その五線譜からは珈琲の香りがする。 作:らんちぼっくす。/ヘスの法則
未完の話をほっぽらかして、こっちを書いちゃいました。
恋愛小説とか書いてみたかったんです。衝動的なアレです。
そんなに長くはならない予定ではいるので、どうぞよしなに。
その日のことは忘れもしない。
私がまだ9歳の時だった。
父が友人の娘さんのピアノ発表会を見に行くというので、私はそれについて行った。これまでも毎年一度この機会はあったが、人混みの嫌いな私はあれこれ理由をつけ、ついて行かないでいた。
だからこの日、私が行ったのは、本当に気まぐれだったと言える。つまり、あの出会いはとてつもなく刹那的な奇跡によって起こされたのだ。
「···チノ、もう少しで始まるから、じっとしていなさい。」
「は、はい···」
広めの会場に着いてからずっとそわそわしている私を、父は優しく窘めた。
とはいえ、私たちが座っていたのは前の方の席で、ステージからも近いわ人も多いわで、あまり落ち着けなかった。
正直この時もう既に、やっぱり来なければ良かったと後悔し始めていた。
「よう、タカヒロ···って、娘さんも連れてきたのか。」
すると、後ろから低い声がした。
そちらを見ると、片目に眼帯を巻いた男の人が立っていた。
「ああ、話はこの間したよな。娘のチノだ。」
「そうかそうか、よろしくな、チノくん。」
「は、はい···」
父の隣に腰掛けながら私に微笑みかけるその人に、緊張しながら答えた。恐らくこの人が父の友人なのだろうと思った。
やがて開演のブザーが鳴り響いて、アナウンスと共に最初の演奏者が出てきた。私と同い年くらいの、小さな女の子だったはずだ。
曲は「クシコス・ポスト」。初曲からハイテンポな曲だった。小さな手をめまぐるしく動かして弾ききり、同い年として感心していた。
終了後、着慣れないように映るドレス姿で頭を下げるその子を、私はまだぼんやりとした思考のまま、拍手で見送った。
そのまま、次の演奏者へと移り変わった。
どうやらこの発表会の主催者であるピアノの先生は、音楽業界でそこそこに有名な方であったらしく、なるほど、どの演奏者も上手かった。
ぼんやりと、いつかこれくらいなら弾けるようになりたいな、なんてことを考えていると、またブザーが鳴った。
『────8番、
アナウンスの声が、その名を呼んだ。
少しの間を置いて、ステージの脇から少年が出てきた。
短い銀の髪を揃え、大人びたスーツ姿で現れた彼はどこまでも落ち着いていて、しかし幼げな顔だったから、年頃が読めなかった。
彼が椅子を僅かに引いた。ギギっ、という音が僅かに響く。そして、その椅子とピアノの間に、彼は身体を滑り込ませた。
そして、鍵盤の上に手を乗せた。
(······あれ?)
その瞬間に、私は何かを感じた。
座っているだけなのに、その佇まいが、どこか他と比べて異質だった。
────空気が違う。あそこだけ、別の風が流れている。
滑らかに演奏が始まった。
聞き覚えがあった。ベートーヴェン「悲愴」第二楽章だと分かった。
直後、私は思わず目を見張った。
まず、その繊細なタッチに驚いた。
冒頭の、深い悲しみ、というより、淡い寂しさを感じさせるような主旋律が、夕暮れ時に手を振って別れるような情景を思わせる。彼の奏でるその強弱や音の幅は、全く不足なく、かといって過剰になることもない、絶妙なバランスを保ち続けていた。
悲しみが絶望になることも、希望になることもない、極めて絶妙な、優しい物悲しさを完璧に捉えているように感じられたのだ。
しかし、私が最も驚いたのは、別の場所だった。
曲は次第に中盤へ入っていく。左手の同音連続のスタッカートがどこか不安を煽り始め、まさに悲愴と形容すべき旋律に変わる。
彼は変わらず静かに音を奏でる。しかし、やはりそこには違う空気が流れている。その一瞬、その音に合わせた世界の中に、身を置いている。なにかに挫けて座り込んだような重苦しさをも、正確に表している。
感覚的な話でしかないが、よく分かった。
彼は、自分さえも芸術にしている。
自分が醸し出す空気そのものが、作品に溶け込んでいるのだ。
やがてその重たい進行が、クレッシェンドと反比例するように薄れていき、叩きつけるようなスフォルツァンドに突入すると同時に、美しく舞う花のように弾けていった。
彼の空気も最高潮の熱さを迎える。鍵盤を叩くその細長い指が波打つ様子までもが美しかった。
やがて、最初の淡い哀愁が帰ってきて、曲は静かに終わりを迎える。彼の手が最後の1音を優しく鳴らした。
