銀の鍵、黄金の果実   作:Hastnr

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『銀の鍵、黄金の果実』(上)

 『銀の鍵、黄金の果実』(上) 

 

 

 

 

 ――かくして、虚構に彩られた舞台(セイレム)はその幕を下ろした。

 絶望と狂気、憎悪と罪過が降り積もる澱みの中、若きマスターとそのサーヴァント達は”大いなる異端”の降臨を阻止し、痛みの果てに一人の少女を悲嘆の闇より救い出した。

 ”外に出た”少女は、旅を続ける。とある重大な使命を帯びた”時空を旅する紳士”を師父――否、伯父として。

 ここではないどこか、今ではないつか、”親友”と再開できる日を夢見ながら、身の内に宿した”鍵”の力と共に少女は宇宙の深淵を行く。

 

 これより語られるは、少女が進む旅路の断片。

 辿りつくのかすらも定かではない虚構(フィクション)

 ほんの一時折り重なる世界を描く為――今一度、舞台の幕が上がる。

 

 

――――――

 

 

「――んっ……」

 

 空を飛び交う小鳥達の陽気な声。風に揺れる草木の葉が奏でるざわめき。

 耳朶を擽る心地よい音に導かれ、少女は――アビゲイル・ウィリアムズは、失っていた意識をゆっくりと覚醒させた。

 

「ここ、は……?」

 

 開いた視界に映る、抜けるような青空。衣服越しに背中へ伝わる柔らかな草の感触。仰向けに倒れ伏していた体を起こしながら辺りを軽く見回せば、青々とした葉を湛えた木々の向こうに、陽光を反射して煌めく大きな湖の姿がちらりと映る。

 

「伯父様がいない……やっぱり、はぐれてしまったのね……」

 

 ゆっくりと立ち上がりながら、アビゲイルはここに至るまでの顛末を思い返す。

 虚構と現実が入り交じる魔女狩りの地・セイレムにて、”座長さん”、ティテュバ、そしてカルデアより来た一座の皆々に見送られ、伯父であるランドルフ・カーターと共に旅立ってからどれくらいが過ぎただろうか。

 生ける”銀の鍵”である己の力を制御する術を少しずつ学びながら、アビゲイルは伯父と共に多くの世界を旅してきた。

 決して猫を殺してはならぬという戒律が敷かれた猫のための街・ウルタール。

 武を纏い、侠に生きる――そんな男達が闊歩する雷鳴響く異郷・東離。

 覇道を行く大財閥が収める熱狂魔都市・アーカムシティ。

 宇宙の彼方、半神半人の王女が治める雪と氷の星・ボレア。

 異界と人界が交わり、異常が日常と化した街・ヘルサレムズ・ロット。

 口笛と銃火の音が似合いそうな、荒野広がる守護者(ガーディアン)の惑星・ファルガイア。

 その他多くの名のある、あるいは名も知れぬ場所を、街を、星を――アビゲイルは”門”の導きのままに彷徨い続けてきた。

 生来セイレムより出た事のないアビゲイルにとって、目にするもの全てが新鮮であり、辿り着く場所全てが刺激的だった事は言うまでもない。

 乾いた荒野の風や、吹き荒ぶ冷たい雪の感触。小麦の粉を練って焼いた焼餅(シャオビン)や、白いキノコのような姿をした少年と一緒に食べたハンバーガーの味。人懐っこいたくさんの猫達や、行き倒れた探偵をも迎え入れる優しいシスター。容易には語り尽くせぬ出会いや経験の全てが、今のアビゲイルにとって大切な思い出となっている。

 奇跡すらも超えた運命の果て、いつかまた”親友”と巡り合う事ができたら、自分が見てきたたくさんの世界の話をしたい。眠れなかったあの夜、座長さん達が外の世界の話をたくさん聞かせてくれたように。

 そんな旅の途中で――アビゲイルは、時空間を彷徨うようになって初めて、命の危険を感じた。

 

(なんだったのかしら、あれは……)

 

