに堪えない泣き言だ。

 そんな事を思いながら、イシュタルはただただ静かに二人の永遠が終わる様を見ていた。

 望まぬ結末を運ぶための、いわば狂言回しのような役割を割り振られていたのだろう。イシュタルは一つの愛が恋を殺す様をじっとその目に焼き付ける。

 彼女には確信があった。ナムカラングの愛が、ダラ・アマデュラの恋が、こんな所で終わるはずがないと。

 

 こんな、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、と。

 

 イシュタルの予想は正しい。二人の物語は、まだあと少し残っている。

 生誕直後に産声を上げたティアマトの呪いが、漸く巡ってきた己の最後の舞台を今か今かと待ち侘びている。

 待って、待って、待って、待って、待ち続けて。

 そうして、天井どころか玉座の間自体が轟音を立てて崩落した、その瞬間。

 ちょっとずつつまみ食いをしながらも待ち侘びていた()()は、「もういいよ」の声も無いままに「もういいね」と二人の運命に手を伸ばし――『最愛の少女を取りこぼした少年』は、『千剣の蛇龍を殺した英雄』に()()()()()

 

 呪詛にとって、脱ぎ捨てられた外皮、外殻こそが女神ダラ・アマデュラの『死』の形だと、つい先ほど触れたと思う。

 ティアマトの呪詛はダラ・アマデュラの全身を余すことなく巡っていたが、その力がより強かったのは裏切りの切っ先を受け止める外殻であることは想像に難くない。

 でなければ、役目を終えた呪いは解かれて消えて然るべきであるのに、染み付いて定着するなどあり得ない。

 ダラ・アマデュラの死に方(おわり)がティアマトの逸話(おわり)と重ならない限りは――ダラ・アマデュラの死骸がティアマトのような末路をなぞらなければ――あまりにも無理が過ぎる。

 であるならば、剥がれた外殻と呪詛の行く末は、ただ一つ。

 

 殺され、剥がれ落ちたのは原初の姿。

 千古不易を謳う蛇龍の()()()()()()少年に、原初の母(ティアマト)祝福(のろい)()の位階に至った蛇龍の(いのり)が降り注ぐ。

 滞空できるイシュタルは、千剣山の最下層に倒れ伏すダラ・アマデュラの本体に頭脳体が溶け込む様を目にして、それから褐色の腕から最愛の少女を失った少年の顔が歪に歪む様を見た。

 決して少女を放すまいとしていた少年の周りを取り巻くのは、ダラ・アマデュラの()()()

 頭脳体を吸収して意識を取り戻した蛇皇龍が目にしたのは、絶望の底を飲み干した顔で笑む、()()()()()であることを止めた()()の姿。

 

 ただの人間の子供に過ぎなかったナムカラングは、壊れた笑顔でダラ・アマデュラの抜け殻に手を伸ばす。

 

「認めるよ。おれは弱い。あんたの全部を守りたいのに、あんたの全部を守れないほど、おれは弱い。だから、惜しい。悔しい。あんたの命が惜しい。あんたを残して逝っちまうとか、悔しくて悔しくてやりきれねぇ。そんなおれの弱さが、あのクソみてぇな神どもよりも腹立たしくて仕方がねぇんだよ」

 

 ナムカラングは、ダラ・アマデュラを殺した。正確には殺し損ねていても、確かに彼は彼女の心臓に刃を触れさせて、呪詛はそれを認めて剥がれた。

 

「ずっと思ってたんだ。優しくて、柔らかくて、あったかくて、愛おしい。そんな時間をあんたと過ごす度に、おれの奥の方で声がするんだよ。『殺したくない。笑っていて欲しい。だけど、例え泣かせてでも生きていてほしい、死なないでほしい。殺したくなんかない』ってさ。そんな風に泣き喚くオトナになれないガキの心抱えたまんまで、お前を殺してやれるのかって、心配だった……結果は、案の定こんなもんだったんだけどさ」

 

 ナムカラングが殺したのは蛇龍の王だ。

 原初の呪いが染み付いた王をその手に掛けて、蛇龍の帝に恋慕して、蛇龍の皇を心底愛した少年は、その手に「龍殺し」の栄光と「神殺し」の不敬を宿す。

 

