離別の果てで、今一度。   作:シー

8 / 15
 事の全容が知りたい。そう思う気持ちはよく解る。
 けれどもう少しだけ付き合ってほしい。
 せめて彼らが何を思ってあんなことをしたのか、それだけは聞いてくれ。
 全ては夢の中の幸福。曖昧で抽象的な、何てことのない幻の話。
 けれど彼らが抱えた心だけは、誰にも否定できない真実であったはずだから。




第七話:偽物の幸福

 今日も世界は美しい。

 天上の青は果てしなく遠く澄み渡り、清々しい透明さで、一分の隙もない程に地平線まで彩っている。

 遠景に望む雄大な山の白茶けた山肌は雄大で、どっしりと構えたその佇まいは威厳に満ち溢れていた。

 勿論、足下に広がる野辺の緑も美しい。背丈の違う雑草だが、合間に咲いた名も知らぬ野花と共に風に揺れる様は愛らしく、思わず微笑みを湛えてしまう程に心をくすぐる。

 小花の柄を添えた緑の絨毯の向こうから、嗅ぎ慣れない……しかし懐かしさを煽る匂いがした。どこか心を落ち着かなくさせる、少しだけぺたりと肌に張り付く感覚を覚えさせるそれは所謂「潮風」というものだろう。

 真水の清涼な匂いとはまた違った水の匂いは命に満ちている。

 これはお母様の水だと、その娘は漠然と悟った。これは命の水の匂い、あらゆる命の可能性に満ちた、原初の塩水の匂い。空の青を映してなお、その奥底に混沌とした暗澹を抱える、お母様の香り。

 ほろほろと蕩けるように娘の心を温めるその匂いに、娘は馥郁たる香りを楽しむが如く目を細め、鼻孔を満たして胸に満ちる母の欠片を慈しむ。

 

――ああ、今日も世界は美しい。

 

 娘は恍惚の表情で世界を満喫する。幾重にも紗を纏って色模様を変える空の移ろい、永久を眺める厳格な山峡と、それに対して儚い一瞬を魅せるように生きる萌芽の強かさの、なんと美しいことか。

 遥か彼方に嗅ぎ取る海の青さに想いを馳せるこの時間さえもが心地良い。漣を立てて飛沫を上げているだろうその色は、きっと、いや、絶対に美しいに決まっている。

 そして、娘はやがて己の視線を周囲に廻らせ、己の背後で目を止める。

 奇妙に削られ、螺子のような螺旋を描いて天に牙を剥く千剣山の中腹、荒々しい山肌に偶然出来た平らかな台地には、この場には有るはずもない神殿がひっそりと佇んでいた。

 砂礫の色に良く似た灰色の岩壁に埋もれるように建つ、真新しく繊細なのに何処か古ぼけた印象を抱かせる、とろけるような白を纏う石窟の神殿。

 峻厳極まる過酷な山肌に不意を突いて現れたそれには、要所要所にある女神を讃える文言をさりげなく模様に隠した装飾や、威厳溢れる蛇龍のレリーフがひっそりと息を潜めるように刻まれている。

 威厳を湛えた神威が問答無用で畏怖を抱かせるこの地に、微睡む様な幽玄さを以って佇む石窟の神殿に、娘はただただ目を細めるばかり。命あるものの背筋を凍らせ、神経を張り詰めさせる厳かな山稜にあってなお、夢見るように儚い姿で建つそれが確かに己のものであると感じ取った娘は、ゆるりと小首を傾げて朱金に輝く瞳でその奥を見通す。

 神威を吸って不可思議に輝く岩々を越え、控えめだが精緻な意匠をこらされた、どこか置き去りにされた子供の様な、秘密基地に喜ぶ子供の様な不可思議な感覚を思い起こさせる石窟を抜ければ、其処には幻想が広がっていた。

 紗を通したように柔らかく砕けた光の中、十数段の短い階段を降りたなら、其処には視覚にも柔らかな、瑞々しく青い緑。山の中腹に広がるのは、石窟神殿の防壁に隠され埋もれた箱庭であった。視界の大半を埋める澄んだ水面は淡く凪ぎ、ふと風が囁く声で漣を生み出す。

 娘の足首は越えても、決して膝までは届かない。けれど青い青い空の下、不可思議な月白色の花が蕾と揺蕩いながら、小さな浮島と共に浮かぶ。その程度の水深はある、そんな大きな水溜りが広がっていた。

