離別の果てで、今一度。   作:シー

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 さて、折り返しも順当に通り過ぎたけれど、気分はどうだい?
 うん? 優れない? 心が疲れた?
 ……まぁ、悲劇だからねぇ。そこは仕方ないと思って諦めてほしい。
 けれど、そうだなぁ……ここいらで小休止を挟むのも悪くはないか。
 それでは今回は幸福を語ろう。なにも彼等は不幸にばかり愛されていた訳じゃない。
 これは碑文に語られない物語。彼等の絶望を深めた、優しい時間のお話だ。
 存分に愛で、そして……どうか、覚えていてあげてくれないかな?



閑話・語られぬ残照

「――と、こういう訳で、僕は無事に貴女の下へとやってこれたのです」

 

 抜けるような青を広げた空の下、真白の雲が悠々と泳ぐ穏やかな昼下がり、彼らは穏やかに笑い合って牧歌的な時間を愛でていた。

 峻厳を極めた山の頂には良く使い込まれた竪琴を膝の上に置き、岩の上に片膝を立てて座る青年と、そんな彼を遥か高みから――ではなく、心持ち身体を乗り出すようにして首を擡げ、青年の声や表情をはっきり窺えるようにと微笑ましい努力をする巨大な蛇龍の姿があった。

 千剣山の頂、普段は決して晴れない暗雲と不気味な雷鳴が轟くそこは、青年……バッバルフへの音楽指導の間だけ穏やかな光が差す安息の地へと変わる。

 それは偏にバッバルフと、蛇龍こと女神ダラ・アマデュラの奏でる旋律が生み出す権能の余波が原因であるのだが、それは特に重要ではないので置いておく。ただ、師弟の時間は二人の関係の如く清涼で清々しい、心躍るものだったと思ってもらえたならそれでいい。

 さて、歌舞音曲の女神による親身な直接指導によってめきめきと実力を伸ばす青年だが、今は休憩中ということもあって修行中に見せるひたむきさが滲む真剣な顔はなりを潜め、ほわりと風に浮く綿毛のように柔らかでほのかな幸せを感じる笑みを湛えていた。

 修行中は両者共に真剣に、そして楽しく充実した時間を過ごすのだが、休憩中は与太話や思い出話に花を咲かせ、やはり楽しく充実した時間を過ごす。

 今回の話題はバッバルフがダラ・アマデュラの下を訪れる以前の話で、彼と死した親友の話であった。

 飴色の肌に砂漠の色をした長髪を持つ青年がはにかみ乍らも誇らしげに語って聞かせてくれた話では、彼はなんとガルラ霊を音楽の腕前でいなしたという。

 バッバルフにはとても仲のいい男友達が居たのだが、彼は酒を飲んで酔っ払った帰り道で派手に転倒したところを、運悪く通りかかった女神の駆る天弓にアッパーカットをくらい、跳ね飛ばされたところが水瓶で、頭からすっぽりと入り込んでそのまま気絶している内に溺死してしまったらしい。なお彼を撥ねた某金星の女神はびっくりし過ぎてそのまま逃げたという。世界最古の轢き逃げである。碑文には載らない。

 なんとも言えない死に方に、ダラ・アマデュラの胸中が色々な意味で大変なことになったが、それはさておき、バッバルフも親友の間抜けとも悲惨とも言えない、笑ってやった方が良いのかどうかもわからない死に方に心が慄いたらしい。

 

「僕ならこんな死に方、死んでも死にきれない。そう思っていたら、当人が『ビールで死ぬならまだしも水で死ぬとか、死んでも死にきれねぇよチクショウ!!』と、半泣きで現れたのですよ……ガルラ霊になって」

「ガルラ霊になってまでビール!?」

「ええ、ガルラ霊になってまで。僕はこの時、本気でどんな顔をすれば良いのか解らなくて、取り敢えず声をかけたんですよ。生前と同じように『やぁ、一曲聴いていくかい?』って」

「ガルラ霊相手に!?」

「ええ、ガルラ霊相手に」

 

 その時の、あのシーナの顔といったら! 思い出し笑いをしてくすくすと小さく口元を抑えて笑うバッバルフに、ダラ・アマデュラは麦を飲む者(シーナ)の名に「生まれた時からビール好き……」と不意打ちで腹筋を刺激されていた。

 そしてバッバルフの生前と変わらない振る舞いに呆気にとられたらしい飲兵衛(シーナ)もまた、つられて生前と同じように是と応え、そのままバッバルフの演奏に耳を傾けたと言う。