「だから、こうしよう。おれはあんたを殺さない。殺したくないし、どうせもう殺せない――代わりに、()()()()()()()()()()()()()()()。だって、ほら、こうしてここに、それを叶える()()()()()()()()()()

 

 ダラ・アマデュラの抜け殻、蛇王龍の()()が――()()()()が、その身を相応しい姿に変えていく。

 己の弱さに泣いた少年が、非力なままで力を欲した。その末路、想像するに難くないだろうが、それでも彼は本気だった。

 本気で己の弱さを嫌って、けれど今から強くなる時間などなくて、だから目の前にぶら下がってきた力に安易に飛びついた。

 その代償に何を失ったとしても、彼にはもう、それしか道に見えなかった。

 

「いらねぇよ、人間で在ることの誇りなんて。あんたを殺し損ねた今となっちゃあ、そんなのはただのゴミだ。ゴミの為にあんたを失くしてたまるかよ……あんたの隣を手放してたまるかよ……ッ!」

 

 最初に成ったのは、大剣だった。

 次に片刃の太刀、小刀と盾、対の剣に、巨大な鎚、楽器、大ぶりな槍に、不可思議な機構を備えた槍のような武器、戦斧と続いて、また不可思議な機構の斧が、ナムカラングが触れた先から生じていく。

 巨大な羽虫が付いたような棍、形状からして王の持つ弩砲(ディンギル)に近い使い方をするのだろう二つの砲撃武器ときて、馴染み深いながらも特異な形状が目を引く大弓が成る。いずれも見覚えのある色形だ。親しみのある外見をしたそれらが命を刈り取る姿を取る様を目の当たりにしたダラ・アマデュラは、あぁ、とか細く息を吐く。

 一つ成る度に目減りしていく力の粘土はまだ半分以上も残っている。

 けれどその半分はこれ以上何かを形作ることなく、どんどん内へ内へと収束し、凝縮される。

 

 蛇王龍を屠った英雄には、祝福と呪いが刻まれる。

 それはかつて人間だった頃のダラ・アマデュラが見聞した設定でしかなかったはずなのだが、その設定を見事に準えて上回って見せた彼女の身体は、やはり設定に忠実な部分があったのだろう。であれば、魂から滲み出したその設定だけが都合よく除外されているなんて事もなく。

 ティアマトが原初に刻んだ呪詛は、嬉々として謳った。

 ダラ・アマデュラの外殻に染み付いて産まれた怨嗟と歓喜を叫ぶ詩を、しめやかに武器の中へと織り込んだ。

 

 蛇龍の王を屠った恐るべき斬撃の恍惚と恐怖。

 ――■■――

 必殺となった一太刀への希望と絶望。

 ――■■――

 ありもしない、めまぐるしい攻防の記憶。

 ――■■、■■――

 愛おしい骨肉を切り裂く快感と激痛。

 ――■■、■■、s■――

 あまりにも無慈悲な打撃の破壊と創造。

 ――■■、s■、■■、■■■■■e――

 耳を劈き心を割いて止まない狂おしい咆哮の歓喜と慟哭。

 ――■n■■s■■■e――

 呪詛を得るに至ってしまった鉄壁の守護への尊敬と侮蔑。

 ――■es■s■■■s■……siね――

 芽吹くなかれと必死に秘めた力の解放と封印。

 ――si■でし■え――

 哀憐に溺れたとこしえの秘術の発見と忘却。

 ――よkuも、よ■も■ろしteくれta――

 遠く輝く有為転変への恐れと憧憬。

 ――わたしの■を、わたしの■とsiごを――

 無垢な幼子には持ち得ない狡猾な知恵への憧れと嘲り。

 ――わたしのiっとuあわ■な、こども――

 裏切りによって齎される癒えぬ古疵への疼きと愛しさ。

 ――しね。の■われろ。のろ■れてしね――

 美しいばかりで終われなかった総毛立つ双眸への勇気と怯懦。

 ――ゆruさない。みとめない。ゆるsaない――

 ……安穏を求めて絡みつく身体への、愉悦と、後悔。

 ――こんどはおまえがなくしてしまえ――

 

