離別の果てで、今一度。   作:シー

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さて、結果はもう見えているだろうけれど、それでも語ろう。
意味も意義も見失うよう目隠しをされた、哀れな女神の怒りの矛先がどうなったのか。
第六の裏切り、その果てに失ったものは……見えたものは、何なのか。
予定調和の結末だ、どうか安心して聞いておくれ。





第五話:埋火

 悪名高い美の女神が、未曽有の大災害を叩き起こした。

 ウルクの都市神として崇められるイシュタルは、なるほど、この世の至宝と称えられるだけの美貌は持っていたが、理性的に物事を考える頭は持っていなかったらしいと、今更ながらの感想を抱きながらその兵器は遠い空を見上げた。

 神とは押しなべて我儘で気位が高い。矜持を傷付けようものならば何十倍どころではない報復が待っている。己の所有物に対して「持っている」ことに満足して見向きもしない風であるが、油断して手を出せば存在ごと全力で否定しにかかるのが神だ。

 そんな傍若無人がデフォルトの神々の中でも、特に手に負えないものがイシュタルという女神だった。

 他の神以上に我儘で矜持が高く、気まぐれで奔放な癇癪持ち。さらにこの女神はメソポタミア神話の中で権力的にも実力的にも指折りの強さを誇るのだから性質が悪い。

 そもそも神に人の心など解るはずが無いのだ。神という生き物は基本的に生まれながらに完成している。己の領分を隅々まで知り尽くし、その範囲で何の不自由なく十全に真価を発揮することを当然の権利として持ち得た彼等は、人生の果てさえ未完成のまま終わる命と同じ視点に立とうとすら思えない。

 人間が獣の気持ちを完全に理解できない事と同じだ。か細く鳴いている、腹を空かせているのだろうか。尻尾を振っている、機嫌が良いのだろう。じゃれついてくる、遊びたいのだろうな。そんな大雑把な観察と理解が、神と人の現状であった。

 彼女のみならず、神々は人の精神機構を理解しない。万が一、いや億が一の確率で神が人の心に近付くとしても、それは遠い未来に起きるかどうか、奇跡とも呼べない幻の果ての幻想に過ぎない。またその幻想すら、近付くだけであって完全に重なることは無い。

 なにせ在るべき世界も競う格も持ち得る力すら規格違いなのだ。それこそ、ダラ・アマデュラのように人の魂を持ち得てでもいなければ、神が人を同列に扱う事などあり得ない。この場合、特殊なのはダラ・アマデュラの方だ。イシュタルの方が神としてはスタンダードな部類だと言うのだから、この世界も業が深い。

 

 その神々の常識から並外れて性質の悪い女神が、神々の中でも最高レベルの変わり種と名高い女神を……大人しく寝ていた人畜無害であるはずの幼子を全力で殴り起こしたと聞いた時、同じく傍若無人だがかの女神と比較するとまだ真っ当な部類に入る時の王、ギルガメッシュはイシュタルを声高に扱き下ろし、怒りのあまり宮殿の一角を吹き飛ばした。

 女神ダラ・アマデュラといえば、創世神話に語られる堅牢無比にして強大な肉体と力を持つのに、不遇である事を強いられたような女神である。

 その身はエビフ山よりも峻厳な山々の奥深くに封じられ、生きる以外の殆どを許されていない。だのに、兄や姉である神々に盾突くことも出来ず、八つ当たりすることも出来ず、ただ時折訪れる来訪者に心を癒されては裏切りの憂き目に遭うばかり。

 ギルガメッシュでさえかの女神に関しては決して触れようとはしなかった。女神の『何者にも成り損なう』性質に適う礼装も神器も存在しなかった事と、もう一つ、ダラ・アマデュラという女神は関わり方さえ間違えなければ、あるいは関わらなければ、いずれ神々と共に伝説となり果てても人の進歩を是として黙認する珍しい神格であったが故に、女神に約束された喪失の憂き目に巻き込まれる事を厭った王は、ダラ・アマデュラに関しては生涯不干渉を貫くつもりであったのだ。

 それ程までにかの女神は人に近く、それでいて何もかもを諦めていたと言える。

 そんな女神が、野に放たれた。銀に煌めく竜を星と降らせ、神殺しの焔に殺意を込めた熱線を放つ。そうするだけの事をされたのだと、ただ感じる痛みをそのまま叫び声としたような咆哮が世界を軋ませる。

 凝縮された痛苦と悲哀、燃え盛る憤怒と凝る憎悪をぐちゃぐちゃに混ぜた声に、きっと誰もがそれを己の感情と錯覚しただろう。

 ギルガメッシュはそうではなかったのか、それとも錯覚してなお押し殺したかは解らない。けれど思うことはあったのだろう。天の鎖、ギルガメッシュ王唯一の友であるエルキドゥが横目に王を見る。

 彼の眼は相変わらず険しいが、微かに聞こえた声は確かに「憐れなものよ」と憐憫の言葉を紡いでいた。

 ふと、清々しい程に青く染まる空に紫が混じる。女神の先触れの星が空の向こう側を引き連れてきたのだろうか。夜空よりも美しい紫と藍の入り混じる宙を神殺しの焔を纏った流星の群れが駆け抜け、逃げ惑うイシュタルに追い縋っている。