 余りにも呆気なく死んでしまった親友の為に奏でるは、生前彼と共に酒を酌み交わしながら歌った酒飲みの歌。

 汗水たらして働いた男たちが、酒場で肩を組み合いながら好き勝手に歌った、その日一日の疲労も鬱屈も忘れさせてくれるビールを讃える歌である。

 

「僕もシーナも大声で歌いましてね。それを聞きつけた酒飲み仲間がビールをもってやってきて、ガルラ霊がシーナだと気付くとバカだアホだと罵倒しながら嬉しそうに歌うんです。それからは皆笑いながら大号泣ですよ。そして皆でビールを飲みまくりです。サギなんて大甕を二つも抱えてやってきましたからね。あいつもアホです」

 

 人間はどれだけビールが好きなのだろうか。思わずくすりと笑う稚けない女神に、青年は高揚する心の儘に身振り手振りまで交えて情感たっぷりに語る。

 手を取り合っては「お前冷てぇなチクショウ」と罵倒され、冥府の食事事情を語っては「飲めやぁ! 今ここで好きなだけ飲めやぁ!」と文字通りビールを注がれるシーナと、陽気に竪琴を掻き鳴らして思わぬ再会に花を添えるバッバルフ、そして酔っ払いたちの宴は一晩中続いた。

 夜明けの光が差す頃には、ガルラ霊となったシーナと、途中から演奏の方に熱が入ってあまり酔わずに済んだバッバルフだけが立っていたという。

 冷え込む街中に朝靄が立ち込める中、ひとしきり泣いて、飲んで、大いに笑ったシーナが、バッバルフの手に礼だと言って黒く艶めく石をのせた。

 広げた掌より一回り小さいそれは、聞けば冥府に住まう竜の鱗だと言う。

 こんなものを一体どうやってと聞けば、抜け毛宜しく転がってたから貰って来た。とのたまうシーナに、このアホ実は最強なのではないかと一瞬考えたらしい。

 そんなアホと豪胆が紙一重なシーナは、あからさまに困惑するバッバルフに笑って言う。

 

「これはお守りだよ。冥府のにおいがする竜鱗だ、獣どころか魔獣も怖がって近付かなくなるだろうよ……千剣山はかのエビフ山より厳しく、生命あるものを拒む。けれどそれさえあれば、道中の獣からも、千剣山の脅威からも、死のにおいがお前を守る」

 

 だからお前はあっさりこっち来るなよ? と言い残して、馬鹿で間抜けで酒好きで、それから陽気で仲間思いの気持ちの良い男は冥府に帰っていった。

 ここで話は冒頭の台詞に繋がる。「これがそのお守りです」と見せてもらった鱗は、なるほど、薄れているとはいえそれなりに香る死の冷たいにおいと、強靭な竜の魔力残滓が見て取れた。

 当然ダラ・アマデュラには遠く及ばないが、それでも道中の雑多な魔獣程度ならばにおいを嗅ぎ取る前に生命体としての本能で危険を察して逃げ出すだろう程度には強い竜気だ。これを得るためにシーナはどれ程の危険を冒したのだろうかと、近くて遠い冥府に思いを馳せる。

 

「良い友を持ったのですね」

 

 そんな言葉が自然と口を突いて出た。柔らかな微笑を伴う言葉に、バッバルフは少しだけ何かを堪える顔をして、それから「ええ、本当に僕には勿体無いくらい、気持ちの良い友です」と笑む。

 けれどやはり気恥ずかしかったのか、バッバルフは誤魔化すように咳ばらいをすると、ダラ・アマデュラに話をねだった。

 

「もう何度も聞いたのに、ですか?」

 

 ころりと微笑を苦笑に転じたダラ・アマデュラに、バッバルフは大きくうなずく。もう何度も、というのに、何度話しても言葉尻に喜色が滲む女神の喜悦が嬉しくて、青年は何度でも彼女の話を聞きたがった。

 それは世に悲劇と伝えられる女神と裏切者たちとの、世に語られる事のない交流譚。

 誰もが悲劇の裏に思い描きながら、影に葬ってしまった淡い光。

 原初の母、ティアマトに歌声を褒められたところから始まる優しい話は、後の離別を思えば確かに哀しかったが、それ以上に花が綻ぶような喜びを両者の胸に抱かせた。

 