 思い返そうとしたアビゲイルの背筋に、ゾクリと怖気が走る。

 それは、旅の過程、とある世界を訪れた時のことだった。あらゆる生命が消滅し、廃墟だけが残ったような空虚な街。その一角を歩いている時、”それ”は何の前触れもなく現れた。

 

(ひどい匂いだったわ……それに、あの恐ろしい姿……)

 

 突如として周囲を満たした腐敗臭、そして、死臭。セイレムの食屍鬼(グール)達が放っていた物と同じ――いや、それ以上に濃密な死の香りと共に、ビルの角から突如吹き出した濃紫色の煙。その棘々しい煙の中から現れた顔、そして全身は、まるで不出来なステンドグラスを寄せ集めて作られた狼――否、『猟犬』とでも言うべき怪物。

 爛々と光る二つの目。剥き出しになった乱杭歯。半開きになった口から鞭のように細く靭やかな舌が覗き、そこからこぼれた唾液が地面に触れると、しゅうしゅうと嫌な音と煙を上げる。燐光のように妖しく輝く青白い膿に全身を覆われた四足歩行生物の姿は、友好的なものとはとても思えなかった。

 

「バカな、ティンダロスの――!?」

 

 瞠目したカーターの唇からその言葉が漏れた直後、猟犬はその強靭な四肢を用いて、アビゲイルへと飛びかかってきた。

 

「きゃあああっ!!」

 

 咄嗟に頭を抱えてかがみ込んだアビゲイルのすぐ上、数秒前まで頸動脈があった空間を猟犬の爪が薙ぐ。

 

「逃げなさい、アビゲイル!」

「は――はいっ!」

 

 伯父の叫び声に弾かれるようにして、アビゲイルは駆け出した。

 それからの事は、よく覚えていない。

 闇雲にかけだしたアビゲイルを追う足音が、一つ、また一つと増えていくなか、アビゲイルは伯父の事を心配する余裕もなく、人気の無い街路を必死で駆け抜け続けた。そうして、ついに息が切れて倒れ込む寸前、目の前に開いた新たな『扉』にアビゲイルはその身を飛び込ませ――気づけば、アビゲイルはこうしてここに倒れ込んでいた。

 

(どうしましょう……喉が乾いてしまったし、お腹も……)

 

 限界まで走り続けた体はもうへとへとで、からからに乾ききった喉は水分を求める。軽い食事を取る直前に襲撃されたせいで、お腹は今にも空腹でくうくうと鳴り出しそうだ。

 周囲に危険な気配も無さそうだったため、その本能的な欲求に従ったアビゲイルは木々の向こうを目指して歩を進める。

 

「わあっ! なんて、綺麗なところなのかしら!」

 

 木々を抜けた先に広がる光景を目の当たりにし、アビゲイルの口から思わず感嘆の声が溢れた。

 故郷の入江を彷彿とさせる、青く正常な水を湛えて水平線の向こうまで広がっていそうな巨大な湖。その湖へ向け、白い飛沫を上げる大瀑布。

 彼方に視線を向ければ、陽光を浴びてさんさんと輝く葉で作られたような、太く巨大な蔦の柱が青空目がけ真っ直ぐに屹立しており、空には白い雲に混じって、三日月型をした浮遊大陸がいくつも漂っている。

 よほど土壌が豊かなのか、辺りを見回しても草木が枯れている所はほとんど無い。その緑色をした草の合間からは、赤や紫、濃い青など様々な色をした見たこともない植物たちが花開き、その命を存分に謳歌していた。

 自然の美に満ちた光景に目を奪われながら、アビゲイルは湖の畔にかがみ込むと、澄んだ水を両の掌で掬い上げた。

 

「冷たくて、気持ちいい……飲んでもよいお水なのかしら?」 

「――ええ、大丈夫」

 

 背後から聞こえてきた朗らかな声に驚きながら、振り返ったアビゲイルの視界が捉えたのは――女神。

 そう見紛うほどに神々しいオーラを放つ、一人の女性だった。

 肩まで伸ばしたアビゲイルと同じ金色の髪を風に揺らし、清廉にして艶やかな白布の衣をまとって穏やかに微笑む彼女の様を、他に何と例うべきか。

 その姿に思わず見惚れてしまったアビゲイルへ、女神はゆったりとした足取りで近づいてきた。

 