 愛娘(ダラ・アマデュラ)を屠った怨敵(えいゆう)へと送られるそれは、所有者の魂までも殺し尽さんとする母の愛に染められている。

 しかし、当の蛇龍は己の身を貫いた英雄を愛している。故に、蛇龍の外殻に残り香の如く染みた恋慕の情が、母の紡ぐ新たな呪詛を宥めすかして混ざり融け合いながら、怨嗟の矛先を外側へと向ける。

 蛇龍の恋は、切に祈った。

 少年に、己の命に手を掛けた伴侶の魂に、どうか、どうか、どうかと……他の誰でもない、残骸である己自身に願う。

 

――安らぎあれ。

 貴方の一手に恍惚なんて無かった。貴方の心を占めた恐怖に生かされたのだから。 

――誇りあれ。

 あの輝かしい日々は、絶望に転じてしまう前、確かに希望だった。貴方は私の心を守ってくれていた。

――栄光あれ。

 攻められずとも、責められずとも、防げないものを防ごうとして泥濘を這った貴方は眩しい。

――寧日あれ。

 快感など無く、ただ激痛に苛まれるばかりだった貴方の心には休息が必要なのでしょう。

――誉れあれ。

 壊してしまうばかりの命に、この柔らかい手が花冠を作れると教えてくれたのは、貴方でしょう?

――癒しあれ。

 かつては歓喜に綻んだ心なのに、血を噴き出して慟哭する様は余りに哀しいから。

――義心あれ。

 この身の守りを侮蔑する私に、それは尊い贈りものなのだからと叱ってくれた声が嬉しかった。

――勇気あれ。

 自分を信じきれないと泣いた私の手を握ってくれた。震える硬い手は暖かくて、力強くて、哀しくて。

――叡知あれ。

 忘れることは寂しいけれど、悪い事ではないと語ってくれた貴方の眼には、私の知らない貴方が居た。

――革命あれ。

 変われない私が語る憧憬に、貴方は変化の恐ろしさを思って顔を伏せたけれど、否定しないでいてくれた。

――礼節あれ。

 悪知恵を働かせる貴方にはちょっと呆れるけれど、それでも悪い事はしなかった。悪い事にはしなかった。

――慰みあれ。

 胸の上を這う傷痕は疼いて止まないけれど、それでもこの記憶は愛おしいと泣く私に寄り添ってくれた。

――幸いあれ。

 殺してしまうかもと怯える私の眼を、ただ綺麗なものとして見てくれた幸福が今も胸を焦がす。

――繁栄あれ。

 共に熱を分け合った事を悔いはしないなら、あの実を結ばない、温いだけの悦びを覚えていてほしい。

 

 そんな、願い事。祈りと呼ぶには俗物で、欲というには一途な色で瞬く声が、ティアマトの呪詛と鳴き合いながらナムカラングに染みていく。

 ああ、と、ダラ・アマデュラは再度か細く鳴く。ぷつりと切れた心の糸は、始末の仕方が悪かったのか端っこに色々と感傷を引っ掛けてはほつれを加速させる。

 ダラ・アマデュラは白金色の蛇体をくねらせ、ゆっくりと降りてくる少年と粘土に首を伸ばす。正確にはその向こう側、千剣山の外側へと、蜷局を巻いていた身体を伸ばしてゆく。

 すれ違う瞬間、目と目を合わせた。出会った当初のように人の身同士での邂逅ではない、人間と神の邂逅。色形どころか生まれも存在も何もかもが異なり隔たり合う二人は、切れた糸の端を触れ合わせるように微笑みを交わした。

 これが最期だからと、ナムカラングは優しい顔に寂寥を滲ませてふうわりと儚く笑む。

 届かないことは百も承知で、離れてしまった手にもう一度あの熱を望むように、手を伸ばす。

 対して、ダラ・アマデュラの泣き顔は静かだった。蛇龍に戻ったからだろう、表情に大きな動きが無い。だが、美しい黄昏色の瞳から溢れる雫は止め処なく、時折喉奥から聞こえる嗚咽は悲壮そのものの声色で世界を揺らす。嫋やかに伸ばされた褐色の腕に、けれど蛇龍に戻った少女の剣呑で巨大な腕は、伸ばされない……伸ばせない。