「お母様は優しい旋律がお好みだったのですけれど、ムシュフシュお兄様は荒々しい歌がお好みでした。だからでしょうか、お母様の前ではしおらしい顔で子守歌に耳を傾けておられましたが、お母様が席を外した途端に『末仔、末仔よ、もっと熱く激しく、魂を揺らすような曲を頼む! このままでは眠気に負ける!』とおっしゃって……」

「それで、兄君の依頼には?」

「勿論応えました。ですが、今度は昂りすぎてしまってですね……お戻りになられたお母様に『おいババア! 俺をガキ扱いするんじゃねぇぞ! なんて言ったって俺は神殺しの怪物ムシュフシュ! バビロンの竜たぁ俺の……』と叫んだ所で、お母様の愛情に満ちた抱擁(サバ折り)の餌食になってしまわれて……羨ましかったです」

「羨ましかったんですか!?」

「お母様の抱擁ですよ!? 羨ましいに決まっているでしょう? 羨ましすぎて他のお兄様たちにもムシュフシュお兄様の黒歴史(ぶゆうでん)をお話ししてしまったくらいです! ……お兄様には悪いことをしてしまいました……」

「道理で祭りの時期はムシュフシュが街から遠ざかるわけです……自制してたのですね……」

 

 神話に語られる原初の女神と、その子供たちは一様に恐ろしく、創世を邪魔した悪役として有名である。

 けれど彼女の口から語られる神々の姿は人間の家族とあまり変わらなかった。怪物として生まれたが故に神としての傲慢さより獣の野性味の方が強いからかもしれないが、彼女たち兄妹の交流は微笑ましいと思いこそすれ、恐ろしい等とは欠片も思わないまま、ただ会話の楽しさだけが募っていく。

 

「貴女の話に聞くドゥルバル殿はシーナのようですよね。陽気であっけらかんとしていて豪胆なところなどが特に」

「そうですね。ですがドゥルバルは実は結構頭が良いのですよ。なにせ彼は行商人ですから、計算は元より時期を計る事も得意でした」

「はぁ、行商人。意外ですね、私はてっきり兵士か、職に就いていない若者かと……」

「なんでも病床に伏せる妹さんの為に色々な物を見て、色々な話を聞いて回るには行商人が最適だと判断したそうです。私に会いに来たのもその一環ですよ」

「家族想いな良い方だったのですね。いやぁ、そういう話は実に僕好みで良い。やはり愛は良いものです」

「確か妹さんはウルクにお住まいだったはずです。もし機会があればドゥルバルの旅話を聞けるのでは?」

「それは良い! ドゥルバルの方は欝々としてそうですので、貴女の弟子として……いえ、ここは女神懐柔の後輩として喝を入れて差し上げなければ」

「そうですね……って、あれ? 今『懐柔』って言いませんでした?」

 

 緩やかに、けれど確実に絆を深めていった彼らの交流は、ダラ・アマデュラではなく関わる相手によってその気質を変える。母ティアマトであれば夜半の揺り籠のように穏やかに。血の気の多い兄らであれば大通りの喧噪に似た賑やかさで、理知的な兄であれば風の遊ぶ木陰のような涼やかさがあった。

 母と兄との交流を失った後は、人間が彼女に新しい風を吹き込んだ。

 暗雲を払ったのは突風めいた勢いで意気揚々と乗り込んできたドゥルバルで、彼は思うがままに振る舞う事で彼女の呼吸を止めた感情に息を吹き込んだ。ドゥルバルの剛毅さがなければ、きっと彼女の心は今なお暗がりで震えていたに違いない。

 生命力に満ち溢れた外界の色彩を言葉と感情にこれでもかと詰め込んで、行商人は彼女の知らない世界を彼女の脳裏に展開した。

 街中にひっそりと咲く花の健気さも、魔獣の闊歩する野をゆく恐怖も、良く熟れた果実の滴るほどの瑞々しさも、病床に伏せる心細さも……その手を握る、誰かの存在の心強さも、女神ダラ・アマデュラが到底知りえない、今を生きる人間の情動は全てドゥルバルが丹精込めて彼女に注いだ。

 自分が如何に残酷な事をしているのか気付かない程愚かな男ではなかったが、彼は「知らないからこその安穏」よりも「知っているからこその愛慕」を優先して、永久の無為の慰めにと彼女に人の心を余すことなく思い出させた。