 時折耳に届く聞くに堪えない罵詈雑言を掻き消すように、イシュタルのエアンナの一角が爆ぜる。どうやらイシュタルの弓撃をすり抜けた一頭が壊したようで、地に降り立ったバルフルキ……女神の眷属龍バルファルクはそのまま地上から砲台よろしく高密度の龍気を弾として打ち出し、イシュタルを狙い撃つ。

 地上に降り注ぐ彗星の銀雨、天へと上る赤い憎悪に、空を切り裂く金の一筋。いっそ幻想的でさえある殺意の応酬の合間、まるで耳鳴りのような甲高い音で舞う星の竜が、重苦しく響く声で「死ね」と鳴く。

 よくも、よくもと、喪った朋友の命を、失ってしまった主の悲しみを想って、竜が哭く。

 神の怒りに触れた後、これから大災害に見舞われる前兆にしては無性に美しい景色だった。

 

「ねぇギル。なんでダラ・アマデュラはああも憐れに生まれてしまったんだろうね」

 

 天上の宙に覆われていく世界の中でエルキドゥが傍らの友に問いかければ、ふん、と仕方なさげに息を吐かれた。聞くまでも無い事を問われたからだろう、王の眉間の谷が少し深くなる。

 

「何を言うかと思えば、知れたこと。そんなもの、あの女神がそうあれと望まれ、それを強制されたからであろうよ。まぁ、その望みもすぐさま間違いとして処理されたようだがな」

 

 「まったく、神というのも不自由よな。特にアレはそうだ」。律儀に返答する王の眼が剣呑に細められる。「学べども成長する余地も無く、全て後手に回るしかないというのは、なぁ?」。

 細められた目に宿るのは焦燥だった。女神を哀れみつつその脅威を疎み、忌むギルガメシュは、赤い瞳の奥で恐るべき蛇体の神格を見定めるが故に恐れていた。

 珍しく正直に焦っている王に、傍らの友は然もありなんと内心で深く頷く。あの女神の進行方向にはイシュタルが――ひいてはウルクがある。凄まじい速度で迫ってくる女神の蛇体が近付くにつれて、改めて実感させられる巨大さ。それはそのままウルクの脅威に直結するのだから、無関心でなどいられない。

 空漠を染め上げる宙が波と撓む。遠目に見えるようになった星色の蛇体がうねりながら哭く度に遠景に臨む山々までもが歪み捩じれて逆巻く風に哭く。

 原初の塩水、神々の母ティアマトが生んだ最後の女神。『不朽不滅を謳う帝』『千の刃を鎧う塔の如きもの(ダラ・アマデュラ)』の名は伊達ではないと見せつけてくる剣の如き鱗は、なるほどと手を打ちたくなるほどに鋭く、それでいて遠くからでも肌を刺し貫かれる錯覚を与えてくるほどに硬質な美しさで煌めいている。

 幾千もの剣鱗に蹂躙された風音が、すすり泣く声にも似た悲鳴でウルクを包み込む。女神の慟哭とすすり泣く風が、人々の胸中を暗澹とした冷たい水で満たしていく。

 これぞ歌舞音曲を司る女神の権能、その余波。声一つ、音一つで世界を安穏に導くことも、滅ぼすこともできる音の強権を持つ女神の咆哮が、ついにイシュタルの天弓(マアンナ)を捉えた。

 

「――どうして……どうして、どうして、どうして――どうしてですか、イシュタルお姉様!!」

 

 母の亡骸である大地を損なわないために空を切って泳ぐ蛇体が星々の煌めきを照り返す。滂沱と溢れる涙が山野に降り注ぎ、頭上で吠え猛る蛇龍に怯える獣たちを悲しく濡らす。

 心の底から湧き出る煮えた憎悪を持て余しながら、それでもイナンナ……イシュタルを姉と認識して呼んでしまう女神の情に、塩辛い水に溺れかけた獣が驚きのあまり女神を見上げた。

 イシュタルを姉と呼ぶ彼女に、一瞬誰もが言葉を失う。ギルガメッシュも、エルキドゥも、ウルクの民も獣も、イシュタルすらも絶句して涙に暮れる巨体を見る。

 

「どうしてあの人を……バッバルフを殺したのですか? 私の友を……愛弟子を、貴女の恋人を! あんな、あんな無残に……どうして……どうして!!」

 

 世界を揺さぶる慟哭は猛々しく荒々しいのに、嗚咽に混じる声色は幼い少女のそれであった。

 神は生まれた時から完成している。それ以上の成長も退化も知らないとばかりに生まれ出でるものが神なのだから当然だろう。

 しかし、それでも神は変化するのだ。他者との関わり、時間の経過、人の想い、その行動によって、神は変化をもたらされる。それは決して良いものばかりではないだろう。時には貶められ神格を失う事さえある。

 けれどダラ・アマデュラは変われない。いくら他者と関わり友誼を結ぼうが、いくら他者と心を結んでその言動に揺さぶられようが、それでもダラ・アマデュラの神格は、権能は、その精神は、生まれ落ちた直後の状態から決して変化する事がない。