 いくつかの浮島には淡い青紫色の燐光を放つ透明な岩が花と咲き、指先の温度で溶けて消えてしまいそうな薄い花弁に風を受けて浮島を泳がせる。突き出た岩々のいくつかは原石と思しき輝石を抱き込み、ひび割れた隙間から小さく愛らしい幽玄の花を育てている。

 花開いた瞬間に時を止めた石花の葉陰がそのまま水面に映り込むほどに透明度の高い水の底、青褐色の岩盤は磨き抜かれたように滑らかで、降り注ぐ陽光を受けて色を変える様は、螺鈿細工にも虹色の魚が泳ぐ姿にも似て見えた。

 青紫を基調とした水面の庭を過ぎた最奥には、山肌と同化して見えるがそれなりの奥行があった。幾重にも紗が掛けられた道程のその奥には、きっとこの地の主が座すべき玉座があるのだろう。

 娘はそこまで察して、最奥を見通すことをやめた。代わりに視線を手前に戻せば、紗の通路の出入り口にやや大きな東屋が水面に浮かぶようにせり出していた。此方側は雪花石膏(アラバスタ―)で出来ているのだろうか、神殿外観の古式ゆかしさを感じさせる風体とは違い、真実、真新しい純白で作られたそれは空気に溶けるような柔らかさでほのかに輝いて見えた。此方も控えめながら施された装飾が美しい陰影を生み、溶けかけの雪を見るように儚さを助長する。

 もしも此の地を垣間見るものがあったなら、どれ程の人間がこの景色の中で息を引き取れるのならばと願うだろう。

 まさしく夢幻の光景だ。この地を与えられた存在に……娘にこれ以上ないほど相応しい住処はそうそうない。

 底光りする炯眼で自らの神殿を見定めた娘は、徐に己の両手を眼前に掲げた。

 

 柔らかな蝋燭の灯に似た色の眼の前、そこには――細く、小さく、それでいて柔らかな繊手が、両手で十指を数える人間の少女の指を備えて掲げられていた。

 

 やや青ざめた、抜けるように白い肌。幼気な手指の造形は美しく、指先に備わる爪は貝殻の薄さに青を帯びる。

 視線を徐々に腕を辿って身体の方へと向けると、淡い銀糸で幾何学模様が刺繍された生成り色の布が掌の半ばから肘の上、二の腕の下部まで、嫋やかで頼りない細腕を隙間なく包み込んでいる。

 首から下はどうかと言えば、案の定身に着けた覚えのない衣服を着ていた。

 成長途中の少女そのものの上半身には、襟がやや広がっている、手袋と同色同素材の布で出来た膝上丈のホルターネックのワンピース。下半身にはそれと比べると僅かに白が強い、銀糸で模様が織り込まれた布が腰に巻かれている。腰回りを一周して前で開く白布とは別に、その一枚下に垂れる前掛けは見覚えのある薄い銀灰色の布地にグラデーションがかかった青糸と銀糸の素朴な刺繍が踊っていた。

 細い鎖骨、なだらかな丘を成す胸を越え、薄い腹、まろやかな曲線を描く腰と視線を下げていくと、穏やかな風に翻るワンピースの向こう側にすらりと伸びた細くしなやかな二本の脚が、銀に青を帯びた金属質なサンダルに包まれて大地を踏みしめていた。

 呆然と己の脚を見下ろす娘の視界を、ふと銀色の糸が掠める。

 恐る恐る手指を動かし、顔の造形を辿るようにして頭に触れる。此処には鏡など無いが、触れた感覚から察するにそう悪くない顔をしているらしいと客観的に判断した娘の顔が困惑を帯びる。辿る指先に感じる冷たい感触が自分の毛髪であることは解るのだが、どれだけ触れても返ってくるのは薄い青を帯びた硬質な白銀を裏切る滑らかさと柔らかさばかりで、鋭利な刃物染みた底冷えのする冷たさなど感じ得ない。

 否、本当はそうある箇所もある。己の額よりやや上、側頭部と頭頂部の丁度中間に、一対二本の大角が生えていた。

 肘を緩く伸ばせば最上部を握れる程度の大きさの角は、娘の想像通りであれば前に伸びた扇状の、文字通り刃で出来た見目のものであるはずだ。触れた感覚から言っても思った通りのものである事は確からしい。