「こんにちは」

「こんにちは! 女神さま……で、いいのかしら?」

「女神様? ……確かに、そういうものかもしれないけど……」

 

 戸惑うアビゲイルの前に女神はかがみ込み、目線の高さを合わせる。

 

「初めまして。私の名前は、高司 舞。貴女のお名前は?」

「アビゲイル、アビゲイル・ウィリアムズと申します。……あの、マイさんと、お呼びしても?」

「もちろん」

「それでは、マイさん。ここは……」

 

 自分がいったいどこに居るのか、そう問いかけようとしたまさにその瞬間――くう、と小さな音を立てて、アビゲイルの胃が空腹を訴えた。

 

「ごっ、ごめんなさい。私ったら……」

「ふふっ。先に、ご飯にしたほうが良さそうだね。

 貴女の話もちゃんと聞きたいし、よかったら私のお家に来ない?」

 

 羞恥のあまり頬を林檎のような真赤に染めながら、アビゲイルは小さく頷いた。

 

 

――――――

 

 

「では、舞さんも時間を旅する人だったのね?」

「ある意味ではね。……でも、私の場合、流されたっていう方がいいのかな……?」

 

 心地よい音を奏でながら流れる小川から少し離れた一角。雄大な幹を地から伸ばし、四方に伸ばした太い枝から青々とした葉を茂らせる大樹の側に作られた、簡素ながらも落ち着いた風情を漂わせる四阿で、マイの料理を御馳走になったあと。

 食後のデザートに、と。瑞々しいオレンジ、よく熟した黄色いバナナ、放射状にカットされたメロン、ひと房まるごとのブドウが入った(バスケット)を持ってきた舞と共に木陰に腰掛けたまま、アビゲイルは自分が体験してきた様々な事を話し、舞が経験してきた多くの事を聞いた。

 かたや、異端にして禁忌なる庭園に囚われていた”生ける銀の鍵”。

 かたや、さながら戦国時代が如き激しい闘いを見つめ続けてきた”始まりの女”。

 共にもはや徒人には非ざる者同士、辿ってきた道筋に驚きこそすれど、それが互いを排する理由には成り得ない。それに、どこか姉御肌で面倒見がよく、そしてよく笑う舞の姿は、どこか哪吒やティテュバを彷彿とさせるものがあった。

 

「アビゲイルはすごいよね。いろいろな時間や場所に、『門』を開けるんでしょ?」

「はい。でも、まだ自由自在というわけではなくて……。私、もっともっと上手に、この力を使えるようになりたいです」

「どうして?」

 

 そう問いかけながら、舞はバスケットの中から一房の葡萄を掴み上げる。そうして、よく熟したハリのある紫色の実を一粒、房からぷちりとちぎり取ると、皮のまま口内へと運ぶ。

 アビゲイルもまた、三日月状に分割され、皮にのったまま食べやすいサイズにカットされたメロンの身にフォークを突き刺し、小さな口を開けてかぶりつく。口いっぱいに広がる芳醇な香りと甘さ、とろりとした果肉の感触をしばし堪能した後、アビゲイルは改めて口を開いた。

 

「大好きな人達に、約束したんです。ある方が無くしてしまった大切なものを、お返しすると。

 ……たとえ、どれほど多くの時間がかかったとしても」

「そっか。頑張り屋さんだね、アビゲイルは」

 

 優しい舞の手が、アビゲイルの頭を撫でる。さらさらとしたブロンドヘアは舞の指に絡むことはなく、風に弄ばれる稲穂のように揺れる。

 

「舞さんだって、とっても頑張り屋さんよ」

「私が? そうかな?」

「ええ、そうよ。だって、こんなに綺麗な惑星(ほし)を作ったんでしょう? 