 そうあれと望まれて紡がれた呪いは、何時まで経っても彼女の優しさを強さには変えてくれない。

 だからダラ・アマデュラは、幼子の声色で泣き続ける。親子の情を信じて愛し続ける。手元に吹き込んできた砂塵を宝ものだと愛でながら、握り潰すまいと広げた掌の上で砂をあやす。そしていつか僅かな風に吹かれては零れ落ちる砂を想って、傷ばかりを増やしていく。

 そんな哀しい生き方しか知らない子供が、怒りに吠えた。

 やはりその声色は幼くて、隠すことを知らない心根のまま素直に人の胸を打つ。

 

「同じ子供の癇癪でも、かの蛇龍の方が余程慎ましやかで聞き苦しくないな」

 

 ぽつりと嘯くギルガメッシュに、エルキドゥが頷く。

 世界を殺せる災害が放った情に満ちた言葉は、ギルガメッシュの瞳から僅かに険を削いだ。神性は、否、神霊と呼ばれるものは須らく嫌い厭い疎むギルガメッシュだったが……自分が嫌う神霊らしからぬ女神の有様は、愉悦を知るギルガメッシュに享楽よりも憐憫を抱かせた。

 自らの価値を率先して貶めていく様は無様であった。自らの国を荒らす所業は憤怒の対象である。そもそも神格であるというだけで腹立たしく忌々しい。

 けれども――願った端から奪われて、望もうものならば喪失の憂き目にあう幼子を前に愉悦を感じて高らかに笑える程、ギルガメッシュは女神ダラ・アマデュラに失望してはいなかった。冷酷無慈悲で無情だと言われもするが……友を想って自制を捨てた彼女の姿は、いかに女神とはいえその枠で一括りにしてしまうには、あまりにも人間(・・)らしいひたむきな愚かさに満ちていた。

 だからこそ、ギルガメッシュはダラ・アマデュラを例外に据え置く。何者にも成り損なう上に非情にも成り切れないからこそ、ダラ・アマデュラを幼子に区分し、憐憫の対象に入れ込んだ。気に入る気に入らない以前に、そもそも幼子なのだから何をしようが仕方がない。となれば、歌舞音曲を司る神格ゆえに語る言葉に嘘を交えない率直な有様は、むしろ彼の眼には好ましい部類に映る。

 ダラ・アマデュラを慈悲の対象と見做した手前、何とも言い難い顔をして蛇龍を見上げるギルガメッシュの視線の先では、イシュタルが敵に回した存在の威容に眼を見開き、冷や汗を垂らしていた。天駆ける天弓をもってしても引き離せない流星の化身と旧い神を下した英雄神マルドゥクさえ敵わなかった女神を前に、ようやくイシュタルはダラ・アマデュラの位階からして違う強さを理解する。

 逆境でこそ強くなるイシュタルであるが、彼我の力量差を明確に理解した今、彼女に出来る事と言えばダラ・アマデュラの憤怒を宥めるために思考をめぐらせ、なおかつ熱線や眷属から逃げながら打開策を考えることだけだ。

 必死になって逃げ道を探すイシュタルだが、焦れたバルファルクがイシュタルを掠めるように翼脚を反転させて光弾を放つや否や、湧き上がってきた苛立ちのままにダラ・アマデュラを睨みつける。

 

「こ……んのッ! ふざけんじゃないわよ! 何で私がこんな目に合わなきゃいけないわけ!? 悪いのはあの虫けらでしょうがッ!!」

「――むし……け、ら…………?」

 

 イシュタルが放った言葉に、空気が死んだ。

 この状況で聞くにはあまりにも無益な罵詈雑言に、ダラ・アマデュラすら言葉の意味を咀嚼しかねてその台詞を口に乗せた。

 むしけら。虫けら。それは何を指して言っているのだろうか。本気で意味が解らないと、怒りに水を差されて一拍の間呆けるダラ・アマデュラに、イシュタルは昂る感情のままに虫けらと称した誰かを謗る。

 

「虫けらでしょうが、あんなもの! でなければゴミよ。私の意に沿わないのなら、この女神イシュタルに背くのなら、それは罪! 私の美しさを讃えておきながら、アンタみたいな地を這う事も出来ない蛇如きを尊ぶような節穴は死んで当然なの! 罰して然るべき罪人なの! 私はあの不遜な罪人を順当に、当然の権利として罰したまでのこと! それをこんな風に悪し様に言われる筋合いも、ましてや追いかけ回される筋合いも無いわよ!!」

 

 誰の事を指しているのか。その事に理解が及んだらしいダラ・アマデュラの瞳から、光が失せる。

 炯々と憤怒と悲哀に輝いていたはずの眼に昏い何かが満ちていくのに、イシュタルはよほど腹に据えかねたのか、己の感情を吐き散らずばかりで不穏な気配に一向に気付かない。

 ギルガメッシュとエルキドゥは頭痛を覚えたような顔をして、一瞬、手に取った武器の矛先をイシュタルへと向けた。気付かれる前にすぐさま下ろしたが、それでも湧き上がる殺意は如何ともし難く、その眼はダラ・アマデュラを警戒しつつも心はイシュタルを足蹴にして罵倒していた。

