湯当たりしたシルヴィオを看護師であるという偽装情報を最大限に活用して、
様態を見るという名目でラストは自室に連れ帰った。
看護服に着替えてみようかしらと一瞬考えたのは内緒だ。
ラストは改めてシルヴィオを眺めてみる。
彼は錬金術に精通していて、ホムンクルスの存在を理解して、
その上でラストがホムンクルスだと知っていて、好意的な人間。
最初はその程度の存在でしかなかった。
だが、余りにも稀有なその存在の事をふとした時に思い出す様になり、
家族にからかわれている内に、
自分の絶対のピンチを救ってくれたことも大きかっただろう。
イシュヴァールには人間では無いと絶対の憎悪を向けながら、
ホムンクルスには同じ人間だと差別無い態度を向ける青年。
その青年の顔つきは女性と見間違うばかりに整っており、
その唇は、温度はそう高くないものの、寒空の下でも潤いがあって――――
そこで、冷静さを取り戻したラスト(未婚:年齢ピーー歳)。
思考力を取り戻してよくよくこの状況を考えてみると、今、二人きりである。
私は『色欲』のホムンクルスよ、百戦錬磨の恋愛のエキスパートなんだから。
ええ、そうよ。こんなの余裕に決まっているわ。
そんな強い覚悟を決めたが、
「んっ…」
シルヴィオが一瞬起きそうなそぶりを見せただけで、その余裕はさらりと流れてしまった。
弱くなった、ラストは今更ながらそう思う。
かつては意識せずに存在していた余裕が、今では特定の事に関しては無くなってしまっている。
変わってしまった、ラストは今更ながらそう思う。
かつては間違いなく『色欲』として生きてきた。だが、正直、『嫉妬』や『憤怒』を感じる事もある。
生まれた時に完全な生命体として不変であることが定まったホムンクルスだと言うのに。
その事に誇りを持って今まで生きてきたと言うのに。一体どうなっってしまったというのか?
これではまるで――――愚かで弱い、普通の人間の様ではないか。
「…貴方のせいよ。責任、取りなさいよ」
そう安らかな寝息を立てる青年の頬を軽くつついた。
そして部屋のカギを閉めて、照明を消した後、彼の温もりを感じる様に掛け布団の中に潜り込んだ。
青年の言うように『色欲』のホムンクルスでなく、ラストがただの一人の女性だというのなら、それで十分だった。
時折聞こえるイシュヴァールへの怨嗟の混じった青年の寝言を聞きながら、彼女は眠りについた。
次の日、ブリッグズの寒空に生息する固有種の鳥の鳴き声でシルヴィオは目を覚ました。
掛け布団に少々重みを感じる上に、温かくて柔らかい。
ブリッグズは布団も重厚なのですね。そういえば、昨日はいつ眠りについたのでしたっけ?