 

「謝っても許されないことだって、解ってる。謝って済む事じゃないのも、解ってる」

 

 応えの無い腕もそのままに、ナムカラングは仕方がないなと小さく笑った。裏切りの憂き目に会ってなお少年の身体が欠ける事を恐れる少女の心の裡を察して、本当に仕方がないなと苦い言葉が零れ落ちる。

 けれど、祈りに犯されつつあるナムカラングは、それすら幸福だと言いたげに徐々に歪んで行く己の身体を抱きしめる。

 皇の位を得たダラ・アマデュラの白金色ではなく、王だった頃の白銀に、形見の黒鱗から溢れる冥府の陽炎を纏っていく彼の眼は至極穏やかだった。

 

「それでも、おれはあんたを誰にも渡したくなかった。あんたは、おれのお嫁さんだから――神様なんかに、一欠けらだってくれてやる気は、ねぇから」

 

 まるで死に瀕した老人のような透徹な目。己の死期を正しく見定め、受け入れた者の透明な眼が、転変しつつも変わらない淡く黄緑を刷いた灰色を湛えたまま、泣きじゃくる伴侶を前に心底愛し気に撓る。

 

「何時になるか解らないけど、一回死んじまうけど……ちゃんと、あんたの為に目覚めるよ。それまではおれを恨みながらでいいから……泣いても怒っても、どんなに辛くても……どれだけ待たせてしまっても、それまではどうか、生きていて」

 

 愛してるよ、おれの可愛い、たった一人のお嫁さん。

 そうして落下してく龍殺しにして神殺しの英雄(ナムカラング)を、神与の大地、千剣山の残骸が包み込むやいなや、そのまま荒れ果てた大地の奥深く、冥界に至らぬ場所に少年を誘い、匿った。

 千剣山はダラ・アマデュラの領域。例え千々に崩壊しようとも大地が大地として在る限り、千剣山は主であるダラ・アマデュラの意志に沿う。

 バルフルキ達と同等の時を過ごし、ナムカラングが訪うまでは誰よりも何よりも密接に彼女に触れていた大地は、己の上で育まれた愛情を慈しむが故に、己を夫君の墓標と定め、いつか還り来る彼のために墓守りの任を負う。

 千剣山の奥深くに抱え込まれた女神ティアマトの血肉を含まない大地の卵に、ダラ・アマデュラの残骸である粘土が染みた。成るべき形を持たないままでいた粘土は、圧縮に圧縮を重ねた末に一個の真珠ほどの大きさにまで小さくなっている。だが、もう既に粘土は己の行く先を定めていたのだろう。粘土の真珠はそのまま千剣山の卵の殻を抜け、内側で人間としての死を迎え、再編されつつあるナムカラングに溶け込んで消えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……私も、愛していますよ、私の格好良くて、格好悪い……優しい優しい、旦那様」

 

 ナムカラングの静かな死を見送った女神が呟く。

 地に落ち行く伴侶を尻目に天を目指す彼女を、今度はイシュタルが見送る。

 通り過ぎ様に翻った尾が、風に嬲られた女神の艶やかな髪を幾房か切り落とすも、イシュタルは僅かに欠けたそれを無視して、ただ只管にダラ・アマデュラの行く末をその眼に映す。

 この場におけるイシュタルの役目は、記録者だ。物語の読者、あるいは奇跡の目撃者。誰も見た事のない真実を余すことなくその眼に映し、それは確かにかくの如く在ったのだと、夢幻に淘汰されかねない存在を証明するための、証言者。

 

 その日、イシュタルは一人の少女の終わりを見た。

 白金色に煌めく巨大な凶つ星が、数多の流星を引き連れて大地から天へと遡る様を見た。

 逆流する滝。夜天を染め上げる光の瀑布。それはまるで太陽が夜を殺し尽さんと燃え盛るようにも見えた。

 蛇龍の胸殻が朱の線を引く。明滅を繰り返す光は次第に星の内海の色に輝き、漏れ出る燐光はそのまま触れるもの全てを虚無へと変えた。

 この時、自分は、美の女神である自分は、初めて自分以外の誰かが持つ美しさに涙を流した。

 甲高い音を立てて空に殺到するバルフルキが敷いた白銀の河を、か細く精緻な刺繍のように繊細な白金色の蛇体がうねりながら泳ぐ。蛍火さながらに残される内海の燐光と、消えてゆく世界の色と、消えた後から顔を出す虚数空間の寂し気な色が、ダラ・アマデュラのぐちゃぐちゃになって置いてけぼりにされた心の裡を表しているようで、どこかもの哀しい。