 「言うに事欠いて、それか」。ギルガメッシュの口から零れ落ちた言葉に、居合わせた兵士たちすら無言で首を縦に振った。神を畏れ敬うを良しとする民ですら、この死体蹴りと癇癪と煽りのコンボに顔を覆って畏敬の念をそっと水に晒して薄めた。恐れるが故に敬いはするが、今後決して畏れはできまいと思うウルクの民のなんと多かった事か。

 自らの言動が首を絞めている事に気付けないイシュタルは、なおも言葉を連ねようと口を開く。

 

「お使いも出来ないゴミの奏でる音に何の価値があるの? それならまだ虫の羽音の方が上等な音色に聞こえるわよ! そもそも――」

 

 だが、それ以上は続かなかった。

 そもそも、の後に続くはずだった言葉は、ダラ・アマデュラの瞳の中で黙殺された。

 かつては煌めく命の色をしていた灼眼に金が踊る。凍てついた色で瞬くそれは、輝かしい色合いとは裏腹に昏く煮詰まって凝った何かを彷彿させる。憤怒、憎悪、悲哀、殺意、およそ言葉に出来ない激情までもが冴え冴えとした黄金に転じて、ダラ・アマデュラの心が流した赤色をより重く染め上げる。

 物理的に加重さえ感じる程の濃密な殺意に、大気も大地も小刻みに震えて怯え、その身に宿す生命の息吹を急激に衰えさせていく。

 局地的に死に近付く世界に、一枚下の死の世界、冥府が何事かを勘違いしてガルラ霊がそっと草葉の陰から顔を出す。

 けれど底冷えのする冥府よりもなお重苦しく冷たい空気を放つ女神を前に、ガルラ霊はその身にありえない死を予感した。生前経験した絶望とはまた違った死の温度に、不用意に顔を出してしまった彼らは一目散に冥府に逃げ帰っていった。

 そんな一幕になど一瞥もくれずに、ダラ・アマデュラは壊れた心を宿す眼で、イシュタルの心を壊す。

 自尊に塗れていたイシュタルの心は、今やすっかり打ち砕かれていた。これは単純に気合いやその場限りの激情でどうこうなるほど生易しいモノではないと悟った女神は、大気と同じように青ざめ震えながら蛇龍の眼に晒されていた。

 

「――確かに、美しいです」

 

 ふと、幼い声で、けれど子供が発するにしてはやけに温度のない声色で、ダラ・アマデュラはイシュタルを賛美した。

 イシュタルが暴言を発した時とはまた違った意味で呆気にとられる面々を前に、ダラ・アマデュラはもう一度「イシュタルお姉様、貴女は美しい」と言葉を重ねた。

 

 確かに、美しいとしか言えない存在だった。遍く世界に賛美されるもの。そう在れと望まれ生まれて、望まれるがままに美しく在る、「美」という概念を権能として戴く女神は、なるほど、美麗という言葉を形にしたならばこうなるだろうと万人をして言わしめる程の美の極致であった。

 「けれども、其れが如何したというの」と彼女は呟く。断続的に散る神殺しの焔を限界まで抑制しながら、胸に燻る憤怒とは裏腹に底冷えする単調な声色で、彼女は権能にまで至るほどの美麗を、ただそれだけの事と切り捨てる。

 

「イシュタルお姉様、貴女は確かに美しい。神々が貴女の言動を、自由な振る舞いを赦すのも理解できるほど、貴女の容貌、その肢体、目に映る何もかもが美しい――けれども、それはあくまで外見だけを見ての感想です。貴女が誇る美しさ(ソレ)は、私にとって、何の価値も成さないのです」

 

 淡々と紡がれていた言葉が、僅かに震える。

 いくら押さえつけても消えない熱が、彼女の自制を少しずつ削っていく。抑制することなく吐き出したいと思う心は、殺しても殺しても湧いてくる。

 

「貴女の内面が気にくわない。誠実で優しいバッバルフを貶める貴女の言葉に、行動に、表情に顕れる貴女の心根を、私は嫌悪せずにはいられない!!」

 

 そしてとうとう放たれたイシュタルを否定する言葉に、バルファルク達は奮起する。成すがまま、されるがままだった主が放った憎悪は、たとえわずかに杯から毀れた水の一滴だとしても、自ら溢した水ゆえに意味を持つ。

 いざ、いざ、いざ、かの女神に報復を。漣のように伝播する純色の殺意に――待ったをかける者がいた。

 

 その女神の出現は唐突だった。張り詰めた緊張の糸を撓ませた女神は、大地から湧き上がるようにして姿を見せる。

 あまりにも空気の読めないタイミングでの顕現に、誰もが呆気に取られた後に眉根を寄せる。

 破壊こそされないものの、荒れ狂う風に肌を嬲られる大地に足を付け、黒髪を風に巻き上げられながらも立ち続ける神格。神威の暴力とも呼べる二柱の天災の視線に晒されてなお崩れないその女神もまた、荘厳な神の気配を立ち昇らせてそこに佇む。