 だが、その刃角の鋭さを指先に感じることは無い。何故なら角の刃に相当する部分は己の毛髪によって幾重にも巻かれ、鞘に収まったようになっているのだから。

 触れたものは何であれ切り落としてしまう其れでも切れない、柔らかな銀糸の髪。何重にも巻かれてなお余る毛先は、安全になった刃角の後端で一度髪留めごと固定された後、三つ編みにされて腰の下で揺られていた。余りにも不可思議な鞘に一時考える事を放棄した娘は、角に置いた手を後頭部に回し、掴めるだけの長さがある事を確認するや否や、掴んだ髪束を右肩を通して己の眼前に持ってきた。

 角に巻き付いている部分が相当に長い事は解っていたが、背中に流れていた髪もまた、想像以上に長かった。背中の中ほどから緩く編まれた青銀の髪は、娘の小さな手の中で日に透けると、神々しい白金に艶めく。その色に嫌という程覚えの在る身としては、同時に想起される感傷も相まってあまり好ましいものでは無い色に映った。

 編まれていなければ引き摺っていただろうそれを、僅かな忌避でもって背に放る。

 どこか浮かない顔をして、そしてある確信を持って、娘は己の背中と腰に意識して力を籠めた。

 そよと吹く風が、僅かに娘の髪を浮かせ、しゃらりと繊細な細工が遊ぶ音に似た音を鳴らす。先程までは無かった感覚が背中と腰に生まれているのを感じた娘は、見ずとも解ったという風に疲れた顔をして僅かに項垂れる。

 そこには娘が思った通り、背中には鋭く大きな扇状の剣鱗が一対生え、腰の辺りからは娘を縦に二人並べた背丈を優に超える長さの立派な尻尾が悄然と地面に伏せていた。

 見る者に死を想起させる扇刃と、先端に行くにつれて剣呑さと残虐さ増していく自らの尾が娘の意思によって何処かへ消える。娘の意識としては格納した事になっているのだが、傍から見れば光に溶けて消えたようにしか見えない。

 

 美麗な顔に影を落として重苦しいため息を吐く娘だったが、不意に視線を感じて顔をあげ、神殿に向いていた身体を捻って後方に目を向ける。

 

「――え?」

 

 果たして、そこには人がいた。ぱかりと口を開けて呆ける娘に、彼等はひどく気安い態度で娘の驚嘆を笑った。

 

「よぅ、久しぶりだなぁダラさん。元気にしてたか?」

 

 ひょいと片手を上げて、柔らかな癖毛を風に遊ばせた男が屈託なく笑う。ありふれた黒髪に茶色の瞳が楽し気に輝く様は、記憶に在る笑顔と欠片も違わないからこそ胸を突く。

 思わず胸を抑える娘に、鋼の色に褪せた黒髪の偉丈夫が厳めしい顔を心配そうに歪めて手を彷徨わせた。心配だが、どう声を掛けて良いのか解らない。気遣いが一周して結局中途半端にしか動けないのだと自己嫌悪に浸っていた男性の変わらない性質に、最早娘は泣けばいいのか笑えばいいのか解らなかった。

 そんな三者三様の再会を苦笑しながら見守る砂色の髪の青年に、娘は無性に泣きたくなった。五体満足で欠けたところも無く、穏やかに笑う声は記憶のまま。ほんの少し見目に変化が見られるものの、柔らかに細められた灰色の目が血に濁っていない事に、娘は誰に祈る訳でもなく、ただただ感謝した。

 

「ちょっと兄さん、笑って誤魔化そうったってそうはいかないんだからね」

 

 いっぱいいっぱいになってしまった胸を抱え、引き攣れた呼吸をしていた娘の喉がからりと乾く。

 声質は違うが確かに聞き覚えのある声色に、娘の脚は自然と声を発した女の方へと向いた。

 本来ならば……否、男たちが望んだ通りであれば、その美しい白い脚は情動の抑圧と行動制限からの解放によって軽やかに地を蹴るはずだった。

 どこまでも続く吸い込まれそうな青い空の下、そよ風に靡く草木の心地良い音色を聞きながら歩いてほしかった。

 