彼が立ち上がり、客席へ軽く頭を下げた。
応えるように、大きな拍手が会場を包んだ。あちらこちらでどよめきすら上がっていた。称賛の声が辺りから飛ぶ。しかし私は、手を叩くことさえ出来なかった。ステージの脇に再びはけていく彼を、私はただ呆然と見送った。ちらりと横を見ると、父も、その隣の人も、驚いたという表情だった。
結局、彼の演奏が与えた衝撃はあまりに強く、その日のプログラムが全部終わっても、彼以外の記憶はあまり無かった。
最初の女の子の演奏も、その後の演奏も、今日の本来の目的だった、今後知り合うことになる紫髪の少女の演奏さえも、うっすらとしか覚えていなかった。
あの奇跡とも言える演奏は、深く深く私の胸に残った。
感動した、という形容は、もはや足りないかもしれない。
そう、言うなれば────
恋、と呼ぶべき衝撃だった。
その五線譜からは珈琲の香りがする。────1
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「···うん、完璧。よく頑張ったね、リゼちゃん。」
私が鍵盤から指を離し、その余韻が消えると、やがて先生がそう呟いた。
その言葉通り、今のは最高だと思った。今後もしピアノを続けることになったとしても、これを超える演奏は出来ないだろう。それは、技術などの話じゃない。
「ちょうど今日で終わったね。打ち合わせでもしたみたいに、ぴったり。」
「はい···終わらせられて良かったです。」
そんな話をしながら、黒表紙のスコアブックの最後にあたる30曲目のページに、先生が合格のサインをつけた。
その後、先生が私を見た。
「ねえ、リゼちゃん···やっぱり辞めちゃうの?」
「······」
再びやってきたその問いに、私は黙り込んだ。
「中学生になって忙しくなるのは分かるわ。でも、あなたはセンスもあるし、このまま続けていればかなりいい所まで────」
「やめてください、先生。」
先生の言葉を遮り、私は言った。
「私には、才能なんてありません。このまま続けても、何にもなりませんよ。」
私が無機質な声でそう言うと、先生は悲しげに微笑んだ。
「そう···やっぱり気にしてたのね、あの子の演奏。」
実年齢からずっと若く見える綺麗な肌をこすりながら、先生は言う。
「私、自分をベテランだなんて思ってはいないけれど、それなりに教えてきたわ。···でも、あんな子は見たことない。才能でいえば確かに、あの子の右に出る人はいないと思う。
···でもね、あの子の才能と、リゼちゃんの才能は、全く別のものよ。
こんな事は言ってはいけないかもしれないけど、あの子は、音楽のために生まれてきたような子よ。だから、他のことは出来ない。不器用なの。
リゼちゃん、あなたは、何にしたって人よりも上手くこなせると思うわ。ずっとやっていれば、どんな事でも皆から称賛されるくらい。言うなら、人から愛される才能よ。」
私は俯きながらその言葉を聞いていた。
────なんというか、真っ向からそういうセリフを聞くのは、すごく小っ恥ずかしい。
先生はまた、いつものような柔らかい笑みを浮かべ、言った。
「辞めるっていう意思が固いなら、もう私は何も言わないわ。
···でも、これだけは忘れないで。どんな物に関しても、必ずその為に生まれてきたような才能ってものがある。あなたみたいな子はそういう才能に悩むかもしれないけど────いずれ分かるわ。彼らも自分も、変わらないんだって。ただ持ち物が違っただけだったって。」
そして、ぽん、と手を合わせ、可愛らしく小首を傾げた。
「はい、それじゃ今日はここまで。お疲れ様でした。」
「···ありがとうございました。」
私は、五年間世話になった恩師に頭を下げ、そう言った。
あの発表会の日、あの演奏を聞いて、私の人生は大きく変わったように思う。
彼が現れるまで、私はこの教室で一番上手いと確信していた。子供心に、どこまででも行けると思ったものだ。
けれど、あの「悲愴」は、才能の残酷さとも呼べるものを私に容赦なく突きつけた。あの少年は、あれでまだ始めて半年だったという。
彼のような人がいるのなら、もう私は演奏する意味が無い。今後一生をかけたとしても、彼の半年さえ絶対に超えられない。
そう思ってしまえば、もう早かった。親父にも先生にも考え直すよう言われたけれど、私はもう鍵盤に触れるつもりはなかった。
十二歳の春、私は、ピアノから身を離した。
そして、三年後、私は再びあの才能に出会う。
次回から本編、という形で。
ありがとうございました。