 豊穣を表す豊満で嫋やかな肢体、滑らかで瑞々しい肌は大地の色で、伏し目がちな瞳に宿すのは大地が育む森の緑。豊かな黒髪には優美な角の付いた頭飾りが乗せられ、幾重にも布を重ねたスカートを纏っている。そのうえに背負った矢筒、鎖に繋がれたライオンの子とくれば、その正体は自ずと知れた。

 

「まさか……あれはニンフルサグか? 何故子守の神がこの場に来た?」

 

 今まさに開かれようとしていた戦端の出鼻をくじいた存在に、露骨に怪訝な顔をしてギルガメッシュが疑問を口にする。

 女神ニンフルサグ。シュメール神話における大地の女神にして土地の豊饒と繁殖を司る女神であり、歴代シュメール王をその乳房で養った、「王の母」と称される女神である。天の実権こそ握ってはいないものの、「天における真に偉大なる女神」の称号を獲得している神格でもある。

 そんな大地の女神が、何故今ここにいるのか。誰しもがそんな疑問を抱く中、ニンフルサグは青ざめた顔で中空に浮かぶ二柱の女神を見上げた。

 

「もうおやめなさい、女神イシュタル。これ以上は貴女でも生きていられなくなります。そして女神ダラ・アマデュラ、貴女もです。これ以上の暴威は大地への虐げ、これを看過することは出来ません」

 

 震える大地そのもののように、震える声で告げられたのは両者を諫める言葉だった。

 その言葉に真っ先に反応したのは、やはりと言うべきかイシュタルの方であった。イシュタルは自分を戒めようとする自分よりも弱い存在を、先ほどとは打って変わって力強い目で睨みつける。

 ニンフルサグも、戦いを司る女神でもあるイシュタルの鋭い眼光に僅かに怯む。けれど自らの役目を自覚する彼女は手足に力を込めてそれに抗い、ひたむきな目でイシュタルを見返した。

 

「おひきなさい。これはもはや貴女と彼女だけの問題ではないのです――既に我ら運命を決する七柱の神、そしてアヌ神とエンリル神によって採決は成されました。貴女の罪を認めなさい、イシュタル。神々の議会は既に、貴女はあの女神達(・・・・)を相手に生き残れないと判断しました」

 

 唐突に頭を押さえつけられるような台詞に激昂しかけたイシュタルだったが、採決は成されたとの文言に虚を突かれて呆けた顔をする。

 エンリルの神殿内にある聖所(ウブシュウキンナ)で開催される神々の議会。その決定は神にとって何よりも重い意味を持つ。その決定は天命の石板(トゥプシマティ)に書き込まれ、それはそのままエア神の管轄の下、エリドゥの掟として規定される。

 神の運命を刻む石板に刻まれたのは「イシュタルとダラ・アマデュラの正面衝突を不可とする」文言である。戦いを司る女神と天変地異の具現たる女神、その直接の対決はウルクどころかメソポタミア自体を崩壊させると判断されたのだ。

 

「ふ……ふざけるんじゃないわよ! この私に向かって罪を認めろですって!? 一体何の罪よ、私は何も悪い事なんて……」

「お黙りなさい、イシュタル! 創世の神々が封じる以外の手を打てなかった女神を野に放った、それが貴女の罪です!」

 

 お前は絶対に蛇龍に勝てない。そう神々から太鼓判を押されたイシュタルは湯気が出る程に顔を赤くし、怒気も露わに吠え猛るも、それ以上の怒声で以て返したニンフルサグの鬼の形相に口を噤む。

 神々の中でも比較的温和な女神が見せた怒りに、ダラ・アマデュラの口元がひくりと揺れる。

 けれどニンフルサグに目がいっていたイシュタルは勿論、イシュタルに怒りを向けていたニンフルサグもそれに気づかない。ただ、未だ外野として様子見をしていたギルガメッシュとエルキドゥは呆れてものも言えないとばかりに目元を覆った。

 火のついた油に水をぶちまけた上でさらに薪を足すような所業に、ギルガメッシュの神への嫌悪が増した。

 

「もしもこれ以上、この諍いが続くのならば、その時はエンリル神と……エア神が、動きます」

 

 自分の言動がダラ・アマデュラの怒りを煽っているとも知らないニンフルサグが、青ざめ、震えながら指し示したのは――頭上。

 そこに在ったのは、宙色の天蓋にさんざめく満天の星々――否。

 悲嘆の女神、その眷属、天彗龍バルファルクが、満天の星と見紛うばかりにさんざめいていた。

 

「まさか……うそ……うそよ、そんな――あの星全部がバルフルキだなんて、そんなの……!」

 

 全身から血の気を引かせ、その美貌を青に染めたイシュタルが認め難い光景に慄いて叫ぶ。

 幾千、幾万の凶星が滞空し、その全てがひたすらにイシュタルとニンフルサグを見据えている。イシュタルにとっては地獄のような光景だった。勿論、ウルクの民にとっても笑えない光景だ。家々から、神殿から、王宮から覗く人の眼は一人残らず丸く見開かれていた。

 ギルガメッシュもまた例外では無かった。王は民よりもマシな顔をしていたが、空を覆い尽くさんばかりの龍の群れの場違いな美しさに、そして脳髄を凍らせるように冴え冴えとした殺意に息を呑む。