彼はそう思考しているが、これは厳密には思考と呼ぶのも烏滸がましい現実逃避というヤツである。
青年の胸元には、先程イシュヴァール人を殺している夢に出てきた意中の女性が、
彼の胸元に頭を乗せて眠っている。
基本的に常時固定されている一つの思考を除き、全ての思考が停止する。
彼の耳には、鳥の声だけが聞こえている。
そう言えば、鳥が鳴く理由は縄張りの主張と、外敵の情報と、異性への求愛が多くを占めるという、
今はあまり関係ない知識が再起動した思考に浮かんできた。
(私ッ、冷静になりなさい、何故この状況が生起しているのでしょうか?イシュヴァールコロス
これは役得、いやそうでは無く、ヤってしまったでしょうか、責任を取らなければ、
それは寧ろ好都合、いや、そうでは無く、これは婚前交渉に当たるのでは?イシュヴァールコロス
いや、ラストさん相手なら婚前交渉上等ッ!!イシュヴァールコロス
…では無く、気絶する前に私は、私は…イシュヴァールコロス
バスタオル、胸元、うなじ、くびれ、染み一つない素肌イシュヴァールコロス
あっ、もしかして理性が飛んでこの状況にっ!?イシュヴァールコロス
これは合意だったのでしょうか? あの昼の状況を都合よく考えるに恐らく合意…だったらいいですよね、イシュヴァールコロス
ええ、此処は合意と仮定しましょう。イシュヴァールコロス
それにしてもなぜ記憶が無いのでしょうか、イシュヴァールコロス
今まで全ての学校や資格の試験を全問正解した程度の知能では、ラストさんの圧倒的美しさを記憶できない!?イシュヴァールコロス
これが身の程知らずが真理に立ち向かうという事なのでしょうか?イシュヴァールコロス
ああ、何という事でしょう。イシュヴァールコロス
いえ、それより私の事ばかり考えてはいけません。まずはラストさんの立場とこれからを考えなければ――――イシュヴァールコロスイシュヴァールコロスイシュヴァールコロス)
この間3秒。
才能の無駄遣いである。
その思考中の身動ぎで、ラストが目を覚ました。
どちらも朝起きたばかりの状態で、極めて近い位置に顔があったためにいっぱいいっぱいだったが、
真面目面がそんなに崩れない事に定評のある青年と、余裕を意図的に貼り付ける努力に最近慣れてきた美女には、
何とか普通だと思われる対応が出来た。
「おはようございます。良い朝ですね。少し寒いですが」
「ええ、でも貴方が温めてくれたから寒くは無かったわ」
そう言いながらも脈が早まり、体温が上昇する感覚が制御できないラストは、これでも色事のエキスパートである。
今では色事のエキスパート(笑)だが。
「ところで、昨日の夜、私が何をしていたのかお恥ずかしながら記憶が無いのですが…」
シルヴィオのその質問に、ラストは色々恥ずかしい思考を思い出して言葉に詰まった。
一方シルヴィオはその反応を見て、完全に
だが、それは否定された。目の前にいるラストによって。
「あなたがお風呂場で倒れたと聞いて、看護師として此処に来た私が看護する事になった。
それだけよ。」
それだけしかなかった。バスタオルを巻いて乱入までしたにも関わらず――とまでは言わなかったが。
ここで、都合の良い嘘を吐けば、世間知らずの青年など簡単に丸め込めたのだ。
絶好の状況だとは理解していた。だが、ラストはその選択肢を取ろうとは不思議と思えなかった。
いや、素直に言えば不思議でも何でもないその理由をラストは自覚していた。
廊下の方から足音が近づいてきている。
そろそろ時間だろう。そう思って、ラストはシルヴィオにその想いを告げた。
「好きよ。貴方の事が好き。
貴方の一番になりたいって心から思えるの」
その表情には張り付けた表情は無かった。そんな余裕は彼女には無かった。
だが、その素直な表情を、青年は今まで見た中で一番美しいと思った。
そんな美しい彼女は、彼に恋したからこそ、彼を愛したからこそ、
悲しくて弱くて愚かな生き物に成り果て、
中身の解っているパンドラの箱を開けてしまった。
「ねえ、一つ聞かせてくれないかしら。
イシュヴァール人への憎しみと、私だったらどちらを取るかしら?」
『イシュヴァール』という単語に急激に冷静さを取り戻した青年は、
その問いに答える事が出来なかった。
――――それが答えだった。
ラストは顔を背けて立ち上がった。
シルヴィオの顔を見る事無く、一方的に言葉を並べ置いた。
「解っていたわ。その事は。
私だって『お父様』の命令が第一だもの。
それと、これで両想いで良いのよね。ええ、嬉しいわ。
これからも宜しくお願いするわね」
その後、顔を見せる事無く彼女はドアの鍵を開けて部屋を出て行った。
自分がした事で、最も愛する人を傷つけたと理解しても尚、青年は復讐を捨てる判断は理解もできなかった。
ここが、大佐との圧倒的な差。
奴なら「勿論君さ、ハニー」と華麗に答えてエンディング(という名前のR-18)に進んだはず。
これだから、これだからコイツは童貞なんだ。
これだからコイツは…。