さて、小休止も済んだことだし大筋に戻ろう。
うん? 休みが休みじゃなかった?
それは運がなかった……いや、君の感性が優しかっただけの話さ。
それよりも覚悟は出来た? 第七の裏切りは少しばかり難しいのだけれど、さて。
この裏切りはね、彼女の意図しない所から、不意を突いてやってきたんだ。
だから、後世ではこれを裏切りとは呼んでいるけれど、実際彼女がそうだと認識したかどうかは怪しい。
だって、これは純粋な好意と善意が、低俗な悪意に唆されて生まれただけの事件だったのだから。
一体、何が何処まで許されて、何を何処まで制限されるのだろう。
正当な復讐の機会を奪われたダラ・アマデュラは、千剣の山の頂で呆然とそんな事を考えた。
外界への出陣は許された。眷属を群れと引き連れ、イシュタルのイナンナに嗾ける事も許された。
失うものがないというのは酷く身軽だ。後先考えずに殺意だけで動く身体は自制を振りほどいて暴走しかけたけれど、何の遠慮も呵責も無く胸の澱を吐き出すように放った熱線は、自分自身の良心さえも焼き消すようにひたすらに熱くて心地良ささえ感じた程。
じくじくと膿む心を嬲るように絞め殺すより、余程爽快だった。一瞬で焼き消えたものが自分の感傷だったとしても、いや、自分の心だからこそ、一瞬で殺されるのは気分が良かった。
けれど疑似的な自死の恍惚もすぐに冷めた。目の前で逃げ回るイシュタルに殺意こそ溢れる程に湧くものの、さりとて未だにイシュタルを「姉様」と呼称する自分の性根に嘘が吐けるかと言えば、ダラ・アマデュラにとってそれは否であったので。
それからは虚しさと殺意の鬩ぎ合いだった。脳裏を白く染める程の憎悪に紛れてはいるが、確かに感じる空白に無意味に暴れる自分を淡々と観察される。それは余りにも無駄な行動だと無言で諭してくる諦念に、今度は自らに向かう怒りを煽り立てられる始末。
全てが徒労に終わり、無駄に心に傷を負い、更には他者に怪我を負わせて迎えたものは、復讐と言うには余りにもお粗末な結末で。
胸中に凝るどろりとした感情を持て余しながらすごすごと身を引いた今、ダラ・アマデュラには報復の意志が決定的に欠けていた。
実のところ、ダラ・アマデュラを千剣山に戒める契約は解かれたままでいる。つまりダラ・アマデュラはイシュタルへの報復の機会を失ってはいないのだ。けれど彼女が再び咆哮を上げないのは、偏に自らの薄弱極まる意思が彼女の出陣を「否」と留めているからである。
たった一度の出陣で自らが動いた先に待つ末路を思い知らされたダラ・アマデュラは、バッバルフの無念を晴らせない己を呪い、魂の安寧を祈りながら永遠を生きようと考えた。
誰かと関わるだけで何かを失い、喪わせる。それを嫌という程味わった彼女は、呪いに誘われて
これならばティアマトの紡いだ呪いに誘われてきた人間が居ても関わる前に追い払う事が出来る。例えイシュタルが
ダラ・アマデュラを閉じ込めていた結界はティアマトが天地となった時に無くなっている。だが、物が残っておらずとも「この地において神霊に属するものがダラ・アマデュラ及び彼女に属するものに害成す事は能わず」という、原初の母が
不壊属性のうえに不朽を重ね、さらには不死まで獲得している身としては正直、過剰に過ぎる守りだと思う。そして千剣山の外に出れば効力を失う辺りが片手落ちだとも思った。「属する」や「害する」の定義も限定的すぎる。もう少し応用が効けば拾えた命があったのだと、女神は何度目かの嘆きに重苦しい吐息を溢す。
自らの悲嘆は兎も角として、眷属たちは十全に仕事を果たしてくれるだろう。彼等は些か、否、自分でも驚くほどに良く尽してくれるのだから。そう信じたダラ・アマデュラは、腐るように痛む心を抱えて静かに目を閉じる――けれど。
「……る、じ……主ッ――疾く逃げられよ、主ッ!!」
このまま二度と開けるまい。そう思っていた瞼が数年越しに持ち上がった。久方ぶりに光を受容した瞳が眩さに回る。
