といっても、まだ物語は始まったばかりだけれど。
どうせ短いお話だ、ちょっと端折っても長さはそう変わらないさ。
事の発端は、原父アプスーが新世代の神々の騒々しさに耐えられず、彼の神々の殺害の企てた事だった。
真水の神アプスーは新しい神々を殺そうとしたが、知恵の神エアの計略によって逆に反旗を翻されて殺された。世界の支配権を得た新しい神々に、しかしティアマトは彼らの行いを容認した。全ては子供たちへの愛ゆえの承認であった。
だが、神々はティアマトの慈愛すら足蹴にして、母に向かって剣の切っ先を向けた。新しい神々は、古き神である母の存在を認めなかった。
愛した子供たちに裏切られたティアマトの悲しみは凄まじく、彼女は嘆き狂い、己の毒から新たに十一の魔獣……神殺しのための怪物を産み、新しい神々との対決に乗り出した。
そして、今日、キングゥがマルドゥクの威容に屈したことで十一の魔獣の全てが下され、ついにティアマトが表舞台へと躍り出る。
勿論、そこに十二番目の子供の姿は無い。
マルドゥクは
原初の神との戦いは熾烈を極めたが、ティアマトが大口を開けてマルドゥクを飲み込まんとした時、ここが攻め時と見定めたマルドゥクの操る烈風によって口を閉じられなくなり、その隙を突かれ、ティアマトの心臓は彼が放った矢に射抜かれ、絶命した。
絶命の瞬間、ティアマトは断末魔を上げた。
悲痛に彩られたその咆哮は世界の果てまで響き渡り、母の編み上げた結界内で小さな幸せに笑みを溢していた愛娘へと届く。
竪琴を荒々しく掻きならしたような悲鳴だった。苦しげで、哀しげで、深い絶望と憤怒を秘めた絶叫だった。
自らを裏切った子供たちに、母を容赦なく切り捨てた子供たちに対する、失望の音色だった。
神話に語られる創世は、ティアマトの亡骸によってなされた。
威容に屈したキングゥの血は神々の労働を代替する『人間』の創造に。子を想い子に殺された母ティアマトは『天地』の創造に。
二つに裂かれた母の亡骸は天と地になり、豊かな乳房は山になり、慈愛に溢れていた双眸からはチグリス川とユーフラテス川が生じた。
しかし、ティアマトの死後、その亡骸が二つに裂かれる前に、もう一つ戦いが生じた。
母の作り出した檻から猛然と飛び出したダラ・アマデュラが、ティアマトの亡骸に手をかける神々を払いのけ、七夜八日ティアマトの亡骸を守り通したのだ。
ダラ・アマデュラはただ守りに徹し、決して自ら手を出すことは無かった。慕う兄を斃され、信じていた兄に裏切られ、愛する母を殺されてなお、彼女の心は憎悪を抱くには弱すぎて、憤怒に身を任せるには理性が勝ちすぎた。
難儀な在り方を強いられたダラ・アマデュラの絶望は神殺しの焔を纏った凶つ星を呼び、近付こうとする神々を遠ざけた。
制御もままならない憤怒の焔が胸から溢れるのなんとか抑えようとしながら、散った燐光で放たれる風や水、炎を防ぐ。
ただ在るだけで全てを威圧して止まない巨躯と備わる剣鱗は、雨のように降り注ぐ矢や槍や剣撃の全てを弾き、そして破壊する。総力戦に持ちこんだ七日目の夜には、呼ばう星から眷属として竜を成して見せ、数多の権能への牽制とする。
その間に成された問答で、ダラ・アマデュラはただひたすらにこれ以上同族の血を流すことの無為を説くことと、母の亡骸を辱める意義を問う事に終始した。
向けられた回答が罵声交じりの嘲弄や、母を無用の長物と呼ぶ心無い言葉だったとしても、彼女はただ一人、母の為にと身体を張って言葉を尽くした。
言語によって
ただ一心不乱に母の亡骸を辱められまいと己が身を以って防衛に努めていたダラ・アマデュラだったが、八日目の朝、マルドゥクに下った兄らの命を人質にされたことで不意を突かれ、母の亡骸を奪われてしまった。
善は急げとばかりに勢いよく引き裂かれる母の姿に、遂にダラ・アマデュラの絶望は奈落の底を抜け、銀の鱗は白金に煌めき、青く美しかった剣鱗は不穏に輝く赤に染まり、迸る絶叫は未だ天にならぬ空漠を焼いた。