 いずれ神ならぬ身の自分は死ぬだろう。所詮、人間は労働力の代替でしかない。そういう生き物として作られた自分たちは、彼女の傍には長く在れない。けれど自分という一個人が死んでも、人間という種は変わらず命を繋いで続いてゆく。連綿と続いて、神に奉仕していく。例えギルガメッシュ王が神との訣別を選択したとしても、ダラ・アマデュラという神格はきっとその網を潜り抜けてしまう。

 だから彼女は、立ち位置を変えて人と共にあり続ける。

 それを知るドゥルバルは、後世の人間に彼女を託したのだ。そして彼女に、ドゥルバルという「個」への依存ではなく、人間という「全体」への愛着を望んだ。

 その目論見は最善の形で失敗し、最良の形で成功したと言えるだろう。それは現状が説明している。

 懐かしく愛おし気に友の名を唇に乗せながら、彼を起点に広く人間への理解とある種の憧憬を滲ませる彼女は、神と呼ぶにはあまりにも人間に近い精神構造をしている。それをより研磨したものがドゥルバルなら、その功罪はあまりにも大きい。

 そしてその功罪を土台にダラ・アマデュラの懐に潜り込んだシュガルもまた、「裏切られたもの同士」という抗いがたい共感で以て彼女の心を穏やかに温めた。

 ドゥルバルとの交流が嵐の様なものだとすれば、シュガルとの交流はドゥルバルが耕した肥沃な大地をせっせと整える作業に近いものだった。

 荒れに荒れて傷付いた胸中を穏やかに癒し合う彼らの交流は至って朴訥としたものだったと彼女が言う。

 

「シュガルはとにかく穏やかでした。言葉ではなく目で語る人でしたから、あまり会話らしい会話はありませんでしたが……『おやすみ』と『おはよう』は、決して欠かさない人でした。そういった何てことのないありふれた言葉で日常を作ってくれた、とても……とても、優しい人でしたよ」

 

 「実は、話に伝え聞く『父親』というものの理想像は、シュガルなのです」とはにかむ女神に幾度目かも知れない温かさを感じ取りながら、バッバルフは穏やかに笑む。

 実はバッバルフはウルクにいた頃の彼を遠目に見た事があった。自分よりも濃い色の肌に、年老いて鋼のような色になった黒髪を持つ筋骨隆々とした戦士こそがシュガルであった。

 あの冴え冴えと冷たく底光りする黒曜の眼に見詰められた荒くれ者が喉奥でか細く鳴いて失神する様を見た事が有る身としては、あれは罷り間違っても穏やか、や優しい、といった形容詞とは仲良く出来ないと思っていた。

 しかし、そういった「穏やかな日常」とは無縁の存在だと思っていた人間が、その実この幼気でそういったものに疎い女神をして「父親の理想像」と言わしめる程に出来た「父親」だったことに、バッバルフは素直に驚嘆し、次いでその為人を知れた幸運を喜ぶ。

 

「それはそれは……驚きました。けれど納得もしましたよ。そうですか、貴女の『父君』であるのなら、それはさぞかし得難い御仁だったのでしょうね」

 

 だからこそ惜しい。もしあの時の出会いをやり直せたなら、自分は一も二も無く彼に駆け寄り、その眼光の鋭さと武勇を褒め称えただろうと、バッバルフは悔しがる。

 

「貴女に同胞と言わしめた御仁という事は貴女に似ているという事。であればあの時駆け寄ってありったけの言葉を尽くして賛美すれば、きっといい感じに照れて狼狽えてくれたでしょうに……!」

「バッバルフ、貴方もしかして私で遊んでいませんか?」

「髪も程よく鋼色でしたし? 大剣使いとして見劣りするどころか見惚れる程の筋肉でしたし、男としても一級品とか、流石ダラ・アマデュラの父君、鋼の髪に鋼の肉体とか解っていらっしゃる!」

「ねぇ、目を逸らさないでこちらを見てください。ねぇ……!」

 

 女神の拗ねた声に、バッバルフの笑い声が弾けて重なる。

 腹を抱えて頽れる笑いのツボが浅くて広い愛弟子の情けない姿に、拗ねていた女神もくすりと笑うと、彼の笑い声につられてきゃらきゃらと高い声で笑いだした。

 何が面白いかも解らないけれど、とにかく腹の底から笑い声が湧き上がってくる。そのくせぽかぽかと春の陽気に似た温度で満ちる胸の奥に、全身で身に染み入る幸福を噛み締めた一人と一柱がなんとか収めた笑いの衝動がまた元気に動き出す。