初めて聞く眷属の切羽詰った声に主として反応を示した肉体は、その身に備わる高性能な身体機能で異常事態を察知する。
――千剣山の麓に、
如何してここまでの接近を赦してしまったのか。頼りにしていた眷属の予想だにしない失態に虚を突かれるダラ・アマデュラが漠然と感知した何者かの存在に向かって、女神の巨躯をなぞるようにして眷属たちが急降下していく。
にちゃり、ぬたりと粘着質な水音が山肌を這いあがる音が聞こえる。彼等はそれに向かって龍気を雨のように打ち出すが、それは堪えているのかいないのか、進行速度こそ緩めるものの歩み自体は留まることなく、ゆっくりとだが確実にダラ・アマデュラの下へと進んでいた。
神すら焼き焦がす眷属の猛攻を受けてなお邁進するそれに、ダラ・アマデュラは瞬時に覚醒した頭でその正体を理解する。
姿形は海に住む軟体生物を思わせた。ダラ・アマデュラをして巨大と思わせる頭に、「双頭の竜」にも見える二本一対の触腕が軋む様な音を立てて蠢く。緩く呼吸するように開く口腔に強靭な牙を覗かせ、青黒い粘液に塗れた体を震わせながら山肌にしがみ付いている。
粘着質な音の出どころはあの粘液だろう。それを勢いよく噴出させて周囲を音速で飛び交うバルファルクに攻撃を加えては避けられているから、当たり損ねた粘液が山肌に勢いよくぶちまけられて不愉快な音を立てたのだ。
「主、主よ、起きられたならば疾く逃げられよ! こやつは最早……ッ!」
甲高い金属音が耳元を掠めたかと思うと、ダラ・アマデュラの顔の前に他の眷属よりも二回りほど大きな身体を持つバルファルクが滞空しながら主である女神に逃走を乞う。
彼は一番古い眷属だった。ダラ・アマデュラが生まれ落ちた直後、母を傷付けた嘆きと驚愕によって流れた星の欠片から生まれた、一番古いバルファルク。
遠く空に在る時から、一時たりとも目を離さずに主の全てを見守ってきた、誰より無力を噛み締める眷属群の長の忠言に、果たしてダラ・アマデュラは逃げるどころか身じろぐ事さえ出来なかった。
傷つかないはずだ。
眷属たちは寧ろ良くやってくれていた。失態などと思ったダラ・アマデュラの方に非があった。
なにせ相手が悪すぎる。ダラ・アマデュラにとってもバルファルクにとっても、それの存在は余りにも分が悪かった。
それはダラ・アマデュラの記憶通りであれば、捕食した生物の骨を纏う龍である。捕食する事に特化した肉体。捕食のみを目的とするような生態。竜種に墓場が存在するのならば、それを有無を言わさずに生き物として仕立て上げたような外見をしている。
まるで双頭の竜、その屍。自らが捕獲し、捕食した生物の骨格をより強く硬くしながら身に纏う最悪の古龍種。
「奈落の妖星」の呼び名を持つ異形の古龍「骸龍オストガロア」――その劣化版。
龍でありながら竜気を用いた攻撃すら出来ず、ひたすら己の体液と体を振り回すだけの肉塊。見掛け倒しの骸だ。姿形が異様なだけの張りぼてだ。本来ならばダラ・アマデュラやイシュタルどころか、バルファルク一頭の足下にも及ばない性能しかない、形だけが立派な
しかし、それでもオストガロアは攻撃を耐えた。女神イシュタルすら畏れ慄き逃げ惑った流星の瀑布を、出来損ないの竜擬きごときが耐えながらいなす様は、まさしく異様な光景だった。
けれどこの場にいる誰しもが気付いていた。誰もがあり得ない光景を当然のものとして受け止め、それ故に焦燥も露わに眷属たちは「逃げよ」と吠え猛り続けた。
「逃げよ主、疾く、疾く、この場より脱せよ」と、バルファルク達が鈴なりに叫ぶ。輪唱に似た懇願はダラ・アマデュラの耳に届くが、頭には届いても心には響かない。それを重々承知で健気な眷属たちは繰り返す。「頼む、我等が主よ。どうか疾く、此れなる命から離れよ」と、効きもしない攻撃で主への到達を遅らせるべく奮起する。
けれどやはり、ダラ・アマデュラは動かない。否、動けないと言うべきか。