 きっと、すごく大変な事だったと思うわ」

 

 頭を撫でられるまま、アビゲイルは大樹の枝越しに輝く青空を見上げる。気ままに飛んでいた一羽の小鳥が、アビゲイルの側まで羽ばたいてくると、そのまま彼女の肩にちょこんと乗った。

 誰も知らぬ宇宙の果てに存在する、命に溢れた豊かなこの惑星が、かつては一片の命もなく、光すら届かぬ暗黒の星だったと誰に信じられよう。輝きに満ちた故郷を捨て、誰も知らぬ宇宙の果てという闇の中に光を灯しに行く。それがどれだけ困難な事なのか、まだ幼いアビゲイルには想像すらつかない。

 かつて神は『産めよ、増えよ、地に満ちよ』と仰ったが、それを実際に成し遂げ、この星を今の姿に為すまでには、きっと無数の苦難があったのだろう。それを経て尚、舞は柔和な微笑みを浮かべる。

 

「私は、一人じゃなかったから。大切な人と一緒だったから、何も怖くなかったし、どんな苦しみも乗り越えられたの」

「大切な、人?」

「ええ。強くて、優しくて……たとえ泣きながらでも、一歩ずつ前に進んでいく人」

「……素敵な方ね。その方も、ここにお住まいなのかしら?」

 

 小動物のように辺りを見回すアビゲイルの問いに、舞は静かに首を横に振った。

 

「そうだよ。でも、今はちょっと出かけてるの」

「お出かけに? 残念、ぜひ一度お会いしてみたかったのに……」

「大丈夫だよ。ちょっと遠く(・・・・・・)まで、出かけてるだけだから。

 仲間と一緒に、すべき事を終わらせたら、すぐに戻ってくるよ。

 だから、それまでは――」

 

 舞が言葉を続けようとした、その刹那。

 惑星に吹く清浄な風と、果実の芳香を吹き散らすように、突如として辺り一体に死臭が溢れ出す。時を同じくして、木の葉の先端から、欠けた石の尖った部分から、カットされたメロンの皮の断片から――様々な『鋭角』を通って、青白い煙が次々に噴き出してくる。

 

「なに、これ……?」

「――逃げましょう、舞さん!」

「え?」

「早く!!」

 

 突然の事態に戸惑う舞の手を引き、四阿を飛び出したアビゲイルの背後で、異形の猟犬達が一匹、また一匹と不浄の煙の中より姿を表す。

 半開きになった獣の口からこぼれた唾液が、しゅうしゅうと音を立てながら四阿の床になっていた木材を溶かす。悍ましき体躯から溢れ落ちた青白い膿じみた流体が触れる先にあった植物は尽く枯死し、その膿が流れ込んだ川には小魚の死体が無数に浮かび上がる。

 

「アビゲイル! あれは、いったい!?」

「わかりません! ですが……私は、あの怪物に襲われて、ここに逃げてきたんです!」

 

 その正体も、どうやってアビゲイルを追ってきたのかすら定かではない怪物から逃げるため、舞と共にアビゲイルは必死に小川より離れ、森の中へと駆けていく。

 あの廃墟の時と同じように、背後から迫る死の気配は時を追うごとに増えていく。舞の案内のおかげで地の利はこちらにあるとは言え、相手は敏捷な獣。そういつまでも逃げ切れるはずもない。

 いったいどんな理由があって、己がこんな怪物に襲われなければいけないのか。もしやこれは、セイレムを去ったアビゲイルに、『お前の罪を数えよ』と言外に告げる、世界の理による断罪なのか。

 理不尽な状況に対する困惑と、舞を巻き込んでしまった申し訳無さが――ほんの一瞬だけ、アビゲイルの意識を散漫にさせた。

 

「――きゃあっ!」

「アビゲイル!?」

 

 巨木の脇を通り抜けようとした寸前、アビゲイルは地を這うように伸びた太い根の上で脚を踏み外し、うつ伏せに倒れ込んだ。

 打ち付けた体がじんじんと痛む。しかも、間の悪いことに――脚が、動かない。転倒した際に根と根の隙間に妙な引っ掛かり方をしてしまったのか、どれだけ力を入れても抜け出すことができない。