 予定していた休憩時間をとうに過ぎても、彼らは「まぁ、そういう日もあるでしょう」と笑い合った。

 やがて夕暮れに染まる空が夜の薄絹を纏いだした。その頃になって長い休憩を終えた彼等は、和やかに笑い合って「また明日」を約束して眠りについた。

 バッバルフとの交流は、何時何時でも和やかで、それでいて明るい笑い声に満ちている。

 嵐が耕した大地を、寡黙で優しい男が整えたなら、後に続いた楽師は花の種を植えたのだ。

 いつか花咲く希望の色を夢想しながら、鼻歌を歌って種を撒く。

 誰にも知られる事のないその花の色が美しいと最初から予見している彼の足取りも歌声も軽やかだからこそ、大地も楽し気に歌ったのだ。

 ティアマト、十一の兄、ドゥルバル、シュガル、そしてバッバルフ、その誰か一人でも欠けていたら、誰か一人でも功罪を成せていなかったなら、大地は……ダラ・アマデュラの傷付いた心は、これ程までには生を感じさせなかっただろう。

 確かに彼らは裏切者である。けれど同時に彼らは与える者であった。決して奪うばかりでも失うばかりでもない、揺るぎない幸福を共有し合って笑いあった時間は、確かに彼らによって与えられたものだった。

 

 けれど幸せな時は長く続かない。バッバルフもまた、彼の事情でダラ・アマデュラの下を去ろうとしていた。

 だが、以前の別離と比べると断然悲哀の少ない別れだった。少なくとも、彼が千剣山の領域を抜けるまでは、バッバルフもダラ・アマデュラも再会の約束に希望をもっていたのだから、哀しいと言ってもそれは喪失の悲哀ではなく一時的な別離の哀惜だった。

 

「それではダラ・アマデュラ様……いえ、ここはお師匠様と呼びましょう……お師匠様、それでは行って参ります――貴女から預かった剣鱗(おまもり)は、土産話と共にお返ししましょう」

「ええ、楽しみに待っていますよ。ですが、お守りに関してはどうなっても構いません。その代わり、貴方は無事でいて下さいね、私の愛弟子」

 

 女神イシュタルとのけじめを付けに行ってくる。そう言って飛び出しかけたバッバルフを縋りつく勢いで留め、なんとか鱗を剥ぎ取らせて持たせたダラ・アマデュラは、他の神々が持つ底抜けの理不尽さを危惧していた。

 鱗は平たく言ってしまえばご機嫌取りの供物だ。お守りというのは嘘ではない。バッバルフが生還する為のお守りなのだから、その身と引き換えになるならばお守りも本懐を遂げられて満足だろう。そのお守りの大元が言うのだから間違いないと、ダラ・アマデュラは旅立つ愛弟子に念を押す。

 そうして無事を祈る為の剣鱗を持たされたバッバルフは、山を下りながら密かに夢を描いた。

 世に伝わる裏切りの伝承、その末路は確かに悲劇であったが、それでも彼らの間には確かな絆が、温かく尊い幸福があったのだ。それを世に遍く広めよう。この女神直々に鍛えられた旋律と歌声で、このメソポタミアに彼女たちの愛おしい物語を語り継ごう。

 憐憫と共に語られる稚けない女神の名が、いつか穏やかな心で唇に乗せられるようにと願って。

 

「それでは、まず手始めに兄弟たちに聞かせてあげますかねぇ……ふふっ、まずは怒られるのが先でしょうが、まぁ、それはそれで次の土産話になるでしょう」

 

 「土産話にはなりますが、その前に兄弟に何も告げずに訪れた件について弁明を」……なんて、頭の中でお師匠様がため息を吐くものだから、笑いの底が浅いバッバルフは千剣山を抜ける間、口元を軽く押さえて酷く楽し気に笑いながら足を動かしていた。

 その背を千剣山の頂から見送っていたダラ・アマデュラも、愛弟子の背中が細く震える様を見て、「また何か勝手に想像して笑っているのですか……最後まで締まりが無いのですから、私の愛弟子は困りものですね」と、つられて笑った。

 

 

 

 

 これが語られる事のなかった、彼らの物語。

 楽師の青年が旋律に乗せるはずだった、彼らの他愛のない幸福の物語。

 

 紡ぎ手たる楽師を喪失(なく)した温かい歌は、青年の鼓動と共に潰えて消えた。

 

 


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