砂粒のように砕かれた心で言葉にならない痛みを吐き出すダラ・アマデュラだったが、駆け付けたギルタブリルの「母ティアマトは今や天地となった。お前が暴れれば暴れる程、母の亡骸は削られ、砕け、燃やされるだろう」という言葉によって絶叫を飲み込み、焔を胸の内に押し込み、身体の内側で暴れ狂う激情を心ごと押し殺してみせた。
ぴたりと止んだ神殺しの力に、神々は好機とばかりに彼女の体にありったけの暴威を振るうが、それでもダラ・アマデュラの鱗は固く、鱗の一枚も剥がれず、結局神々が疲労困憊するだけに終わる。
そこで神々は一計を案じ、もはや生きる気力など絶無と言わんばかりに昏い眼をして項垂れるダラ・アマデュラを、もう一度ティアマトが作った檻の中へと封じる事にした。その際、彼女の眷属である凶つ星はアヌの支配下にある星々の兵が監視することになった。
しかし、ティアマト亡き今、壊れた檻の中に……それも封じとしての意味など殆どなかった籠の中にダラ・アマデュラを封じられるのかと言えば、当然のごとく否である。故に、神々は秩序を以って彼女を一所に留める事にしたのだ。
まず第一に、ダラ・アマデュラは神々の許可なく檻を離れる事を禁じられた。そして第二に、彼女が生まれ持つ、役割を必要としない権能、つまり混沌の使用による生命創造、恣意的な天変地異の発生といった権能は禁止された。
凶つ星の招来と眷属化、万物を灰燼に帰す炎と神殺しの肉体も徹底的に封じるべきだと神々は声高に叫んだが、下った兄らの懇願と、何より千剣の肉体をどうこうできる力量を持つ神が一柱も居なかった事から、完全禁止ではなく『ダラ・アマデュラと神々の間で約定を交わし、それを神々の側が犯したとき以外は禁止とする』とされた。
一応、役割として得た権能である歌は、特に禁じられたわけではないのだが、精神的に徹底的に打ちのめされたダラ・アマデュラに他者を慰める余裕も自分を鼓舞する気力も無い。
失意に沈むダラ・アマデュラと疲労困憊した神々が交わした約定は、ただ一つ。
「如何なる理由があろうとも、
数十年、数百年経とうとも、決して破られないだろう約定だった。千剣を纏う蛇龍の住まう檻は、峻厳を極めた山中深くに存在するものだったから。
故に神々は安堵していた。たったこれだけの何てことない約定一つでかの威容を封じ込めるのならばと、安心しきって、慢心しきって、そして忘れたのだ。
しかし、ギルタブリルら神殺しの兄弟は警戒し、悲観し、そして決して忘れなかった。
神話に語られる事の無い、もうひとつの事の顛末。
天地創世の概念のみを借用して成された大地の果て、母なるティアマトの真の玉体は裏側の世界ですらない、虚数世界へと捨てられ、封じられた。不要な物として廃棄されたティアマトは、失意の底で啜り泣く。
その母に向かって、ただ一柱、ダラ・アマデュラだけが拙い声で母を呼び、戒められた身体を震わせ這いずり、太く短く剣呑な腕を精一杯伸ばしてすがった。
全身で泣きながら母を呼ぶ幼子に、一瞬ーーそう、ほんの一瞬だけ、ティアマトの眼に理性が灯った。
愛玩に貶めた我が子の、そうと知りながらも母を愛してやまない哀れな有り様に、ティアマトは背筋が震えるほどの歓喜と後悔、それ以上の愛を懐く。
けれど全ては遅きに失した。母の呪詛は今更解けるようなものでもなく、理性に認められ芽生えた真の愛も、永久に別たれる二柱の間には傷しか生まない。
けれども、と母は、怪物の兄たちは、末の妹は手を伸ばす。
決して届かない手と手の間に、確かに繋がる何かは在ると信じて。
そうして虚数世界へと消えた母を見送った兄たちは、今度こそ心を閉ざした妹を見上げて、思う。
育つ事すら許されない、この哀れに過ぎる妹に掛けられた母の呪詛は、呪った当人が消えたからと言って解かれる類のものではないと。
その慈愛は、色形、対象こそ違えど、喪失を恐れ哀しむ心から発せられたもの故に……今この瞬間、妹に愛を向けた母自身が失われたことで完成したが故に――
――失うべき他者の存在が、必要不可欠であることを。