 

「大丈夫、アビゲイル!?」

「にっ、逃げてください、舞さん! 私に構わず!」

「そんなこと、できるわけないでしょ!」

 

 駆け寄ってきた舞は、倒れ込んだままのアビゲイルの側にかがみ込むと、彼女の脚を木の根より外そうと手を動かす。しかし、その努力が実を結ぶよりも、凶暴な猟犬達が獲物との間に存在していた僅かな距離を埋める方が早かった。

 曲線を排し、歪んだ超多面結晶構造体(トラペゾヘドロン)めいた肉体を持つ獣ならざる獣達が、低い唸り声を上げながら木々の合間より姿を表す。

 その数、5頭。

 扉の導きによって、多くの世界を旅してきたアビゲイルだからこそわかる。

 これは、こいつらは――人と同じ宇宙に居てはならぬ存在。決して同じ天を仰ぐこと叶わぬ恐怖の化身。

 対峙するだけで正気(SANITY)を貪り喰らわれるような恐怖に襲われたアビゲイルの前で、猟犬の一頭が牙をむき出しながらその口を大きく開けると、ムチのようにしなる長い舌を伸ばし、尖った先端部をアビゲイルに向けて叩きつけた。

 

「――! ダメっ!!」

「舞さん!?」

 

 咄嗟にアビゲイルの上に覆いかぶさった舞の体に、猟犬の舌が容赦なく突き刺さる。白い衣ごと舞の柔肌を貫く、肉を穿つ猟犬の舌。驚愕に見開かれたアビゲイルの視界に、その光景ははっきりと映り込んだ。

 

「舞さん! どうして!!」

「よかった……あなたが、無事で……」

 

 アビゲイルの小さな体を抱きしめ、護りながら、舞は気丈に微笑む。

 その体を突き刺す魔獣の舌が、まるでパイプラインのように、金色の『光』を舞の肉体から吸い上げていく。その光が、舞の力――そして、命そのものであることを、第六感とでも呼ぶべきアビゲイルの超常的な感覚は、残酷なほどにはっきりと捉えてしまった。

 狂乱の吠え声をあげる猟犬達に光を奪われ続けながら、アビゲイルを守るためになんとか堪え続けていた舞だったが、ついに限界を迎えたのか、苦悶の声と共に意識を失う。

 肌から血の気が消え去り、呼吸しているのかどうかすら怪しくなった舞の体から猟犬達の舌が外れ、そのままアビゲイルの上に倒れ込む。幸か不幸か、舞の体がぶつかった衝撃で今まで挟まっていた脚が根の間から外れ、アビゲイルはようやく自由を取り戻した。

 

「舞さん、しっかりして! 舞さん!」

 

 身にまとう超常のオーラを喪い、金色に輝いていた髪すらも黒色に変わってしまった舞を抱き抱えたまま、アビゲイルは猟犬たちから少しでも距離を取ろうと必死に体を動かす。

 しかし、どんなに必死になろうと所詮は子供。意識を失った大人の体を抱えて満足に動く事ができようはずもない。

 舞を引きずりながら地を這うように必死に後ずさるアビゲイルを嘲笑うように、猟犬達は舌なめずりをしながら半円形の包囲陣を形成すし、じりじりとその距離を縮めてくる。

 今のアビゲイルに戦う力は無く、『扉』が開く気配も無い。

 故に――絶望が、アビゲイルの終着点(ゴール)だった。

  

(伯父様……ラヴィニア……マシュさん、座長さん……!)

 

 死を目前にして、これまで出会った多くの友人達の顔がアビゲイルの脳裏をよぎる。約束を果たせぬままここで散る事への後悔が、アビゲイルの心を締め付ける。

 その走馬灯ごと獲物を引き裂くべく、2頭の猟犬達が左右から同時に飛びかかった。

 

(こんなところで、おしまいだなんて……!!)