ダラ・アマデュラは理解していた。眷属たちが理解しているのだから、当然主であるダラ・アマデュラも解っていた。神にとって数年は瞬きの間に等しい。僅かばかりの微睡みを甘受していた彼女にとって、イシュタルへの報復も、バッバルフの惨殺もシュガルの死も、ドゥルバルの裏切りとて昨日今日の話である。
オストガロアの姿をした竜擬きの外殻から、血の臭いがした。それは非常に馴染み深く、そして忘れ難い臭いだった。
骸として纏う骨が纏う、粘液由来ではない光沢にも嫌という程見覚えがある。それは女神が嫌悪しながらも誇らずにはいられない色で星の光を照り返す。
粘液の青に見覚えは無いが、その青さの原料であったものの色が赤色だったことは覚えている。ここ最近よく目にする色だ。蛇龍たる女神の背筋を凍らせる、命が流れ出た色だ。
そして何より、聞こえるのだ。
か細い声で、張りのない弱々しい声で、無慈悲な咢の奥から確かに聞こえるのだ。
一体どれほどの生命を喰らい歩いて来たのだろう。一体どれほどの嘆きを産み落として来たのだろう。
生臭い吐息が漏れ出す口腔から吐き出される声は、確かに――ダラ・アマデュラを、呼んでいた。
その呼び声に覚えがあった。その呼称に覚えがありすぎた。
故にこそダラ・アマデュラは硬直する。癒える間どころか膿む間もないまま割り裂かれた傷口に塩を塗り込める声色は、幾度となく己と言葉を交わした存在
――女ー神さん、蛇の女神のダラさんやーい。
「…………ぃ、あ」
――デュラ嬢、聴いて……くれる、か。
「ぃ、ゃ…………い……ゃ、あ」
――まぁそう言わずに。お願いしますよ。
「まっ、て、まって、まって、ねぇ、まって」
――ダラさんにさぁ、頼みがな、あるんだわ。
「まって、おねがい、まって、やだ、まって、ねぇ、いや、ねぇ」
――私たちの悲願……は、言い過ぎか。だが、悲願に近い、願いだ。
「やめて、いやな、いやなよかんがね、するの。ねぇ、まって、おねがいだから、ね? ……ね?」
――僕らを想って嘆く貴女が
「ねぇ……ねぇ、やめてって、いってるの。ききたくない、ききたくない、ききたくないの!」
――ダラさん。頼む。
「なんで、どうして、わたしがっ、わたしがわるかったから、だから、いわなっ、いわないで!」
――デュラ嬢。聴いてくれ。
「やだ、やだ、やだやだやだやだやだ! ききたくないの、いやなの、やなの、やなの!!」
――お願いします。ねぇ……。
星が降る。銀色の星が、甲高い音を立てて粘性を持つ骸に向かって光弾を撃つ。
当たれば金星の女神すら穿つ星龍の一撃は、しかし張りぼての鎧を削らない。
なにせそれは不壊の鎧。永遠に朽ちる事ない、星を呼ぶ女神から削がれた外殻で出来ている、久遠の守り。
触腕の左に張り付く鈍色。それは愛を知る青嵐が剥ぎ取った鱗だった。
触腕の右を彩る銀色。それは悪役を演じきれなかった同胞の墓標となった鱗だった。
本体を覆う鉄色。それは加護を与えた詩人を守り切れなかった、お守りにも成り損なった鱗だった。
青い粘液からは自らの血の臭いと、それから優しい時を過ごしてきた裏切者たちの懐かしい匂いが立ち上る。口腔の生臭さの中に紛れるそれに、鋭い切っ先を避けて触れて来た硬い掌の温度まで思い起こされるようで。
流星たちが吠えている。言葉の意味は最早女神の脳裏にさえ届かない。ただ必死に叫ぶ姿が、どこか遠い国の絵物語を見ているようだと、益体も無い事ばかりが心に浮かんでは立ち消える。
バルファルク達の抵抗も虚しく、遂にダラ・アマデュラの身体に到達したオストガロア擬きが歓喜に震える。
湧き上がる悔恨と鮮やかな懐古に心を奪われていたダラ・アマデュラは、頭が受け入れる事を拒否した現実を受け止める間もなく、赤黒い泥土と化して身体を這い上がるソレに全身を戦慄かせてか細く鳴いた。