 

 けれど、少女の愚直さで煌めくそれらは、哀しいけれど、美しくて。

 

 イシュタルは誰よりも神らしい女神だから、人間の心の機微なんて欠片も解らない。

 けれど、どんな人間の心にも寄り添えないからこそ、観賞し批評する()()()()としての視界で、イシュタルはダラ・アマデュラの突き抜けすぎていっそ尊くすらある愚かしさを賛美する。

 

「確かに、あんたは気に入らない女だけど――その卑屈さを抜きにしたら、案外嫌いじゃなかったわよ、この愚妹」

 

 最初は、恋人に取り立ててやった人間に蛇龍より下に見られたことが気にくわなかった。

 怒り心頭で顔を合わせた時は、自分に敵うものなんて殆どいないと驕っていた所で無様を晒す羽目になったから、嫌いになった。

 嫌いだった。馬鹿にした。実際今も馬鹿だと思っているし、間抜けだとも思っている。純然とした神として生まれておきながら、何物にも成り損なう有様は哀れであるけれど、イシュタルに言わせてみれば馬鹿も馬鹿、大馬鹿だ。弱者の代表格である人間の精神性に寄ってしまっているからそんな風に無様を晒すのだと、何度声高に扱き下ろしたかしれない程、イシュタルはダラ・アマデュラの在り方が大嫌いだ。

 命の危機に瀕するほどの怒りを叩きつけられ、嫌という程格の違いを明確にされても、イシュタルは『イシュタル』であるが故に、蛇龍を下に見て足蹴にする事を止められない。

 なにせ気にくわないのだ。力あるモノの癖に、卑屈になって現状を打破しようと足掻かないダラ・アマデュラの卑屈に甘んじた生き方は、艱難辛苦は踏破するものだと当たり前に思っている女神イシュタルを苛立たせる。

 けれど、言ってしまえばそれだけだった。イシュタルが心底気にくわないのは、その一点だけ。それ以外のあれそれは言ってしまえば些末なことで、一度憂さ晴らしをすればそれで終わるだけの、その場限りの怒りだった。

 だからバッバルフを八つ裂きにした時はそれで満足したし、聖像の破壊を唆した時は多少燻るものは残っていたが、余裕綽々で慢心していた。

 尾を引いたのは、偏にお互いの性格の不一致が致命的なレベルだっただけ。一方的な敵視ではあったが、純正の女神であるイシュタルは、同じく純正の女神である癖に、ただの自鳴琴(オルゴール)に甘んじていたダラ・アマデュラが理解できなくてむかついていただけの事だった。

 

 究極的に前向きな女は、破滅的に後ろ向きな少女を見送る。

 両者が多少なりとも中庸に近寄れていれば、あるいは姉妹仲良くじゃれ合い程度に喧嘩(ころ)し合う未来もあったのかもしれない。誰に語るでもなくそう独り言ちるイシュタルの視線の先で、最期の悲劇を彩る小さな絶望が花開いた。

 

 逆流する流星の群れの先、天上を覆う夜の帳には星々の代わりに数多の神々がさんざめいていた。

 皆、いずれもがダラ・アマデュラの死を見越して、骸の粘土を捏ねようと集まってきた者どもである。後世に名も姿も伝わらない雑多な神々のさらに上、彼らの頭上に足の裏を見せる創世記の英雄神たちの姿を前にイシュタルが失笑を溢す。

 誰もが手を拱いていた怪物の死を予見して喜び勇んで来た者共の、あの呆気にとられた間抜けな顔と言ったら! ぬか喜び此処に極まれりといった様子の彼らに、ダラ・アマデュラの敵にすらなれないと太鼓判を押されたばかりか、今まさに見殺しにされかけた女神は愉悦に満ちた顔で彼らの絶望を嗤う。

 