 恐る恐る踏み出した一歩が踏みしめた大地は小さな足を柔らかく受け止め、肌に触れる一切は切り刻まれることなく確かな感触を持ってそこに在り続ける。

 最初の一歩は多大な勇気で。二歩目で恐れは薄れ、三歩目で驚愕に変わり、四、五、六歩は呆然と、しかし七歩目は、確かな歓喜の囁きを聞きながら。八歩目に囁きは大きくなり、九歩目に喝采が、そしてとうとう十歩目は、好奇心が溢れるままに大きく跳ねて、そのまま風と共に駆ける足取りへと変化する。

 風を切る感触、足を動かす感覚、急速に流れていく景色、際限なく高揚する心、全てが新鮮で目眩がするかもしれない。

 心臓が跳ねてうるさいのに、いつまでも全力の鼓動を聞いていたくなる、不可思議な感覚を知って欲しかった。

 そのままどこまでも行けてしまいそうな程の、自由という全能の感覚に、大声で笑い転げたい心地を知って欲しいと願っていた。

 けれど実際は、そんな夢物語の様な期待は切り捨てられた。

 

 出だしの一歩目から、女に到達する十数歩の間全て、娘に――ダラ・アマデュラにあったのは純然たる恐怖と絶望、それから言葉に出来ずに燻り続けた罪悪感と無念だけだった。

 

 今にも死にそうな顔をして女の前で脚を止めたダラ・アマデュラに、女はと言えば、酷く情けない顔をして己よりも小さな背丈の女神と目を合わせる。

 膝を抱えてしゃがみ込めばちょうど同じ高さになる視線に、女は一層悲壮さを増した顔で小さく「ごめんなさい」と呟いた。

 え、とか細い声で狼狽えたダラ・アマデュラに、女はもう一度謝罪の言葉を口にする。

 静かに混乱の極致に追いやられていくダラ・アマデュラに、見かねた男たちが手を伸ばす。女神の玉体に許可なく触れる事の意味を知らない彼等ではなかったが、他の女神ならば兎も角、相手がダラ・アマデュラであれば、彼らは許可など得ずとも容易に彼女に手を伸ばせる存在になっていた。

 それが何を意味するのか、彼らは一体何なのか、それをダラ・アマデュラが知るのは、彼らの手で神殿に運ばれ、用意されていた玉座に降ろされた後だった。

 

 放心しきりだったダラ・アマデュラが混乱から抜け出した時、彼女は自分が滑らかな椅子に坐している事に気付く。それが先程見るのをやめた玉座であるのは、遠くに紗のかかった通路が見える事から察せた。

 なんとか呼吸を整え、疑問の尽きない頭を一時的に落ち着かせる事に成功したダラ・アマデュラは己の膝に縋りつくようにして泣き伏せる四人の人影に、誰何の問いを投げかける。

 彼らが何者か、なんて本当はもうわかっていた。彼等の容姿や態度、声、仕草、瞳の色、全てに覚えがあった。正体不明の女とて、黒髪の男を兄と呼んだ瞬間からその真実は既に明かされている。けれど彼女は皆の口から各々の言葉で答えを聞きたがった。

 彼らは皆、その求めに難を示した。これを聞いた女神の心がどうなるか、知らない彼等では無かったからだ。

 しかし彼女は後悔しないと背筋を伸ばす。炯々と輝く美しい瞳に悲壮な決意を宿した彼女は、その答えが自分の予想通りのものだとしても、臓腑を焦がす絶望に苛まれこそすれ真実を求めた事は決して後悔しないと宣う。

 何故なら彼女は喜んでいた。哀しみながら、憂いながら、傷付き苛まれ絶望しながら、それでも彼女は喜んだ。

 それがいかに残酷な再会で、僅かな残照の欠片だったのだとしても、彼女はもう二度と会えないと思っていた存在に触れられた事が、心の底から嬉しかったのだ。

 故に彼女は、浅ましい喜びの裏ですすり泣く。己の性根の醜さを嫌悪しながら、真っ直ぐな目で彼らの真実を見定める。

 幼子の視線の先、黒髪に焦茶色の瞳を持つ青年は、どこか愛嬌のある顔立ちをしていた。眉はきりりとしているが瞳は大きく、好奇心にきらきらと輝く様は彼の年齢を一回りも下に見せるのだ。