 どうして今までこの異様さに気付けなかったのか。それは偏に、ダラ・アマデュラの巨躯が放つ威圧が、漏れ出る不穏な気配があまりにも強烈に皆の心を絡めとっていたからだろう。

 そうでなければ、こんなに空に満ち満ちる龍の群れに気が付かないはずがなかった。

 

「……何故、私が止まらなければならないのです? 秩序を説いたのはそちらでしょう? でしたら、交わした約定は守られて然るべきです」

 

 誰も彼もが空を覆い尽くす彗星の群れに恐れ戦く中、沈黙していたダラ・アマデュラが口を開いた。

 

「イシュタルお姉様はたかだか私の鱗一枚のために、貴女自身の益体無い欲のために、私の大事な愛弟子を使い捨てた。その結果、約定は破綻し、私は野に放たれた。それを罪と呼ぶのならば、まずは私の報復を赦した創世の神々を罰しなければならないのでは?」

 

 一周廻って感情が上滑りしたような、なんの心も伴わない声だった。

 愛弟子を奪った暴虐を罪と感じるダラ・アマデュラに打ち込まれた神々の規定は、彼女の言葉によってその効果を削られ、濾され、意味を失っていく。

 

「そもそも、私がお母様のお体である大地を削れるはずがないでしょう? 眷属たちもそれは同じです。この子たちは私の意を汲むもの。そんな子たちがお母様の御遺体を傷付けるなど……侮辱も其処までになさってください。この子たちは私のように誰彼構わず傷つける程、成り損なってなどいません」

 

 神を基準にした善悪に水を差された女神の怒りは果てしない。それは今まさに天を占領する眷属郡を見れば一目瞭然だろう。

 罵倒されている時も、そして今こうして耐え忍んでいる時も、憤怒も憎悪も絶え間なく湧き出ていた。それを押し留める労苦も知らずに好き勝手保身に走ろうともがく神など、いかに兄姉だとはいえ愛想も薄れる。

 家族の情も、それゆえの甘さも未だ胸の内にある。けれど、それは尽きないだけで減らないとは言っていない。目減りしていく愛情の隙間を埋めるモノが何か、もう言葉にするまでもないだろう。

 故にダラ・アマデュラは二柱の神を睥睨する。我が身可愛さに道理を否定する姉たちを殺せないまでも、せめて一矢報いることは出来ないものかと、世界を殺せる災害の化身は首を擡げてうっそりと笑った。

 

「どうぞこちらへ、イシュタルお姉様。私は数多の神々によって貴女への報復が許されています。それを許さないというのならば、どうぞ、お兄様方もおいでくださいな――創世の頃より燻っていた埋め火に薪を足す勇気があるのならば、この星を焼く覚悟だってあるのでしょう?」

 

 壊れかけの心で泣き笑う蛇龍に、バルファルク達の翼が煌々と輝く。

 今度こそイシュタルを圧殺せんと狙いを定める流星群たちだったが。

 

「――申し訳ないけれど、此処で終わりにさせてもらうよ……『人よ、神を繋ぎとめよう(エヌマ・エリシュ)』!」

 

 緑色の髪が風に靡いて、黄金の鎖となってダラ・アマデュラの下へと殺到する。

 予想だにしなかった存在の予期せぬ一撃に、虚を突かれたダラ・アマデュラが瞠目した。

 

 時は少し巻き戻る。

 ダラ・アマデュラが約定の上書きを削った瞬間、ギルガメッシュはエルキドゥを差配した。

 王も兵器も民も、本当の所はダラ・アマデュラに手出ししたくなどなかった。それが叶わないなら黙って事の経緯を見守っていたかった。

 けれど、彼等はそれを是とする選択が出来ない。なにせイシュタルは此処ウルクの都市神。ダラ・アマデュラがイシュタルに報復するという事は、それはウルクに対して攻撃をしている事と同義なのだ。

 故に王とその兵器は自然と重くならざるを得ない腰を上げた。神々の約定により正当化された彼女の報復にケチをつけなければならない事は、エルキドゥをして心苦しいと思わせたが、彼にとっては友の守るウルクを守る方が重要だったから。

 

「さて、僕の鎖は果たしてあの女神にどれだけ効果があるかな……?」

 

 何者にも成り損なう神格故に決定打にはなれないけれど、言い換えれば何者かを極めてある事が出来ないだけで、何者にでも触れている彼女に対して、エルキドゥの鎖はどれだけの効果を発揮するのだろう。

 ともすれば数秒も持たないかもしれない。そんな兵器の不安を、担い手である王はハッ、と勢いよく鼻で笑う。

 

「どれ程効果があるのかは知らんが、あの女神の性状から言って無関係のお前が殺される事はなかろう。お前の役目はダラ・アマデュラを縛る事ではなく、ダラ・アマデュラの理性を取り戻す事だ」

 

 頼んだぞ、我が友。ギルガメッシュはそう言って城の外へと飛び出した。事が無事成る成らないに関わらず、エルキドゥを上手く運用するためには彼と共に相手の懐近くまで寄る必要があったからだ。