「ざまを見なさい、お偉方。私を捨て駒扱いするから自分たちも牙を剥かれてしまうのよ。それに、この程度で絶望するなんて情けないったらないわ。あの子の絶望の深さを知ったら、もう消滅してしまうのではないのかしら?」

 

 まぁでも、私達は神である以上、あの子のこれまでの悲哀も、これから負ってしまう心の傷も、何一つ真に理解する事なんてできないのだけれど。

 詮無いことを考えてしまった。イシュタルは一呼吸おいて厭らしい笑みを収め、問答無用でマルドゥーク神に吶喊する蛇龍と――その蛇龍から、身を挺してマルドゥークを守ろうとするムシュフシュを見た。

 ティアマトの十二の怪物の一匹、バビロンの竜・ムシュフシュ、改め、神々の瑞獣・ムシュフシュは、神々より巨大だが妹と比べれば何回りも小さい身体を全て使い、己の主と定めたマルドゥークを突き飛ばす。

 けれど、ダラ・アマデュラはマルドゥークに向かって突っ込みはしたものの、報復にと持ち出したのは己の千剣の鱗ではなく、神を殺し世界すらも殺してしまえる、星の内海を凝縮した熱線で。

 結果として、ダラ・アマデュラは己の兄であるムシュフシュの長大な角を一角と、斧を振り上げた英雄神マルドゥークの腕を熱線で焼き飛ばした。

 周囲に集る神々はバルフルキの大瀑布が上昇途中で神威を自分たちの威圧を咆哮で打ち砕き、返す刀で襤褸雑巾に仕立て直した。

 意図せず兄の身体を削ったダラ・アマデュラと削られた兄はといえば、お互いにこの結末が解っていたのだろう。ただ一度、小さく苦笑を交わして手を伸ばし合ったかと思えば、その冷たい温度が交わらない内にムシュフシュは余りの痛みに恐慌をきたして泣き喚く主を落ち着かせるため、己の命を八つ当たりで散らす。

 ささやかな報復を成したダラ・アマデュラは、そのまま神々の血肉に塗れて舞い戻ってきた眷属群たちと同じように、再び千剣山の大地へとその身を落としていく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 けれど、幾千万もの剣鱗を纏う蛇体が大地を抉る事はなかった。

 ダラ・アマデュラとバルフルキらは、蛇龍の胸郭の内から溢れ出す燐光が導くままに、燐光が綻ばせた世界の隙間へとその身を落として以降、二度と神話の舞台に立つことはなかった。

 

 

 世界が焼かれる、その時までは。

 

 




 これで、おしまい。
 これでメソポタミア神話でのダラ・アマデュラの記述は絶える。
 その後、イシュタルは見届けた者の義務としてこの顛末を石板に残せと人間に命令したんだ。それが君の時代に伝わる世界最古の悲劇『千の剣を鎧う女神』さ。
 この話が彼女がメソポタミアで生きた最後の存在証明。
 千剣を鎧う蛇体の女神、ダラ・アマデュラは、これ以上の逸話を生み出さない。

 けれど、何の因果か世界は焼けて、神代は再び日の目を拝んだ。
 だからきっと、彼女の夢も陽の光に目を覚ました。
 彼女の夢は、実のところとても小さい。
 未だ癒えない悲しみに震える、他愛のない、小さな夢だ。
 僕としては叶ってほしいものではあるんだけどね。
 ほら、僕そういうの好きだし。

 でも、今は事が事で、敵が敵だから、ちょっと覚悟しておいてほしい。
 彼女の夢そのものではなくて、彼女の夢を叶ようと足掻く者と、叶えるべく目覚めるだろう彼女自身と、そして何より、彼女の夢が叶った先に待つものを。

 今回の特異点は一筋縄ではいかない所の話じゃないってことを、よく肝に銘じておくんだ。

 ねぇ、人類最後の希望。星見台の子。数多の英霊を従えるマスター。

「君は、覚悟を決めた幼子の前に立つ覚悟はあるかい?」

 活気づくウルクの喧噪を遠くに聞きながら、人でなしと称された稀代の魔術師は、人類の未来を背負った少年の青い瞳を何時になく真剣なまなざしで見据えていた。




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