 今は悲壮感に満ちた顔をしているが、笑えば底抜けに明るく輝く剛毅な青年に、ダラ・アマデュラは泣き笑いの顔で小首を傾げた。

 

「ドゥルバル。貴方は――死んで、しまったのですね」

 

 彼の気質そのままに愉快に跳ねる癖毛が懐かしい。言ってしまってから後悔する駄目さ加減も好ましい。それでも誠心誠意、相手に向き合う姿は本当に頼もしくて格好良かった。

 けれど、今目の前にいる彼には決定的に欠けているものがある。あんな大事なものを一体何処で失くして来たのか……察しはつくけれども、認めたくはない。

 案の定、黒髪の青年……ドゥルバルは所在無さげに俯いて、暫く言葉に迷うように呻いた後、こくりと一度だけ頷いた。

 玉座に坐している彼女の目に、膝を突いて俯くドゥルバルの背中が映る。背骨に沿うように生える黒紫色の鱗と、丁度心臓の位置でぽかりと空いた風穴に言い知れない虚しさを抱きながら、ダラ・アマデュラは視線を滑らせ、この場の誰よりも体格に恵まれた偉丈夫を見定める。

 彼の末路は知っていた。なにせ最後まで見ていたのだから、知らないとは口が裂けても言えないだろう。

 「シュガル」とその名を口にした女神に、硬質な顔立ちをより固くした壮年の男性、シュガルは、目を伏せながらも素直に己の異形を曝け出す。

 とはいえ、彼の異形は真正面から見ても解りやすい程堂々と曝け出されていた。額の上に生える一対の角、赤銅色の甲殻に包まれた手足は隠されてはいなかった。故にシュガルは己の腰から生えた尾をそっと彼女の前に晒した。鮮やかな青に輝く、刃に似た形状の尾。それは当然、生前の彼には無かった部位で。

 あぁ、とか細く息を吐き、こみ上げてくる嗚咽を堪える女神に、シュガルは心底申し訳なさそうにしながらも、逸らしていた視線を彼女に合わせた。

 後悔はしていない。決して口には出さないが、それでも雄弁に語る瞳の強さに女神はさらに呻く。覚悟を決めた武人の強さは、今の彼女を救いはしない。

 苦悶の表情を浮かべた女神は、次いでその隣に坐す青年を見た。ころころと表情を変える女神をじっと見つめていた青年は、自分を目にした途端に目の端に涙を浮かばせた女神にふは、と笑う。

 

「何をそんなに悔やんでいるのですか。ここは僕を詰るところですよ? 『如何して言う通りにしなかったのですか、この音楽馬鹿!』って」

「そっ、ん、な、ことッ……言える訳が、無いでしょうッ……! この、ばか弟子ッ!」

 

 「馬鹿弟子は言えるじゃないですか」なんてのほほんと笑うバッバルフに、とうとうダラ・アマデュラは両手で顔を覆って泣いた。

 滂沱と溢れるそれを両手で受け止めながら、彼女は狼狽える男たちを放って慌てる女に「ねぇ」と声を掛ける。

 

「ねぇ、あなた……貴女でしょう? 私が、私のせいで、貴女は、貴女が……ッ」

 

 言葉が喉に詰まって出てこないのだろう。要領を得ない女神の言葉に、手を左右に揺らしていた女は、途端に空中を彷徨わせていた手でダラ・アマデュラの肩をそっと包み込み、落ち着かせるように優しい声色で「いいえ」と笑った。

 

「いいえ。いいえ、違います。もし貴女様の言葉に続くものが――『私が貴女を殺した』という言葉であるのなら、それは違うと答えましょう」

 

 何故なら、私は兄さんが事を起こす前に、呆気なく死んでしまったのですから。そう言って笑う女は……ドゥルバルが心底助けたがった、彼の最愛の妹、シュミは、頑是ない子供さながらにしゃくりげる女神を抱きしめた。

 骨と皮ばかりの痩せこけた女の腕は固く、病床に伏せていた事も相まってどこか陰鬱なにおいが鼻を掠める。

 しかし、それでもダラ・アマデュラは肩の力を抜いた。

 骨の硬さ、荒れた皮膚、病床のにおいに、死のにおい。そのいずれもが不安を煽るものであるのに、幼い女神は人間の女の固い腕の中で確かな安心を味わった。

 