 一拍遅れて飛び出したエルキドゥは、友の意図を理解して顔を歪めた。

 怒り狂うダラ・アマデュラの理性を取り戻す。それはきっと、想像以上に容易く叶うのだろう。彼女の幼く純真な感性は、己が他者を傷付ける事に何より敏感に反応する。一番最初に母親を傷付けてしまった、その事が彼女の心に影を落としたのは想像に易い。

 エルキドゥが彼女を止めたら、理性を取り戻した彼女は澱みを抱えたままでいるしかない。そういう選択をしてしまう女神だからこそ、ダラ・アマデュラとの戦いは他の神々を相手取る以上に気が引けた。

 

 理不尽に奪われた彼女から、正当な報復の機会も奪う。

 女神ティアマトの呪いは想像よりもずっと重たくて苦しいものだった。

 ……それを実感したのは、鎖に転じた体がキィンと甲高いを立てて引き千切られた後だった。

 如何に成り損なっていようとも、その身は原初の女神の手によって成された正当な神格である。エルキドゥが神を律する鎖である以上、その効果は九割近い威力で発揮される。

 けれど、エルキドゥの鎖を千切ったのは神性に依らない単純な力と、蛇龍が生まれながらに持つ剣鱗の切れ味であった。

 高らかに響く破壊音に、ダラ・アマデュラが小さく「あ……」とこぼす。

 数秒も持たなかった身体の損壊に顔をしかめながら、それでも理性を取り戻す事には成功したらしいと考えていたエルキドゥだったが、直後、聞こえた言葉に己の不理解を恥じ入る。

 

 

 

 

 

 

「いまの、かんしょく……おかあさま、また、わたしは――あなたに、きずを……?」

 

 

 

 

 

 エルキドゥの身体は神が捏ねた粘土で出来ている。粘土、つまりは大地より齎された、神の土。神造の宝具として作られたエルキドゥの材料がそんじょそこらの泥であるはずは無く、天の鎖たるエルキドゥは、死んだ神が転じた「力の粘土」から作られていた。

 神々の王アヌを父に、創造の女神アルルを母に持つ彼は、彼らがより力の濃い、天地のいずれもにほど近い場所の土を選んで捏ねたことで生まれ落ちた。

 その大地こそ、女神ニンフルサグですら自らの領域と呼べない大地の果て、ニンフルサグが得た神与の大地(ティアマトの肉)よりももっと純然たる力に溢れた母ならぬ大地(ティアマトのおくりもの)。女神ダラ・アマデュラが住まいとする、生命を拒む歪なる霊峰・千剣山である。

 エルキドゥはその麓の土と、神与の大地を掬い取り、混ぜ合わせて造られた。

 そも、この時分の神々にとって死した神の血肉は「大いなる力と可能性を秘めた粘土」に他ならない。そこに以前の人格や神格を見出す事無く、全てはただの形を持った純粋な力に還元される。それをどう捏ね、どういう物を形作ろうと、誰に憚ることは無い。そういう風に考えるものが神である。

 けれどダラ・アマデュラにとっては母の亡骸から生じた、母の忘れ形見のようなものである。

 そこに母親の神格も権能も、ましてや声も眼差しも憐憫も、僅かに感じた体温らしき名残さえなかったとしても、彼女にとって大地とは永遠に「お母様の御遺体」であり続ける。

 

 故にこそ、二度と傷付けまいと神経質なまでに気遣った母親の遺体を……忘れ形見のように思えるエルキドゥの肉体を傷付けた時、彼女の精神は生まれた直後まで返り咲いた。

 あの日、あの時母の頬に一筋の傷を付けた時の絶望と悪寒がフラッシュバックする。眼を見開いたままがちりと固まる蛇体の威容に暗澹としたものが混じりだす。

 ここにきてギルガメッシュはニンフルサグを送り出した神々の意図を悟る。要は現状を招きたかったのかと、知らず知らずのうちに神の意図を汲んだ己を心の底から罵倒し、見下げ果てた下種の行いを是とした神々をこれ以上ない程嫌悪した。

 エルキドゥが意図せず行った死体蹴り。自らが母を傷付ける悪夢を想起させる行為を、神々は大地の女神ニンフルサグを用いて行おうとしたのだ。

 チッ、とエルキドゥは神々に向けて舌打ちをする。そして大地に落下していく自分を縋るような子供の眼で見るダラ・アマデュラに、彼は努めて優しく見えるよう、細心の注意を払って微笑んだ。

 兵器である自分が、まさか人間でも獣でもなく神を気遣うことになるなんて。

 そんなことは一生無いだろうと、考える事すら思い浮かばなかった事柄を思う。そうさせてしまう女神に、嫌悪ではなく憐憫が湧く。何者にも触れているのならば、彼女は人間でもあって獣でもあるのだろう。そう考えて思考回路に逃げ道を用意してしまうのは、やはり「神」という属性そのものへの敵愾心が健在であることの証左だろう。

 それを差し置かせた上で上回ってくるダラ・アマデュラの精神性の、なんと哀れで悲しいものか。

 エルキドゥは兵器でありながら、彼女と友誼を結んでは去っていったという人間たちへ理解の灯をともす。

 そうだ、彼女は哀れだ。なにせ兵器をして言わしめるほどに可哀想なのだから、情の(こわ)い人間が彼女を見過ごすはずがない。

 