先ほどまでの怠惰とさえ感じる鈍重さをかなぐり捨てて登ってくる血肉色の泥土は、聳える剣鱗の合間を縫うようにしてダラ・アマデュラの頭部を目指す。主の身体を這うソレにバルファルク達が各々の感情で吼えたてるも、例え傷一つ付かないとはいえ主に向かって攻撃など出来ないと、眷属たちは臍を噛みながら悲痛に彩られた声で主を呼び続けた。
ただ一頭、一番最初に生み出されたバルファルクだけが他よりも並外れた忠心によって主の危機を救おうと龍気を放つも、泥土と化したそれは嫌に俊敏な動きで光弾を避け、一心不乱に彼女の頭部……鋭い牙が備わる口腔へと駆けあがっていく。
龍擬きの正体は知れても、泥土の意図を把握できるものはいなかった。だからこそ眷属たちは降って湧いた主の危機に混乱しながら立ち向かい、女神は傷口を抉られる感触にばかり気を取られていた。もしもこの時、泥土の意図を知れたとしたら、眷属たちは身命を流れる血肉に変えてでもダラ・アマデュラに突貫し、その体を滑り落ちる血の河となって泥土の進行を阻んだだろう。
けれど懐かしい声で鳴く泥土の意図は、最後の最後になるまで決して誰にも悟られなかった。彼等と交流のあったダラ・アマデュラでさえ、嫌な予感こそするものの、それは彼等が死に際に抱いたかも知れない己への負の感情が凝ったものだろうと思っていた。故にダラ・アマデュラはいやいやと痛ましく幼い声色で繰り返しはしたものの、泥土を振り払う事はせず、怖気を催す感触を甘受しながら、彼等が成さんとしているだろう報復までも受け入れようとしていた。
その予想が裏切られたのは、泥土が遂にダラ・アマデュラの口元に手を掛けた瞬間、今まさに口腔に転がりこもうとしていた泥土が、確かな形を持ったその時だ。
ぐじゅるぶじゅると耳の奥を舐るような嫌な音を立てて、泥土は人の形を取った。
口元に在るが故にその姿を視界に納められなかったダラ・アマデュラだったが、周囲に滞空していた眷属の美しい鱗に写りこんだ後姿を見て、美しい琥珀色の瞳を驚愕の色に染め上げた。
ほどほどに小柄な背丈。決してふくよかとは言えない痩身は薄いが、華奢な骨格も丸みを帯びた細い手指も、確かに女性の身体そのもので。
やや傷んだ黒髪が絡まりながら風に靡く。煤けて見える肌が不健康な土気色をしてダラ・アマデュラの口内に向かって傾いでいく。
聞き覚えのある声たちが形作った見知らぬ女性の姿に瞠目するダラ・アマデュラの耳に、女性の声が転がり込む。
蚊の鳴くような細く頼りない声とは裏腹に多大なる喜悦を孕んだ言葉が女神の脳に意味を刻み込んだ瞬間、ダラ・アマデュラは絶望しながら女を拒絶した。
けれど慄くダラ・アマデュラの咆哮を誰よりも近い位置で聞いていた女は、その音の衝撃で身体を泥土と弾けさせ、そのまま口の内側をなぞるようにして女神の喉奥へと注がれていった。
誰もが予想しなかった事態に困惑し狂乱する中。身も世も無く泣き喚きながら身を捩り、涙をまき散らしながら声にならない叫び声を上げ、なんとかして注がれた泥土を吐き出そうと足掻くダラ・アマデュラの耳に、女が直前に吐いた言葉がこだまする。
知らない女の喉が紡いだのは、全く聞き覚えの無い声だった。
か細く、弱々しく、久しく使っていない喉を無理に震わせたような、掠れた声だった。
その声が吐いたのは、たった一言。たった一言の言葉だけで、ダラ・アマデュラは絶望には底が無いと思い知らされた。
ダラ・アマデュラが抱えた異界の記憶。その中に埋もれた、竜が空を舞う世界の生命体。ありとあらゆる生命を喰らう事が己の命題だと言わんばかりに触腕を伸ばす、古きを生きる強き龍。
捕食活動を根幹に据えて想像され、形作られた其れが発したのは、いかにも骸龍らしくありながら、同時に骸龍であるならば決して思考に至ることもないだろう言葉。
オストガロアは、泥土は、女は、ただ一言こういった――「たべて」、と。
その時泥土は確かに「たべて」と言って。
そして、女神を「お師匠様」と呼んで、彼女の喉奥へと飛び込んだ。