 脆い人間の身体は、確かにこわい。けれど、はじめてだ。はじめて女神は人肌の温もりを知った。はじめて誰かを傷付ける事のない触れ合いを交わした。

 こんな状況でなければ、あのような過程でなければ、きっと狂喜乱舞していた。男たちが夢想したように、女神でも蛇龍でも何でもない、ただの普通の子供のように転げ回ってはしゃいだに違いない。

 

 見知らぬ場所の美しい風景。

 どう動いても何も損なわない身体。

 自分の存在を肯定してくれる場所。

 

 そして何より、自分の傍に寄り添ってくれる、確かな温度。

 

 幼子がダラ・アマデュラとして生まれ落ちた瞬間に手のひらから零れ落ちて消えたモノ。それを丁寧に拾い集めて与えてくれた存在が愛しい彼らであった喜びをなんとしよう。

 僥倖、そう、僥倖だ。望外の喜び、空前絶後の奇跡、本来ならば決してあり得ない、まさしく夢物語のような幸福だ――けれども。

 

「それでも……こんな、どうしようもない……泥濘に浸かるような幸福なら」

 

 

 

――私は、一生、誰の温もりも知らないままで……寒がりのまま、ずっと凍えていたかった。

 

 

 

 震える声で、さざめく音で、幼い女神は絶望を吐いた。

 彼等の瞳の奥にある真実を見抜いた女神は、知れて良かった、会えて良かったと低く呻く。

 正体を見抜かれてしまった彼らは、無残に磨り潰される心に確かな喜びを偲ばせる女神に伸ばしかけた手を下ろす。正体が露見した今、彼らに残るのは憂いではなく、押し潰されそうなほどに重く苦しい慙愧の念ばかり。

 無論、後悔はしていない。彼らは彼らの本分を果たした。その事に何を憂えと言うのだろう。

 だが、それでも恥は感じた。生前の彼らが――否、彼らの大元(・・・・・)が願った奇跡を、このように捻じ曲がったカタチでしか成せない自分たちを、彼らは心の底から恥じた。

 

 全ては彼らの大元、真に彼女の親友であり、同胞であり、愛弟子であった魂が残した願い。

 最愛の妹のように世界を知らない幼子に。

 雨風を凌ぐ家も家庭の温もりも奪われた仲間に。

 身体に心を裏切られる悲しいひとに。

 

 死にぞこないの自分なんぞの為に、傷を負ってしまった、同類に。

 

 どうか、どうか――優しい世界を、どうか。

 

 死ぬ間際、あるいは生前常に抱き続けた願望。

 それ(・・)が、女神の血を受けた玉体の欠片を依代として顕現したものが、彼らの真実。

 

 過ぎた力を依代にしたせいで人の身に成り損なった泥土たちは、出来損ないの化物故にとある女神の入れ知恵を誤解した結果、歪曲した。あれほど幸せにしたがった女神の心の柔らかい所を切り刻む所業だとは理解できなかった泥土たちは、願望に眩み奇跡に曇った眼で女神を追い求め、歪んだ手足と捩じれた願いを胸にひた走った。

 そのために犠牲にした命の数、種類、その重さは、泥土に宿っただけの願望では測れなかった。

 だから彼らは用意した。その身に宿る残照の如き記憶の海原から最適な生命を一つ選出して、道行きに連れ歩いて果てを目指した。

 所詮この場は夢幻。築き上げた神殿と組み上げた儀式、そして抱えた願いこそ本物だが、それ以外は風景も自分たちの肉体も体温も、全ては束の間のまやかしに過ぎない。

 今ここで示した夢、希望、景色の全てを本物にして捧げるには自分たちでは役不足だ。そうだと知る彼らが用意した命に、きっと女神は喜ばない。

 

 それでも願望の現身である泥土の化物たちは、崩れていく夢現の世界で幸福を知る。

 誰も望まない形での願望の成就は酷く滑稽で無様で、無残な傷跡を残して終わる。

 だが、それでも彼女は喜んだ。本物が残した残滓を、そうと知りながらも喜んだ。

 それだけで彼らは救われた。女神の心は救えなかったけれど、それでも一時は温められた。

 歪んだ形質を抱えた彼等は、紛い物の楽土の終わりを感知する。やがてこの夢幻も覚めるだろう。その後に残る現実の冷たさに彼女が凍えてしまうことは如何しようもないが、少なくとも結果だけは残った。それを良しとするには、あまりに酷い話だが……成り損ないの自分たちに傾けられた心は、そう酷いものでは無いはずだ。