 最早正常な呼吸すら儘ならない女神が、焦り切った顔から止め処なく大粒の涙を零す。

 銀の鱗をしゃらりと鳴らせ、わざわざ優しい風を生み出して自分の落下を留め、必死に目を凝らして損傷(キズ)の程度を確かめてはぴゃあぴゃあと甲高く幼い声で謝罪を繰り返す姿は、人間たちの心をきつく絞り上げて巨大な影を落とした。

 

 そうしてギルガメッシュの予想通り、そして神々の計画通り、女神ダラ・アマデュラは理性を取り戻した。

 理性を取り戻した彼女はエルキドゥを回収しに来たギルガメッシュにも謝罪し、沈痛な面持ちで項垂れる眷属群を引き連れてウルクを去った。

 交わした約定すら身勝手に破却された女神の憔悴は著しく、行き場を失った感情の矛先は切っ先を向ける先を見失い、結局は己の心の深い所に刺さる事で矛を収める鞘とする。

 じくじくと膿む様な倦怠と無力感に打ち拉がれる女神にもはや覇気など無く、剣鱗の煌めきさえ翳って見える始末であった。

 イシュタルはと言えば、自分が醜態をさらした事がよほど許せなかったのだろう。自身の危機が去ったとみるや否や、性懲りもなくダラ・アマデュラへの報復を画策しようとして、星々が去った天上に顕現した天空神アヌと生贄役を回避して安堵するニンフルサグに引き取られていった。きっと天上の世界で創世の神々にしこたま怒られるのだろう。それで反省するような可愛げがイシュタルにあるとは思えないが、「それでも一時落ち着くのであればそれでも構わん」とギルガメッシュは言う。

 これで一件落着。けれど残された人々の心には靄がかかり、あのギルガメッシュでさえ今日の酒は不味いと言って早々に寝所に脚を向けた。

 確かにウルクは救われた。けれどその傍らで、ダラ・アマデュラの心は僅かにも晴れることなく、否、むしろ余計に傷を負って終わったのだ。

 

「ウルクには……貴方の都には、我が友ドゥルバルと彼の妹がおりましょう? 同胞シュガルの生家、愛弟子バッバルフの兄弟の家もウルクにあると聞きました。彼等は皆ウルクを愛していました……私が憎んだのはイシュタルお姉様であって、ウルクの民ではありません。ましてや我が友らの愛しい者たちを、如何して私が傷つけられましょう」

 

 女神が住処へ帰る前、彼女はギルガメッシュ達に声を掛けた。

 か細い声で、泣いていた。震える声で、微笑んでいた。

 今にも儚く消えてしまいそうな風情で、巨大な蛇龍の姿をした女神は、人の王に頭を下げる。

 

「謝罪します、ウルクの王ギルガメッシュ。そしてその友エルキドゥ。私の怒りで貴方の都を荒らしたこと……貴方の身体を傷付けてしまったこと――ほんとうに、ごめんなさい」

 

 幼い少女の声で泣きながら謝る彼女に、貴女は悪くないと何度言いかけただろう。

 呆然としながら虚数世界に消えた母に問い掛ける様は、思わず目を反らしてしまう程に切なくて、耳の奥で反響する言葉の響きの痛ましさに背筋が冷えた。

 けれどそう言ってしまえば、彼女は再びイシュタルに、ひいてはウルクに牙を剥く事を赦される。そうなってしまっては本末転倒だからと口を噤む彼らに、ダラ・アマデュラは理解を示して「それで良いのです」と人間の卑怯さを許した。

 彼女の優しさから生じた忍耐。荒れ狂う憤怒を殺しきれぬままに心の底へと沈めた彼女は、バッバルフの命と名誉を損なわせた事に対するイシュタルの謝罪を落としどころにして、満身創痍の心を抱えて己を戒める千剣の山へと帰っていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ……帰り際に、彼女がウルクの街を眩しそうに眺めていた。きっと、そこにいるはずの友たちと、その家族を想っていたのだろう。

 けれど彼女は何も言及しなかった。彼等のその後にも、残された家族たちについても、何も聞かなかった。

 聞けなかった、が正しいのだろう。ダラ・アマデュラは理解したのだ。何も喪うのは自分だけではないと、喪失は彼女に関わった者たちにも降りかかるのだと、彼女はこの一件で頭と心で理解した。

 彼女には酷な事だが、それでも――ウルクの民は、安堵していた。

 去り行くその背中に向けて、彼女の一番最初の友とその妹がどうなったか、裏切り者として追われていた同胞の家族がどうなったか、女神の怒りに触れた愛弟子の兄弟がどうなったのか……その末路を唇に乗せる非道さを、誰一人として持ち合わせていなかったが故に。

 

 けれど、もしこの時、誰かが勇気を出して彼女に真実を告げていれば……いや、どちらにしろ変わらないのか。

 遅いか早いかの違いで、彼女たちは必ず同じ道を辿っただろう。

 

 

 なにせ全てが始まったとき、既に終わりとの約束は交わされていたのだから。

 

 

 


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