 

 人の骨すら容易に断つであろう鋭い獣の爪が迫る中、アビゲイルはぎゅっと両の瞼を閉じ、声にならぬ声を心の内で叫ぶ。

 恐怖に自ら閉ざした視覚。腐臭に支配された嗅覚。倒れた時に口の中を傷つけたのか、血の味に満ちた味覚。まだ舞の生命の温もりを感じている触覚。

 もはや数瞬の後には喪われるのであろう五感。その最後の一つ、聴覚が捉えるのは『開裂』の音。

 世界に、『裂け目(クラック)』が刻まれる音。

 噛み合わさった金属が引き剥がされる際の断末魔に似た、『空間』が裂けていく音を。

 

《――カチドキアームズ!》

 

 裂け目(クラック)の彼方より、決意に満ちた鬨の声が上がる。

 立ち塞がる絶望を尽く打ち砕く者の為、重厚なる武具を召き喚ぶ声が響く。

 

《いざ、出陣! エイ、エイ、オオオオオオオッ!!》

 

 悪夢に支配された狩場に『勝鬨』の声が轟く。

 直後、何かが固い物体に叩きつけられた時の衝撃が音となってアビゲイルの体を揺らし、同時に獣のものと思しき甲高い悲鳴が鳴り渡った。

  

(何が、おきたの……?)

 

 恐る恐る瞼を上げたアビゲイルの視界に映るのは、殺意を露わにした魔獣――その前に立ち塞がる、異形の姿。

 いつか伯父が話してくれた東洋の戦士・『サムライ』を彷彿とさせる、重厚にして威厳ある甲冑(アーマー)をまとう騎士(ライダー)――いや、鎧武(・・)者と呼ぶべきか。

 輝くほどの橙色に染めぬかれた全身を覆う重装甲。陽光を反射してまばゆい程に輝く金色の角飾り。胸に刻まれた(サムライソード)の紋章。背にマウントされた二枚の旗。

 

「――待たせたな」

 

 勇壮な姿をした鎧武者の言葉に、アビゲイルは半ば呆然としながら頷く。アビゲイル、そして倒れたままの舞を一瞥したあと、鎧武者は二人を背に庇うように魔獣達の前へと立ちはだかる。

 その姿を追ってアビゲイルが視線を前方に向ければ、低い唸り声を上げて威嚇する猟犬3頭と、叩きつけられた木の根本からようやく体を起こす残りの猟犬の姿が見える。先程アビゲイルが肌で感じた振動の正体は、鎧武者が2頭の猟犬を吹き飛ばした際の衝撃(インパクト)とみて間違いないだろう。

 

「人が留守にしてる間に、好き放題やってくれたみたいだな」

 

 兜に覆われた鎧武者の眼が、猟犬達を睥睨した刹那。アビゲイルには一瞬、あの猟犬達が恐怖にすくみあがったように見えた。

 

「だけどな……それも、もう終わりだ」

 

 静かな怒りに満ちた声と共に鎧武者は背中に手を伸ばし、そこにマウントされていた旗を引き抜く。両の手に構えられた二振りの旗が、闘気(オーラ)によって作られた舞い飛ぶ無数の火の粉を纏う。

 

「ここからは俺のステージだ!」

 

 それは星を蹂躙する悪意への怒りと、絶望に屈せぬ誓いを共に胸に抱き、守るべき命を背負って戦う者。

 青く輝く故郷を捨て、宇宙の闇の中へ光を灯した『始まりの男』。

 決意の旗を天へと掲げ(Rise Up Your Flag)――アーマードライダー鎧武 カチドキアームズ! いざ、出陣! 

 

「はああッ!!」

 

 獲物の前に立ちはだかる鎧武を貫かんと、猟犬達は恐るべき速度で舌を伸ばす。銃弾の如き急加速で風を切り裂いて迫る5本の尖った舌に向け、鎧武が両手の旗を力強く振るって叩きつけた直後、まとった炎が閃刃となって迸り、猟犬達の舌を一瞬で炭化させる。

 感覚器官を灼かれた痛みに悶える猟犬達が晒した隙を逃すまいと、鎧武は地を踏みしめ猟犬との間合いを詰める。

 

「なんなんだ、お前たちは!? なぜ舞達を狙った!」

 