 そう信じる彼らは、だからこそ未だに泥土の温もりに泣き縋る幼子に微笑みかける。

 これが最後の贈り物だと、願望達は出来損ないなりに心を込めて、愛しい幼子に夢の終わりを告げる。

 

「なぁダラさんよ、俺たちはどう足掻いても偽物だ。心こそは本物だが、言ってしまえばそれ以外は全部ウソ。皮も肉も全部、あんたの血肉を台無しの泥土に変えた挙句に出来損なったウソの化物だ」

「それでも私達は、心の底からデュラ嬢の幸福を望んでいる。本物が抱いた純粋な願いが、願いだけで突き進んできてしまったものの成れの果てが、私達だ……だから、貴女のその悲壮な顔を見るまでは、その過程が歪んでいると気付けなかった。所詮は魂の残照、願い以外を置き去りにした私達は、真実化物でしかなかったのだろうな」

「けれどお師匠様は僕達の存在を喜んで下さった。本物が抱いた願いを、捻じ曲がってしまった願望(ぼくたち)ごと喜んで下さった……望外の、喜びでした」

「わたしは……ううん、生前のわたしは、貴女様と直接の関わりはありませんでした。けれど、死の間際に兄さんから貴女様の話を聞いて、畏れ多い事に、わたしは貴女様と自分を重ねました。何処にも行けない貴女様と、病床から起き上がれないわたしを重ねて……どうか貴女様は、と、わたしの夢を貴女様に押し付けた。その結果がコレなのですから、本当に、人間は、わたしたちは、浅ましい……」

 

――けれど、その浅ましさを好ましいと貴女様がおっしゃるから。

――貴女様を散々傷付けておいて、裏切っておいて、泣かせておいて。

――それなのに、貴女様は喜んでしまわれるから。

――だから、わたしたちは今、こんなにも幸せに終われてしまうのです。

 

 世界が消える。夢が終わる。不意にやってきて、散々蹂躙していった願いの残滓が、消える。

 どこか遠くで声が聞こえた。風が唸るような、大地を揺るがす豪雨のような、あるいは頑是ない幼子がわけもわからず泣き喚いているような、どうしようもなく不安になる声。

 それは誰の声だろう。不思議に思って首を傾げるも、既に親友も同胞も愛弟子も、それから情愛深い、同類も、瞬きの間に腕をすり抜けて、灰色の砂礫となって夢幻に消えた。

 崩壊する幸福の合間に、今度は誰かの呼び声が聞こえた。

 必死になって何事かを叫んでいるのだけれども、さて、この声は一体何を呼んでいるのか。女神は二度、三度と周囲を見渡して、それから漸く顔を上に持ち上げる。今まで見下ろす側だった彼女は、その時久方ぶりに誰かの存在を見上げた。

 亀裂の入った空の青、その隙間に見えるものが確かならば、その褐色の手はダラ・アマデュラに伸ばされていて、その乾燥した唇はダラ・アマデュラの名を紡いでいる。

 

――呼ばれたのなら、行かないと。

 

 泣き疲れてぼんやりとした幼子が、何かを考える間もなく褐色の手に青ざめた手を差し伸べる。

 己の根幹にほど近い場所、創世の女神が紡いだ呪詛の隙間を掻い潜って妥協させ、より悲惨な形に癒着し合った末の歪曲は、不変であるはずのダラ・アマデュラを、より憐れな方へと改良した。

 その衝撃を消化しきれない内にかき混ぜられた心は、自制を思い出すより先に安寧を求めていた。

 それが後に続く悲劇を約束するのだと気付く前に、全てを理解する褐色の腕が女神を捕らえる。

 

 願望達が思った通り、きっと女神はこの出会いを喜ばない。

 けれど何時か、これから過ごす時間だけは、幸せだったと思ってもらいたいと、褐色の腕の持ち主は、願う。

 眼下に見下ろす偽物の世界で、本物の心だけがか細く悲鳴を上げていた。

 

 それでも、「今日も世界は美しかった」と、女神は泣いて笑うのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ただそれだけの一日にしたかったと打ちひしがれる少年の傍らで、少女は笑って、泣くのだろう。

 

 

 

 


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。