 問いかける鎧武に対し、猟犬は返答の代わりに攻撃を繰り出す。

 破壊力すら持つ強烈な吠え声(バトルクライ)。吐き出される濃紫色をした死の瘴気。ムチのように伸縮し迫る尾。骨ごと肉を噛み砕く牙。鋼鉄すらも斬り裂く爪。

 連携を企図したか、あるいは偶然か。奇しくも全くの同タイミングで放たれた猟犬達の必殺の一撃は、逃げ場のない必滅の強襲となり、包囲陣の中心にいた鎧武へそのまま突き刺さる。

 

(――っ! いけない!)

 

 空気振動を喰らい、毒液じみた紫の死臭に全身を覆われ、爪を、牙を、尾を突き立てられる鎧武――その光景を目にし、アビゲイルは思わず息を呑み、その身を案じる。

 彼が一体どういう存在であるのか、知らなかったが故に。

 

「……答えるつもりも、大人しく去るつもりも無いんだな」

 

 男の声が響く。

 荒ぶる炎の風が、まとわりつく瘴気を吹き散らし、牙と爪を突き立てていた猟犬達を吹き飛ばす。

 その風の中心に立つ、鎧武。その甲冑(アームズ)には一筋の傷もなく、一片の曇りも生じていない。

 さもありなん、戦場に立つその男こそは、試練の果てに全てを超えた者(オーバーロード)。たかだか『あの程度』の攻撃で、かすり傷一つすら付くはずもない。

 

「なら、容赦はしない!」

 

 右手に大筒――『火縄大橙DJ銃』を。左手に刀――『無双セイバー』を携えた鎧武は、火縄大橙DJ銃の銃口に無双セイバーの刀身を差し込む。納刀にも似たその動作によって、二つの武器は一つに融合(ミックス)を果たす。

 そして今、鎧武の手の内に顕れるは、諦めと絶望を両断する一刀――『火縄大橙DJ銃・大剣モード』!

  

《カチドキチャージ!》

 

 腰に巻いたベルト――『戦極ドライバー』から外された『カチドキロックシード』を、鎧武は大剣のコア部へとセット。大剣に集約されたロックシードのエネルギーが刃に宿り、闇を照らす眩い輝きを放つ。

 

「おう――りゃあああああああああああああッ!!」

 

 剣刃、一閃。

 裂帛の気合と共に解放された強大な力が、横薙ぎに振り抜かれる光の剣閃となって、猟犬達をまとめて薙ぎ払う。暗黒の淵よりい出し穢れた猟犬達は光に触れた瞬間燃え盛る火柱を上げて爆散し、肉片一つすら残さず消滅した。

 天を貫くように立ち上る4本の火柱。その爆炎が消え去ったあと――アビゲイルの視界には、もう猟犬達の姿は映っていなかった。

 まばたき一つか二つ分の時間、大剣を構えたまま残心を崩さなかった鎧武であったが、やがて周囲に危険が無くなった事を確信したのか構えを解くと、体ごとアビゲイル達の方へ振り返った。

 その体から装甲(アームズ)が解除され、光の粒子となって空中に溶け込んでいく。

 

(女神様の次は、神様……?)

 

 光の中より現れ出づる男。

 舞と同じ黄金の髪。怒り、嘆き、諦めの全てを味わい、そして乗り越えてきた事を感じさせる精悍な顔立ち。その肉体を守る白銀の鎧。惑星に吹く風に白い騎士外套(マント)をなびかせ、神々しきオーラをまとった男は、アビゲイルの上に倒れ込んでいた舞の体を片手で抱え上げ、もう片方の手でアビゲイルを引き起こす。

 

「怪我は無いか?」

「はい、私は大丈夫です……ただ、舞さんが……舞さんが……!」

「ああ、分かってる。心配しなくていい」

 

 大樹の根本へ跪いた男が、そこへ舞を慎重に横たえると、舞の体に金色――いや、オレンジ色に輝く光の粒子が集まりだす。その粒子がまるで生命力を補ったかのように、舞の肌から失われていた血の気が元に戻り、黒く変わっていた髪も金色に変化する。

 

「これで大丈夫だ。もう少し休めば、目を覚ますさ」

「本当? よかった……本当に、よかった……!」

 

 アビゲイルの目の端に、じわりと熱い雫が貯まる。それがこぼれ落ちるより前に、慌てて袖口で拭ったあと、アビゲイルは改めて男の方に視線を向けた。

 眠りについたままの舞へ、慈しみに満ちた微笑を向けていた男は、アビゲイルの視線に気づいて顔をそちらに向けた。

 

「初めまして。アビゲイル・ウィリアムズと申します。

 先程は危ないところを助けていただき、本当にありがとうございました」

「どういたしまして。俺の名前は、葛葉 紘汰。

 なんだなあ……わかりやすく言ったら、今は宇宙の神様、かな?」

「……やっぱり……」

「え?」

「な、なんでもありません! どうか、お気になさらず……」

「お、おう……」

 

 ぱたぱたと手を振って誤魔化すアビゲイルに、どこか怪訝な顔をしつつも頷く『神』――葛葉紘汰。

 それはアビゲイルが出会った、二人目の優しい神様だった。

 

 

―――――

 

 

「――へえ、なかなか面白い物を”喰った”じゃないか」

 

 鬱蒼と茂る森の中。

 一人の女――否。一人の女を思わせる姿をした”それ”は、嗤いながら呟く。

 後頭部でまとめられ、食虫植物の花弁のように広がった長い黒髪。縁のない眼鏡越しに除く享楽的ながら鋭さを秘めた眼光。スーツに似たパンツスタイルの上下。その胸元は大きく広げられ、スイカのように大きな双丘によって作られた谷間が露わになっている。

 こんな森の中にいるより、もっとふさわしい場所――例えば、裏通りの一角にひっそりと佇む古書店など――がありそうな、そんな雰囲気を放つ”それ”は、右手に込めた力を少しばかり強めた。

 

「おいおい、そう暴れないで欲しいなあ。確かに、僕の上司と、君の上司は敵対しているケド……僕は結構、君たちの事を気に入ってるんだよ?」

 

 嘯く”それ”の手の中で、猟犬――青白い膿をまとう時の狩人・ティンダロスの猟犬が呻く。

 首を片手で締め上げられ、四肢をバタバタと動かしながら必死に抗う猟犬。人間など遊び半分で狩り殺すティンダロスの猟犬、その全力の抵抗も虚しく、”それ”の右手はびくともしない。

 鎧武・カチドキアームズの斬撃を既の所で回避し、なんとか生き残った最後の一頭。それは僥倖というべきだったが――その僥倖は、今ここに尽きようとしていた。

 

「まあ、安心していいよ。君が”喰った”モノは、僕が有効に活用させてもらうから……さ」

 

 めきり、と。

 生物でいうところの、首の骨が折れる音が響き――ティンダロスの猟犬は、その命を散らす。

 ぐったりと脱力したその死体から、金色の輝きが溢れ出していく。

 

「おっと、あぶないあぶない。材料が消えてしまうじゃないか」

 

 空いた左手で”それ”が指をぱちりと鳴らすと、溢れ出した金色の光と猟犬の死体、更には”それ”の内より湧き出る闇が絡まりあい、掌の中に収束していく。

 光は穢され、闇に堕ちる。金色は喰われ、濃紫色に腐り落ちる。

 右手の中に顕れた『禁断の果実』。それは、禁忌の扉にかけられた(ロック)であり、悪意を撒き散らす種子(シード)

 あるべき輝きを失い漆黒に染まったそれは、希望を嘲笑う醜悪なる模倣品――暗黒(ダークネス)・『極ロックシード』。

 

「さて、どこまで楽しませてくれるかな……? この世界の葛葉紘汰(かみさま)は」

 

 森の中、”それ”のけたたましい嗤い声が響き渡る。

 その額には、炎のように燃える三つの眼が煌々と輝いていた。

 

 

 

  『銀の鍵、黄金の果実』(上) 終

 

――――――

 


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